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 ――ボタリ……
 生ぬるいしずくの音が耳のそばに凝(こご)り、祐樹は目を覚ました。漆黒の闇。現実の目覚めではない。夢の中なのに目が覚める、そういう感覚だ。
 ――ボタリ……
 寝苦しい。いや重苦しい。シーツに張り付いたみたいに手足が動かない。あの音。あの音に全身を包まれたら、きっと息が出来なくなる。また、あれがやってくる……
 ――ボタリ……
 錆びた鉄の匂いが鼻を突いた。喉の奥が詰まってくる。目を覚ましたい。だれか来てくれないか、電話が鳴らないだろうか。それとも犬が吠えないだろうか。そうすれば目が覚める。今度こそ現実に。
 あの音の正体を知っている。でも思い出したくない……いやだ……思い出したくない……
 圧死するかと思うほどの苦しみの中で、祐樹は押しつぶそうとするモノに抵抗してもがいた。
 すると足元の闇の奥が渦を巻いて、その中心部から、声が響いてきた。高い声、低い声、子供の声、それらが交じり合って捩(よじ)れ、塊になって這い上がってくる。見たくない。見たくないのに見える。聞きたくないのに聞こえる……
 キリキリと頭の中で血が絞られるような感覚が溢れ、それが途切れたとき、祐樹は気絶した。夢の中で。

 焼け付くようなアスファルトから立ち昇る陽炎の彼方から、少年は姿を現した。
 ――あの子だ。
 加賀祥子(しょうこ)は確信し、歩いてくる少年にカメラを向けた。まだ気付かれる距離ではない。ズームアップされたレンズの中で、少年の輪郭は揺らぐ熱気でぼやけ、強烈な日差しに炙(あぶ)られて濃い影を道に落としている。
 ――うん、いいイメージ・カットになりそう
 シャッターに意識を集中した瞬間、少年の目が動いた。そしてその視線は泳ぐことなく、まっすぐにレンズを貫いて祥子を捕らえた。目が合ったのである。
「!」
 慌ててカメラを顔から離したが、改めて見ても少年との距離は遠い。だが気のせいでない。少年は顔を祥子の方に向け、視線を注いでいる。離れているけど、確かに見つめられていると確信できた。
 祥子は、汗が引くような感覚に襲われた。ここを立って、すぐに家に帰ったほうがいいような、予感に似た不吉が突き上げてくる。
 彼女はマンションの入り口近くの植え込みのレンガに座っていた。ちょうど日陰になっていて、照り返しを逃れるには都合が良かったのだった。だがいくら日陰でも寒いということはない。
 少年は視線を外していなかった。歩みを進め近づいてくると、それがいっそうはっきりわかった。
 祥子は目をしばたいて、なるべくさりげなく、視線をそよがせ辺りを見回し、それからまた少年を見直す。少年は確実に歩みを進めている。青い野球帽をかぶり、水泳用具を入れたビニールのバッグを下げ、素足にスポーツ・サンダルを履いていた。
 どこから見ても、いかにも、夏休みの子供。その姿を確かめてから、彼女はカメラとバッグを置いて立ち上がり、少年が近づくのを待った。
「天城祐樹くん?」
 少年の足が止まった。視線は、ひた、と祥子に張り付いている。反応ありだ、祥子は思った。
「柏原、祐樹、です」
 祥子は初めて正面から少年の顔を見た。鼻の頭と頬が日に焼けかけて赤く染まっている。短い髪の毛が肌に付き、汗の筋を作っていた。
「プールの帰り? 暑いよね、アイスでも食べない?」
「……」
「ジュースのほうがいいかな?」
「アイスなら、さっきコンビニで買って食べました。友だちと」
「あ、そうだったの」
「取材の人?」
「え?」
 祥子は突かれたように、ハッとした。
「なんで?」
「カメラ持ってたし、さっき天城って言ったから」
「取材、よく来るの?」
 さりげなく、淀みなくと努力したが、言葉が喉の奥に引っかかった。
「前はよく。でも珍しいです、最近はなかった。こっちに引っ越してからは」
「前はすごかったんだ」
「はい……でも子供に直接聞いていいんですか? 両親に許可とか取るんじゃないですか?」
 乾いた言い方だった。祥子は祐樹をまじまじと見つめた。
「きみ、十一歳だよね?」
「小五」
「アイスなんかで誘っちゃ、失礼だったかもね」
「そんなことないです。食べる前だったら乗ったかも」
「作戦変更だ」
 祥子は軽くため息をついて、呼吸を整えた。
「ちょっときみに話を聞きたいんだけど」
「事件のこと?」
 祐樹の目に僅かに困惑がよぎった。そこに祥子は子供らしさを見た。そう、この作戦のほうが有効だ。子供と見ておだてるより、大人として対等な姿勢を見せるほうが。
「もちろん」
「でも、ぼく、覚えていないんだけど……取材に来ても、ぼくは話してないし」
「今までそう言ってきたね。でもそれ、ウソ入ってるよね?」
 今度は祐樹の目の中に、警戒の色が加わった。慎重に、慎重に。祥子は自分に言い聞かせる。
「ウソじゃないよ……」
「でも、さっき、私が天城祐樹くん? って聞いたら、苗字を言い直したじゃない?」
「よく、そう言う人がいるから……言い直しなさいって、両親も言うから」
「ふうん」
 祥子の声にようやく湿り気が蘇った。自信、かもしれない。
「苗字のこと、両親と話すんだ。じゃ、なんで変わったかも話すよね?」
「……」
「記憶喪失だとか言ってたけど、どうなのかな?」
「ぼくのことを心配して、親がそう言ってくれたんだ……でも、本当に覚えてないよ」
「そうか……じゃ、友だちは知らないの? そのこと」
「しゃべるの? だれかに聞いた?」
 少年の目の中の困惑が、色彩を増した。
「それは、きみ次第」
「ひっかけたんだな……」
 祐樹は初めて視線を落とした。ねらいから外れたように、祥子はほっと息をつく。
「ねぇ、ちゃんと話したいんだけど、ここじゃ暑いから、車に乗らない?」
 落とした視線が再び上がって、祥子を見返した。眉間に深く溝が出来ている。あたりには人影も、通行人も途絶えている。
「どう?」
 祥子はバッグを持ち、祐樹を置き去りにするように歩き出し、すぐ近くの木陰に駐車してあった車に向かった。そしてドアを開けて乗り込むとすぐにエアコンを入れた。
「涼しいよ。乗らない?」
 ドアを開けたまま、祥子が誘った。祐樹はふてくされたような顔を作って、小走りに掛けより、ドアから滑り込んだ。
「ドライブしながら話そう」
 祥子は車を発進させた。
「ここ、きみの家だよね?」
 一戸建ての家の前を通過した時、祥子が言った。祐樹は見もしなかった。
「注文建築?」
 祐樹はその問いには答えなかった。
「どうして、ぼくだってわかった?」
「事件直後はけっこう取材してたからね。きみにも会ってるよ。会ってるっていうか顔を見ただけだけだから、きみは覚えてないだろうけど」
「相談になら、乗るよ」
「え? なに?」
「これって誘拐の一種だろ? マスコミに売るって脅して、親からお金もらいたいの?」
「お金?」
「ぼくの親はずっと子供を守るっていって、取材なんか受けなかった。だからこんな手でぼくからネタを拾おうっていうんだろ? そうでなきゃ、直接お金が欲しいんだ」
「お宅の両親、あ、今のだけど、きみの本当の親の遺産が欲しくてきみを引き取ったってウワサ、あったもんね……」
「やっぱり、脅すんだ。ねぇ本当にマスコミの人? それとも脅し専門?」
 いきなり、祥子が笑い出したので、祐樹はギョッとして黙りこんだ。
「私の家、この先なんだ。ほらあのマンション。ちょっと上がってよ」
「……」
「もちろんいいのよ、逃げ出しても」
 祥子は祐樹の返事を待たず、マンションの半地下に車を止めた。車を降りると、硬い表情のまま、祐樹も降りた。
「この四階よ」
 後ろからついてくるのを確認しながら、祥子は階段を上がった。

「脅し専門とは参ったわね」
 祥子はまだクスクスと笑いを漏らしながら、ドアを開けた。
「きみの家に比べたら、ホント狭いもんだけど、入ってよ」
 玄関から細い廊下が続き、正面にリビングがあった。
「これでもマンションって、一応、いうんだから、笑うでしょ?」
 祥子はベランダのガラス戸を開けた。
「ちょっと待ってね、空気を入れ替えてから、エアコン入れるから」
 祐樹は廊下の終わった辺りに立っていた。その先にフローリングの六畳間があり、ベランダがついていた。
「何か飲む? 暑いでしょ? ええと、コーラとオレンジ・ジュースがあるけど?」
 リビングにつながったキッチンから、祥子は声を掛けた。
「ウーロン茶、あるかな?」
「ウーロン茶?」
「甘いジュースは飲まないんだ。それじゃなかったらローファットのミルク」
「ダイエットしてるみたいね」
「べつに。方針だよ、家の」
 氷の音を響かせて、祥子は氷とウーロン茶を入れたグラスをふたつ、トレーに乗せて運んできた。
「ここ、じかに座ることになってんの。適当に座って。座布団はいらないでしょ?」
 祥子はトレーごとグラスをテーブルに置き、ガラス戸を閉めてエアコンのスイッチを入れた。
 祐樹は室内を見渡していた。
「ワンルーム?」
「むこうに寝室。それだけ」
 低い天井に届くくらいの本棚がある。祐樹はその前に近づいた。書籍と雑誌が並んでいたが、それはテーマ別に並べるのではなく、単純に本のサイズで整頓してあるようだった。床にも雑誌が散らばっていた。
「マスコミっていうのはアタリよ。ジャーナリストってほどじゃないけど、ライターなの。ほら、ここに名前もあるでしょ? 一応、仕事になってるの」
 祥子は『事件現場』という雑誌を一冊手に取り、ページを開いて見せた。祐樹は首を伸ばして覗きこむ。「原始宗教と新興宗教」と書かれたタイトルの下に加賀祥子、と名があり、小さな写真も載せてあった。確かに、本人のようだ。
「さ、とにかく座って」
 肩を押さえられるようにして、祐樹はテーブルの前に座らされた。
「飲めば、ウーロン茶」
「話を聞くよ。条件はなに?」
 祥子が再び笑ったので、祐樹はムッとした表情をした。
「そういう笑い方、キライだな」
「私も、きみのそういうシャベリ、キライだな」
「早く話を済まそうよ」
「いやならついて来なきゃいいのに」
「ケータイ、持ってるからね。何かあったらすぐに家に知らせるよ」
「事件のことで、捕まってますって?」
「何も知らないのに、連れて来られたって言うよ。ぼくは子供だからね」
「どうかなぁ、子供に見えないな」
 祥子はウーロン茶を一口飲んだ。
「飲めば? 君も」
「何が目的なんだよ!」
 精一杯虚勢を張って、声が子供のトーンにならないようにした声だった。祥子は真顔を祐樹に向けた。
「さっきから言ってるでしょ。話を聞きたいだけよ、私は」
「話って、なんの……?」
「事件よ、あのジケン! 他に何があると思ったの? きみが今の学校に転校して間もなく、球技大会でヒーローになったこととか、写生大会の作品を貼り出されたこととか、そんな話を聞いて記事にでもすると思ったわけ? 下校のとき途中までいっしょの、あの茶色っぽい髪の女の子に視線ビシバシだって話が、スキャンダルになるとか?」
 祐樹の体がピシリと固まった。
「調べてるの?」
「ちょっとね。観察程度よ」
「ぼくは小五なんだぞ。そんなことしていいと思ってるのか」
「だから言ったじゃない? 大丈夫よ、子供に見えないよ。最初に声を掛けた時、子供っぽかったら、それなりの話にしようと思ったけど、子供扱いがいやだって顔してたでしょ?」
「アイスなんていうから……」
「違うよ、その前。天城って苗字を聞いた時、何でも知ってるって目をしてたよ」
「ウソだ!」
「それで作戦変更、ちゃんと話を聞こうと思ったわけ。取材行為でね」
「取材なもんか! こんなの!」
「話を聞くだけだもの。すぐ済むでしょ」
「ぼくは何もしゃべらないぞ!」
「知らないんじゃなかったの? 知ってるけど、しゃべらないの?」
「乗せられてるだけなんだ、ぼくは」
 祐樹はバッグの中のポーチから携帯電話を出した。
「ケータイ、かければ?」
「強迫だ。強迫っていうんだろ? こういうの」
「すごい言葉知ってるじゃない」
「ぼくがしゃべらなかったらどうなんだよ」
「そうね、今まで調べたことをまとめてみるかな。知ってる? もうすぐ事件から5年よ。『あの事件を振りかえって』みたいに話題になってさ、けっこう書くチャンスあるんだ」
「じゃ、そうすれば」
「あ、もうひとつ知ってるかな? 事件の裁判、まだ続いてるの。ほら教団の財産よ。あれを被害者に分ける話。君の場合、両親が無くなって財産は君のものだけど、今の両親が管理するってかたちになってるよね。どっからきた財産か……うん、話題性あると思うな」
「そんなことを書くの?」
「だからさ、そんな話掘り返すより、君の体験談のほうがいいでしょ? 上手く書くわ。君が被害者だっていうふうに。そうすれば変な話題から逃げられるかもよ」
「逃げられる……」
 祐樹はウーロン茶のグラスを睨んで考え込んだ。だがグラスを手に取ろうとはしない。
「大きな秘密なんか抱えてると、苦しくなるよ、いまに。子供のころなら、あとで『なんであの時……』って思い出しても、子供の記憶だから曖昧にできるし、子供のしたことだから問題も小さいけど」
 祐樹はじっと携帯の画面を見ている。
「大人になるとそうはいかないよ。ウソも秘密も単純な理由じゃ許されなくなるもの。きみが大人になっても、両親は庇(かば)いきれるのかしら?」
「そのころには、みんな忘れてるよ。ぼくのことなんか」
「でも、きみは覚えてる。きみだけ、ね?」
「ぼくだって、忘れる、そのうち!」
「死んだ人のことも忘れちゃうのかな? あんなにたくさん死んだのに」
「死んだ人……?」
 祐樹はヒヤリとした空気を感じた。冷房が効いてきたかもしれない。
「だって、きみの両親も死んでるでしょ?」
 指が震えないように、祐樹は携帯を持つ手に少し力を入れた。
「忘れちゃったの? ほんとうに? 夢にもみない?」
 ――ボタリ……
 重いしずくの音を聞いたような気がして、思わず祐樹は視線を泳がせ、辺りをうかがった。
「忘れたつもりでも記憶って消せないのよ。パソコンと違ってね、消去できないの。ムリに消してもどこかで浮き上がってきちゃうの。ある日突然、沈んでいたものが海面に出てくるみたいにね」
 頬が冷たくなっていくのが自分でもわかる。だいじょうぶ、今は昼間だ。昼間は夢は見ない。夢の中の夢も……
「だから、話しておいたほうがいいと思うな。すっきりとね」
 祥子がじっと祐樹の反応を確認している。祐樹は手足にも冷えを感じていた。それでいてこめかみは火がついたように熱い。
「寒い? ちょっと弱めようか?」
 祥子はリモコンを手にしてエアコンに向き直った。今のうち。祐樹は形勢を立て直すように、深呼吸する。
「……話すっていっても、あんまり覚えてないんだ……」
 かかって来た! 祥子の胸ははずんだ。しかしがっついてはいけない。さりげなく、落ち着いて……。祥子はさもなんでもなさそうな言い方をしていた。
「もちろん、断片、カケラでもいいの」
「やっぱり記事にするの?」
「あの事件のことは取材もしたし、いろいろ記事も書いたけど、書き捨てみたいなものだったのよね。ラストにちょっとまとまったものを書いておきたくて」
 祥子はすっかり大人に話す口調になっていた。
「事件全体の中の、テーマの一つにはなるわね……なにも話だけでまとめようなんて、思ってないから。実際に書くときには、私の想像みたいなタッチにしてもいいし……どっちにしても参考にってところよ」
「それで、いいんだね?」
 満面の笑みを浮かべて、祥子は頷いた。
「……でも、今、話すの?」
「夏休み、いつから?」
「あさって」
「じゃ、休みになったら、友達のところで勉強するとか言って、時々ここに来てよ」
「でも、休み中は塾も行くんだ。プールも行かなきゃ」
「中学受験するんだって? でも塾は週三日でしょ? 月火水の」
「……」
「それ以外の日でいいのよ、もちろん」
「じゃ、今日は……」
 そそくさと立ち上がろうとすると、祥子はそれを遮った。
「待って、その前に今日はひとつだけ聞きたいな」
「何を……」
「ねぇ、最初に入信しようといったのは、お父さん? それともお母さん?」

「やった! やった! ちょろいもんね、子供なんて」
 祐樹を送り出した祥子は、小躍りしたい気分で、さっそくノート・パソコンを立ち上げた。あの祐樹って子は神経質そうだから、肉声を録音っていうのは難しそうだ、と、会った瞬間から、祥子は考えた。
 ナマで録音できないのは残念ではあるが……まぁ、そのうち、小さい録音機械をどこかに隠してみよう。とにかく話だけでも聞ければ、こうして記録していける。
 パソコンが立ち上がると、いつものように、まず新着メールをチェックする。メルマガ、単発仕事の催促、それから秋元史彦からだった。『事件現場』の編集者である。
 ――企画拝見しました。ちょっとヤバイ進展になりそうだから、もう少し検討しよう。くれぐれも突っ走らないように。また連絡します――
 秋元のメールを一読し、祥子はフッを笑みを漏らした。
 ――慎重に進めています。大丈夫――
 早々に返信メールを書き、返送すると、さっそくワープロソフトに切り替えて、さっきのい祐樹の話を打ち込みはじめた。
 そういえばあの子、家の前を通った時、微妙な反応をしてたっけ。財産のウワサも、収穫になりそう……祥子は回想する。いえいえ、まずは今日の話からだ。子供っぽくない印象だから期待してたけど、けっこう話は上手そうだった……そうそう、入信の話だわ……祥子はできるだけ祐樹の言葉を活かす方向で、文章をまとめる。

「――入信を言い出したのはママだよ。っていうかパパに話したときは、もうママは入信半年目だった――」
 自分の言葉を反芻しているうちに、フツフツと泡立つような苛立ちが、祐樹の胸を支配していた。あの女のマンションを出た時にはそれほどでもなかったのに、自宅に向かって歩いているうちに、気持ちがささくれ立ち、目の前の夕日のただれた赤さに浸っていくような気分になっていった。
「きっかけは、何だったの? 病気か何か?」
「……よく知らないよ……ぼくも小さかったし……」
「両親はケンカしてたんでしょう?」
「……うん、そうだった。それがすごくいやで……そうだ、あの頃は茨城のお婆ちゃんが倒れたんだ。それからパパが単身赴任した。一年くらい。それでママが忙しくて、よくケンカになった」
「なるほどね。その辺の話は以前も取材したわ。ストレスが原因だったって」
「違うんだ、それだけじゃない。いけないのはパパじゃないんだ。ぼくが……」
「どうしたの? きみが?」
 ――あの女!
 祐樹は凶暴な怒りに突き上げられた。
 ――言いたくないのに、いや忘れていたのに、あんな風に聞くから思い出しちゃったんだ! 誰も知らないことなのに!

 小学校に入学した歳の春だった。その頃は郊外のマンションに住んでいた。両親と妹の鈴子。マンションの周りも学校の近くもけっこう緑が残っていて、傍目には教育環境がいい場所のように言われていたが、実際には自然と過去が剥き出しの野放図な土地だった。山肌が見えるような場所や道は、登下校の際には通ってはいけないことになっていた。だが子供は障害物を楽しむように、冒険を探してわざと禁止区域に足を踏み入れた。
 祐樹は友だちと歩き回るうち、稲荷山と呼ばれる丘の木々に隠れた岩場に不思議な洞窟を発見した。そこは通学路から逸れた脇道の奥にある朽ち果てた神社の裏にあった。通学路からはほんの五分程度歩いたところだが、道からは見えない。そして訪れる人もない。
 洞窟は岩をくりぬいたもので、入り口は直径1メートルほど、奥に行くほど広くなり、突き当たりは三畳間ほどのスペースがあった。 子供達はそこを『秘密基地』とし、スリルたっぷりのファンタジーに浸った遊びを繰り広げていた。家からロウソクや懐中電灯をくすねて持ち込み、洞窟内に灯りがともると、彼らはオモチャやマンガ、お菓子を運び込み、学校帰りに何時間も篭もることもあった。
 ある夜、友だちの一人が帰宅しないので、警察を呼んでの騒ぎになった。春とはいえ、うす寒い、雨の夜だった。その友人、太一は町内に住む同級生で、登校下校はたいがい一緒だった。誘拐の可能性もあったので、警察官は四方を捜索すると同時に、行方不明の子供の友人宅を一軒一軒回って情報を集めた。
「きみは、今日はあの子と遊ばなかったの?」
 玄関先に立った警察官が、顔を覗き込んで聞いたので、祐樹は恐くなって、首を振りつづけた。
「祐樹、ちゃんと言いなさい」
 母は祐樹の背後から、まるで祐樹が全てを知ってでもいるかのような口調で言った。祐樹の頭と口はますます硬直した。
「今日は一緒じゃなかったよ」
「いつもは、よく一緒に遊ぶんだろう? 学校帰りは一緒じゃなかった?」
「学校を出たときは一緒だった」
「何処まで、一緒に来たの? 君達、家は近いでしょ?」
「稲荷山……」
「稲荷山?」
「通学路の途中にある山です。といっても小高い丘みたいな場所ですけど……」
 母が説明し、祐樹の肩をつかんだ。
「そんなところへ行ったの?」
「ぼくは行ってないよ!」
 祐樹は母の手を振り払うように、身体を揺すって叫んだ。
「どこかへ行くって言ってた?」
 重ねて警官が聞く。
「……」
「何か、知ってるんだね?」
「『秘密基地』……だよ……でも、ぼくは行かないよ! 行ってないよ! 雨の日は行かないんだ!」

 買い物用のカゴバッグを下げ家路を急いでいた柏原直美は、自宅の前まで来て、反対側から息子が歩いてくるのを見つけた。
 が、声を掛けようとして、彼女はハッとためらった。人違いだったかと思うほど、息子の顔が変わって見えたのである。血を浴びたように頬が真っ赤だった。それが一瞬、彼女を戦慄させた。
「お母さん」
 近づいてきた祐樹に声をかけられ、直美は改めて息子を見た。
「祐樹ちゃん、今帰り?」
 顔の赤みは夕日のせいだったらしい。息子はいつもの顔だ。
「プールだったんでしょ? 遅かったのね」
 門を開け、カギを出しながら直美は言った。
「うん、友達の家に行ってたんだ」
「また、トモちゃんのところ?」
「ううん。今度、塾へ一緒に行く子だよ。プールで話してたら、同じ塾だったわかったんだ」
 架空の友だちだった。
「そう」
 直美は玄関を開け、ああ蒸すわね、と言いながら、真っ先にエアコンに向かった。
「二階のエアコンも付けていいわよ」
 直美は風を浴びてうっとりしていた。
「うん」
「今日は豚肉の冷シャブよ。OK?」
「もちろんだよ」
「ビタミンB、たっぷりよ」
 祐樹は階段を上がっていった。
「あとでヘルプお願いね!」
 階下で声がする。
「ラジャー!」
 キッチンに声を投げて、祐樹は自分の部屋に入った。水泳パンツを選択しなくちゃ――そう、思いながら、のろのろとビニール・バッグを開けながら、祐樹の頭の中は過去へと戻っていた。

「ホントに大騒ぎになったのは、あのあとだったんだ――」
 夜中だった。祐樹の『秘密基地へ行った』のひと言で捜索範囲は広げられ、やがて未明、洞窟の中の横穴から、子供は発見された。子供は衰弱していた。病院に運ばれたが、治療の甲斐もなく、三日後に亡くなった。
 事件は、騒動となって街を包み込んだ。秘密基地の洞窟は、住民も忘れていた防空壕だった。
 祐樹は高熱を出し、一週間うなされつづけた。ママの質問にうっかり答えたのは、熱のせいだったと、祐樹は今でも思う。
「知ってることがあったら、ママに話して? ママ、絶対怒らないからね」
 祐樹は頷いて言った。
 ――『秘密基地』のトンネルには横に穴があったんだ。ずっと前発見して、いつか探検しようってみんなで言ってた。この前、太一君とこっそり横穴に入ったんだ。そこにはゴザみたいなのが敷いてあった。二人の隠れ家にしようって決めてた――
 ママは、頷いた。
 ――あの日、夕方遊びに行って、帰りにあの子がぼくが貸した自動車模型を忘れたっていうんだ。取りに戻ったら、模型が水溜りに落ちてた――ケンカになっちゃって、あの子を横穴に押し込めたんだ――あそこ扉みたいなのがついてたんだよ――
 ママの顔は見る見る青ざめた。ママはきっとぼくが誘拐犯の顔を見たとか、それが誰なのかを知っているとか、そういう話が出てくると思ったらしい。
 ママは表情を変えまいと、必至で耐えている。それを見て、祐樹は慌てて話を付け加えた。
 ――でも、ぼく、すぐに開けたんだよ、ホントだよ。でもあの子、秘密基地の前に来ても、ずっと泣いてたんだ。だからぼく、先に帰った。あの子は出られたんだよ。あとは知らないよ、ホントだよ――
 ママは紙のように白くなった顔で、しっかりと頷いた……確かに約束どおり、怒らなかった。

「ママがかわいそう、か。上手いこというわね」
 あの女! そんなことを言った!
「祐樹ちゃん! 宿題なの?」
 キッチンからの声が、異様に遠くに聞こえた。
「違うよ! 水着の洗濯、忘れてたんだ!」
 祐樹は答えながら、ビニール・バッグごとつかんで、部屋を出て行った。
 あの、郊外のマンション。あの部屋に占い師やセールスのような人が出入りするようになったのは、トンネルで友だちが死んで、しばらくしてからだった。
 母親の目に、うつろな、それでいて奇妙に鋭い光が宿っていったのはこの頃からだった。祐樹は、その目に怯えていた。 (つづく


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵

◆ 「陽に伸びる影・第1回」の感想

*石井久恵さんの作品集が、文華別館 に収録されています。
*タイトルバックに「ゆん Photo Gallery 」の素材を使用させていただきました。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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