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 先ほどはお待たせしてしまって大変失礼いたしました。ちょっと奥の方にいたものですから、お客様の声が聞こえなくて。年を取ると耳が遠くなって困ります。
 これ、お詫びにと言ってはなんですが、店からのサービスです。
 あら、そうですか。そうですね。お客様は甘いものよりはお酒という感じですものね。それならこれは二つとも奥様に。いかがですか? 知り合いのところで作っているパイですけど、結構評判がいいんですよ。
 それからコーヒーのお代わりをどうぞ。少し暖房を強くしましょうか? この辺はまだ寒いでしょう。何しろ山には、まだ雪がたっぷり残っていますからね。奥様なんて、鼻の先までショールにくるまっていらっしゃる。おや、お客様のお帽子と同じ柄ですね。もしかしたら奥様の手編みですか?
 いえいえ、そんな、お気になさらずに。お帽子はそのままで結構です。ご覧の通り、誰も気にする者などおりません。余計なことを申しました。
 そうですか。まったく、頭の怪我は怖いですねえ。でも大事にいたらなくてようございました。傷痕だっていつかは――ああ判りました。それで、こちらに湯治に来られたのですね。ええ。あの温泉はなかなか効くようですよ。
 はい。他に人はいません。夫婦二人だけで、こじんまりやらせていただいております。わたしが料理と接客、主人が仕入れと経理。さっき入り口の外で、だみ声を張り上げていたのが、うちの主人でございます。民謡? そんな由緒のあるもんじゃありません。ただ好きで歌っているだけでございます。歌詞なんてもう適当で。
 そうですか? わたしみたいな年寄りの話でよければ喜んで――それでは失礼して、こちらに坐らせていただきます。
 子供は――息子が一人おりました。生きていれば、お客様と同じか、少し下くらいでしょう。もっとも、体の方は、お客様の半分もありませんでしたが。昔でいう、もやしっ子でございます。
 ええ。残念ながら、五年ほど前に亡くなりました。
 一応東京では作曲家と名乗っていたようですが、あまり仕事もなかったようで、生まれ故郷のこちらに帰ってきてからは、たまに店でピアノを弾いたりする他はずっとぶらぶらしておりました。ピアノですか? 今は弾くものもおりませんので、奥の小部屋――そこの正面にドアが見えるでしょう――にしまってあります。随分調律もしておりませんから、すっかり音も狂ってしまっているでしょう。
 そうそう。息子の話でしたね。
 悪い子ではないんですが、誰に似たものやら意志が弱くて、周りにふらふら流されるたちでした。また、それにつけこむ悪い仲間がいたようで――本人も、何やかや思うようにいかなくて鬱屈するところがあったんでしょうか。いつの間にか、近くの町の銀行を襲うなんていう大それた話にまで首を突っ込むようになっていました。ああ、ご存知でしたか。そうです。その事件です。当時新聞などにも大きく取り上げられましたね。
 もちろん、只の手伝いです。和志には――息子の名前です――自分で強盗をするような度胸はありません。他に仲間が五人いて、閉店間際の銀行から連中が金を奪って出てきたところを、車で拾って逃げるのが和志に持ちかけられた役割でした。
 でもねお客様。本当は和志はやっていないんです。無実なんですよあの子は。だってあの日は、わたしの誕生日で、ずっと一緒にいたんですから。
 あの日は店を臨時休業にして、ここで親子水入らずで特製ランチを食べたんです。和志も久しぶりにピアノを弾いてくれました。わたしのために作った新曲を。
 それがね。面白いことに、ちょうどさっきうちの主人が歌っていた曲なんですよ。あの曲、歌いだしのところがシ・シ・ド・ソ・ラで始まるでしょう。覚えていらっしゃいませんか? あそこは、わたしの名前、「宍戸そら」から取ったんだと、だから歌詞なんてつけなくてもこれは母さんの歌なんだと、和志は嬉しそうに言っておりました。
 食べ終わってからも何だかんだと話が弾んで、結局テーブルを片づけたのは四時過ぎでしたか。
 その頃には、もう銀行強盗は失敗に終わっていたんですから、和志は全然何の関係もないんです。
 信じていただけますか?
 それなのに、翌日には警察が来て、抗弁する間もなく和志を連れて行ってしまいました。それっきり、とうとうここには戻って来れずに――わたしも主人も、警察や弁護士の先生に何度も話をしたのですが、結局何にもなりませんでした。何でも現場付近で和志を見たという目撃者がいたとか。それに、他の仲間たちも、口をそろえて和志の名を挙げたそうです。
 え? 本人が自白したんじゃないのか、ですって? そりゃしました。しましたとも。でもそれは、警察に厳しく調べられたのと、仲間たちの報復が怖かったからです。
 だって、母親の誕生日だったんですよ、お客様。それを放って置いて、どうして銀行強盗なんかに出かけられると思いますか?
 ――ああ、また歌っている。
 すみませんねえ。このところ主人は、あの歌ばかり歌うようになってるんです。ほんと、馬鹿の一つ覚えみたいに。
 お手洗ですか。あら、そちらはさっき言った物置がわりの小部屋です。ご婦人用はこちら、手前の通路の突き当たり左手になります。
 おや、また間違えた。
 いえいえ、そのことではありません。どうぞ安心して行ってらっしゃいませ。
 あの、歌のことでございます。うちの人、いつも同じところを間違えて――。
 刑務所の中の病院で、和志がかすれた声で歌うのを聞いただけだから、間違えて覚えるのも無理はないのですが、それでも、その後何度言っても直らないというのは――これもやはり年齢のせいでしょうか。
 は? ええ、そうなんです。刑務所の、病院で。
 和志がこの歌を誕生日に弾いてくれたというのは、嘘です。作曲しようとはしていたようですが、結局出だしのシシドソラしかできなかったらしく、それが恥ずかしかったのか、当日はわたしの顔もろくに見ず、逃げるように朝早く家を出ていきました。行き先は、ご推察の通りです。その晩遅く、青ざめた顔で帰ってきたときには、もう全てが手遅れでした。
 土壇場で臆病風に吹かれて一人で逃げようとしたとか、いやあれは警察に協力しようとしたのだとか、後から色々と話を聞かされましたが、些細なことです。もうみんな忘れました。わたしにとっては、あの日和志が家を出て行ったことが一番悲しいのです。
 その後、ずっと後になって――判決が下って、刑務所に入ってから、和志は再び作曲に取り掛かるようになったのですが、ようやく完成したのは、刑期半ばに急性肺炎で倒れる直前でした。
 さっきも申しあげたように、かけつけたわたしと主人の顔を見ると、和志は、絶対忘れないでと前置きして、何か思いつめた顔で、この歌を二度繰り返して歌い、そのまま意識を失いました。
 きっと、わたしたちへのせめてもの罪滅ぼしのつもりだったのでしょう。
 あの日、おとなしく家に居ればよかったのに。
 事情を知らない人に、この歌の話をするときには、つい「和志が誕生日に弾いてくれた」と言ってしまうんです。何度も繰り返し口にしていれば、そのうちそれが本当になるような気がして。
 でも、お客様は初めから判っていたようですね。いえ、目を見れば、それはもう。
 ――ああ奥様、おしぼりをどうぞ。
 はい、はい。今ちょうどその話をしようとしていたところなんです。その銀行強盗の犯人たちが、リーダーを始め全員釈放されたそうですね。何でも、事件の際、怪我人が出なかったこと、盗まれたお金が全額取り戻されたこと、服役中の態度が良好だったことなどが考慮されたと聞きましたが、冗談じゃありません。和志はあの連中に殺されたも同じです。どうして殺人犯が大手を振って歩いていられるのでしょう。理解できません。
 それにね、お金が戻ったことだって、実は疑わしいんですよ。これも噂ですが、犯人の一人がこっそり大金をどこかに隠したとか、銀行側は自分の信用が下がるのを恐れてうやむやにしたとか。
 もっとも、うちの和志がお金を持って逃げたなんて言う人もいるくらいですから、噂なんて当てにはなりませんけどね、まったく。
 失礼しました。わたしが熱くなってしまってはいけませんね。ちょっとコーヒーをいただくとしましょう。もっとパイをお持ちしましょうか? カフェ・ベイブの特製です。よその町では食べられませんよ。――そうですか。
 よくご存知ですね。そうなんですよ。あそこも昨日泥棒に入られまして。いえ、すぐに警察が来て、犯人を捕まえたそうですが、現場検証やら何やらで商売にならないから一日休業にしたとかで、このパイを分けてもらったんですよ。
 そこの通りの先にある喫茶店です。この時間なら、電飾の看板がきれいだから、帰りにご覧になってみては――ああ、今日はお休みだから電気はついていないかも知れませんね。
 え、本当ですか――いや初耳です。はあ。よりによってあの銀行強盗の犯人が、またやったんですか。刑務所を出たばかりだというのに、一体何を考えているのでしょうね。しかも、よりによって、あの店を。
 ちょっと待ってくださいよ。そう言えば――ええ、ここにも来ましたよ、その二人組なら。見た目は人懐こそうな坊やたちだったので、わたしも安心して食事のあとでおしゃべりしたりしておりましたが――ははあ。あの後、カフェ・ベイブに。で、その日は下見だけして――まったく、なんてことでしょう。
 思い出しました。わたし、あのときもカフェ・ベイブの名前を出したんです。いえ、パイのことじゃありません。
 和志の作った歌に関係があるんです。ほら、まだ聞こえるでしょう? お聞き苦しいとは思いますが、ちょっと耳を傾けていただけますか。
 ほら、ここです。ドラファミ、シラシミ。
 そうです、そうです。お客様も音楽をやられるんですか? その体格なら、さぞ深い声が出るでしょうね。
 仰るとおり、それぞれの音には、ドレミの他に英語の名前もついています。ドからシまで順番に、CDEFGABです。
 今のドラファミ・シラシミを、そのCDEFGABで書くと、ほら、「CAFE BABE」になります。カフェ・ベイブです。
 あそこは和志の行きつけの店で、マスターの小久保さんにも随分可愛がっていただいたから、想い出として、最後の歌にその店の名前を入れたのでしょう――と、そういう話をして差し上げたのですが、まさか、そのせいであの店を? 確かに、うちと違って人気があるし繁盛しているからお勧めしましたが、オススメと言ってもそういう意味では――もしかしたらわたし、とんでもないことを喋ってしまったのでしょうか。
 あの、このことが知れると、また警察に調べられるのでしょうか。
 ああ、そうしていただけますか? やはり和志のことがあってから、警察には素直に接することができませんで、できれば関わらずに済ませたいのですよ。伏せておいていただければ恐縮です。
 だいたい、あれ、間違いですもの。
 何がって、今の「CAFE BABE」ですよ。
 さっき申しましたでしょう。うちの主人が歌を間違えて覚えてるって。それが実はここなんですよ。本当は、ドラファミ・シラシラ。つまり、「CAFE BABA」が正しいんです。カフェ・ババといって、隣町の小さなスナックです。オーナーが馬場さんだからカフェ・ババ。ね、単純でしょう。
 あのときは、ついうっかり耳で聞いた音に釣られて違う店の名前を口にしてしまったのです。だってねえ。どちらも和志の良く通っていた店だし、小久保さんと馬場さんは従兄弟同士だし、間違えるのも無理はないでしょう? もちろん、すぐ後で気がつきましたけど、わざわざ訂正するようなことでもありませんからね。
 おや、そうですか。すみません、年寄りの長話につき合わせてしまって。普段は顔見知りしか来ないので、こうして都会のお若い方の顔を見ると、ついつい止まらなくなってしまうんですよ。
 どうぞお大事に。よろしかったら、帰りにでも、またお寄りください。お待ちしています。
 本当に、ありがとうございました。
 
 
 お父さん気づきました? 今のお客様、男でしたよ。いえ、奥様の方ですよ。
 いえ、そうですよ。確かに華奢だし、顔をショールで隠してはいたけど、パイを食べるとき、喉仏が動くのが丸見え。
 トイレの便座も上げっぱなしだったし、もう少し気を配らないといけませんね。
 旦那様は中々鋭い方でしたよ。わたしがそっと出した手掛かりも見逃さないで。歌の間違いのことを聞いたときの目の光といったら、お父さんにも見せてあげたかった。
 きっと本気で信じてるんでしょうね。和志がこっそりお金を隠したと。
 ただのデマなのに。
 あ、そうそうお父さん。急いで馬場のお義兄さんに――もう電話したの? まあ、さすがですね。ええ、ええ。そりや準備は早いに越したことはないでしょう。まあ、今日はもう暗くなってきたし、ベイブのこともあって警察がうるさいから、もう少し様子を見るんじゃありません? 一週間か一ヶ月かは判らないけれど。
 楽しみですね。あの二人が捕まるのが。
 それにしても、みんな和志のことを何だと思っているんでしょうね。お金の隠し場所を誰にも言わないで、死に際に家族へ歌で伝えるなんて、そんな大それたことができる子だったら、今頃こんなことには――。
 ごめんなさい。今更言ってもせんないこととは判っているのだけど、つい。
 と、いうわけで――お待たせいたしました、リーダー。
 話は判りましたね。ドアが閉まっていたとはいえ、あれだけ大きな声で喋っていたんですから。
 それで、ご感想は?――と言ってもこれじゃ喋れませんね。いえいえ、結構ですよ、何も言わないで。身振りもしなくていいです。縄が食い込んで痛いでしょう。
 大丈夫です。もう全部判りましたから。
 和志の仲間が五人。そのうち、二人+二人で四人までも、和志の遺した歌の話を聞いて、隠したお金の在り処の手掛かりだと信じ込んでしまいました。
 ということは、あの人たちはお金を持っていないし、どこにあるのかもご存知ないのですね。
 残るはあなただけですよ、リーダー。
 そんな風に首を振っても駄目です。だってね、あの歌の話をして、何の反応も示さなかったのは、五人のうちであなただけだったんですから。ちゃんと自分でお金を握っているから、わたしの嘘に引っ掛からなかったのでしょう?
 おやおや、苦しそうですね。その猿轡を取ったら、どこにお金を隠してあるのか、教えていただけますか? おそらく銀行の内部に仲間がいて、その方の力を借りたのでしょうけど。
 また黙ってしまうんですか。それでは仕方がありませんね。さっきの続きをさせていただきます。
 お断りしておきますが、もう、さっきのように、誰かが来て途中でやめるなんてことはありませんからね。がっかりしましたか? その代わり、わたしが最期までお世話いたします。こんなよぼよぼの年寄りですが、なんとか頑張れるでしょう。
 もうすぐコーヒーが沸きますからね。思い切り熱くしましたから、お楽しみに。それから、ストーブの上の鉄串も、そろそろ良い色に変わって煙をあげています。
 それにしても、さっきはびっくりしましたね。ここであなたと楽しくお話している最中に、まさか仲間の残りの二人がいらっしゃるとは。ほんの一瞬、あなたを助けにきたのかと思いましたよ。
 でも違ったようですね。あなたたち、もう少し仲間同士信頼しあった方がいいですよ。
 大体、どうしてここにいらしたのですか。お金だけ持ってどこへなりと姿を隠してしまうこともできたでしょうに。
 ――ああ判りました。もう一つの噂が気になったのですね、和志が仲間の余罪をこっそり打ち明けたという。
 あれも嘘ですよ。
 和志は何も言い残したりしませんでした。何一つ。あの歌だって、作ったのはわたし。和志に音楽の手ほどきをしたんですから、今でもそれくらいのことはできます。
 さて、そろそろ始めましょうか。話したくなったらすぐに合図してくださいね。大丈夫ですよ、ちょっとの間です。すぐに止めにしますから。
 合図さえしていただけたらね。
 お父さん。お疲れのところ済みませんが、またお願いします。十五分ほど外で歌っていただけますか。
 ええ。多分十五分で大丈夫でしょう。――駄目ですよ。そりゃあ、ドアを閉めれば音は漏れにくくなるでしょうけど、さっきみたいなこともあるから、念のため。
 日が暮れたら店を閉めます、それまでには終わるでしょうから。
 お願いします。
 ――ああ。始まりましたね。リーダー聞こえますか? 声量はなかなかのものでしょう。
 後は、もう少しテクニックがつけば――わたしが代わりに歌えばいいのでしょうけど。そういうわけにもいかないですからね。
 だって、うちの主人は血が苦手なんですよ。


Copyright(c): Uetaka Aoi 著作:蒼井 上鷹

◆「コーヒー・タイム」の感想

*「今月の一番星」は、わたし赤川(編集長)の判断で、今月の最も優れた投稿作を選んで紹介するページです。
*蒼井さんの作品集が 文華別館 に収録されています。

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