石井久恵 作品集表紙に戻る

「ウソばっかつくんじゃないよ! このドロボウ猫が!」
 ドスの利いた怒鳴り声が、二階のあたしの部屋まで聞こえてきた。ドアもちゃんと閉まってるのに、全部筒抜け。すごい声量だ。
「ごまかしたって、全部バレてるんだからね!」
 あたしは足音を忍ばせて立ち上がり、CDをかける。音量はちょっとずつ大きくしなくちゃ。あんなもの、聞きたくないよ。あれ、母親がオヤジの愛人に電話してんの。また始まったみたい。もう4回? 5回目かな。あたしが知ってるだけだから、もっとかけてるかもしれないけどね。でもなんでだか、あたしがいるときにばっか、かけてる気がする。むかついてるのはわかるけど、どうせだったらオヤジの目の前でかければいいと思わない? でも絶対しないんだ。変なの。あたしに聞かせようとしてるとしか思えないけど……まさかね。
 あ、でも最初はいたわ、オヤジ。夜中にいきなり思い立ったみたいに電話し始めたんだもん。バターンってドア開けて部屋から出てきてさ、ドカドカ階段下りて、ガンガンかけてた。夜中の2時だよ?! 寝たバッカだけどさ、すぐ目が覚めちゃったよ。みんな起きろ! って言わんばかりだもんね。でも相手がぜんぜん電話に出なかったみたいでさ、コールすると出るんだけど、切れちゃうかんじ。で、母親ってばますますイカって、朝までず〜っとかけてた。
 最初は何してんだろ? って思ってた。雰囲気的には、ドラマの中の不倫がバレたシチュエーションぽかったけど。「どうしたの?」って聞いて欲しかったのかもね。でもあたし、そんな気になれなかった。相談とか話とかしたいんなら、ちゃんと言えばいいじゃん。雰囲気でわからせようって、なんか遠まわしだよ。
 オヤジ、絶対気がついてたよ。でも寝たふりしてた。止めにも入んないの。サイッテーだよ。ま、あたしも、あんときは寝たふりしてたけどね。でさ、朝になって、ヤッバイだろうなーって思いながら下に降りた。朝から修羅場確実だと思ったんだ。ところがぜんぜん平和。しらーん顔してんの。オヤジも「電話してたか」とも聞かないしさ、母親も「あんたの愛人に電話した」とも言わないんだよ。そんでオヤジは、母親の作った弁当持って、ご出勤。いつも通り。なにこれ?って、あたし、吐きそうになった。
 耳をすましてみた。まだ話してるみたい。もうちょっとボリューム上げておこう。
 しかし長いなあ、よく話すことあるよなあ。相手も、よく大人しく、話を聞いてやってるよ。逆らうと逆上するから、付き合ってんのかもしんない。ただ、ハイハイって聞いてるだけなんだろうな。さっきも逆上してたもん。うちの母親ってキレるとこええもん。極道の妻ってかんじじゃないよ、なんか下品で、言葉がキタナイの。放送禁止用語、ビシバシ。耳腐るよ。あいつの親、どんなんだよ。あたしの爺さん婆さんだけどさ。
 それにしても、バレてからもう2年半だよ? 浮気って3年で時効だって聞いたけど、ひょっとして時効前になんかしようってか? ああ、でもそれ、ないよなあ。離婚も裁判も慰謝料もあり得ないって。だってこの2年の間、家ん中暴風雨だったけど、一度も離婚届が登場しないんだよ?
 口では離婚・離婚っていっても、母親は一度も市役所へ行かないんだ。生活に困りそうだからかな……専業主婦だもんなあ。なんか情けないよな。まあ、あたしも今、電話会社のオペレーターの、しかもバイトだから偉そうなこといえないけど。一応、美容師の免許取ったんだけど、ここら辺はいい店なくて……メイクだってできんだよ。
 でも、だったらなんで、何度も電話するんだろ? わかんないな……。
 思い出すと脳みそ焼けそうな気がすんだけどさ、母親と愛人が始めて電話で話したのって、あたしの目の前だったんだよね。あの頃、まだあたしは学生で、専門行ってて、冬休みだった。ココアでも飲もうかと思って、キッチンに行って、カップを持ったとたん、電話する声が聞こえてきたんだ。正確に言うと、響いてきた。
「なんで電話、出ないんだよ!!」
 第一声からこれだよ。出ないのよ、じゃないの〈だよ〉。ヤバイなあと思ったけど、逃げ出すのも変だから、何気にココア入れてた。電話は廊下にあって、キッチンの中にいると見えない。だけど気配で、あたしがいるってわかると思って。ところが変化なし、キッチンの方を覗きもしないで、電話続行。
「夏に海行っただろう! ホテルの領収書、あるんだかんね! あんたの住所も勤め先もぜんぶバレてんだ。図々しく年賀状なんかよこしやがって! ズタズタにしてやったよ、当然だろう!」
 うわぁ! なにこのベタな会話?1 って、ぞっとしちゃったよ。オヤジが単身赴任先で不倫したんだ、大変、家が壊れちゃう、なんて思わなかった。なんか恥ずかしくなった。
「あんなポンコツ亭主、くれてやらあ! やるっていってんだよ! 熨斗(のし)つけてやるよ!」
 もう絶対、あたしが聞いてるって、気がつかないんだと思った。娘には普通、聞かせないよね? この演出。なんだろ、ここであたしは廊下へ飛び出していって、
「やめてお母さん、そんな言い方しないで」
 とか叫んで、泣けばいいのかな? それとも、受話器をひったくって、一緒になって怒るべき? 
「お母さんかわいそう」
 とか言って?
「人の家庭を壊しておいて、ただで済むと思ってんの!」
 出た、極め付き。決めゼリフ。でもさあ、家って昨日今日、壊れたんだっけ? 家があって、一緒には住んでるけど、夫婦完全家庭内別居じゃん。寝室は十年も別。会話なし。
「あんたなんか、都合のいい女なんだよ、かわいそうにねえ、ドラマであったね『都合のいい女』って、あれと同じだよ」
 ああ、聞いてらんない。あったよあった、そんなドラマ。ふるい。でもあれって、最終的に都合がいいのってどんな女なのってさ、友達とかでは話題になったんだ。こういうとき使う? ダサくて照れちゃいそうだよ。
「……ふん、でも今回、一番かわいそうなのは、あたしなんだ。あんたも、もてあそばれてかわいそうかもしれないけど、あたしが一番かわいそうなんだから。あたしの勝ちだね」
 か・勝ち負けか? あたしは本当に聞いちゃいらんなくなって、カップを持ったまま、抜き足差し足でキッチンを出て、気配を消して部屋に戻った。
 床にじかに座って、あたしは考えたよ。こういう場合、同情しなくちゃいけない。女なんだから、妻の立場がこんなふうになったら、我が身に置き換えて、一緒に哀しんだり怒ったりしなくちゃいけないって。母親なんだから。生んで育ててくれたんだから。
 でもなんでだか思い出す。あたしが高校生になったころから、どういうわけか風呂上りのタイミングを見計らって風呂場近くを通りかかって、どうでもいい用事でいきなりドアをあけるとか、で、「やだ、なんで来るの?」って文句言ったら、「あんたって、まだ使ってもいないのに、胸垂れてんのね」って捨てゼリフみたいに言われたこととか、「間違えちゃった」とか言いながら、開封した手紙をニヤニヤしながら差し出したこととか、一緒に買い物に行くと、3回に1回は「1万円しかないわ」とか言ってあたしに出させて、いつも忘れることとか、中学生のとき、友達と交換でつけてた日記が、なんか読まれてる気がして、頭にきて、わざと母親の悪口書いたこととか、家庭訪問や三者面談のとき、なんでか3つ年下の弟の話ばっかしするとか、「スポーティなファッションが似合う」って言って、ワンピなんか絶対に買ってくれなかったこととか、美容院から帰ってくると、まず、クスッって笑うこととか、もう走馬灯が止まんない。
 一番のトラウマは、小学生のときのことだ。弟はまだ小さかった。あるとき、オヤジと母親が大喧嘩をして――別に珍しくもなかったけど、そのときはすごく激しかった――母親が家出したことだ。あたしは小さかったから、両親は何も覚えていないと思っているらしいが、しっかり覚えている。弟は熱があった。で、病院に行こうとして、母親がオヤジにお金くれって言ったのが始まりだった。その頃は、オヤジは給料を全額、母親に渡して、お小遣いをもらっていたらしい。だから、オヤジが、
「金はあるだろう?」
 って言ったんだ。そしたら、
「こんなことになるとは思わなかったから、余分なお金はない」
 って言った。かなり堂々と。オヤジは、
「今、なくても、貯金を使え」
 って言った。そして発覚したんだ。母親は、オヤジから渡された給料を、毎月、全額使ってたってこと。貯蓄ゼロだよ? オヤジは頭が真っ白になった――顔は真っ赤――だけど、子供だって真っ白になったよ。お金ないんだ! 家って貧乏なんだ! って思った。それからはもう大気圏突入。毎月何に使ったんだ! あたしだってしたいことがある! ってなって、で、何に使ってたかって問い詰めたら、パチンコだった。母親は実家に帰って、2週間くらい帰らなかった。確かオヤジが迎えにいったんだった。あれ以来、あたしはパチンコが趣味だっていう奴は、男も女も大嫌いになった。母親は、まだこっそり、パチンコをしてる。大蔵省はオヤジだけどね。
 その時、ドスンドスンと階段を上がる足音が聞こえてきた。電話が終わったらしい。反射的に時計を見た。1時間は楽に過ぎてた。あたしが、雑誌を引っ張り寄せて開くのと、ドアが開くのが同時だった。ノックという常識は、母親の辞書には無い。
「あら、あんた、いたんじゃない」
 視界の中に、ドア一杯に立ちふさがってる母親がいた。
「静かだから、いないかと思っちゃった」
「今日、バイト休み。CD、聴いてた」
「あら? 何読んでんの?」
 覗くふりをしながら、部屋に入ってくる。ゴムベルトのスカートのウエストが視界を横切って、ベッドに腰掛けた。だめだ、こうなっちゃ、なかなか出て行かない。
「もう、やんなちゃう、まだ電話、かかってきてさあ」
 ウソだ。あたしがずっとここにいたと思って、こんなこと言ってる。もしかしたら、電話の話を聞いていなかったと思ってんじゃなく、聞かせようと思って上手くいかなかったから、報告に来たのかもしれない。
「ええ? 子機、鳴らなかったよ」
 子機は二階に一台ある。
「そうお? CD聞いてたから気がつかなかったんじゃない?」
 母親は部屋の中をジロジロ見回している。何いってんだか。聞かずに済ませたいけど、そうはいかないんだろうなあ……。毎回、こうやって、電話の後は話しにくるんだ。で、まず必ず言う、
「また電話、かかってきてさあ」
「嫌な電話だったの? しつこいセールス?」
「違うよ、あの女からよお」
 ああやだ、見せたいくらいだよ、こういうときの顔、なんかうれしそうでさ。
「だって、あれは単身赴任のときのことで、もう、こっちに帰ってきたんだから、別れたんでしょ?」
「そうかなあ、あの女もそう言ってだけど、だって3年以上も付き合ってたんだよ? 簡単にはいかないでしょ」
「だって、どうやって逢うのよ」
 オヤジの不倫は東京でのことだ。ここはオヤジの実家がある。
「新幹線乗んなきゃ、逢えないじゃん」
「やるんじゃない? それくらいは」
「でもさ、最近、オヤジ、出張もないし、朝帰りもしてないよ」
「残業とか、付き合いとかいったってわかるもんか。あの女がこっちに出てくれば、それから、どっかホテルでも行けば、2時間は逢えるじゃない」
 ああもう、そこまで言う? だから下品だっていうんだよ。あたしは顔をしかめた。でも母親は、オヤジの不倫疑惑に対して、顔をしかめたと思ったらしい。それにしても、2時間逢うために、新幹線乗るかね? あたしなら……わかんないな。
「長距離恋愛だと、お金だって大変だよ。新幹線代だけでも。その相手の人、働いてんの?」
「OL。まだ独身らしいよ。かわいそうにねえ、婚期逃したんだよ、きっと」
 ケッと、変な笑い方を、母親がした。まだ、勝ちだって考えてるらしい。勝ちを確認したくて、電話するんだろうか?
「新幹線代は自分で払うのかな」
「どうかねえ、『お金はもらってません』ってえばってたけど、どうだか。お手当てをもらってなくったって、飲み食いする金は、出させてたんだよ、きっと。旅行なんかいつも行ってたみたいだし。ホテル代だって払わせてたし。ほら、領収書、あったでしょ? ちゃんと証拠つかんでんだから」
 また、蒸し返しはじめた。2万回くらい聞いた、その話。
「その領収書って、どこにあったの?」
「財布の中よ、お父さんの」
「見たの? 財布の中」
 あたしは開封されていた手紙を思い出す。
「その前から怪しかったんだよ。どっかの居酒屋のレシートもあったしね。ちゃんと2名様って書いてあってさ、笑っちゃうよ」
 笑うのか?!
「見てみる? 証拠は全部とってあんの。海辺のリゾートなんだよ、調べたらプール付きでさ、似合わないよね、あのオヤジに」
 母親は立ち上がろうとしかけた。
「いいよ、見たくもないよ、そんなの」
「そお?」
 残念そうに、ベッドに座りなおす。まだ、喋り足りないのだ。
 あたしは、オヤジを海辺のプール付きのホテルの中に置いてみる。確かにカッコよくはない。そこへ独身のOL――確か年齢は30代半ばとか聞いた――を、並べてみる。似合わない、っていうか想像できない。でもなんでだろ? 不潔、とか裏切り者、なんて思えないんだ。あたしだってもう子供じゃない。恋愛が魔法みたいなもんだってことはわかってる。魔法にかかった2人だけにしかわからない世界ってあるもんだよ。他人が見て、いくらみっともなくてもさ。
「ばっかみたいだよね、似合いもしないのに、リゾートなんか行って、夢中になっちゃってさ、そのおかげで、お母さんはパートに出なくちゃなんなかったのに」
「そのおかげで?」
 あたしは思わず繰り返した。
「そうよお、だって生活費削られたんだもん。お前は無駄遣いが多すぎる、なんていってさ、遊ぶ金欲しさで働かせて」
 それはほんの3ヶ月くらいのパートだった。近くの温泉街の旅館の中居。布団の上げ下げと掃除が主な仕事だったと聞いた。確かに、旦那が女連れでリゾートしてるときに、旅館で中居してるのは切なかろう。それはわかる、でも……。
「あれだけは許せないんだ。女房に生活費稼がせて、自分は遊んで……!」
 母親は虚空を睨む。でも……でもそれって、またウソあるじゃん。不倫発覚のちょっと前の夏の初め頃の、あの生活費削減事件、あたしがぜんぜん知らないと思ってんのかな。小さいときのあの喧嘩のときみたいに、眼の前で目撃したわけじゃないけど、聞いてたんだよ、この部屋で。聞こえてたんだ。なんたって、2人とも声、でかいから。
 もとはといえば、あんたが変なことしたからじゃなかったっけ? お母さん。
 あのときからさらに3ヶ月くらい前、弟がいきなり大学を止めたんだ。5校も受けて、やっとひっかかった大学だったのに、行ってみたら合わない、自分の道を探す、とかなんとか言って、自主退学した。で、寮にいたんだけど、そこを出て、バイトしてアパート探したらしかった。あたしは行ったことないけどね。母親は、それをオヤジに報告しなかった。話さないの? って聞いたら、弟が次の道を見つけるまで黙ってるって言った。怒られるのがかわいそうだからって。そんときはさ、あたしも一理あると思っちゃったよ。入学金とか、独り暮らしの費用とか、けっこう出してたもん。オヤジ、怒るよね。
 ところがさ、大学辞めちゃったから、成績の通知も来ないし、夏休みはどうするって話もないから、オヤジが弟に聞きだして、で、バレちゃった。もう大変だよ。東京から帰ってきて、オヤジ爆裂。でももう一つ爆裂の理由があったんだ。母親は、オヤジに息子が学校辞めたこと黙ってたけど、仕送りのお金をもらい続けてたんだ……。
「何に使ったんだ!」
 オヤジのセリフ、昔のセリフと重なって、トラウマ穿り返された気分だった。
「その金を返せ! お前が働け!」
 そうも言った。昔のときも、そう言ったかな? それは覚えていない。でも母親は、あんときはパートに出なかったな。今度は言い訳できなかったんだ。だから、ホントに生活費が足らなくて、つい弟の学費に手を出したんなら、そういえばよかった。でも、黙ってパートに出た。マジでヤバかったんだって思うよ。
「そりゃあ、自分が働いてるとき、旦那が遊んでたら、腹立つかもしんないけどさ、ホントに生活費、足らなかったの?」
 あたしはさりげなく聞いてみたよ。オヤジは生活費と学費をまとめて母親に送ってた。そこから分けて振り込むはずの弟のお金を、着服してたんだ。
「生活費なんて、いっつもギリギリだよ。あんただって結婚すればわかるよ。単身赴任すれば、二重生活だかんね。なのに亭主には浮気されてさあ、もう、お母さんの人生、メチャクチャだよ」
 なんだか頭がコンランしてない? 話し聞いてると、旦那の浮気が発覚して、それで頭にきて息子の学費に手を出したみたいに聞こえるよ。
「今日は、その話、あの女にしてやったんだ」
 クックツと笑いを漏らしながら、母親が言う。
「ええっ?! 生活費の話を?」
「当然でしょ、知っておいてもらいたいよ、あんたのせいで、家族がどんな苦しい思いをしたかって」
「それで、何か言ってた?」
「すいませんでした、とか言ってたよ、ふん、謝ってすむかい」
 なんだかめまいがする。
「あんたのせいで、息子は大学を辞めたんですって言ってやったよ」
 母親はまた、笑っている。
「だいたいねえ、なんて言われたか知らないけど、中年男の甘い言葉に騙されて何年も付き合うなんて、バカな女だよ。そういえば、『また会いましょう』とか何とか、書いてある葉書があったなあ、だから、誘ったのはお前だろうっていってやったんだ」
 母親に言いたい放題言われて、電話も向こうで恐縮している女の姿が見える気がする。1時間もウソとホントをまぜこぜた話を、どんなふうに聞いただろう。全部信じたんだろうか。
「あたしが出て行ったあと、2人の子供の母親になれんのかって聞いてやったよ。はは、困ってたみたいだったね。軽い気持ちで付き合ったんだろ、どうせ」
 いらねえよ、母親なんか、1人いればたくさんだ。
 あたしは、いかにも忘れてた、というふうに、ベッドの枕元の時計を見た。
「あのさあ、あたし、これから友達に会うんだったんだ」
「ええ? 何よ、出かけんの?」
「うん」
「どこで会うの」
「高速の方にできた、サンライズ・シティ」
 新しいショッピングモールだ。
「一緒に行こうかな」
「やめてよ、友達と会うんだよ?」
「一緒には歩かないよ、行くだけ。別々に買い物すればいいでしょ」
 あたしは聞かないふりをして、バッグに携帯を放り込み、部屋を出た。これから友達を呼び出さなくちゃいけない。できれば母親を部屋から追い出してから出かけたかったが、それだと、なにか交換条件が必要になりそうだった。
「夕飯はどうすんの?」
 階段の上から声が降ってくる。
「いらない」
 言い置いて玄関を出た。今夜はオヤジと2人で夕飯になるだろう。今日の電話のことは、絶対に食卓の話題にしない。会話の無い、無言の食卓。母親は友達も少ない。あたしのまねをして携帯を買ったけど、いちどもかかってきたのを見たことがない。
 亭主の元愛人にグチを聞かせる女――哀れだ、哀れな寂しい女なのだ――呪文のように繰り返しながら、あたしは自転車をこいだ。だが憐れみの心は、わきあがるそばからどす黒い思いに塗り潰されていった。
 それから一ヵ月後の休みの日、母親は朝からなんだかソワソワしていた。イライラしているようにも見える。また、あの電話をかけるかもしれない、そう思ったあたしは、出かけるしたくを始めた。部屋のドアを開けると、階下から話し声がした。一方的な会話。やっぱ、あの電話だ。いったんドアを閉めて、考える。どうしようか、話が終わると、またきっと部屋に来るだろう。やなんだよね、作り話聞かされんの。どうやったって、同情なんかできないって。聞けば聞くほど、違う方向に同情しそう。
 今までの様子だと、話し始めると1時間くらいかかるから、あともう少ししたら、会話もピークになるだろう、そのころ出かけよう。
 例によってCDをかけ、3曲くらい聴いたあとで、部屋を出た。
「あれ?」
 母親の声がしない。電話は終わったのか? キッチンを覗き込んでいると、奥の和室から、母親が出来てきた。
「あんた、家にいる?」
「出かけようと思ったけど……」
「あそ、あたし、ちょっと出てくるわ」
「うん、いいよ」
 あたしは後姿を見送った。ちょっと、っていったときは、たいがいパチンコだ。いつものように、電話してたんじゃなかったのかな?
 あたしは母親が門を出たのを確認してから廊下の電話の前まで行った。着信履歴を見てみる。市内の局番の番号。これは弟の同級生じゃなかったかな。次は、これは親戚だ。さらにその前はフリーダイヤル。今日はかかってきた記録はない。やっぱり、と確信しながら、今度はリダイヤルを押してみる。03のナンバー。これたぶん、いまかけていた……。あたしはいったんリセットした。そして10分後、今度は受話器をとってからリダイヤルを押した……。
「ただいま」
 母親が戻ったのは、夕暮れ時だった。スーパーの袋を3つも下げている。そのうち一つは景品だろう。だけどそのことは、絶対あたしには言わない。
「おかえり」
「出かけなかったの?」
 母親はテーブルに、スーパーの出来合いの料理を並べる。皿に盛り直す、ということもしないで、蓋をとるだけ。これが母親流〈ごちそう〉。前に、オヤジにパックのまま刺身を出して怒鳴られて、それからしばらくは皿に並べていたけど、最近はまた止めてしまっていた。皿を洗うのはあたしだとかなんとかグチってた。洗えよ、皿くらい。
「昼間、電話があったよ」
 いきなり言ってみた。ホントはあたしがかけたんだけどね。
「え? どこから?」
「東京から」
 母親の手が止まる。
「その前に、電話したんだって? でもあの人、出かける前だったから、あとでかけますっていったんだってね」
 視線はテーブルの上に注がれて制止したままだ。
「……夜にかけるって、いってたのに……」
 搾り出すように、ボソッって言った。こんなにビクつくのは意外だ。
「うん、だけど、夜はいないって、自分で、言ったんでしょ? またかけるって、断ったんだって?」
「……」
「夜、いるじゃん、いつも」
「何か話したのか、あの女と」
「話したよ」
「なに、話した?」
「それよかさあ、なんでこっちから電話するわけ?」
「してないよ、あの女がウソつきなんだ」
「ウソついてんの、自分じゃん。調べてみたけど、着信履歴に東京からの番号、いっこもなかったよ」
「着信履歴? それは携帯だろ?」
「最近の電話は、家のでも見れるんだよ」
 母親は驚いた顔で口をあけていた。ホントに知らなかったらしい。
「まだ、裏切ってて、会ってるかもしれないんだよ」
「そんなことあり得ないよ。会ってないって言ってたもん」
「お母さんより、あの女を信じんの?!」
 いきなり逆切れた。
「そんな話じゃないよ、記録がそうなっているってことでしょ」
「なに、話したんだよ、あの女と! あんたまであたしを裏切んの?」
「違うでしょ! あたしが聞いてんのは、なんで自分から電話してんのに、向こうからかかったみたいなこといつも言うのか、不思議なんだよ」
「お母さんが悪いっての?」
 ここで今度はあたしがキレた。
「そうじゃないよ! 会ってるかもしれないって疑うんなら、夜に電話してもらえばよかったじゃん! オヤジ帰ってきた頃にさ。そうすりゃ3人で話し合えるでしょ? だいたい、なんでいつも、オヤジがいないときに向こうへ電話してんの?!」
「あたしが被害者なんだよ!」
「だからってさ、それじゃストーカーじゃん。あんなに昼間かけてさ。向こうがよくわかってる人だから、何にも言わないけど、無言電話とかやりすぎると、通報されるよ!」
「被害者はあたしなんだよ! なんであたしが通報されんの?!」
「いっくら被害者だっつってもね、慰謝料よこせとか、相手の勤め先で言いふらすとか、あんまり言うと、脅迫ってことになんだよ。ネットとかでも書いてあった。相手の生活とか生命とか仕事に直接影響するようなことを言うと、脅迫になるって。それにさ、OLじゃないじゃん、家で翻訳してるんだってね」
 だしぬけに、母親はテーブルの上のものを、全部なぎ倒して床に落とした。
「不倫されたんだよ?! 文句言って何が悪いんだよ! 慰謝料もらって何が悪いの?!」
「だったら! ちゃんと離婚調停すりゃよかったじゃんか!」
「あたしに恥かけっての?!」
 その瞬間、ライトが当たったみたいに、あたしにはいろんなことが見えた。そうだ、離婚裁判なんかしたら、全部ばれちゃうよな。妻の権利なんか、いくら保護する法律ができたって無駄だ。不倫されて、本気で告訴する女は10人中1人くらいなんだ。普通の主婦なら、裁判って聞いただけで萎えるだろう。不倫が法律違反なら、いっそのこと逮捕するくらいじゃないと、防げないね。
「あんた、わかってくれてると思ったよ! 話したじゃないか! あたしはねえ、亭主の不倫の金のために、パートまでやったんだよ!」
 あたしはため息が出た。そしてついでに、すごく残酷な言葉が口からすべり出た。
「それもねえ、さっき聞いたよ、電話で。知ってたよ、彼女。オヤジ、彼女に、女房がなんでパートに出ることになったか、話してたんだよ。それからさあ、昔の、ほら、給料全部使ってた話、あれもバレてたよ。全部バレてて、それでも電話に出て、ちゃんと話きいてくれてたんだよ!」
「おまえ! 娘じゃないか! 娘は母親の味方して当然だろ!」
「味方したいけどさ! 無理があるんだよ!」
 母親はテーブルクロスのビニールを掴んで、力任せに引っ張った。床に醤油やら爪楊枝やらがこぼれて散らばって、さっき落ちた惣菜とかに重なる。あたしは反射的に、5センチくらい、後ずさった。
「ちょっと、やめてよ!」
「あたしは何にも悪くないんだよ! 悪いのはバカ亭主とあの女なんだ!」
 もうテーブルの上にはなにもない。今度はテーブルごとひっくり返すんじゃないかって、あたしは内心ビビってた。
「だからさ、変な電話なんかしないで、ちゃんと話し合って、きちんと解決すればいいじゃん。離婚するならしてさ、もらうもんもらって、気楽に暮らした方がよくない?」
 あたしは深呼吸しながら喋った。
「裁判とか、離婚とかの手伝いなら、してやるよ」
 ああ、あの東京の彼女、こんなかんじで電話、聞かされてたんだ。そう考えたら、同情わきそうだよ。
「もう……こんなに散らかしちゃって……もうすぐオヤジ、帰ってくるよ。掃除しなきゃ」
 母親の視線が素早く動いて時計を見た。あたしも見た。もうすぐ7時だ。
「お前が悪いんじゃないか! あんなこと言うから! あの女に電話なんかするから!」
「最初に電話したの、自分じゃん……」
 言いかけて、あたしは、いきなり答えを発見した。あんまり簡単・単純すぎて、今まで思いつきもしなかったのかもしれない。
「ねえ、ちょっと聞くけど、もしかしてさ、オヤジと離婚しないのって、不倫なんかして、オヤジが決定的に悪者になっちゃったから?」
「なんだって?」
「だからあ、なんかさっきっから、自分は悪くないって言うじゃん。ダメ亭主といると、なんかあっても悪いのはアイツなんだからって言えるから? 便利なわけ?」
「……」
「オヤジの彼女に電話すんのも、悪いのは自分じゃないって、確認したいから? 先に言っておこうって……」
 あたし、言葉の途中で、変な鳥みたいな声が聞こえたんで、びっくりしたよ。何が鳴いてんのかと思ったら、眼の前の母親じゃん!
 ぎえええとか、きょええとか、そんな音が混じった声を、喉から出してた。目は半分白目だし、両手を、こう喉をかきむしるみたいなポーズにしちゃって。
 あたしもう固まっちゃって。ちょっとどうしたのよ、って言おうとしてんだけど、声、出ないの。
 そしたら次の瞬間、母親があたしに殴りかかってきた。
「おまえがわるい! おまえがわるい! おまえがわるい!」
 耳の側で何回も何回も叫んでる。めちゃめちゃに拳が降ってきて、あちこち当たる。
 もうやだ! 何がなんだかわかんないよ、この人!
 あたしは思いっきり母親を突き飛ばしたんだ。やめてったって、やめないんだもん。
 母親は「あ」に濁点がついた声で叫びながら、後ろにひっくりかえった。狭いキッチンだからね。椅子につまづいて、お惣菜と醤油の上に倒れちゃった。爪楊枝が刺さったかも。
 やばいかなって考えがチラッと浮かんだ。ホントに一瞬だけ。すぐにキッチンから出た。廊下に立ったとき、玄関にライトが当たるのが見えた。オヤジの車のライトだ。帰ってきた。
 あたしはそれも無視して、階段を上がって、自分の部屋に入った。そのまま、電気もつけないで、ドアに寄りかかって座り込んでた。
 玄関を開ける音がする。オヤジが帰ってきたんだ。下でごそごそ音がする。あたしにやられたって、オヤジに言いつけてるかな。耳をすませたけど、声は聞こえない。そのうちオヤジが2階に上がってくるかもしれない。
 でもいくら待ってもオヤジも母親も来なかった。しばらくすると流しで水音がして、それから風呂を使う音がした。あたしはやけになってそのまま籠城。電気もつけて、雑誌とか見て、できるだけ普通にしていた。
 3時間後、下はシ〜ンとなった。
 あたしは、足音を忍ばせて、下に降りてみたんだ。どうなってたと思う? 電気は消えてたから、点けてみたよ。どっちが片付けたのかわかんないけど、キッチンは一応キレイになってた。テーブルクロスももとのまま。どう見ても、いつもどおり、夕飯食べて、お風呂入って就寝ってかんじ?
 さっきのことは夢だったのかって、あたしは思わず、自分の頭の中を疑っちゃったよ。
 でも、これ、現実なんだ。こんどこそ決定的だ、決着がつくだろう、そうすれば、もう母親もバカなことはしないだろうって思ったのに、全部、なかったことにされちゃってた。あたしがしゃべった言葉も、スーパーの袋に詰められて、燃えないゴミで出されちゃうんだ。
 だから、あたしの方が、決着つけることにしたんだ。明日、バイトに行ったら、できるだけ早く辞めたいって言う。そいで、少ない資金だけど、東京へ出る。せっかく免許とったんだもん。カッコイイ美容院、探すんだ。友達もいるしね、東京には。
 一応、彼女の電話番号、メモってあるけど、連絡するかどうかは、まだわかんない。もう一回、話してみたい気もするけど……。もしかして、彼女もなかったことにされてんじゃないかって思うとさ、なんかこわくて……。
 自分は悪くないってことだけ言うために生きるのだけは嫌なんだ。今はそれだけ、はっきりわかる。


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「私が悪人にならないために」の感想


*タイトルバックに「LCB.BRABD」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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