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 A 迷子

 《バー・ダックスープ》のマスターはあくびをかみ殺した。
「嫌ね、人が話してるときにあくびなんて」磯部初美が睨んだ。
「ごめんごめん」
 大型連休直後の火曜日だから、八時を過ぎて客が一人きりでも嘆くことはないのかもしれない。元々カウンターに十人並べば一杯になる、鰻の寝床のような小さな店なのだ。とはいえ、その唯一の客である初美が、この一時間で一杯しか飲んでいないというのは少々辛い。
 初美は入り口に一番近い席に坐り、ひっきりなしにしゃべり続けていた。水割りの氷がとうに溶けているのに気にする様子もない。時々興奮して立ち上がろうとするが、小柄なのでスツールから足が地面に届かず、中腰になるのがやっとだ。
「隣の間宮さんとこなんか、猫がいなくなってから、もう大変だったんだから。あそこの奥さん思いつめるたちでしょう。まるで誰かが誘拐したみたいに騒ぎたてちゃって、あちこちにビラを貼ったり新聞に広告出したり」
「ビラなら初美ちゃんが猫の絵を描いてやればいいじゃないか」
 初美は、結構ベテランのイラストレーターだ。もう四十過ぎなのに、マスターがちゃんづけで呼んでいるのは、二人が小学校時代の同級生だからだ。その縁で、昨年、この店の新しい看板の絵を描いてくれた。頭に手ぬぐいを乗せた鵞鳥が深めのスープ皿から首を突き出しているという、なかなかブラックな図柄だ。この店から五分とかからないところにある親譲りの二階建ての家に住んでおり、仕事が終わったと祝杯を上げに来たり、うまくいかないとおだをあげに来たりする。今日はどうやらおだの方らしい。
「わたし、あんまりかかわりたくないんだ。最初――もう半年くらい前かな――あそこの奥さんが『うちの猫を見なかったか』って訊きに来たとき、締め切りを三日遅らせていたから、ちょっとつっけんどんな答え方をしたのよ。そしたらもうこんな疑いの目で見るわけ。ほら、わたし結構変わった料理とかするでしょ。兎とか蛇とか。それもあって変に勘ぐられたみたい。冗談じゃないよ。いくらなんでも猫を取って食ったりしないって」
 ねえひどいよねと初美は同意を求めるが、マスターにとっては間宮夫妻もお得意様だ。初美の尻馬に乗って悪口を言うわけにはいかない。
「料理といえば、今日もどうもありがとう。後でお客さんといただくよ――誰か来ればだけど」
 矛先を逸らそうと、マスターは先ほどもらった差し入れのお礼を言った。
「いいのいいの、気にしないで。半分は自分のストレス解消のために作ったんだから」初美はショートボブの髪の毛が跳ね上がるほどの勢いで首を振っていたかと思うと、ふと眉根に皺を寄せて小首を傾げた。「あれ、何の話してたんだっけ」
「間宮さんの猫の話でしょう」
「何で猫の話になったんだろう。その前は、ええと」
「だから――コウさんのこと」
 マスターは、最近顔を見せない馴染み客の名前を出し、顔を曇らせた。
「ああそうだそうだ」初美はカウンターを軽く叩いた。「どれくらい来てないの」
「二ヶ月――いや、そろそろ三ヶ月かな」
「そんなに。週に一度は必ず顔を見せてたのに。もう何年になる?」
「開店して間もなくだから、もう五年かな。古さだけ言ったら、初美ちゃんと殆ど変わらないよ。でも、まあ、この辺に住んでるわけじゃないからね」
「そうか――あれ? そう言えばコウさんの家とか、退職するまでどこに勤めてたとか、全然知らないな、わたし」
 初美は頬に両手を当てた。《バー・ダックスープ》一番の古株についての知識が殆ど空白に近いことに気づき、愕然としたようだ。
「家はここから電車で二駅か三駅いった先だって。奥さんを亡くして今は一人暮らしのはずだ」
 と答えるマスターにも、実はそれ以上の知識はない。奥さんのことも、以前コウさんが愛用のベレー帽をなくしたとき、女房の形見だったと泣きながら話すのを聞いて、初めて知ったのだ。
「道理で土地鑑がないと思った。なんであんなに徘徊するのか不思議だったのよ」
「徘徊なんて言うなよ、ぼけ老人みたいじゃないか。コウさんまだ六十そこそこだぞ」
「いや、そういう意味じゃなくてさ。コウさんの例の癖のこと。さっきそこから猫の話に飛んだんじゃないの」
 突然いなくなったかと思うと、予想もしないところに姿を現して、その間どこでどうしていたのかさっぱり判らないコウさんのことを、まるで猫みたいだねえと初美は言ったのだった。
「それでも、もうちょっとましな言い方があるだろう。『下駄の向くまま』とかさ」
「そんな粋なのとは違うと思うけどなあ、あれはもう、自分から好きで迷子になってるとしか思えない。わざと通ったことのない道ばかり選んでみたり、遠回りしてみようとしたり、そういうことばっかりしてるから、なかなかここにたどりつけないんだよ」
 実際、「今、駅。もうすぐ行くから」とコウさんが店に電話してきても決して安心してはいけないというのが、マスター及び常連たちの共通認識だった。駅から店までは歩いて十分ほどで、交差点なども大してないにもかかわらず、コウさんが真直ぐたどりつけたためしがない。三十分ほどして、とんでもないところ――例えば駅の反対側――にある別の店から「よく判らないけど、ここにたどり着いちゃったから、一杯だけ飲んで行くよ」なんて電話があって――そういうことが、下手をすると一晩に二回、三回と続く。
 そんなこんなで、コウさんはこの町の酒場の殆どを制覇しているらしい。元々の目的地は常に《バー・ダックスープ》ただ一つなのだが、芋づる式に顔見知りの店が増えてしまったのだ。
 しまいには各店の方が慣れてしまって、「今うちの店を出た」「さっき前を通り過ぎた」などとマスターのところへ電話してくるようになった。まるでスパイ網だと、皆で笑いあったものだ。
 そんなコウさんが、ぱったり店に来なくなった。例のスパイ網からも情報はない。病気にでもなったのかと皆心配になり、連絡しようとして初めて、誰一人コウさんの住所も電話番号もメールアドレスも知らないことが判明したのだった。本名が柳沢航――コウカイのコウと書いてワタルと読む――だと知っていた者すら、ほんの数人だった。
『自分のこと話さない人だったからね』
『根っから人の話を聞くのが楽しいって感じでさ』
『あとは酒の話。おれたちより――下手すりゃマスターよりも――ずっと詳しいのに、全然嫌味じゃなかったもんな』
 得がたい呑み仲間であるということで常連たちの意見は一致したが、だからといってどうなるものでもない。
 特に気を揉んだのがマスターだ。元気かどうか心配だというのもさることながら、一日も早く店に来てほしい理由がもう一つあった。
「ねえ、お代わりいいかな」
 初美の声に、マスターは我に返った。初美は空のグラスを軽く振り、空いた手で目の前に置かれたスコッチのボトルを指差した。
 マスターはボトルを取り上げて残量を確かめると、溜め息を押し殺しつつ水割りを作った。
「今、溜め息つこうとしたでしょう」
「ついてない」
「嘘。判るもん。『こんな奴に飲ませる酒じゃないのに。それも水で割りやがってもったいない』とかそういうこと考えてたんでしょ」
 半分正解だが、マスターは首を振った。
「違う違う。なくなるまでにコウさんにも飲んでほしいと思っただけ。多分これが、ずっとコウさんが探していた酒だと思うから」
 この店にコウさんが来るようになってからしばらくの間、マスターは何度となく、その幻の酒についての話を聞かされたものだ。香、口当たり、咽喉越し、全てにおいて文句のつけようがないスコッチウィスキーだという。
『店のマスターがまた粋でね。多分ワタシと同い年くらいらしいのに、洒落たシャツかなんかを軽く着こなして、ワタシを一目見ただけで、ぴったりのお酒を選んでくれたんだからすごいよ。マスターもああいうバーテンダーになんなきゃね』
 残念ながら、店の名前も酒の名前も忘れてしまい、もう一度その店に行こうとしてあちこち訪ね歩いたが結局見つからず、代わりと言っては悪いが、一休みするつもりでコウさんが入ったのが、ここ《バー・ダックスープ》だったという次第。
「コウさんがここに来たのも、そのお酒のおかげってわけね」
「そう。だからどうしても見つけたかったんだ。今まで何度もはずれ籤を引いたけど、今度は間違いないと思う」
 最初の一杯はコウさんに飲んでほしかったのだが、客たちにせがまれて、数日前にとうとう口を開けた。案の定好評で、間もなく空になりそうだ。
「なくなる前に追加注文しといた方がいいんじゃないの」
「それが、この酒はかなり前に生産中止になっていて、ストックも殆どないそうだ」
「あらら」初美は口をつけかけた自分のグラスを慌てて突き出した。「それならいいよ、わたしは飲まなくても」
 マスターは吹きだした。
「もう水割りにしてしまったじゃないか。いいよ気を遣わなくて。安心して飲んでよ」
「でも」
 ふいに表の階段を下りる靴音が高く鳴ったかと思うと、ドアが勢いよく開かれて、三十前後の引き締まった体つきの男が入ってきた。
「いらっしゃい、間宮さん」
 マスターが一礼した。
 初美は、隣家の主人を上目づかいに見上げながら小さく会釈した。先ほど猫探しの件で揶揄したことを気にしているのだろうか。


 B 赤シャツと黒猫


 間宮孝次は中央の席に坐ると、ブリーフケースから薄い紙包みを取り出してマスターに渡した。
「知り合いからもらったんですが、ぼくには小さすぎて。多分マスターならちょうどいいんじゃないかな。それに別の意味でもぴったりだと思うし」
 中身は無地の赤いシャツだった。
「ありがとうございます」とお礼は言ったものの、自分には派手すぎるとマスターは困惑する。もちろん顔には出していないつもりだったが、間宮は、
「お気に召さないようですね」と残念そうに首を振った。
「別の意味でもぴったりって?」フォローするように初美が訊いた。
 間宮はシャツを胸の前に広げて見せた。
「これ、どうやって染めたと思います?」
 マスターも初美も判らない。
 間宮はカウンターの後ろの棚に並んだボトルを目で示した。
「へえワイン染めですか」マスターはワインボトルとシャツの色を見比べた。
「面白い。――マスター、着てみせてよ」
 こういうときの初美には逆らっても無駄なので、マスターは裏に引っ込むと、いつものワイシャツを脱ぎ、もらったばかりの赤シャツを頭から被った。サイズはぴったりだ。
 恥ずかしいのを我慢して戻ってくると結構好評だ。初美に言われて、今日は一日これを着ていることになった。
「良かった。これで気になってたことが一つ片づいた」
 間宮が飲み干したジョッキをとんと置きながら言った。なんだか意味深な言葉なので、マスターが目で尋ねると、間宮は苦笑いしながら
「タマが帰ってきたんですよ」と言った。
「タマって、いなくなった猫のことですか」?
 さっき初美と噂していたらこれだ。虫が知らせたのだろうか。
「ええそうです」
「良かったじゃないですか。奥さんは大喜びでしょう」
 奥さんという言葉が出た瞬間、間宮は息を詰め、
「喜ぶもんか」急に吐き出すような口調になる。
 マスターは初美とちらりと視線を交わした。
「一体どうしたんですか」
 間宮はカウンターの上に両肘をついて手を組んだ。
「ねえマスター。そっくりな猫っていうのはどれくらいいるもんなのかな」
「さあ、あんまり注意してみたことないから、よく判りませんが」
「うちのがね、あの猫はタマじゃないって言い張るんですよ」
「本当に違う猫なんじゃありませんか」
「でもね、同じ黒猫だし、体格も顔つきも尻尾の長さも、鳴き声までも瓜二つで、その上タマ専用の入り口から家の中に入ってきたんですよ」
 昨日の朝、間宮夫妻が目を覚ましたときには、その猫が、リビングに敷きっぱなしのタマ専用の座布団の上でちゃっかり眠っていたというのだ。
「それも、寝相までタマそっくりで、両足を投げ出すようにして――言っちゃ悪いけど無防備な格好で、安心しきって。それでタマって声をかけたら目を覚ましてすり寄ってきたんですよ。どう見てもタマが帰ってきたとしか思えないでしょう」
「それなのに奥さんは信用しないんですか」
「ええ。猫がそばに寄ってくる度に大声をあげながら家中逃げ回って。何を怖がってる、どこが違うんだと訊いても、タマはこんな下品な猫じゃないとか、見てるだけで気持悪いから追い出してとか、訳の判らないことを言うばかりで、一晩中そんな調子だったんです」
 それでまっすぐ帰宅するのがいやになり、ここに寄ったというわけだ。
「奥さんがわざとタマじゃないと言い張ってるってことはありませんか」
「いや、それはないです」間宮は妙にきっぱりと言い切った。「あれは本心からタマじゃないと思い込んでますね。絶対嘘をついてはいません」
「そうですか」すごい自信だとマスターは思った。
「なんていうか――判るんですよ、嘘をついたときは。声が違って聞こえるんです」
「あの、ちょっといい?」横から初美が口を挟んだ。「わたし、タマちゃんのこと何度も見てるけど、特に上品とかノーブルとか、そんな感じじゃなかったよ。ごくごく普通の猫で」
「別に血統書つきとかそういう猫じゃありませんからね。一年ほど前、雨の夜に軒下で震えてる野良猫がいたんで、一晩家に入れてやったら、それ以来ちょくちょく顔を出すようになって、それでいつの間にか情が移ったんです――名前だって、冗談半分で適当にタマタマって呼んでいたら、それに馴染んでしまったようで、他の名前で呼んでも返事をしないから、タマでフィックスすることになったんです」
 初めから飼うつもりなら、もっと独創的な名前をつけたのにと悔しがる。
「もしかしたら奥さんは、一所懸命探している間に、タマのイメージをどんどん美化してしまったんじゃないですか。それで本物が見つかっても、そのギャップが埋められないでいるとか」
 初美の説に、間宮は眉をひそめただけで何も答えない。自分の妻が病的だと言われたようで気に入らないのだろう。
 マスターが会話の穂を継ぐ。
「こういうのはどうですか? タマって野良猫だったわけでしょう。だったら、この辺に兄弟がいてもおかしくないですね。それがタマの残した臭いか何かにひかれて入り込んだってことはありませんか。いや、猫のことはあまりよく判らないけれど」
「ああ、それはあるかもしれませんね。さすがマスター」
 間宮は二杯目のジョッキを空にし、三杯目を受け取った。
「でもさ、それって根本的な解決にはなってないような」
「根本的な解決って何だよ、初美ちゃん」
 せっかく褒められて気分が良いところへ水を差され、マスターはややむっとした口調になった。
「だって、間宮さんの奥さんが嫌がっているのは、タマそっくりの猫に居座られていることなんでしょう? だったら、それがタマの兄弟だろうが、赤の他人――他猫だろうが関係ないじゃない」
「あ、そうか」
 マスターはうなずき、間宮も顔をしかめつつ同意した。
「あの、お節介かもしれないけどさ。こういうことって長く引っ張るほどこじれてろくな結果にならないのよね。だから、今ここで対策を練って、今晩一気に片をつけた方がいいと思う」
「初美ちゃん仕事はいいの?」
「お隣さんが困ってるんだから放っとけないわよ」そう言いつつ初美の目はらんらんと輝き、それこそ猫の瞳のようである。「要するに、本物のタマが戻ってくれば全て解決なのよね」
 どうせ他に客もいないので、マスターもつきあうことにした。
「でも、現に本物が帰ってきてるかもしれないのに、奥さんはその猫をタマとは認めないんでしょう」
「その猫を追い出したら、もう二度と戻ってこないかもしれないわね。それで後になって奥さんが『やっぱりあれはタマだった』って言い出したら――」
「最悪だな」間宮は頭を抱えた。
「ということは、とりあえず今いる猫はキープしておく必要があるわけね」
「キープって――」猫はボトルじゃないぞとマスターは口にしかけて、いや男のことを言っているのかもしれないと思いなおす。
 間宮がおずおずと異議を唱えた。
「もし、そいつがタマの偽者だったら、そいつがうちにいる限り、本物のタマは帰ってこないんじゃありませんか。自分の居場所を奪われたと思って。多分あいつ――って、うちの奥さんのことですけど――が引っ掛かってるのもそこだと思うんですよ。下手に違う猫を家に入れたら、もうタマには会えないんじゃないかと」
 猫を飼ったことのないマスターにはぴんと来ない。
「猫ってそんなに淡白なもんなんですか。自分の居場所なら、簡単に明け渡さずに戦うでしょう」
「どうかなあ。タマの場合、明け渡すも何も、その前に自分から出て行ってるわけだからね。もう権利放棄したつもりだったりして」
 初美の言葉に、間宮は溜め息をついた。
「確かに、タマ自身に帰る気がなければ、こっちがなにをしても無意味ですね。でも、だからってあいつに、何をしても無駄だから諦めろとは言えませんよ」
 三人はしばらく額にしわをよせて考え込んだ
「そうだ」マスターと初美が同時に言った。
 レディファーストで初美が先に意見を披露する。
「確か間宮さんの奥さんって、SF好きよね」
「そうらしいですね。ぼくはあまり読まないから良く判らないけど」
「その発想を生かすっていうのはどう? 名づけて『タイムスリップ説』」
 マスターが胡散臭いという顔をあからさまにしてみせた。
「何よ、その顔――とにかく聞いてよ。つまり、今間宮さんの家にいる猫は、本物のタマなんだけど、間宮さんが飼う『前』のタマなのよ。それがもうすぐ、ふらふら散歩でもしているうちにうっかり時間を踏み越えて――タマを初めて見たのはいつ頃?」
「一年くらい前です」
「うっかり時間を踏み越えて一年前の世界へさまよい出てしまい、そこで間宮さんたちと『出会う』わけ。だから今いるタマを大事にしてあげれば、『これから』奥さんのイメージ通りの上品なタマに成長する――そう言って説得するのは、どう?」
「どうって言われても――それじゃ結局タマはもうすぐいなくなることになるから、ややこしいわりに意味ないんじゃないかな」
「すみません。今の話をぼくの口から説明するのは無理っぽいです」
 二人にやんわりと、しかしあっさりと否定されて、初美は腐った。
「それじゃ他にどんな方法があるっていうの」
 マスターが考え考え言う。
「さっき、今いる猫はタマの兄弟かもしれないって話をしたでしょう。その線でいったらどうですか」
「どの線ですか」間宮が気のない調子で尋ねた。
「奥さんにこう言うんです。『この猫はタマではないが、タマの兄弟らしい。こいつを飼っておけば、いつかきっとタマが会いに来るからそれを待とう』と」
「なるほど。今いる猫を囮に使うと」
「囮と言ってはなんですが、まあ似たようなもんです。それで飼っているうちに、奥さんが『このコはタマだ』と思うようになればそれで良し、タマの兄弟だとしたって、奥さんの情が移ればそれも良し。肝心なのは奥さんの心を落ち着かせることですからね。そうでしょう?」
「それならいけそうかな」間宮は腕組みした。
「――あのう」
 突然細い声が入り口の方から聞こえ、三人は一斉に振り向いた。
 いつの間にかドアが開いており、そこに間宮の妻の綾乃が立っていた。足音がしなかったので、誰も気づかなかったのだ。ごてごてと飾りの多い白のブラウスに、やはり白のフレアつきスカートといういでたちは、綾乃の長い黒髪には似合っているものの、夕飯時の主婦の服装には到底見えない。
 綾乃は間宮をみつけて微笑み、小さく手を振った。
「やっぱりここね。パパのところに電話したら、今日は早く帰ったというから、どこで寄り道してるのかと思った」
 間宮の勤め先は綾乃の父親の経営する商事会社なのだ。
「何かあるなら携帯にかければいいじゃないか」
 間宮は不機嫌そうな声で言った。
「ううん、別に何もないの。でも、何だかうちにいたくなくて、だって――」
 にゃあ、と低い鳴き声がした。綾乃はびくっと身をすくめ、おそるおそる背後の階段の方を見やった。地上の路地に通じる階段だ。
「あれがずっとついてくるから」
 マスターが入り口へ歩み寄ろうとすると、階段の上の方で再び鳴き声が聞こえ、次の瞬間、黒い影のようなものが綾乃の足元を走り抜けた。
 間宮が立ち上がった。
「タマ?」
 黒猫は入り口から一メートルほど入ったあたりにすっくと立ち、店内をぐるりと見回すと、間宮に向かって前脚で空を引っ掻くような仕草をした。
「タマだろ?」
「やめてよ」綾乃は自分で自分を抱きしめるような格好で、怯えた目で黒猫を見つめている。「これがタマのはずないでしょう。馬鹿言わないでよ」
 綾乃がこんなきつい声を出すのをマスターは初めて聞いた。
 初美がスツールから降りてしゃがみこみ、猫の鳴きまねをした。
「ミャウ」
 にゃあにゃあと黒猫が答え、初美の差し出した手を舐めた。
「人になれてるね。きっと誰かに飼われてたんだな」独り言のように呟くと、初美は間宮夫妻を交互に見上げ、この猫を連れて帰っても良いかと尋ねた。
「もちろん、だってうちの猫じゃないもの」綾乃が答えた。
「様子をみて、うちに居つくようだったら飼うことにするわ。隣だからそっちにお邪魔することもあるかもしれないけど、邪険にしないでね」
「判りました」
 その返事を聞いて、間宮がほっと息をついた。
 初美は黒猫を抱き上げようとした。猫が半ば自分から初美の腕の中に滑り込むと、綾乃は怖気をふるい、もう帰ると言った。
「孝次さんは?」
 間宮孝次はジョッキを軽く上げた。まだ半分ほど残っている。
「これを空にしたら帰るよ」
 綾乃はうなずくと、誰にともなく素早く一礼すると、逃げるように出て行った。
 ドアが閉まると、間宮はしゃがんでいる初美に頭を下げた。
「すみません、その猫を押しつけたみたいになってしまって」
「いいの。よく見たら結構かわいいし」初美は黒猫の頭を撫でた。「でも奥さんの様子、ちょっと変ね。嫌がるっていうより怯えてる感じ」
「やっぱりそう思いますか」
 初美はしばらく黒猫の顔を見ながら頭を撫でたり鼻をつついたりしていたが、ふと真顔になって言った。
「間宮さん、さっき奥さんが嘘をついたら絶対判るって言ってたでしょ。あれ、本当?」
「はい、そのつもりです」
「それじゃさ、いつか――今日じゃなくて、もっと奥さんが落ち着いてるときに――訊いてみてほしいことがあるんだ」
「なんでしょう」間宮が警戒するような顔つきになった。
「簡単なこと。『タマは死んだんじゃないか』って、それだけ」
「初美ちゃん、それどういうこと?」
 マスターが声をかけた。
「さっきの奥さんの様子を見て思ったんだけど、この猫がタマそっくり、というより、タマにしか見えないことはちゃんと判ってるみたいだった。でもそれと同時に、タマが絶対帰ってこない理由があることも判っていて、二つのことを同時に受け入れられずに混乱してるんじゃないかって気がしたのよ。どんな理由かというと――」
 初美が思わせぶりに言葉を切ったので、マスターが小声で先を続けた。
「タマが、もう死んでしまってるから?」
 初美はうなずいた。
「多分そう。それも奥さんの目の前で。事故だったのか、奥さんが何かしたのかまでは判らないけど。それで奥さんは、タマの死を認めたくないから、あんなに一所懸命に探すふりをしてるんじゃないかと思う。それとも、ふりをしてるんじゃなくて、自分をごまかしてるのかな」
「そう言えば、あいつがこの猫を見る目つき、まるで幽霊でも見ているようだった」
 間宮は手にしたジョッキを口元まで持っていき、しばらくためらっていたが、やがて迷いを振り払うように一気に流し込んだ。
「やっぱりそれ、一度はっきり訊いてみるべきなんでしょうね」
 そのまま黙り込んでいる。綾乃にどう話を切り出すか考えているのだろうか。
 しばらくそっとしておこうと、マスターはカウンターを回って出てくると、初美の隣にしゃがみこんだ。
「初美ちゃん、悪いけど、動物は店には――」
「あ、そうかごめん。それじゃ一旦連れて帰るわ」
 初美が立ち上がりかけたとき、黒猫が前脚を伸ばしてマスターの顔を引っ掻こうとした。マスターは危ういところでかわしたが、その拍子に左目のコンタクトレンズが落ちた。
「あ、ちょっと、ストップ」
 そんな言葉が動物に通じるはずもなく、黒猫は何故かコンタクトレンズをくわえると、ちょうどタイミング良く――或いは悪く――開いたドアの隙間からするりと外へ逃げ出した。
「待って」
 初美が慌ててその後を追い、店を入ろうとしていた二人連れを押しのけて階段を上っていった。
「どうしたの今の」
 押しのけられた一人がマスターに訊きかけて、目を丸くした。
「どうしたのマスター、その格好」
 答えようとしたとき、表の方が再び騒がしくなり、ドアを押し開けるようにして次の客が雪崩れ込んできた。
 それで店は一杯になり、マスターは注文に忙殺されることになった。間宮が帰るまで話をする暇もなく、初美は一向に戻ってこない。とうとう話はそのまま尻切れとんぼで終わってしまった。


  C ベレー帽

 午前一時。
 一人だけ粘っていた客を送りだすと、マスターは帳簿のチェックを始めた。予備のコンタクトレンズは持っていないので、黒ぶちの眼鏡をかけることにする。眼鏡をかけると極端に老けて見えるので嫌なのだが、仕方ない。カクテルなら目をつぶっても作れるが、細かい文字、特に数字が読めなくなってきている。
 目を帳簿にくっつけるようにしていると、ドアが開き、遠慮がちな声がした。
「あの――い、一杯だけ、飲ませてもらえますか」
 マスターは目を上げた
 コウさんが、細くあけたドアの隙間から、骨ばった顔を突き出していた。赤いベレー帽の下から針金のような白髪が数本はみだしている。マスターと目が合うと、おずおずといった調子で頭を下げた。
 あまり久しぶりのことで、しかもいつもとまるで態度が違うので、意表をつかれたマスターは、すぐに返事ができなかった。それを拒絶ととったのか、コウさんはたじろいだように頭を引っ込めかけた。
「あ、もう看板ですか。すみません。いや、もう大分飲んでるんですけど、何だか〆の一杯が欲しくなって――」
「何を言ってるんですか」やっと声が出た。「どうぞどうぞ、入ってください」
 コウさんはうつむき加減で入ってくると、そのままの姿勢でスツールによじのぼり、マスターの差し出すお絞りを受け取った。
「お元気でしたか」
 マスターは一礼したが、お絞りで顔を拭いているコウさんには聞こえなかったようだ。顔を拭き終わると、ようやく顔を上げてマスターの方を向き、
「おお、いい色ですね、そのシャツ」
 と、見当違いのことを言った。
「――ありがとうございます」
「これと同じ色ですね」
 コウさんは自分の被っているベレー帽を指差した。色は赤というより臙脂に近い。
「あれ、その帽子」前の帽子にそっくりですねと言いかけて、マスターは途中で口ごもった。前の帽子のことに触れれば亡くなった奥さんのことを話すことになる。コウさんが喜ぶ話題とは思えない。
 マスターの思案を他所に、コウさんはしみじみとした口調で言った。
「女房がくれたんです。プレゼントですよ」
 何かおかしい。
「――二つ持っていたんですか?」
「何が二つです?」
「だって前の帽子はなくしたって――え?」
「え?」
 マスターはまじまじとコウさんを見つめた。コウさんも見つめ返してくる。
「あの――以前どこかでお会いしましたっけ」
 そう言うコウさんの顔は、かついでいるようには見えない。特に酔っている様子もない。
 まさかぼけて、この店のこともマスターのことも忘れてしまったのか――そんな疑惑がマスターの頭をよぎったが、すぐに否定した。むしろいつもよりしっかりしている。生気に満ちているとでも言えようか。
 それに、仮にコウさんがぼけているとしても、帽子の説明がつかない。
 マスターが言葉を探して固まっていると、ドアの外で猫の鳴き声がした。
「ちょっと失礼」
 ドアを開けると、さっきのタマもどきの黒猫がしゃがんでいた。初美は結局捕まえられなかったのだろう。
 黒猫は首を伸ばして、マスターの足の間から店の中を覗き込んでいる。マスターはコンタクトレンズのことが気になったが、今更探しても無駄だろうと諦めた。そのうち猫は気が済んだのか、くるりと後ろを向き、階段を駆け上がって行った。
 唐突にマスターは先ほどの初美の言葉を思い出していた。
『あの猫は間宮さんが飼う前のタマなのよ。それがもうすぐ、ふらふら散歩でもしているうちにうっかり時間を踏み越えて、一年前の世界へさまよい出てしまい、そこで間宮さんたちと出会うわけ』
 さっきは一笑に伏したが、今はそんなことがあっても良いという気がするのは何故だろう。
「どうかしましたか」
 店の中からコウさんが声をかけてきた。振り返ったマスターは、磨かれたドアに映っている自分自身の姿を見た。
 黒縁眼鏡に派手な赤シャツ。とても自分だとは思えない。
 誰だこの爺さんはと顔をしかめかけたとき、突然ひらめいた。
 今、目の前にいるコウさんは、五年前のコウさんなのだ。まだ、マスターと知り合う前の、この店の常連になる前の。
 『ふらふらさまよううちにうっかり時間を踏み越える』なんて話は、猫よりもコウさんにこそふさわしい。
 マスターはカウンターの後ろに戻ると、大きく息を吸って胸を張った。
「失礼いたしました。何を飲まれますか」
「そうですね。このお店のおすすめは何ですか」
 マスターは少し考えるふりをしたが、答は初めから決まっていた。
「もしスコッチがお好きなら、お客様にぴったりのお酒があります。任せていただけますか」
 コウさんは相好を崩してうなずいた。
 マスターはカウンターの上のボトルを手に取った。明かりにすかすと、ちょうど一杯分残っている。大き目のグラスをコウさんの前に置き、なみなみと注いだ。
「おや、ちょうど最後の一杯ですね」
 いや、最初の一杯かな、と胸の中で呟きながら。


Copyright(c): Uetaka Aoi 著作:蒼井 上鷹

◆「最初の一杯」の感想

*「今月の一番星」は、わたし赤川(編集長)の判断で、今月の最も優れた投稿作を選んで紹介するページです。
*蒼井さんの作品集が 文華別館 に収録されています。

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