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「ねえ巨人戦、始まってるんじゃない? 見ないの?」
 帰ってくるなりヒトミが言った。ただいま、もまだ言ってない。
「いや、今日は中止じゃないか? ほら、アメリカの飛行機が行方不明だとかで、さっきから臨時ニュースばっかりだよ。日本人も乗ってるらしいじゃないか」
 テレビの前陣取って、報道番組にチャンネルを合わせていたオレは、慌てて説明する。
「飛行機が墜落したくらいで、中止になんかならないわよ」
「だから、報道特番でさ。テロのときだって、そうだったろ?」
「野球は中止にならないよ。どっかでやってるって。どれ……」
 彼女はバッグも持ったまま、上着も着たままで、オレを押しのけるようにテレビの前に詰め寄り、リモコンを操作した。各局のキャスターたちの顔が画面に現れては消える。
「ほら、どこでもニュースだよ」
「じゃ、BSね……ほら、やってた! やっぱりねーいくら大ニュースだからって、誰も彼もが報道番組ばっかり、見てますかっていうのよ。ばっかみたい」
 バカにされたのは、ハイジャック犯人だろうか、ニュースキャスターだろうか。そのセリフ、そっくり返してあげるよ、と切り替えしたかったが、ぐっとセリフを飲み込んだ。
 ヒトミは一段とボリュームを大きくし、安心したように着替えに行った。部屋中にナイター解説と観客の歓声が響く。この音量なら、着替えながらでも試合の進行がわかるだろう。
 彼女・ヒトミは誰も彼もがスポーツ番組を何よりも優先させていると信じている。初めはこんなじゃなかった。スポーツフリークだとは言っていたが、どっぷり漬かっているとは言わなかった。チャンネル権も半々、見たいものがあったら言ってね、といってお互いの趣味は主張し、侵害しない条約が締結されていたはずだった。だから一緒に暮らすことにしたんだ。
 見たい番組が重なったときは、どちらかが録画した。彼女も、スポーツ中継が気になっても我慢して、ニュースをこまめにチェックし、録画した試合中継を丹念に見た。しかし一緒に暮らして三ヶ月目くらいに、
「ねえ、ドラマとかはさ、あとで見たっていいじゃない? 映画はビデオがあるし。スポーツは、中継見ないで、ニュースで結果が先にわかってるっていうの、虚しいのよ」
 なんて言い出して、結局スポーツ中継が優先されるようになってしまった。野球放送がないシーズンでも、何等かのスポーツ中継はある。彼女の趣味は、野球を筆頭にサッカー、駅伝、バスケ、ゴルフ、テニス、相撲……しかしどれ一つとして、自分じゃやらない。見るだけだ。オレだってオリンピックくらいは見るさ。でもそれは毎シーズンのことじゃない。でも選手の名前も覚えられない。はっきりいって苦手だ。オレの好きなテレビ番組は、結構硬い。ドラマも濃いのが好きだし、報道番組や特集番組はけっこうはまる。劇場中継なんかも好きだ。実は一番すきなのはNHK特集なんだが、ま、オレだって、どれも自分で何かするわけじゃないけどさ。でもオレは、
「劇場中継は、あとでニュースでダイジェストでやってくれない」
といって、チャンネル権を主張できない。
 気が弱いから? そうだろうか。だけど黙っていたのはよくなかったかもしれない。彼女は、自分がスポーツフリークだということに浸りきって、それに文句をつけないオレも、同化しつつあると思っているらしい。
「見たでしょ? あのフォーム」
 だの、
「夕べの○○のシュート、なってないよねえ」
 などと意見を求める。○○なんていって情け無いと思われるかもしれないが、しょうがない。選手の名前も知らないんだ。それってそんなに異常なことか?

 でも、それも大したことじゃない。家の中のことだから、そのうちパソコンをテレビを見れるやつに買い換えるとかすれば、問題は少しは解決する。少なくともストレスは半減するだろう。問題は、家の外でのことだ。
 先週、会議が終わって廊下に出たとたん、オレは同僚で一番仲がいい、カワモトに声をかけた。
「なあおい、ちょっといいか?」
 顔を近づけて、小声で聞く。
「あん? お茶でもするか?」
 阿吽の呼吸で、オレたちは喫茶コーナーに行き、紙コップのコーヒーを持って腰掛ける。
「さっきの会議だけど、イマイチさあ……」
「ああ、部長の話はいつだってああだろ? 観念的なんだよな。次の会議までに、具体的な戦略、出るって」
「そうじゃなくてさ、言ってただろ? ナガシマ式がどうとか、ハラ式はこうだとか」
「ああ、巨人のことだろ?」
「そうなのか? じゃ、それって選手か」
「何言ってんのお前? 監督だよカントク」
「カントク? 今の?」
「だから、リーダーシップってえか、采配のやり方の例え話だよ。部下をどう使うかって。好きだよな、あの部長、その手の話。来シーズンはどうとか予測までしちゃって」
 そんなことも知らないのかって、バカにするかと思ったが、カワモトは特に何も言わない。だからこいつとは友達でいられるんだ。
「野球の例え話って、じゃあ、あれ、全員納得して聞いてたのか」
「さあ、ほとんど聞き流してたんじゃないか?」
「でも、意味は分かったんだろ?」
「う〜ん、ある意味、常識ってえか……」
 言い難そうに、カワモトはコーヒーをがぶりと飲み込む。
「お前、苦手だもんな、スポーツ」
「ニュースもほとんど見ないし」
「スポーツ紙も読んでるの、見たこと無いな」
「一行もわかんねえよ、きっと」
「でも、ああいう会議の席で、この場合、あの企業の社長は、関ヶ原で言えば石田三成で、とか、プロジェクトX風の話なんていい出すほうが、やっかいじゃないか?」
「あ、オレ、そのほうがわかるよ」
「お前、変ってるよなあ」
「そうか? 関ヶ原だったら学校で習うだろ? 巨人の監督の話は、つまり趣味じゃないか」
 全員が知っているはずだと決めてかかって、自分の趣味の話をする奴のほうが、よほど変ってると言いたかったが、さすがにそれは、褐色の液体といっしょに飲み込んだ。
「……お前、苦労するよなあ」
 カワモトがカップを握りつぶした。
「呑みにでもいくか? 今日」
 オレは快諾して、ヒトミにメールを送った。彼女は今日も何かスポーツを見て過ごすだろう。何の中継があるかは知らないが。BSだってあるし、試合がなくても、バラエティにスポーツ選手はきっと出ている。

「会議の席だったら、神妙に聞いてるふりしてりゃあすむけど、こういう席で、野球の話になる事だってあるだろ?」
 焼き鳥屋のカウンターに並び、お湯割り焼酎が出てきたとたん、カワモトは昼間の話の続きを始めた。
「あるよ、一番参るのは接待だなあ」
「酒が入っていつまでも仕事の話だけってのも無粋だしな」
「確かに、たいていがスポーツ話題だな」
「関ヶ原はないだろ?」
「ない……野球、相撲、サッカー、の順かな」
「そういうとき、どうすんの?」
「そうですか、そうですよねえ、やっぱりですね、とかもう、そんなボキャブラリーを総動員して、てきとうに頷くしかないよ。女の子がいる店だと、かえって楽だな、ママさんが相手してくれたりするから」
「あと、カラオケのほうがいいか」
「唄ってりゃ、野球の話はしないし。逆にオレから、別の話しようかとも思うけど」
「関ヶ原はやめとけよ」
「そうじゃないけど、時事ネタとか」
「難しいな、スポーツフリークって、自分の話を絶対相手も楽しんでるって信じてるところあるから。邪魔すると不機嫌になるだろ」
「そうだよなあ、そこんとこがまた、頭くんだよ」
 オレは心から言った。
「お前はいいよな、けっこう詳しいし」
「ニュースネタくらいだぜ」
「オレも、接待の前にスポーツ紙買い込んで一夜漬けしたこともあった」
「すげえなー一応努力すんだな」
 後輩に、何してんすか? って鼻で笑われた。
「去年の野球観戦接待もきつかったろ」
「信じられないイベントだよ。オレには接待になってないね。途中で本を読もうかと思ったぜ。うるさくて読めないけど」
 粗塩を降った砂肝とカワが出てきた。オレたちは鶏肉なら、肉の部分より皮とか内臓系が好みだ。
「オレ、思うんだけど」
 ちょっと酔った勢いでオレは話し出した。
「スポーツに詳しいのって、歴史とか好きなのと似てないか」
「ああ? まあ、スポーツにも歴史があるからな」
「じゃなくてさ、人名覚えて、チームとか派閥覚えて、戦歴調べて、そういう積み重ねがなくちゃ、わかんない世界ってあるだろ? 一夜漬けじゃだめなんだよ」
「う〜ん、似てるといえば似てるか」
 オレたちは同時に焼酎をおかわりする。
「あと、歌舞伎とか伝統芸能の世界とも通じるとこあるぜえ」
「やっぱ人名とか舞台の経歴知らないと、面白くないとこあるか。歌舞伎役者の系図、あるもんなあ」
「だろ? やっぱ、趣味なんだよ、シュミ。でも、歴史とか歌舞伎とか好きな奴は、常識だなんていわないぜ、自分のシュミの世界を」
「でもスポーツは」
「言うだろ? 世界の定説だと思ってるだろ?」
「……」
「なんだよ」
「お前さ、テレビでスポーツ、全然見ないの?」
「オリンピックくらいは見るか」
「苦手なんじゃなくて、嫌いなんだな」
 オレは一瞬、酔いがさめた。
「嫌いかな……」
「そう聞こえるよ。スポーツ、なんかやったことないの?」
「やんないなあ、運動不足は心配だから、水泳でもやろうかって考えてる。ジム通うとか」
「今までもやんなかったのか?」
「やんなかった」
「サークルとか部活とか、なにやってたんだ?」
「大学んときは映画製作」
「スキーとか行かなかったか?」
「行かない。寒いとこは苦手なんだ」
「高校とか中学は?」
「文科系だよ。高校んときはバンド組んでた。中学は文科系少なくて、美術部」
「オタク、ぎりぎりセーフってとこだな」
「そんなことないだろ? 漫研じゃないぜ」
「なんかお前、恨みでもあんじゃねえか?」
「は? 恨み?」
「スポーツにさ。記憶ないのか?」
 冗談をまぶしたように言うと、カワモトは鶏飯を注文した。

 数日後の休日前の明け方、オレは世にも不快な夢を見た。夢の中で、オレは体操服を着て立っている。照りつける太陽。風に舞い上がる土ぼこり。しばらくして、炎天下に運動会の練習をしているのだと気がついた。何度も何度も、開会式の選手入場の行進を練習させられている。オレは意識が朦朧としかけていた。汗が乾いて、塩をふいている。喉がひりひりする。みんな、平気なんだろうか、オレだけ、身体が弱いんだろうか……周囲を見回そうとすると、いきなり、朝礼台の上から声が飛んできた。
「余所見をするな!!」
 一瞬、頭が冷えて、オレは気をつけの姿勢をとる。
「コーナーを回るときが揃っていないじゃないか!」
 朝礼台の声が怒号を投げつける。
「もう一度やり直しだ!」
 架空の入城門に全員がぞろぞろと戻り、行進曲が始まった。
「横を見て合わせろ!」
 あからさまに左右を見ると、また叱られるので、横目で左右を見る。腕を上げる角度、足を上げる角度も決まっている。それで、コーナーに差し掛かったら、内側の人は歩幅を狭く、外側は大股になって、横の列が乱れないようにしなければならない。まるで軍隊だ。いや、独裁国家だ。いまどき、オリンピックの入場行進だって、ちゃんと行進する国は少ない。なのに、朝礼台の男は、ナチスの党大会のようなマスゲームをしなければ気がすまないのだ。
「そこ! テンポがずれてるぞ!」
 声の主は、小柄で筋肉だけがみごとな身体を軽々と動かし、ヒラリと朝礼台から飛び降りると、まっしぐらにテンポがずれた生徒の方に駆け寄った。標的はオレだ。自覚した瞬間、足に衝撃が走った。蹴られたのだ。オレは貧血を起こしながら、土埃にまみれてグラウンドに倒れこんだ。小石が頬にめり込んだ。

 現実そのままの痛みを覚えて、オレは夢から覚めた。近くの犬が、散歩をせがんで啼いている。あの声が聞こえるということは、まだ朝の五時くらいか。カーテンからまだ日差しは差してこない。隣のベッドで、ヒトミが寝息をたてている。オレはゆっくりと寝返りを打って、天井をながめた。
 あの運動会の練習、あれは中学生時代だ。朝礼台の上で指揮していたのは保健体育の教師で、オレのクラスの担任だった。もともと運動が苦手で、小学校からずっと、運動会もマラソン大会も雨が降るようにと呪って暮らしたオレは、中学になって担任が、よりによって体育の担当だったことに、大きな不幸を感じたものだった。
 担任は、四季を通して朝から体操服を着、クビから笛を下げていた。そして自分だけじゃなく、クラス全員にも同じことを強要し、体育時間外でも、例えば掃除のときにさえ、いちいち体操服に着替えた。そして教壇から、胸を反らして、こう言うのだ。
「健全な身体に健全な精神が宿るんだ! 健康第一、基礎体力作りが何より大事だ!」
 受験を控えていたはずの中学生が、四六時中、運動部の合宿をやっているような状況だった。オレには地獄の中学時代、軽蔑すべき教育に思えた。
「――うるさいわねえ……あの犬、今日はまだ飼い主が起きないのかしら……」
 ブツブツ言いながら、ヒトミが上半身を起こす。
「あら? やっぱり目が覚めちゃった?」
 ベッドの中でかっきり目を開けているオレに気づき、ヒトミは言った。
「オレはトイレ……かな」
「あ、あたしも」
 彼女は起き上がって部屋を出た。犬の声が止んで、あたりに静寂が戻る。
 戻ってきた彼女がベッドに大の字になった。
「休みの日って、こうやって目が覚めたとき、まだ寝ていられるって思えるのが嬉しいよね」
「……」
「どうしたの? 考えごと?」
「いや、ちょっと嫌な夢見ちゃって」
「怖い夢?」
「まあ、怖いね、中学時代の運動会の夢」
「それ、怖いの?」
 オレの中のどこかで、タブーの扉が開きかけている。閉じたほうがいい。そう思ったとたん、扉の中から得体の知れない塊が出てきて、扉は砕け散った。
「オレ、中学時代の担任の教師って、体育の先生だったんだよね」
「へえ、楽しそうじゃない。あたしなんか、数学よ、最悪」
「それが普通だろ? たいてい五教科の先生が担任するだろ、受験前なんだから」
「ずっと同じ先生が担任だったの?」
「三年間ね」
「よくPTAとか、黙ってたね」
「文句言ったらしいけど、変んなかったんだ」
「じゃ、いい先生で通っていたとか?」
 ――いい先生……いい先生? オレの頭の中で、悪鬼の塊が渦を巻く。なんで今日はこんなに荒れ狂うのか。
「熱血教師だったよ」
「熱血? 生徒指導に熱心とか? 金八先生みたいじゃない。いいなあ」
「お前ね〜あれはドラマだから言えるんだよ。あんなの実際いたら、大変だぞ。それに金八先生は一応国語かなんかの先生だろ? 授業もテストもあるだろ? オレら、体育の時間だぜ」
「……そんなにやな先生だったの?」
「いい先生っての、多分本人が一番、自分のことをそう思っていたね」
「……」
「朝から体操着に着替えさせるんだぜ」
「え? 女子も? 体育も無いのに?」
「球技大会の前は、自主トレさせられんだ」
「受験生に自主トレ……?」
「普通、担任が受け持つ授業って、そのクラスの平均点、高くなるだろ? それがさ、オレらのクラスは、球技大会とか運動会がトップなんだ」
「いい思い出でしょ? 充実してて」
「なもんか。そのくせ、平均点が下がると説教だぜ。帰りのホームルームで一時間も」
「それは熱血だわ」
「方向違いのね」
「その先生、よほどスポーツが好きなのね。自信もありそう。なんかの選手?」
「陸上だったかな…国体出たとか自慢してた」
「ふうん、ほんとにそれだけが自慢で、支えなんだね」
 その通りだ。そして他の価値を認めていなかった。
「まったく体育バカでさ、修学旅行とか、つまんなそうに、してて」
「まさか、修学旅行中にジョギングとかさせないでしょ」
「それはないよ。でも、どこ行っても何見ても、コメントなしだぜ」
「修学旅行、どこ?」
「京都・奈良」
「あたしだってたいくつしたよ」
「あいつ、教師になってから何度も行ってるはずだぜ? なのにバスの中でも無言」
「興味ないんだね、仕方ないよ。きっと何回行っても、つまんなかったんだよ」
「そうでもないと思うよ。その分、別のことで張り切ってた。寝巻きは体操服じゃなきゃいけないとか。林間学校のときはもっと燃えてたな。白のトレパンを3本揃えろとか、リュックに15センチ、20センチくらいの名札、全員につけさせて、そこに住所や名前や学校名、血液型まで書かせて。なに想定してたんだか」
「なんか、戦争もののドラマみたい」
「靴下は白、ワンポイントもだめだとかさ、探すの大変だぜ。ワンポイントのソックス履いたらグレんのかよ」
「全部白じゃ、お母さんも大変だよね」
「だろ? 全部新品だから金もかかるよ」
 彼女は、奇妙な表情で、じっとオレの顔を見ている。気がついたらカーテンの向こうは明るくなっているようだ。ちょっと熱く語りすぎたか――。
「あたしのクラスの担任だって似たようなもんだよ。数学で世の中でできてるみたいなこと言ってたもん」
「数学ならいいじゃんか。熱心に教えてもらったら、役に立つし」
「自分は、何の授業が好きだったの?」
「国語と社会かな」
「その熱血教師も同じじゃない? スポーツが得意な子は、三年間楽しかったと思うよ」
 オレは最悪だったんだ。
「でも、スポーツはともかく、ちょっと強引よね、威圧的ってかんじだし。ボイコットとか、学級崩壊みたいにはならなかったの?」
「そういうの、引っ張ってく奴って、たいがい体育会系だろ?」
「そっか、そういう人には人気あったんだね」
 そうなのだ。
「クラス替えがなかったのは、問題かもしれないけど、学校の先生なんて、そんなもんじゃないの?」
「……」
 えいっとはずみとつけて、彼女は起き上がり、カーテンを開けた。眩しい光が差し込む。
「もう、起きようか、コーヒー、いれるね」
「うん」
 返事をしてはみたが、オレはそのままベッドの中にいた。
 ファイト! ファイト! と掛け声が遠くから聞こえ、少し近づいて、また遠ざかる。走るだけでしんどいのに、声まで出させる。あれはどういうシュミなんだろうか。オレはべつに身体が弱いわけじゃない。ただ身体を動かすことが苦手なだけだ。足だって遅い。競技のたびにランクがあらわにわかる。だから、さらに運動が嫌いになる。徒競走の10秒が、永遠のように感じる。だけど、誰かが一等になったら、誰かがビリになるんだろ?
 だが、それを許さない人間がいるのだ。
「まじめにやれ!」
 あいつは、オレにいつもそう言った。
「お前、いっつもビリだな。目立とうとしてるのか」
 そんなことも言われた。
 オレはさっきウソを言った。反逆の徒となるのは、体育会系かもしれないが、革命児となるのは、体力だけではだめだ。少なくともオレはあの時、そう信じていた。
 中学二年の秋だった。運動会の一週間前、その日のホームルームでは、来る運動会のために、自分たちのクラスだけ、自主的にリレーの練習をしようという話で盛り上がった。体育会系の一人が、言い出したことだった。そいつは担任と以心伝心かと思うほど、気が合っていた。
「それはいいことだ」
 世にも嬉しそうに、担任は言った。
「自主的にやるのがいい。こういうときに記録がのびる。朝、早くに集合するか?」
 恐ろしいことに、そのリレーはクラス全員が走らされるものだった。オレは目を動かさないように注意しながら、教室の中を窺った。意気揚々と顔を上げている奴もいるが、何人かは机の一角に視線を当てて、顔を伏せぎみだ。誰だって嫌に決まってる。オレは使命を感じた。そして手を上げた。
「先生、その朝練は、全員参加じゃないとだめですか?」
「そりゃそうだろう、リレーは全員が出るんだから」
「でも、運動会が終わったら、二週間後に模試があります」
「それは希望者が受けるんだろう?」
「ぼくたちは、来年三年になります。他のクラスでは、朝、自習したり、補修をしようとしているところもあります」
 実際、部活で聞いたところによると、担任が自発的に補修をしようと計画しているクラスもあった。
「朝練に反対なのかよ!」
 言いだしっぺが、すごむように言った。
「遠くから来る人もいるし、夜、塾に行っている人もいます」
「だから、なんだ」
 教師まで、一緒になってすごんだ。
「朝は貴重な時間だと思うんです。練習は自由参加に……」
「自由参加じゃ、意味が無いだろう! リレーの練習なんだぞ! リレーの!」
「無理にやる必要があるんですか」
 オレは国語と社会が得意だ。だから理屈を発言するのも得意だった。
「お前みたいに、サボろうという奴が出てくるだろう」
 相手がまずかった。理屈が通じる相手じゃなかったのだ。オレはあのときまで、大人は理屈が好きだと思っていた。
「サボろうと思って言っているわけじゃありません」
「お前は、自分が体育が好きじゃないから、そんなことを言うんだな!?」
「違います!」
「違わない!」
 途方も無い大声に、オレは不覚にも黙ってしまった。
「日ごろきちんと勉強していれば、いつ試験があっても心配ないはずだ! 勉強にかこつけてサボる気だな! 健康な肉体に健全な精神が宿る!!」
 日ごろきちんと練習していれば、リレーの練習をわざわざする必要はない、運動にかこつけて勉強をサボる奴もいると、言いたかったが、口が動かない。もはやクラスのほとんどが、机の一角を見つめている。
「あん? 何だ、お前は」
 担任はオレに照準を合わせた。
「男のくせに、ネチネチと理屈こねて。体力が余って、身体が鈍るから、ろくでもないことを考えるんだ! もっと身体を動かせ! 校庭を走って来い! 走ればすっきりする!」
「いやです」
 頭ではなく、全身が拒否していた。確かに頭を使うより、確実かもしれない。
「なんだと?」
「脳みそまで筋肉になるのは、嫌だといったんです。先生は変です。身体が健康なら精神が絶対に健康だとは限りません。それは差別です……」
「ばかやろう!!」
 気がついたとき、オレは机と椅子と一緒に、床に転がっていた。

「コーヒー、はいったよ〜」
 こうばしい香りが、白昼夢から現実に戻してくれた。オレはのっそりとベッドを離れた。
「いい天気よ、今日は洗濯の日ね」
「うん」
 あの後はどうだったんだったろうか。担任はめちゃめちゃに怒って、隣のクラスの担任になだめられた。親に言うとか言ってたな。でも結局、PTA会議も、家庭訪問もなかった。今考えれば、そこまでやればよかったのだ。そうすれば、あの熱血教師が、勉強そっちのけで朝からリレーをやらせようとしていたことが、親にもバレただろう。それで、担任が変ったかもしれない。惜しいことをしたもんだ。でもあの時オレは、親に怒られることばっかり気にしてた。バカだったな。読みが浅かった。
「ねえ、さっきの担任の先生だけど」
 彼女が言葉を選びながら言っている。
「ん?」
「今も先生やってるのかな?」
「どうかなあ、年齢考えると、ギリギリやってるかもな」
「その、さっきみたいな調子で?」
「あれは変わんないんじゃないか? 一生」
「でも最近の風潮じゃ、生にくい時代になってると思うな」
 オレは頭の中に灯明が灯ったような気分になった。
「そうかな?」
「苦労してるよ、今時は生徒も親も、黙っちゃいないもん」
 そうだとしたら、やけに嬉しい。オレのの後輩の誰かが、あいつの独善的な自身を打ち砕いているかもしれないと思うと、オレの悪夢も薄れていくようだ。そうか、世の中、変ったのか。
 今朝はまだテレビをつけていなかったので、新聞を開き、リモコンを握った。時計とテレビ欄を眺める。マラソン中継が始まっている時間だ。だけど彼女は気づかない顔をしている。気を使っているんだろうか? さっきの話で……オレはもうちょっと一緒に暮らしてもいいと、思い直した。その瞬間――
「やだ、マラソン始まっちゃう」
 リモコンは俺の手から、乱暴にもぎ取られた。

 でも、それも大したことじゃない。どんなに嫌な思い出でも、思い出である以上、それは過去の話だ。過去からはみ出すことさえなければ、安心していられる。――そう、月曜日の朝までは、そう思っていた。
「この週末はいい天気だったな! みんな、何して過ごした?」
 朝っぱらから、課長がフロアじゅうに響く声でこんなことを言い出した。みな、仕事の準備を進めながら、軽く聞き流している。
「オレは、横浜支社の草サッカーを見に行ってきたんだ。あそこには草サッカーチームがあるんだな。知ってたか?」
 とんでもないことだ。横浜支店でなくて、本当に良かった、とオレは思った。
「河川敷で練習試合をしてたんだが、いいぞお、河原の風が気持ちよくてなあ、みんな家族連れで来てて、応援して、子供はノビノビと走り回るし」
 ああ、想像できるよ。その能天気な光景。
「そして昼時には弁当を広げるんだ。オレの家も弁当を持って、家族全員で行ったんだが」
「課長、サッカー、やられるんですか?」
 乗りの上手い男が、一声入れた。
「うん、学生の頃な、やったんだ」
「へえ……」
 感心したように――実は無関心そうに、パソコンを眺めながら、皆がうなずく。
「いやあ、思い出したよ、サッカー、いやスポーツっていいもんだ。天気のいい日は、表で身体を動かす、これが最高だな、健康の基本だと確信したよ」
 なんだか嫌な予感がする。その予感の正体は、オレにはわかっている。パソコンの画面とクリアファイルで、災難を避けるように、顔を隠す。
「そこで、考えたんだが、どうだ、この部署でもチーム、作らないか? それで、休日には横浜支店と交流試合をするんだ」
 きたきた! 課長の提案は自信満々だ。だが、誰も声を出す者はいなかった。キーボードを叩く音だけがフロアに異様に響く。
「なんだ?! 賛成してくれないのか?!」
「いや、いいと思いますよ」
 さっきのお調子者が言った。それを合図に、係長もいきなり笑顔を振りまく。おい、ウソだろ?
「そうですね、仕事が忙しいときこそ、スポーツで身体を鍛えるのもいいことです」
 冗談だよな? ここは会社だぜ?
「あたし、お弁当作ってく」
 本気かよ、土日はショッピングだって、いってたじゃないか。
「そうか! そうだ! 家族がある奴は連れてくるといい。彼女やカレシでもいいぞ! 差し入れは大歓迎だ!」
 でたらめだ。今だけ調子を合わせてるんだ。
「賛成してくれると思ったよ、さっそく部長に報告しよう、きっと賛成するぞ、いや参加するだろうな。部長はあれで案外……じゃ、決算が終わったころには……」
「あのう、それって全員参加ですか?」
 お、やっと反論が出た。誰だと思ったら、誰あろう、オレだった。いつの間にか立ち上がっている。リベンジだ、と頭の中の声が命じる。
「なんだ? どういう意味だね?」
「強制なんでしょうか?」
 一瞬にして空気が凍った。課長はあからさまに不愉快という表情を作る。オレも負けずに表情を作った。
「そういうことは、休日にやることになるんでしょうが、休みの日はそれぞれ予定もあるし、ゆっくい休みたい人もいるでしょう。遠くから通勤してる人もいますし」
「そりゃあ、無理にとは言わん。だがせっかく課内が盛り上がったんだ。横浜支店じゃちゃんとやってるぞ。全員参加じゃなくちゃ、意味が無いじゃないか」
「横浜支店はそうかもしれません。でも、全員が快く参加しているとは限らないでしょう。平日、目一杯仕事をこなしていれば、休日には家の用事がたまっていることもあります。休日にリフレッシュしてこそ、また仕事を頑張れるんじゃないですか」
「毎日、やるべきことをちゃんとやっていれば、休日に一日くらい、時間がとれるだろう? サッカーをすればリフレッシュもされる。チームの団結力が、仕事の効率も上げるぞ」
「日々やるべきことをちゃんとやるために、オフが必要な場合もあります。休日くらいは会社から離れて……」
「なにかね? 休みの日には、会社の連中に合うとストレスだってことか」
 くすっと誰かが笑う。次の瞬間、誰かがオレをの腕をつかんだ。カワモトだ。
「おい、お前、どうしたんだよ、落ち着け」
 カワモトの目は、おい、よせ、と視線を送り、テレパシーを飛ばしてくる。だが後戻りするチャンスなんか、とっくのとんまに見失ってるんだよ。オレはカワモトの腕を振り払って、逆に肩を掴む。
「カワモト、お前だってそう思うだろ? 休日にサッカーなんかしたら、疲れて月曜日の仕事に響くじゃないか。お前は休みの日はいつも爆睡だよな」
「いや……オレは……」
「そんなことはない。身体を動かしたほうが、すっきりするんだ、頭も精神も」
「そりゃま……毎週じゃなけりゃ……」
「そうだろう!」
 オレと課長は、ほぼ同時に言った。
「君はスポーツが得意そうだものな、賛同してくれると思ったよ。サッカーも経験があるんじゃないか? コーチはできそうか?」
「なに言ってんですか、課長。カワモトは毎週あったらたまんないっていってるんですよ。体育会系はどうしてこう、独善的なんだ。カワモトが困ってるじゃないですか」
 カワモトは確かに、もうかんべしてくれ、巻き込まないでくれ、と念波を飛ばしている。
 課長の顔が真っ赤になった。
「君は、運動が苦手なのか? そうなのだな」
「全員が好きとは限らないでしょう」
「だからだな、だからそんなことを言うんだ。なんだ、男のくせに、身体を動かすことを面倒がって! 健康は全ての基本だぞ!」
「運動をすることだけが健康の基本とはいえないでしょう」
「健全な肉体に健全な精神が宿るって言葉を知らないのか! 軟弱者め!」
「その考えがすでに歪んでるって、わかんないんですか! オレは、脳みそまで筋肉にしたくないだけです」
 くすっ、くすっ、と笑い声が漏れる。それが聞こえたのか、課長の顔はますます赤くなった。
 オレは一瞬身構えたが、今度は床に叩きつけられることは無さそうだ。徒競走より長く短い時間がオレを縛りはじめる。もう親もPTAも怖くない。あのときだって、結局リレーの朝練はやらなかった。中止になったんだ。ファイトだ! リベンジだ! 目の前の課長の顔に、いろんな顔が重なる。オレの敵は誰なんだ?
 空気はまだ凍り付いている。みんな、なんで黙ってるんだ? 休日に草サッカーなんか、本気でしたいのか? 家族とか恋人を引っ張ってこれるのか? 天気のいい一日を、平日と同じ顔を見て、弁当を広げたいか? 違うよな?
 スポーツを拒否することはそんなに罪悪なのか? そんなに厳しい不文律なのか?
 だがオレは認めたくないんだ。どうしても。世の中間違ってる。


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「スポーツフリークにあらずんば」の感想


*タイトルバックに「AnytimeWoman」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別 館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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