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 ――あ、もしもし?
 あたしよ、あたし。
 そう、そう、久しぶりねえ、元気?
 聞いたよ、あんたんとこのダンナ、栄転なんだって? もう、なに言ってんの、高校時代の連絡網、まだ生きてるんですからね。みんな知ってるんだから。
 まだ大したこと無いなんて、謙遜、謙遜。今、その地位にいればさ、ぜ〜ったい、支店長でしょ? で、その先も出世コースまっしぐら! やだ、この言い方、ちょっと古い? いいなあ〜あんた、いい男つかまえたよね。一緒に東京、行くんでしょ? だめよ単身赴任なんて、今はね、油断もスキもないんだから。何が起こるかわかんない世の中なんだから。一人にしちゃだめ。きっちりついて行って見張んなきゃ。
 昔っから、あんた、いっつも一番いい男、狙うもんね。いいじゃない、狙って、ちゃんと手に入るんだから。あたしなんかだめ。ああ、ほんと、あたしは失敗したわ。え? なんで知ってんの? ああ、連絡網? そうなの〜聞いてる? 亭主が勤めてた会社が、こっちの工場、今度、閉鎖することになっちゃって。そうよう、うちなんか、ただの事務職だからさ、真っ先にクビよ。リストラ。学歴も大したことないし、立派な資格もないしさ。ただまじめなだけだもん。だめよ、まじめなだけなんて、何の能もないって言ってんのと同じよ。
 いい人ってそんなの、大人しいだけなのよ。とりえがなくてまじめで大人しい男なんて、なんか詐欺みたいじゃない? もっと上手く立ち回れる男ならさ、こっちの会社、畳まれても、本社に行くとか、なんか上手い身の振り方があったと思うのよ、そう、実際、そういう人もいるみたいだし。だめなのよ、そういうの。
 うち? 子供、3人よ。信じらんないでしょ? 笑わないでよ。一番上が中学で、一番下はまだ、3歳よ。もう、うちだけ少子化対策に協力してるみたいなもんよ。お宅は? ああ2人、そうよねえ、それくらいが普通よね。2人とも小学生でしょ。余裕ある子育てできるわよね。
 そうは言うけど、計画性っていったって、できちゃったんだもん、しょうがないじゃない? 家族計画とか、あたし、そういうの、いやなのよ。おろすのもやだし。自然のままできて、生まれてくるんだから、子供も生まれたいんだと思ってさ。相性がいいって? こんなことばっかり相性よくてもねえ。まあ、そうよね、できないで悩んでる人もいるんだけど。
 あんたのダンナだって、いい人じゃない。仕事も順調で、稼ぎもあってさ。ああ、ああ、だめだめ、最近、「お金が全てだ」とか「お金で買えないものはない」ってのが良くないなんて言い方する、有名人とか多いけどさ、最初から「世の中お金じゃないよね」なんて言ってくるやつに限って、自分がお金がないのよ。
 そういや、うちのも昔、言ってたわ。やだなあ、思い出しちゃった。あんとき、今みたいなこと、ちゃんとわかってればねえ、騙されることなんてなかったのよ。若かったのよね。かっこつけるふりして、じつは金がないこと、ごまかしてるって気づかなかったのよ。
 ところでさ、転勤したら、家、どうすんの? マンション? うわあ! うらやましいい〜あたしも一度でいいから、東京のマンション、住んでみたいなあ……何部屋あんの? なんだ、まだ決まってないのか……きっと夜景がきれいよね。遊びに行っていい? 行くわ、絶対いく。で、今の家は? ああ、貸すのね。そんで家賃収入もあるじゃない。一挙両得ね。近かったら、あたしが借りたいなあ。安く貸してくれたら、楽だなあ。
 とんでもない! うちなんか、とうとうダンナの実家に住むことになっちゃったのよ。だってリストラなんだもん。これから前よりもっといい仕事見つけて、収入アップして、そんで家を出られるってんなら、自慢だけど。なんか無理そう。そうそう、ダンナの実家なんか入ったらさ、二度と出れないかんじしない?
 いるのよ、姑。口うるさいの、これが。舅はもういないけど。ダンナったら、兄貴とお姉さんいるのに、結局親の面倒見ることになっちゃってんの。貧乏くじなのよ。兄姉なんて、さっさと家出ちゃってさ。ずっと姑が一人で住んでて。それで今回のリストラでしょう? さっそく「帰ってきてここに住め」ってこうよ。都合よく使われてんのよ。これから子供たちの学費もかかるから、そのほうがいいって。サイアクよ。
 え? まあ、一応持ち家だけどね。家賃もタダだけどさ。でも、いやよう。古い家だしさ。猫の額よ。収入、なくなっちゃうから、仕方ないんだけどね。
 あたしもなんか、仕事探そうかと思って。
 こういうとき、田舎ってやだよね。仕事なんてないんだもん。でもマジで、仕事しなきゃだわ。あ〜あ、あたしもなんか特技とか、資格とかあればなあ。ねえ、あんたは今、仕事してんの?……そっか、いいなあ、あたしも辞めない方がよかったかな。子供がまだ小さいから、在宅で探したいな。ええっ、何それ? 詐欺とか多いの? ああ、大丈夫、あたし、パソコンだめだし。そういう仕事、できないのよ。
 えっ? なにそれ? 退職金?
 いいえ、まだ話だけで、リストラはもうちょっと先らしいから、詳しい話は聞いてないのよ。そうか! こういうひどいクビ斬りだったら、若くても退職金、出るよね? そうかあ、なんか急に気分がすっきりしてきちゃった。
 やだそんな、自分で商売とかできるほどは出ないよ。でもそうよね、少しは安心できるよね。もちろんよ、とっておくわよ。ダンナが次の仕事するまでさ。やあね、あたし、金遣い荒いなんてことないわよ。こう見えて、しっかりしてんだから。
 そうかーこれから、ダンナにちゃんと聞かなくちゃ。アドバイスしてくれて、ありがとね!
 東京へ行ったら教えてよ。
 遊びに行くからね、じゃあね。

 ――あ、もしもし?
 あたしだけど。しばらくね。
 今さ、電話してて、いい?
 ダンナは? ああゴルフね。接待なの? すごい身分! ゴルフセットって高いのよね。セレブよねえ。あんたもセレブな奥さん、してんの? そうそう、最近はマンションがあぶないみたいだけど、あんたんとこ、大丈夫だった? あ、そう、よかったね。ちょっと古くたって、頑丈なのが一番よ。
 うちのダンナ? 今? 庭に出てなんかやってるわ。休みはいつもこうなの。タマネギとか、大根とか作ってるわ。家庭菜園なんて、かっこいいもんじゃないわよ。どうせだったら、イングリッシュ・ガーデンでも作って欲しいわ。それだったら、あたしも協力するのに。まあ、そうね野菜は食べられるわよ。そんな、家計の助けになんかなるもんですか。毎日大根ばっかり食べるわけじゃないのよ。おしんじゃあるまいしさ。やんなっちゃう。庭があることなんか自慢にもなんないわよ、このへんじゃ。
 ほ〜んと、あんなことばっかり、夢中になるのよね。お金になんないことばっか、一生懸命なのよ。会社? そうそう、やっぱり、リストラになって。ううん、就職っていうんじゃないの。会社辞めた人たちと一緒に、前の仕事の、下請けみたいな会社始めたのよ。そこに行ってんの。さあ、よくわかんないけど。うちは事務職だったじゃない? だから、そこの事務担当じゃないかな。そうよね、今時、なんでも働ければね。
 お宅のダンナの会社は、景気いいんでしょ? またまた、そんな。景気悪いっていったって、うちよりはいいわよ。景気上向きって、ニュースで聞いてるわ。うちだけよ、よくないの。いえいえ、長く勤められるのが一番よ。うちは大変。家が大きくなれば光熱費もかかるし。子供にも今までよりお金かかるしねえ。姑もいるし。食費もかかるし。子供に、あれ欲しいこれ欲しいって言われて、今時「がまんしなさい」って言えないじゃない? あら、あんたんとこは我慢なんかしなくていいでしょうに。躾じゃないのよ、本当に我慢してもらわなきゃなのよ。
 そんな、実家っていったってそんなに大きくはないの。リフォームしただけなの。そうよ、子供も大きくなるもん。あ、ほら、退職金よ、退職金。ほんとに出たわ。そう、聞いててよかった。
 それで、これから仕事に使うからって、ダンナが車買ってさ、それから、いざ実家へ住んでみたら、見た目よりボロくて。屋根とか、直したのよ。それから一部屋増築して、そこを姑の部屋にしたわけ。なんか、一番キレイな部屋にいるのよ、何にもしないでさ。まだ元気なんだから、自分のことは自分でしてほしいわけよ。年金もらってるはずなのに、食費も出さないで。
 そんなことないの、退職金っていっても、そんなに沢山は出なかったわよ。あんたんとこのダンナの会社とは違うもん。でもまあ、これくらいはね。
 そうなのよ。もうこれ以上は手をつけられないでしょ? やあね、それくらいの経済観念はありますのよ。だからさ、あたしも少し働こうと思って、近くのお蕎麦屋さんにパートに出たのよ。
 びっくりでしょ? お蕎麦屋さんよ。あれ? 言ってなかったっけ? たいした店でもないけど、一応老舗みたい。あんたも知ってるかも。そう、けっこう美味しいとこ。ま、近いのが取り柄で。通うのは楽だったのよね。
 でもねえ、春頃、辞めちゃったの。だってね、11時から3時まで。時給600円よ。田舎ってこうよ。出前なんかまっぴらだしさ。夜までやれれば、もうちょっとくれるって言われたんだけど、夕飯も作らなきゃだしさ。
 姑なんかあてになんないわよ。それに、逆に家事を手伝ってもらって、なんだかんだ言われるのも、嫌じゃない? だいたい、だれのせいで、こんな苦労するのよね。あの姑の息子のせいじゃない?
 そりゃせっかく雇ってくれたんだけど、毎日、お客の注文聞くのと、洗い物ばっかりでさ、やんなちゃったの。やでしょう? こんなの。あんただって、きっと勤まんないわよ。あたしもだめだったけど。蕎麦は打てないから、しょうがないじゃない?
 でね、今度は駅前のパン屋さんに行ってるの。ケーキもやってて、喫茶コーナーもあるのよ。そっちのほうがいいでしょ? 買い物に行って、偶然、募集のポスター見つけてさ。ラッキーよ。昔は、よく行ってたわ。もちろんお客でね。そこのケーキ、けっこういけるのよ。雰囲気もしゃれてるの。
 うん、うん、あたしに合うでしょ? ところがさあ、なんか変なの、最近。最初は11時から3時まででOKって言ってくれて、駅までのバス代も出してくれてたのに、来月から交通費カットなんだって。ねえ〜ひどいでしょう? それに夕方までいてくれなきゃだめだって。夕方までがんばればバス代稼げるけど。なんかねえ……どう思う?
 ええっ、そんなことないよ、ちゃんとやってるよ。さぼってなんかないってば。昔のあたしとは違うのよ、そうよ、生活かかってるんだもん。あ、計算は苦手かな。レジもねえ、最近のってパソコンみたいで、使いにくくて。ケーキの名前も覚えにくくて、そこがちょっと問題ね。もっと働きやすいように、工夫してほしいもんだわ。
 でもでも、そんなひどいミスとかしてないのよ。でもどうせ店番じゃない。厳しくしなくてもねえ。
 もちろん、わかってるわよ、楽な仕事なんかないわよ、当然よ。ただもう少し、余裕を持って仕事をしたいのよ。ホント、もっとまじめに勉強して、なんか資格でもとっておけばよかったわ……え? 今から? ええっ、そんな……でも、そうよね。
 うん、やってみなきゃわかんないよね。そっか、ダンナがまじめに働いてるうちに、あたしが資格とって、がっちり仕事するっていうのも手よね。そのうち、あたしのほうが稼いだりしてね。ははは……。
 ああ、大丈夫よ、簡単じゃないってことくらい、わかってるってば。
 そう! 前向きが大事よね! ありがとね、相談に乗ってくれて。うん、じゃあまたね。ダンナによろしくね。

 ――あ、もしもし?
 なによ、最近、留守が多いじゃない?
 家の電話も留守電だし、携帯も出ないし。あら、子供の塾? 優雅じゃない? 優雅よ。余裕ありそうで。
 ああ、だめだめ、「普通が一番」とか「無理しなくても」なんて負け犬のいい訳よ。あたしはねえ、いつもそう考えてるんだから。これでもガッツがあるのよ。そうよ。塾も受験もさせるべきよ、本人がやる気ならね。
 でもねえ、聞いて欲しいことあったのよ。なにかあったどころじゃないのよ。ダンナの会社が倒産しちゃったの! マジよ! マジで! 最初から無茶だったのよね、だいたいさ、前の会社ダメだった連中で作ったのよ?
 ダメに決まってるのよ。運もないのよねえ……ほんと、力抜けちゃうわ、さすがのあたしも。今? 今は失業保険のお世話になっていますわあ……恥ずかしいでしょ? あんただから言ってるのよ。
 それがねえ、ヘルパーの資格取るとかいってんの。信じられる? いい歳した男が。あら、最近男もやるの? ほんと? まあ、確かに、力仕事多そうだもんね。それにほら、うちのダンナ、人当たりだけはいいじゃない? 年寄りにも人気あるっていうか。げんに姑もすっかりあてにしちゃって。兄姉はぜんぜん顔も出さないでさ。だから、世話するの、案外合ってるかもしれないのよ。
 でもねえ……これから資格とって、それから就職でしょ? いつになるんだか……だいいち就職先があるんだか。失業手当が出てるうちに、なんとかしなきゃ。やさしい? ダンナが? う〜ん……そうとも言うかもね。甘いのよ、ただたんに甘いだけ。
 あたし? そうね、あたしがしっかりしなきゃなのよね。パン屋さん? そうそう、夜までやってくれとか言われちゃってさ、がんばろうと思ってたんだけど……。
 実はさ……できちゃったのよ、なにがって4人目よ、4人目。
 ウソじゃないよ、ウソでこんなこと言わないよ〜ホントなのよ。やあね、恥ずかしい。
 もう〜家計がまた大変よ〜。国から出るお金なんて、そりゃ3人目からもらってるけど、焼け石に水よー。
 だめよだめ、あきらめるなんて、それっておろせってことでしょ? 女がねーそんなこと言っちゃだめよ。子供は授かりものだもん。生んであげなきゃ。ほら、ダンナも、これから子供のためにがんばってくれるかもしれないでしょ? だから、生まなきゃ。できちゃったんだもん、しょうがないじゃない? 
 で、そんなわけでさ、パン屋さんも辞めちゃったの。うん、ちゃんと、あたしを当てにしてくれてたってとこ、あったと思うのよ。夜までやってくれなきゃ困るなんてさ。ちがうよー意地悪で言ったんじゃないよ。日曜日も出られないかとも言われてたのよ。交通費は出してくれなかったけど。途中からはダンナが迎えに来てくれてたの。惜しかったよね、せっかくの勤め先をさ。でもしょうがないよ。子供のことだもん。
 でもね〜ほんとに困ったわよ。上の子、受験もあるでしょ? お金の問題がね……退職金? あるわけないでしょ? あんな少しのお金。もうとっくよ。だって二度目の失業なのよ? うちのダンナってば。今度は自分たちでやってた会社だから退職金もなくて。
 ……そうなの、実はちょっと怪しいの。退職金の残りはダンナが管理してんのよ。ぜんぜん、あたしに教えてくれなくてさ。「もうない」って言うけど怪しくて。こういうとこ、信用ないのよね、なんか自分で溜め込んで……変でしょ? ひょっとして自分で使ってんのかな?
 どう思う? え〜っ運用? そんな器用なこと、あのダンナできるのかな〜無理っぽい。ちがうよ、きっとあたしに使わせたくないだけよ。どっかに隠してあんのよ。こんど探してみよう……あらやだ、大丈夫よ、黙って、あたしが使うわけないでしょ? 家計が苦しいから、考えてもらうだけよ。ちゃんと相談するってば。
 でもねえ、ダンナが資格とるの本気なの見てたら、あたしもやってみようかって思って。そう、前にも言ってたよね。あの時は具体的に思い浮かばなくて、やれなかったのよ。でね、子供の友達のお母さんに聞いてみたの。そしたらその人、通信教育で、行政書士の資格、とったんだって。
 ねえ! すごいでしょ? それも一発でだって。え〜? 特別頭いいふうに見えなかったよ。すごく頑張りやにも見えないのにさ。歳はあたしたちと同じくらい。もう、びっくりでさ、急に明るい未来が見えてきちゃった。あれって、資格取れば家で仕事できるでしょ? その人はね、これから事務所も探すんだって。マジで勤めるらしいの。まあ、あたしはそこまでしなくてもね。でもやってみる価値はあるでしょ? 本気よ、本気!
 ああ、こうやって話してると、やる気出てくるわ!
 うん、がんばる、ありがとうね、あんたもがんばってね? 息子さんの受験、頑張って、じゃあね。

 ――あ、もしもし?
 電話番号変えたのね? 知らなかったよ。うん、新しいの聞いたの。連絡網よ。
 なに、どうしたの? 引越しじゃないでしょ? え〜っ、変な電話が多いの? お宅、大丈夫? ダンナよりあんたよ。あんたモテたもん。ストーカーじゃないでしょうね? だめよ、セレブだからって調子に乗っちゃ。ダンナの小遣いもセーブしなくちゃだめよ。
 あたし? 元気よ、赤ちゃん、無事に生まれたのよ。女の子。大丈夫、安産よ、なってったって4人目ですからね。でも報告したくてさー。もう5ヶ月よ。
 家は上から女、男、男、女ってぐあい。姑がさ、「昔なら国から誉められた」なって言ってんの。今だって誉められますよね〜。でもやっぱり子供はかわいいわ。生んでよかったわよ。あんたもどう? ええ? 歳? 関係ないわよ、まだ若いのよ、あたしたち。あんたんちはお金の心配いらないんだもん。いいじゃない?
 とは言うものの……教育費はかかるわよね。家じゃ大学なんて無理かも……ああ、ダンナ? まあなんとかやってるわよ。今回はちょっと運が良くて、資格取れてから、養護老人ホームにちょうどアキができて、そこに就職できたの。そうよ、とにかくほっとしたわ。今は、ヘルパーの1級だか、狙ってるみたい。給料いいのかしらね、資格が上だと。よくわかんないけど。
 え? 行政書士の通信講座? ああ、あの話ね、それがさーだめなのよ。子供の友達のお母さんの話、あれ、ホントかしらね、ちょっと疑っちゃうわ。一応、教材は取り寄せたのよ? でもね、けっこう難しいのよ。これが。あれは一人じゃとても無理ね。きちんと学校でも行かなきゃ。通信教育の会社の陰謀じゃないかと思うのよ。それに毎日、家事やりながら勉強する時間つくるのって大変よ。赤ちゃんもいるじゃない? ミルクあげて、おむつかえて、離乳食作って、行政書士なんかやれないって。あんたでも無理よ。
 そりゃ、簡単じゃないのは、最初からわかっていたけどさ、あのお母さん、ホントすぐに資格が取れて、すぐに仕事があるようなこと言うんだもの。信じちゃうわよね。いるのよねーああいう調子のいい人って。乗せられた立場にもなって欲しいわ。教材費、なんだかんだで8万円もしたのよ? も〜弁償してほしいもんだわ。もちろん、あのお母さんによ。やだ本人に、そんなこと言わないわよ、でもねえ……。まあ、いつか勉強できる日がくるかもしれないから、一応、とってあるのよ、教材。いつかね、見返してやるんだから。
 そうなのよ〜、問題は家計よ。姑ったら、あたしばっかりが無駄遣いしてるみたいなことばっかり言ってさ。勤めてたときは、やっぱ疲れて、帰りがけに出来合いのお惣菜、買っちゃうじゃない? そうすると、すぐ文句言うの。そりゃ週末にまとめ買いした材料もあるけど、くたびれたら料理なんかできないじゃない? それなのに、無駄ばっかりしてるって。あたしだって食材を腐らせたくて腐らせてるわけじゃないのに。
 あたしだってね、工夫してるのよ、生協がいいって話聞いたときは、さっそくやったし。でもあれって安上がりってわけでもないのね。いいもの買えば、やっぱり高いのよ。月々の引き落としが大変になっちゃって……ああ、大丈夫、もうやめたから。
 でも、頭にきたから、「あたしだって子供の手が離れたら、仕事なんかいくらでもできます」って言っちゃったの。姑によ。あら、ホントよ、できるわよ。落ち着いてすれば、あたしだって何でもできるのよ。そしたら姑ったらさ、「赤ん坊は見ているから、仕事に出ろ」って、こうよ。どう思う? 自分の息子の稼ぎの悪いのを棚に上げて、とうとうあたしを働かせる気なのよ! こういうつもりで実家に連れ戻したんでしょうね。ああ、悔しい。
 あんたんとこの姑、こんなこと言わないでしょ? ええっ、女房を働かしちゃいけないって言うの? そういうタイプかあ。それもなんかねえ……何時代の話かってかんじよね。ああ、でも言われてみたいなあ。もちろん、稼ぎがあってのことだけどね。
 自分がキャリア・ウーマンでさ、バリバリ仕事してんのに、「女房は家にいろ」なんて言われて、振り切って働くの、かっこよくない? 
 ああ、でもそんな夢の話はどうでもいいのよ、問題は仕事よ。
 そんなに困ってるかって、そりゃそうよ。赤ん坊までいるのよ。
 そういえばあの退職金、ひどいのよ、やっぱりダンナが隠してたのよ。ムカついたから、そのへそくりで、行政書士の教材、買っちゃった。へそくりよ〜あたしに黙ってんだもん。夫婦で稼いだものは夫婦のものでしょ? あたしにだって権利があるもん。
 もともと、退職金は夫婦2人のものなのよ。年金だってそうよ。やあね、知らないの? 知っておいたほうがいいよ〜。だからあ、あのへそくりはあたしが半分もらったっていいのよ。ふん、もとはあのアホダンナが稼ぎが悪いせいじゃない。いいのよ、ありかはわかってるんだから。怒る権利なんか、あるもんですか。
 それで、相談乗ってほしいんだけどさ、保険の外交っていまどうかなあ? 難しい? だからあ、簡単な仕事があるなんて思ってないって。昔は、外交やってるお母さんって、けっこういたじゃない? あたしの友達のお母さんがやってたし。それで家計助けてたみたいなのよ。思い出したわ。
 それでね、子供の友達のお母さんがね、ああ違うの、行政書士とは別の人よ。その人がね、やってみないかって誘ってくれたのよ、いい人でしょ?
 その人さあ、3年前くらいからやってるらしいんだけど、ブランド・バッグ持ってるし、コートもいつもステキで、スーツ着て仕事してんのよ。どんどんよくなるかんじ。で、気になって、「何の仕事してるんですか」って聞いてみたの。そしたら、保険の外交だって。 うまくやれれば、あたしも成功できるんですって。そうよね、あれって昔から女性の仕事よね、ていうか主婦かな。時間も自由にやれるみたいだし、どうかな?
 ええと確かね、○△保険。大手よ。やあね、保険会社が危なかったのって、バブル崩壊のときの話でしょ? もう大昔よ。今はもっといい商品が出て、売れてるんですって。テレビでもいろいろ宣伝してるじゃない? あれとは別の会社だけどさ。流行ってるのよ、新しいタイプの保険。やりがいありそうよね。
 もちろん、気をつけるわよ。勉強もしなくちゃなの。
 でさ、もし始めたら、の話だけど、保険、入ってくれない? いいじゃない、もうひとつふたつ入ったって。余裕あるでしょ? いいの紹介するから。
 あ、もちろんうちのダンナも入れるわよ、そりゃあ、当たり前よーやあね。

 ――あ、もしもし?
 なんだ、いるんじゃない。
 今、出たの、だれ? 息子さん? やあねえ、家が広いと、母親が家にいるのかいないのかもわかんないものかしらね? 今は一軒屋なんでしょ? 建売っていったって、新築だもん、羨ましいわあ。庭はあるの? あんたのことだから、きれいなイングリッシュ・ガーデンにしてんるんでしょ? 今度見に行くわ。
 まあ、それはそれとして……え? 保険の話? ああ、あれ、いいのよ、いいの。気にしないで。あたしも連絡しなかったんだから。入ってもらおうと思ったって、そっちまで、わざわざ行けないしね。そっちの担当者に仕事取られちゃうもん。
 ホントに気にしないで。だってね、実はもう辞めたのよ。だから保険の外交よ。だって聞いてよ、ほんと〜に、酷かったんだから。紹介してくれたあの人、あの人が一番ひどいのよ。上手くやれば高収入も夢じゃないみたいなこと言っちゃって。
 何が大変て、まず覚えることがすっごく多いの。保険なんて、生命保険とか、積み立て式くらいしか、普通知らないじゃない? もう、最初のレクチャーで死にそうになったわよ。保険に入らせるためのノウハウだけじゃないんだから。
 ちまちました細かい保険の種類を覚えなきゃなんないし。パンフレットは山ほどあるし。あの裏に書いてある、小さい字の説明、あるでしょ? あれ、全部読まされるのよ! 信じられる? 法律だかなんだかが、細かく決まってるんですって。バブル崩壊したあとで、保険会社っていろいろ問題あったじゃない? だから、簡単に契約できないようになってんのよ。ぜんぶ説明できなけりゃ、売っちゃだめだって、こうよ。もうだめよね、あの業界も。
 それに、最近の人は、簡単に保険なんかに入らないわよ。現実はこうだったのよ。会社が潰れたら保障してくれるのかとか、そんなことばっかり、しつこく聞くのよ。あたし、そういう時、調子のいい返事なんてできるタイプじゃないの、わかるでしょ? その場限りの適当なことなんて、言えないわよ。答えにつまると「そら、いい加減な会社だ、信用できない」って、こうでしょ? やってらんないわよ。
 だめだめ、これはまだいいほうなの。玄関先でも入れたら恩の字よ。だいいち、平日に家にいる人なんて少ないの。田舎だってそうよ〜。パンフがぎっしり詰まったカバン持ってさ、一日中歩いても、ろくに説明もできなかった日もあったのよーもうーくたくたよ。
 なのに、ノルマがあるのよね。こんなこと、あの人、言ってなかったのよ。そりゃ、それほど厳しくはないけど〜契約取れるまで帰ってくるななんて、そんなことはないけど。でもさ、基本給なんか微々たるもんで、あとは保険加入、一件に付きいくら、って支給されるわけ。ノルマよね、一種の。
 がんばったわよ〜、自分でも信じらんないくらい、毎日歩いたの。給料少ないのに、お金は入用でさ。あら、だって普段着でよそ様のお宅を訪問できないでしょ? 変な格好で行ったら、変な会社だって思われちゃうもん。だからあ、一応スーツ買ってさ、靴も何足もだめにして……悲しくなっちゃう。お化粧だってしなくちゃでしょう?
 ずいぶん投資しちゃったのよ。いろいろ買って。それは全部ダンナのお金よ。当たり前でしょ? 誰のせいで、こんな惨めな思い、しなくちゃいけないのよ! そうでしょ? 退職金の残り、どこに隠してるか、ちゃんと知ってるんだから。あれは、半分、あたしのものなの。ダンナは車買って、家直して、それで約半分。あとはあたしの取り分よ。家に帰れば、一日家で赤ん坊の世話してるだけでえばってる姑が、「今日はどうだったの?」なんて聞くのよ。ニコニコ顔でさあ、嫌味よね。知ってて言うのよ。今日もダメだったってこと。
 でね、あたし、作戦変えたのよ。ぜんぜん知らない人の家に行っても、家に入れてもらえないし、話もなかなかできないじゃない? だから、知り合いにまず、頼むことにしたの。親戚でしょ、子供の友達の親の家でしょ、けっこうリストアップできたわよ。心配ないの。みんな、けっこうやってる手なのよ。ちゃんと教えてもらったんだから。あのね、こうするの、「最初の一回分、あたしが払います。だから名前貸して」って契約。こうすると加入者ゲットってことで、次の給料にプラスアルファがあるじゃない。だから最初の、ちょっとしたマイナス分は補えるのよ。それですいぶん契約増やしたのよ。
 ところがよ! みんなひどいのよ、ここからが大変なの。あたしが払うのは最初の一回、ってはじめにちゃんと言ったのに、ほとんどの人が払わなくなっちゃうんだもん。約束違反よね。で、聞きに行くと、「むりやり入らされた」って言うのよ。なによね! あたしだって必死で、ちゃんと説明したのよ。納得したはずなのに! 当たり前じゃない。本当にひどいんだから! あれは何かしらね、短期間でも、何かあったら、いえ、もしかしたら入院でもして、お金、貰おうとたくらんでいたのかしら。つくづく嫌になったわ。
 だってねえ、それでどうなると思う? あたしが全部、払わなくなった人の分まで、保険料払っていなかきゃなんないのよ! こんなことになるなんて、想像もしてなかったから、あたし、自分のダンナとか姑とか、子供の名前まで借りて加入してたの。その分も、かさんでくるでしょう?
 もう、その金額が給料より多くなって、どうしようもないから、保険の外交、辞めたのね。ところが、辞めても保険は解約しないと、保険料請求されちゃうのよ。あわてたわよ。当たり前かもしれないけどさ、ここまで大変になるとは思わないじゃない? ひどい話よね。結果的には持ち出し。もらったお金より、出したお金がおおかったみたい。みたいって……だって計算したら、よけい悔しいじゃない。
 こんな仕事を紹介されて、ホント、あの人恨んだわよ。……でも、もういいの、辞めたし。
 そうね、あんたもそう思う? あたしって、ああいう仕事、向いてなかったのよね……
 え? ダンナ? ダンナは元気よ。人の苦労も知らないでさ、相変わらず病院で他人の世話してるの。世の中の役に立ってる? そうとも言うかもね。ほかにすることないんだもん、しょうがないのよ。退職金の残りももうないし。
 やだ、さっきから言ってるじゃない。持ち出しだったのよ、結局。先行投資もしちゃってさ。それにあたし、とうとう始めたのよ。パソコンよ、パソコン。
 買ったのよ! インターネットだって、ちゃんとできるんだから。案外、簡単だったわ。あたしってやればできるのよ。 やだ、これでお金儲けするのよ。このパソコン代で、退職金はパアよ。まあ、あのダンナが、まだどっかに隠してたらわかんないけどね。
 まだ気づいてないみたい。それは大丈夫よ。やっぱバレたら、やばいと思う?……うん、あたしもそれはちょっと思ってて……だから早く儲けなくちゃなのよ。
 決まってるじゃない! 株よ、か・ぶ。競馬じゃないわよ。個人投資家とか、主婦で株やってる人、増えてるっていうじゃない? だからあたしも。これなら絶対よ。家でできるしね。そうそう、パソコン買って、ちょっと残ったお金と、生活費、これをつぎ込むの。まずは小さく始めるのが大切なんでしょ? わかってるって。お金ないんだもん。最初から大きく出られないよ。
 大丈夫、だいじょうぶ、絶対取り返すから。競馬とかと違って、これはビジネスなんだから。ギャンブルなんかじゃないって。あんたはやんないの? ええ? どうして、なんかもったいない。あ、ポンドとか買う話も、考えてたのよ。株が上手くいったら、次はやってみようかなって。
 それでさあ、話、長くなっちゃって、悪いんだけど、相談なのよ。あんたんとこのダンナの会社、景気いいんでしょ? どうやったら、ダンナの会社の株、買えるの? なんとか、ダンナに話してもらえないかなあ? まわしてほしいのよ。
 そんなに急じゃなくていいのよ、儲けは、今月中にあれば、損失補てんできるしさ、ね? 助けると思って、お願いね?


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「崖っぷちの家」の感想


*タイトルバックに「a day in the life」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別 館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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