T-Timeファイル蒼井上鷹 作品集表紙に戻る

 二十年以上に渡って犯罪者の弁護をしてきたが、こんな依頼は、さすがの出雲勝利も初めてだった。
「確認させていただきますが、殺された本城和義氏は、貴方のお父さまですね」
「はい」
 依頼人の本城義一の細面の顔からは、なんの感情も読み取れない。三十分前にこの部屋に入り、出雲のデスクの前に腰を下ろしてから、ずっとこんな調子だった。まるでここに来る途中、顔の筋肉が凍りついてしまったようだ。そう言えば皮膚の色も、窓の外にちらつく雪と同じ灰白色である。
 といっても、別に室内が寒いわけではない。出雲は体格のわりに寒がりなので、いつもエアコンの温度をかなり高めに設定していた。
「容疑者の阿久津幸弘氏も犯行を認めている、と」
「はい。だいたい認めるもなにも、すぐそばに目撃者がいましたし、現行犯で逮捕されたわけですから」
「その目撃者と言うのは」
「私です」
 怒りを覚えたとか、犯行を止められなくて悔しいとか、なにかコメントが続くものと出雲は期待したのだが、それきり本城は口をつぐんでいる。
「それでも貴方は、私に阿久津氏の弁護を依頼したいとおっしゃる。それも、彼を無罪にしろと」
「いけませんか」
「いや、いけないことはありませんが」
 出雲勝利は煙草に火をつけ、本城にも勧めた。
「結構です。煙草は吸いませんから」
 本城は息苦しいと言わんばかりにネクタイの結び目に手をやった。
 その紺のネクタイの上を、水色のイルカが何匹も泳ぎまわっている。最近流行の二次元ペット――『ぺたっと』だ。本城の会社の製品である。
 本城義一が父親をついで社長に就任した後、ホントイ社が玩具業界で急成長中であることは、出雲も知っていた。『ぺたっと』のヒットのお蔭だ。
 そういう意味では、本城和義が死んでもっとも得をしたのは、今、出雲の目の前にいる本城義一だといえないこともない。
 出雲の疑念を読み取ったのか、本城の一重の目が細くなった。
「ひょっとして、妙なことを考えてらっしゃるんじゃありませんか。私が犯人の阿久津幸弘に感謝しているとか」
「そのようなことも頭に浮かびました」
「面白い」少しも面白くなさそうに本城は言う。「そんなことを言われたのは初めてだ」
「場合によっては、貴方が殺人を教唆した可能性も考慮に入れる必要がありますからな」
「馬鹿馬鹿しい。私があいつと組むなんてありえない。調べてもらえばわかります」
「もちろん調査は念入りにするつもりです」
「阿久津にも同じ質問をしますか」
「必要があれば」
「その場に居合わせたいくらいだ。あいつがどんな顔をするか見てやりたい」本城は身を乗り出すと、わざとらしく声を潜めた。「――もし、私と本城が共犯だとしたら、どうします?」
 出雲は平然と答えた。
「料金を二倍いただく必要がありますな。阿久津氏の分と、貴方と」
 本城はしばらく出雲の顔を見つめていたが、やがて二度三度と首を振った。
「木島の言ったとおりだ」
「木島さんのお知り合いでしたか」
 木島隆一は、かつて出雲が扱った事件の依頼人だ。
「ええ。太鼓判を押してくれましたよ。変わり者だし、金もかかるが、不可能を可能にできると」
「それは光栄です」
 本城は特大のデスクの上に両手をついて立ち上がった。
「とにかく、なんとしても阿久津を無罪にしてほしいのです。理由は――企業イメージ戦略上の要請とでも申しておきましょうか」
「企業イメージ?」
「子供相手の商売ですから、血なまぐさい話には関わりたくないのですよ。万が一死刑の判決でも下りたら、わが社の大幅なイメージダウンだ」
 どうも納得がいかない。しかし、事件の内容には大いに興味をそそられた。
 目撃者つきの殺人事件。しかも容疑者は自白済。どうすれば、この事件をひっくり返せるだろうか。 
「わかりました。お引き受けしましょう」
 本城はポケットから小切手帳を取り出してなにやら書き込むと、切り取って出雲の前に押しやった。
「料金はこれくらいでいかがでしょう」
 出雲は小切手に目を落とし、口笛を吹こうとして失敗した。一度もうまくいったためしがないのだ。
 その反応に気を良くしたのか、本城は軽口をたたいた。
「これだけあれば、二人分の弁護費用でも充分でしょう」
「なにをおっしゃいます。木島さんのお友達に、そんな失礼な真似はできませんよ」出雲はソーセージのように太い指で小切手をつまみあげた。「本城さんの分はサービスしておきます」

 調査を始めた時点では、事件は極めて単純に見えた。
 二ヶ月前の十月三日、港区のホントイ本社ビルで開催された新製品発表会の直後に、アーツ商会前社長の阿久津幸弘(五十九)がホントイ社長の本城和義(六十)を口論の末エスカレーターから突き落としたのだ。現場となったビルは中央部が吹き抜けになっており、エスカレーターはその間を通っていた。被害者はほぼ四階の高さから一階に転落し、頚椎骨折と全身打撲で即死だったという。その場に居合わせた社員の通報により、阿久津幸弘は現行犯逮捕された。
 ちなみに、その際発表されたのが『ぺたっと』である。布状のディスプレイ画面上に動物やキャラクターのCGアニメーションを表示する製品で、ユーザーはシャツやバッグなどの「上」で、ネコやウサギなどお気に入りのペットを飼うことができる(『ど根性ガエル』のピョン吉を出雲は連想した)。単に映像を流すだけでなく、パソコンと連動させて本当のペットのように「育てる」ことができるのがセールスポイントだった。
 警察の調べに対し阿久津は素直に犯行を認めたが、動機については黙秘を通している。エスカレーターに同乗していた被害者の息子、本城義一(三十二)の証言でも「父と阿久津は仕事上のライバル同士で以前から仲が悪かったが、あのときはなんの前触れもなく突然争いが始まった」とあるばかりで、それが唯一の解明されていない問題点だった。
 なお、本城義一と阿久津幸弘の共犯という線は、まず考えられないことが判明した。義一は父の和義以上に阿久津のことを憎んでいたのだ。
 と言っても仕事上の争いからではない。阿久津は一年ほど前に引退し、経営から完全に手を引いていたので、直接の利害関係はなくなっていた。
 原因は他にあった。阿久津幸弘の妻は後妻で、夫より三十近く若いが、この阿久津亜里沙と本城義一が大学の同級生だった。しかも二人は一時期つきあっていた。それを阿久津が横取りしたという噂だ。
「違います。わたしが阿久津を選んだんです」
 出雲の問いに、亜里沙はきっぱりと答えた。頭を高く上げて、常に相手の目を見て話す。そんなところからも彼女の真直ぐな気性が窺えた。腹の底でなにを考えているかわからない本城義一は亜里沙には相応しくないと、出雲も思った。
 では、阿久津幸弘はどうか。亜里沙の話では、とにかく意志が強く、一度決めたら後には退かないタイプだという。今回にしても、とことん沈黙を守ると決心したのか、妻の自分に対しても胸のうちを明かしてくれない、と亜里沙はこぼした。
 阿久津は拘置所で公判の日を待っている。出雲は面会の手続きをとった。

 予想通り、阿久津幸弘は食えない男だった。拘置所に一ヶ月も入っていれば、普通の人間なら少なからず弱気になるものだが、そんな素振りは少しも見せず、ここの食事のお蔭でようやくダイエットできるなどとうそぶいた。例年より早い寒波の到来で、接見室もかなりの寒さなのだが、阿久津はトレーナーの上下だけで平気なようだ。阿久津以上に皮下脂肪には恵まれている出雲が、巨大な毛玉とみまがうほど着膨れているのとは対照的だ。
「ははは、私に頼むほどあいつも馬鹿じゃない。こっちだって、いくら本城の親父が憎くたって、息子のために手を汚すつもりはないな」
 出雲が持ち出した本城義一との共犯説を、案の定阿久津は一蹴した。
「では動機はなんです」
「言おうが言うまいが判決には関係ないだろう」
 しれっとしている。まるで他人事のようだ。
「大いに関係あります」
「だが無罪放免というわけにはいくまい。それが無理なことぐらいはわかっている」
 本人が無理だと言い切るのだから世話はない。出雲が本城の依頼事項を説明すると、阿久津は手入れされていない口ひげをひねった。
「訳がわからん。なにを考えているんだろう」
「私としては、一度依頼をお引き受けした以上は、どんな手を使っても貴方を無罪にしますよ。ただそのためには、全てを知っておかないと」
「余計なことはしてほしくないんだが」
 出雲は構わずにファイルから書類を取り出し読み上げた。
「『本城は私を見つけて笑ったかと思うと、ポケットからシガレットケースを取りだしてそれを開きました。私は本城がシガレットケースに気をとられて下を向いた隙に右手で殴りつけました。シガレットケースが落ち、それを拾おうと本城が屈みました。私は本城の胸倉を両手でつかんで引っぱりました。すると、バランスを崩した本城はエスカレーターの手すりを越えて一階まで落ちていきました』――まったくひどい文章だ」
「なんだと」
「貴方のことじゃありません。この供述書を書いた刑事の文章力を言っているんです」
 細かいことだが、供述書そのものは弁護人には公開されない。これも出雲が裏から手を回したのだ。隠し事をしても無意味だと暗示したつもりだったが、通じたかどうか。
「この供述に付け加えることはありませんか」
「特にないね」
「このままですと殺人罪が適用されて、最低でも三年以上の懲役、最悪の場合は死刑になるのですよ。本当にそれでも良いのですか」
「良くはない。せっかく揃えたワインのコレクションが無駄になるのが惜しい」
 長年かけて買い求めたコレクションは、阿久津の自慢らしい。最近では、その評判を聞きつけて、是非試飲してほしいと送ってくる業者や輸入商も多いそうだ。
 自分の命よりワインの心配かと、出雲は呆れた。
「亜里沙のやつは飲まんし、管理する知識もないから、いっそ誰かに譲ろうかと相談しているところだ――そうだ出雲さん、あんたどうかね」
「ワインですか」出雲は少し間を置いた。「いや結構です」
「そうか。それならあの一本ぐらいは思い切って飲んでおけばよかったな。息子の帰国祝いをしようと思ったのに、あの馬鹿も酒はやめたと言い出しおって」
 阿久津は心底残念そうな顔をした。自分の刑期の話をしても平然としていたのが嘘のようだ。
「なに、大丈夫ですよ。コレクションはそのまま大事に取っておくよう奥さまにお伝えください」
「ここに差し入れでもしてくれるのか」
 出雲は苦笑した。
「それもできないことではありませんが――もっと良い方法があります」
「なんだ」
「釈放祝いに飲むんですよ」
 意外なことに、出雲がそう言っても阿久津の顔には喜びの色はまったく見えなかった。
 出雲はくどいくらい念を押した。
「信用してください。貴方は必ず無罪になります。どのワインを飲むか、今から考えておくんですな」
 具体的な方策はまだ思いつかないが、本人が有罪になりたがっているなら、無罪になると「脅す」ことによって、なんらかの動きが見られるではないかと計算したのだ。

『サイクル・スタジオ・アクツ』と書かれたガラス越しに中を覗くと、壁の棚はどれも各種のハンドル・リム・タイヤ・ペダル・ギア・ブレーキなどで溢れんばかりで、三つ並んだ作業台の上では完成間近の自転車が整備の手を待っている。単なる自転車屋というより専門的な工房らしい。
 阿久津博之は、そのうちの一台のブレーキを調整していた。出雲が店内に入って名乗っても、作業の手を止めようともしない。
「お父さまの事が気にならないのですか」
 意地の悪い質問であることは百も承知で出雲は尋ねた。博之が感情をむきだしにしてくれれば、こちらはその分いろいろと探りやすくなる。
「放っておいてくれと本人が言っていますから」阿久津博之は工具を握ったまま額の汗を拭った。挑発に乗る気配はない。「面倒を見てくれる人ならいくらでもいる。ぼくの出る幕じゃないです」
 出雲が黙っていると、博之は突然顔を上げてにやりと笑った。
「冷たいとお思いでしょう。父親が殺人容疑で逮捕されて裁判にかけられるというのに」
「お父さまとは随分会ってらっしゃらなかったようですな」出雲ははぐらかした。「ずっと海外におられたとか」
「各国の自転車レースを見て回っていました。あちこちのチームの整備を手伝いながらね。十年ぶりに帰国してみたら、この騒ぎです。ゆっくり親父と話をする暇もなかった」
「そうでしょうか」
「どういう意味です」
 出雲はポケットから手帳を取り出した。
「先日、お父さまは奥さまとの接見でこんなことをおっしゃっていますね。『博之に伝えてくれ。本城義一には手を出すなと。そう言えばわかる』」
「どうしてそれを――」
「なに、ちょっと情報収集しただけです。そんなことより、随分意味ありげなお言葉ですね。本城氏とはどういうご関係ですか」
「なんの関係もない。どうして親父があんなことを言ったのか、ぼくにもわからないんだ」
「幾つかヒントを差し上げられるかも知れません。この接見があったのは、私がお父さまとお会いし、弁護をお引き受けしたことを告げた直後です。お父さまは、本城義一氏の依頼だと聞いて、そのときは不思議がっておられたが、後でなにかに思い当たったようですな」
 出雲は作業台をはさんで阿久津博之と相対した。体や顔の各部が丸っこいのは父親譲りだが、全体的に小ぶりで、豆タンクという古いたとえを思い出させる。
「本城義一氏とは無関係とおっしゃいましたね。でも、本城和義氏となら関係は大有りだったのではありませんか」
「遠回しな言い方はやめてくれ」
「本城和義氏は、貴方がたが言うところの『対象』だった。違いますか。――さん」
 出雲はある名前を口にした。裏の社会では知らぬ者のない殺し屋の名前だ。
 次の瞬間、博之の姿が視界から消え、出雲の背中に固いものが押しつけられていた。外見からでは想像できないほど素早い動きだ。
「どういうつもりだ」
 出雲は動じることなく両手を高く差し上げた。右手には手帳を持ったままだ。
「お断りしておきますが、私の身になにかあった場合、ある告発書が警察に送られる手はずになっています。これからどうするつもりにせよ、その内容をお聞きになってから結論を出した方が良いのではありませんか」
 背中の圧力がほんの少し弱まった。
「それがご自慢のエア・ガンですか。改造には、やはり自転車の技術を応用したのですか? それとも反対に――」
「余計なことを言うな」
「失礼。ではこれをご覧ください」
 出雲は両手を上げたままで手帳を広げた。数秒の沈黙の後、博之が唾を飲む音が聞こえた。
「これは――」
「あのビルの二階の喫煙スペースのソファにめり込んでいたそうです。ビルが吹き抜けになっていたのが災いしましたね。専門家の分析によれば、この弾丸はエア・ガン用のものですが、ごく特殊な加工がしてあるそうです。こんな弾丸を使用する犯人は、一人しか考えられないとか。報告書と弾丸の実物は安全な場所に保管してありますが、警察がこれを知ったらどうするでしょうね」
 博之は低くうなった。
「お父さまは少々軽率でしたな。あんな伝言をしなければ、私が貴方に注目することもなかったし、こんな調査をすることもなかった」
 関係者の証言のみならず、現場や遺留品の再検証を怠らないのは、出雲のいつものやり方なのだが、確かに今回は、多少の幸運が出雲を手助けしてくれたようだ。
「信じてくれ。本当に親父の言葉に心当たりはないんだ」
「それも私には想像がつきます。おそらくお父さまは、貴方が本城和義氏を狙撃したことをご存知だったので、息子の義一氏にもなんらかのアプローチをしたと早合点したのでしょう。『父が有罪になったら生かしてはおかない』とかなんとか。それで怯えた本城氏は、私を弁護人に雇った。自分の命を守るために」
「でたらめだ。そんな事実はない」
「ええ。私もそう思います。そこがこの話の面白いところで」
「ふざけるな」
「ご安心ください。私は味方です。貴方と、貴方のお父さまの」出雲は何度もうなずいた。「ところで、そちらを向いてもよろしいですか。どうも顔を見ないで話すのは落ち着きません」
 博之が一歩下がる気配がしたので、出雲はゆっくりと振り返った。エア・ガンの銃口はこちらに向いたままだが、博之の表情は冷静さを取り戻している。
「私の目的は、お父さまの無罪を勝ち取ることです。ただ、そのためには、事件の真の動機を知る必要がありました。ただかっとなったからとはあまりにも信じがたい」出雲は博之の顔を見つめ、取って置きの質問を発した。「お父さまはいつ知ったのですか。貴方の――その、本業を」
 博之の片頬が心もちひきつり、唇が歪んだ。
「一年ほど前だ」
「ちょうどα国におられたころですね。しかし、どうしてそんなことに」
「どうもこうも。本城和義の始末を依頼してきたのが親父だったんだ」
 出雲は作業台にもたれかかった。
「なるほど――そこまでは予想していませんでした」
「親父も驚いていたよ」博之は目を伏せた。「おれもだ」
「それで、お父さまは依頼を取り下げたのですね」
「ああ。この仕事から足を洗えと言い残して。だから三ヶ月前に帰国するまでに、あらかた身辺整理は済ませておいた」
「それなのに、どうしてまた仕事を」
「最後の一件だけは断りきれなかったんだ。昔世話になった筋からの依頼で」
 阿久津博之がΩ国の某団体で訓練を受けたという噂は聞いていた。かつて無実の罪で投獄されかけたところを救われたらしい。
「その『対象』が、やはり本城和義氏だったわけですね」
 ホントイが玩具メーカーという表看板に隠れて、いろいろ非合法な活動を行っており、その絡みで代表者の本城和義を狙う者もまた多かったことは、出雲も調査済だった。
 それが、本城義一が後を継いでから、経営陣は刷新され、完全にクリーンな企業として生まれ変わったのだから皮肉なものだ。
「あの新作デモの後、エスカレーターで本城氏を狙撃したわけですね」
「そうだ」
「初めからそうする予定だったんですか」
「ああ。本城はエレベーター嫌いで有名だった。あのビルのセキュリティ管理は杜撰だし、エスカレーターなら安全に狙えるポイントは幾らでもあったから、成功間違いなしだったんだ。それなのに、親父のやつ、どこで感づいたのか――」
 それ以上聞く必要はなかった。阿久津幸弘は、博之が本城和義を撃つのを防ごうとしたのだ。それが彼の「動機」だった。
 結果的に本城が墜落死したのは、やはり不幸な事故だったわけだが、あえて弁解せずにいるのは、息子を庇うためか。それとも自分自身も本城の殺害を依頼しようとしたことがあるという罪悪感の発露か。
「しかし、こんなことを聞いてどうしようというんです。まさか警察に言うつもりじゃないでしょうね。それができるくらいなら、自分でとっくにそうしてます。でも親父は――」
 なにも言うな。そう厳命したのだという。顧問弁護士が駆けつけたとき、阿久津幸弘が一番にしたのは息子への伝言だった。どんなことがあっても沈黙を守れ。そしてまっとうな人生を送れ。
「わかっています。私も秘密は絶対に守りますよ」
「しかし、それでどうやって親父を無罪にするつもりです」
「それはお任せください」
 出雲は笑顔で言った。
 博之を安心させるためでもあったが、嬉しくて仕方がなかったことも事実である。
(マンガじみた殺し屋が出てくるとは思わなかった。これを隠すには、こっちもよほどの大風呂敷を広げなければ。さて、どの手でいこうか)
 困難が大きければ大きいほど燃える性格なのだった。

 出雲が法廷に立つのを好まない理由は二つあった。一つは、椅子が窮屈でもろいこと。検事と質問役を交代する度に立ったり坐ったりしなければならないのだが、その際にかかる重みで椅子が壊れたことが三度あった。幸いどれも傍聴人の殆どいない裁判だったが、まだ電子メールもインターネットもない時代だったにもかかわらず、噂が同業者の間に広まるのは信じられないほど早かった。
 熱弁を振るう相手が無表情な裁判官だけというのも物足りない。せっかくのどんでん返しも、観客がいなければ効果は半減する。
 だが、今日の出雲は張り切っていた。阿久津幸弘の事件が、日本への陪審制導入のテストケースとして選ばれたのだ。おそらくテストの主目的は事務手続きの詰めにあり、誤った判決の出しようのない単純な事件として本件が選ばれたのだろう。
 しかし出雲勝利が弁護する以上、そんな簡単な事件にするつもりなど毛頭なかった。新たに陪審員席を設けた特設法廷に、自分専用の椅子を運び込ませてやる気充分である。
 それでも初めの二日間、出雲は猫を被っていた。検察側の出方を窺っていたせいもある。陪審員対策としてなにか奇を衒った戦術を用いるのではと警戒したのだが、担当検事は至ってオーソドックスにことを運んだので、むしろ出雲は拍子抜けした。
 裁判は淡々と進んだ。ただ一度、被告人への罪状認否で阿久津幸弘が「殺したのは事実だが無罪だ」と出雲の教えた通りに答えたとき、傍聴席がどよめいたが、その後が続かない。
 しかし今や、出雲は被告人阿久津幸弘を尋問していた。法廷の期待はいやがうえにも高まる。
「――それでは阿久津さん。引退後にも関わらずホントイの新製品発表会に出席されたのは、まったくの偶然だったのですね。たまたま社に顔を出したところで、専務の急病を知り、急遽代役を務めたと」
「その通りです。まあ多少の興味があったことは否定しませんが」
 阿久津の口調は落ち着いていた。白っぽい服に身を包み、どこか達観としているように見える。
「発表会が終わって、貴方はどうしましたか」
「二十分ほど知り合いと雑談して、それから会場を出ました」
「会場となったホールは八階にありましたね」
「はい。だからエスカレーターで一階まで降りようとしました」
「なぜエレベーターではなく、エスカレーターを使ったのですか」
「エレベーターはあまり好きではないので。あの閉じ込められる感じがなんとも」
「あのビルは中央部が吹き抜けになっていて、そこをエスカレーターが通っていますね」
 出雲は問題の吹き抜け部の写真を示し、阿久津が利用したエスカレーターを確認させた。
「どこで被害者と会ったのですか」
「五階です。私の後ろから、親子で話しながら乗ってきました」
「なにか会話の内容を聞きましたか」
「いえ。聞こうとも思いませんでした」
「ふむ」
 出雲は間を置いて、陪審員席の方を意味ありげに見やった。
「被害者は貴方に気づきましたか」
「もちろん」
「貴方から見た被害者の様子を説明してください」
「にやっと笑ったように見えました。なにか挨拶めいた言葉を口にしたような気もします。私が無視しても一向に気にしない様子で、ポケットからシガレットケースを取り出しました」
「それから、貴方はどうしましたか」
「頭に血が上って――」
「どう感じたかは言わないで結構です」途中で出雲はさえぎった。「行動だけを主観を交えずに述べてください」
 阿久津は一瞬息を詰めたが、出雲が促すと、再び淡々とした声で話し始めた。
「右手を伸ばしてシガレットケースを叩き落しました。本城が屈もうとしたので、その胸倉をつかんで引き寄せました」
「被害者は手すりを越えて落ちていったのですね」
「――その通りです」
 出雲は陪審員席に向かって両手を広げた。
「ここまでの証言が、被害者の息子であり、事件の目撃者でもある本城義一氏の証言と一致していることにご注意願います」
「弁護人、余計な発言は慎むように」
 裁判長の注意に、出雲は形だけ頭を下げ、腰を降ろした。
「弁護人、質問中は起立するように」
「以上です」
「な――」
「質問は以上だと申しあげたのです」
 ざわめきが法廷を包み、裁判長は何度も槌を叩いた。
 それはそうだろう。出雲が阿久津を無罪にする唯一の方法は、被告人への尋問で動機を明らかにし、正当防衛を認めさせることだというのが大方の予想だったのだから。
 出雲は一人ほくそえんだ。
 これで皆、弁護側は事件を投げたと思っていることだろう。
(まだまだ。お楽しみはこれからだ)
 
「証人の経歴を述べてください」
「大杉市衛生研究所に二十年間勤務した後、引退しました」
 手元のファイルには、この一見謹厳実直そうな男が女性問題で職をふいにしたことも書かれていたが、出雲は当然それには触れない。
「専門は伝染病でしたね。バイオテロ問題についてはいかがですか」
「アメリカ国立衛生研究所で研修を受けております」
「充分な知識と経験をお持ちであると」
「そう申しあげても良いと思います」
「証人は最近、私からある品物の分析を依頼されましたね」
「はい」
「分析結果についてご説明ください。陪審員の皆さんにもわかるように、なるべく簡単な言葉で」
「超小型のカプセルが見つかりました。熱を加えると破壊され、中身が放出されます」
「中身はなんですか。繰り返しますが、簡単な言葉でお願いします」
「新種のウィルスです。きわめて毒性が強く、伝染性も高いものです」
「もしこのウィルスがばらまかれたら、大変な被害を及ぼすことになりますね」
「その通りです」
「裁判長、証拠として分析結果の報告書を提出いたします」
「構わないが、これは事件とどういう関係が――」
「それは続きをお聞きいただければわかります」
 分厚い書類が関係者に配られた。
 一息おいて、出雲は一枚の写真を証人に手渡した。
「そのカプセルが入っていた品物は、これですね」
「はい」
「カプセルが仕込まれていたのは一本だけですか」
「いえ、十本全てから見つかりました」
「弁護人、一体なんの話をしているのか」
 裁判官の戸惑った声をさえぎるように、出雲は芝居がかった身振りで被告席の阿久津幸弘を指差した。
「つまり、被害者の持っていたシガレットケース、すなわち、被告が被害者の手から叩き落としたシガレットケースの煙草全てに、ウィルス入りのカプセルが仕込まれていたわけですね」 
 法廷中の椅子が一斉にきしんだ。

 二日後の最終弁論は出雲の独擅場だった。
「――以上ご説明したように、被告は決して被害者を殺す意図はなかったのであります。被害者がウィルス入りの煙草を吸おうとしていることを察知した被告は、大災害の発生を防ぐため、やむを得ぬ緊急措置としてシガレットケースを叩き落したのです。そして、尚もケースに手を伸ばす被害者を止めようと揉みあったあげく、弾みでエスカレーターから被害者は転落してしまった――つまりこれは、純然たる事故です」
 出雲は満足気に周囲を見回した。陪審員の何人かが、釣り込まれるようにうなずく。
「さて、被害者の煙草に細工をした犯人は誰でしょうか。それは私にもわかりませんし、本法廷の関知しないところであります。しかし、既に某団体による『犯行声明』が発表されております。その団体とホントイ社の間に幾つかのトラブルがあったこと、また、被告の知人の一人がその団体の母国と深い関係にあったことなどを考慮しますと――」
「弁護人、本件に直接関係ない憶測は慎むように」
 出雲はさも心外そうに肩をすくめてみせたが、内心はここまで言えただけで充分だった。ホントイ社がΩ国に工場を建設し、それに伴う環境破壊で地域住民とトラブルを起こしていることは報道されているし、某団体の本拠地がΩ国であることも周知の事実だ。過激な行動で有名な某団体がホントイ社への報復措置としてバイオテロを仕組んだという推測は、既に何人もの評論家がしていたし、被告の阿久津幸弘が息子の博之経由でその情報をつかんでいたという説も、一般のマスコミはともかく、インターネット上では既に定説となっていた。博之の裏の稼業はともかく、彼がBMXレースの盛んなΩ国に多くの知己を有していることは秘密でもなんでもなかったのだ。
 もちろん、出雲が裏で情報を操作したことは言うまでもない。小さな嘘の粗はすぐに見つけるが、大きな嘘は鵜呑みにしがちだという大衆心理のつぼを、出雲は的確についていた。
 こういった状況は陪審員たちの心証にも影響を及ぼしていることは間違いなかった。審理中は法廷外の情報に左右されてはいけないという建前だったが、実際のところ世論を完全に無視するのは不可能に近い。
「――失礼しました。ともかく、被告の行動の動機は、多くの人命を救うという善意に基づくものであったことは疑う余地のない事実であります。いわば地雷の爆発を防いだようなものです。賞賛されこそすれ、決して責められるべきではありません」
 出雲は陪審員たちの前をゆっくりと行ったり来たりしながら弁論を続けた。
「陪審員の皆さんの中には、では、なぜ被告は真の動機を告白しなかったのかと疑問に思われる方もおられることでしょう。しかしこれも簡単に説明がつきます。理由の一つは、その告白が、自分の最も愛する者を危険に陥れることになるからです。あえて詳しくは申しませんが――聡明な皆さんならばきっとおわかりでしょう」
 出雲は初老の陪審員の前で立ち止まり、彼の目をじっと見つめた。彼に博之と同年輩の息子がいることは調査済だ。
 案の定、その陪審員はうなずいた。
「もう一つは、被告の潔癖な精神によるものです。動機は何であれ、一人の人間の命を奪ってしまったことは事実です。被告はその責任を受け止め、あえて弁解せずに自らを罰しようとしたのです。なんと見上げた心がけではありませんか」
 中年の主婦が二人並んでいたが、彼女たちは、目黒の動きに合わせるかのように揃って胸の前で両手を組み、顔中くしゃくしゃにして涙をこぼさんばかりだった。
「さて、念には念を入れて、その他の事実関係について検証していきましょう。例えば――」

 出雲の部屋に入るなり、本城義一は飛びつくように握手を求めてきた。初めてここに来たときの無表情さが嘘のようだ。
「驚きましたね。阿久津があれほど潔癖だとは思いませんでした」
「まあお座りください」
 出雲は落ち着き払って椅子を勧めた。
「無罪釈放の祝い酒に毒を入れて自殺とは、まったく信じられませんよ」
「解説には及びませんよ。ニュースなら私も読んでいます」
「それは失礼」本城は苦笑した。「ただ私は、せっかくの努力が無駄になってしまったのが悔しくて」
「努力したのは私ですよ。それをお忘れなく」
 出雲の素っ気ない態度に、本城は眉をひそめた。
「――どうしたんですか。なにか心配事でも」
「いや、心配事はありませんよ。少なくとも私の方は」
「どういう意味です」
「いや、深い意味はありません」出雲はデスクの引き出しから一枚の書類を引っ張り出した。「経費の精算がまだでしたな」
「おや、全てこみでお支払いしたはずですが」
「そのつもりだったのですが、一つ特別な調査が必要になりましてね」
「そんな――」
 本城の言葉が途切れ、出雲が差し出した書類を引っつかんだ。大した長さの文章ではないが、一読しただけでは納得できないのか、何度も読み返している。そんな本城の目の前に、出雲は切り札を突きつけた。ラベルなしのガラスの小瓶である。大きさは洋酒のミニボトル程度。赤い液体が半分くらい入っている。
 本城は書類と小瓶を代わる代わる見た。その額には玉のような汗が吹き出している。
「暖房が強すぎるようですな」
 しかし出雲は言うだけでエアコンのリモコンに触れようともしない。
「ど、どういうことだ、これは」
 出雲は肩をすくめた。
「ごらんの通りですよ。三ヶ月ほど前に阿久津幸弘宛てに贈られた、あるワインの分析結果です」
 相当量の砒素が検出されたという結果もさることながら、問題は分析した日付だ。今から一ヶ月も前。その時点では、阿久津は釈放どころか裁判すら始まっていない。ワインに毒など入れられない。とすると犯人は――ここまで来れば、残りを推理することはたやすかった。
「阿久津氏は自分が有罪になるようなら、このコレクションは誰かに譲ってしまうつもりだったそうです。そうなる前に、密かに分析させてもらいました。無論、阿久津氏には内緒で」
 スタッフの一人を阿久津の家に忍び込ませて、このサンプルを入手したのだから、不当な手段を用いて収集した証拠ということになるが、これを法廷に持ち出すつもりなど、はなから出雲にはない。
 本城の様子を、出雲は冷静に観察していた。血の気の引いた顔を冷や汗が伝い、例のネクタイの上を泳ぎまわるイルカたちにぽたぽたとかかっている。両手を固く握り締めているが、それでも震えは止まらないようだ。
 無理もない反応だが、偽名で阿久津幸弘宛に毒入りワインを贈ったのに、相手がそれを飲む前に、よりによって殺人容疑で逮捕されてしまったときには、この程度の動揺では済まなかったはずだ。
 まごまごしていると、拘留中に問題のワインが処分され、どこでどんな事件を引き起こさないとも限らない。
 だから、一日も早く阿久津幸弘を釈放させる必要があったのだ。それには裁判で無罪を勝ち取るしかなかったわけだ。
 そして、釈放されれば、阿久津はいつか毒入りワインを飲むだろう。そうなれば、結局は本城の計画通りに事が運んだことになる。
 なんという動機だろう。相手を殺すために釈放させるとは。
 しかし、この出雲勝利の目を欺けるとうぬぼれたのは大きな判断ミスだった。もっとも、出雲を弁護人に選んだこと自体は好判断だったから、差し引きゼロというところか。
 阿久津幸弘には気の毒な結末だが――やはり殺人者は罰を受けなければならない。本人も一旦はそう覚悟していたのだから、そう心残りはないだろう。
 本城の目を見れば、現在の自分の立場を完全に理解していることは明らかだった。物分りの良い依頼人との商談ほど好ましいものはない。出雲は黙って書類の末尾に記された金額を指した。本城も黙って小切手帳を取り出した。
「そうそう、一つだけ残念なことがありました」
 小切手をデスクに仕舞いながら、出雲は世間話でもするような調子で言った。
「例の陪審制度ですが、導入を見直すことになったそうです。どうもあの事件の審理の後で『陪審員が簡単に誘導されすぎる』という意見が出されたらしい」
 出雲は首を振った。
「いや、まったく惜しいことをしました」


Copyright(c): Uetaka Aoi 著作:蒼井 上鷹

◆「隠された動機」の感想

*蒼井さんの作品集が 文華別館 に収録されています。

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