石井久恵 作品集表紙に戻る

「オレさあ、一軒家借りたんだぜ。今度遊びに来いよ」
 学生時代の友人・カヤマが自慢をまぶしてそう言った。久しぶりに酒を飲んだ時のことだ。
「一軒家ってお前、一人暮らしだろ? なんだよ、家族が増える予定でもあんのか」
「べつにそういうことじゃないんだよね〜あこがれてたんだよ、地に足がついた暮らしっていうか、床下と天井裏がある家にさ」
「天井裏? なんだそれ?」
「オレさ、生まれたときから集合住宅育ちなんだよ。アパートとか、マンションとかさ。一度でいいから、独立した建物に住んでみたかったんだな」
「オレは実家、一軒家だけどな」
「お、いいなあ、そういうの。気つかわなくていいだろ?」
「お前ね、一軒家ってけっこうめんどくさいぞ。マンションだったら、壁から壁の中だけ自分の家だけど、一軒まるまるだと、壁の外まで面倒見なきゃいけないんだから。台風なんか来たら、メチャクチャになるぞ。セキュリティだって、マンションのほうが楽だろ?」
「そこがいいんじゃないか、それにな、知ってるか? 和風の一軒家って、探すと安く貸し出してんだぞ。狭いけど、庭みたいな空間もあるし。2階に2間もあるんだ」
「2階に2間?!」
 それはちょっと羨ましい。
「思いっきり、古いんじゃないか?」
「築20年以上かな。きれいに改築してあるぜ。ワンルームみたいに、全部が一緒くたに置いてない部屋、極楽だよ。一室まるまる、ホームシアター状態だぜ」
「通勤、大変だろ?」
 カヤマはホームページを作る仕事をしている。パソコンに詳しいだけじゃなく、デザインもそこそこ、ついでにちょっとしたライティングもできるから重宝がられ、頭打ちと言われるその業界でも、手堅く稼いでいた。
「会社、どうすんだよ」
「今、でかい仕事でほとんど会社で寝泊りしてんだ。帰るのは週末だから、私鉄の終点手前でも気にならない」
「私鉄の終点?!」
「いや、特急停車駅から一個目だから、いざとなればタクシーでも帰れるぞ」
 それでも1時間半はかかるらしい。一応都内でも、やっぱりそんなに遠いのだ。これはあまり羨ましくない。
「今の仕事が終わったら、在宅で仕事する時間が増えそうなんだ。そうなったら、広い静かな家がいいだろ? 多少リフォームしてもいいって話だし、けっこういいもんだぜ」
「なるほど、そういう予定があったのか……」
 だから、友達が来るのは大歓迎、別荘感覚で、居候したってかまわない、とカヤマはしきりに誘う。どうやら、まだ彼女はいないのだな、とこっちは軽く探りを入れる。彼女がいたら、郊外の一軒屋など歓迎しないかもしれない。夜遅くなっても泊りにもいけないだろう。
 そんな話を聞いたあとは、街を歩いていてもやたらと一軒家に目が行くようになった。確かに、都心だったら、一軒家なんか特権階級の話だ。だが、郊外にいけばそうでもない。会社の同僚にも聞いてみたが、実際、郊外の中古貸家物件は珍しくないらしい。
「結婚して子供ができたら、案外、マンションよりいいかもしれませんよね」
「事務所とか、倉庫を兼ねると便利かもな」
「アトリエにするって人も多いそうだ」
 そんなことを言う奴もいる。
 オレの脳裏に、週末の和風一軒屋ライフの映像が浮かんだ。で、さっそく、カヤマに電話を入れてみた。
「おお、歓迎だよ。次の週末、来れば? 金曜日から来いよ。ビデオ見て、宴会しようぜ!」
 さっそく話が決まり、金曜日の夕暮れ、オレは旅行に行くような荷物を持って、私鉄に乗り込んだ。
「なんだ、おい、旅行みたいだな」
 迎えに来たカヤマは笑った。
「いや、オレも忙しかったから、のんびりさせてもらおうかと思って」
「ああ、いいよ、オレも今週は完全オフだ。何泊したっていいんだぜ。こっちこっち、車、止めてあるんだ」
「車、買ったのかよ」
「中古だけどな、庭に駐車できるんだぜ」
 駐車場代がかからない……これもかなりの得点だ。
「中古物件に中古車か、セコいかんじだけど、案外……」
「セコくても、けっこうリッチだろ?」
 帰りがけ、リガーショップに寄って、酒とつまみをしこたま買い、ついでにビデオ屋に寄って、最新映画をしこたま借りこんだ。今は寄り道をしたが、直行すれば、駅から車で5分、歩いても軽いウォーキング程度だという。住宅地に入ってすぐ、車は止まった。
「どうぞ! ここが我がスイートホームだ」
「スイートってのは、彼女がいないとな」
 からかいながら、オレは見回す。こじんまりとした門構え、赤い郵便受け、庭は車を置くともういっぱいいっぱいだが、余裕の駐車スペースだ。その向こうに家が立っている。バブル前の古風な建売。南に向いたベランダが見える。門は金属のアコーディオン式だ。
「そのうち、ガレージ風に屋根をつけようかと思ってんだ」
「けっこう日当たりよさそうだな」
「隣がくっついてないだろ? ここがポイントだよ」
「近所づきあいとか、してんのか?」
「いや……あんまり知らないんだ。なんせ、一ヵ月くらい、週末でもちょっと帰るだけだったから。あいさつくらいはしたけどな」
 静かな住宅街だ。両隣は窓から明かりが見えるが、静まり返っている。
「おでかけですか?」
 だしぬけに闇の中から声がして、オレは仰天した。声がしたあたりに目を凝らすと、初老のおっさんが立っていた。
「あ、どうも、今帰ったとこなんす」
 カヤマが会釈をした。
「となりのおっさんだよ」
 耳打ちされ、オレも頭を下げた。目が慣れてくると、胸に小型犬をかかえているのがわかった。闇の中でニコニコしている。
「さ、入れよ! 焼肉しようぜ!」
「お! 豪勢だね!」
「この玄関もいいだろ?」
 ガラスの引き戸とはレトロだ。
「ガラガラっての、いい音だろ?」
 カヤマはすっかり家に惚れ込んでいる。振り向くと、じいさんは固まったように、まださっきの場所に立っていた。
「なんだよ、あのレレレのじいさんは?」
「定年退職して、ヒマらしいんだ。いっつもああやって立ってて、『おでかけですか?』って聞くぜ」
「ほんとにレレレのおじさんだな」
「竹ボウキは持ってないけどな。一度、話聞いたら、テレビ局に勤めてたらしい」
「へえ、すごいじゃんか」
「がんばって家買って、子供は独立、夫婦で悠々自適じゃないのか? 明るいときだと、けっこうダンディにも見えるぜ」
 オレはカヤマのあとについて、上がりこみ、部屋を見て回った。一階は居間とキッチンと、二階は書斎とベッドルーム。
 オレたちは、台所で缶ビールをあおりながら仕度をし、季節外れのコタツで焼肉をした。テレビはがんがん点けっぱなしだ。はじめは一部屋をホームシアターにしていたが、今では居間に、ぜんぶごちゃまぜになったという。
「おれさあ!」
 酔っ払ったオレはかなり大声になった。
「仕事先で、君、集合住宅に住んだことないだろう? って言われたことあんだぜ」
「え? なんでだよ」
「なんでわかるんですかって聞いたら、オレの声、でかいんだって。集合住宅なら叱られてるってさ」
「いいじゃねえか、豪邸に住んでたって言えば」
「いや、ここよりボロイ、木造平屋だぜ!」
「何言ってんだよ! 法隆寺だって京都御所だって古い木造平屋だぞ!」
 オレたちは遠慮なく大声で笑った。そしてしこたま飲んで食って、そのままコタツに雑魚寝した。
 ――バウバウ! ギャインギャインギャイン! ウ〜! バウバウバウ!
 猛烈な犬の声でオレは目を覚ました。コタツの上の腕時計を引き寄せる。
「まだ5時じゃねえかよ」
 ――ギャギャギャワン! ウ〜! バウバウバウ!
 吠え声はかなりのハイテンションのまま、ずっと続いている。すぐ近くからだ。
「おい、カヤマ! 起きろよ」
 オレはコタツの中でカヤマの足をつついた。
「なんだよ〜」
「すんげえ声で啼いてるぜ、なんだよあれ」
「ああ、いつもなんだ、隣の犬」
「いつもお? あれ、尋常じゃないぞ、虐待じゃないのか?」
 ――キャイ〜ン! ギャインギャインギャイン! キャイ〜ン! ウ〜! バウバウ!
 犬の声は、本当に悲鳴のように聞こえる。
「散歩に連れていけっていってんだよ」
「さんぽお? ほんとかよ? まだ薄暗いぜ」
 半信半疑でいると、間もなく、犬の声より大きい声が聞こえてきた。
「いつまで啼いてんの! 近所迷惑でしょ!」
「マジで迷惑だよ」
「ほんとにうるさいんだから! バカな犬だ」
 飼い主の声は筒抜けだ。オレは毛布をかぶった。
「お前、よく平気だな」
「慣れだよ、そのうち目も覚めなくなるぜ……」
「だってよ、飼い主が起きてきてんのに、啼き止まないじゃんか」
「隣のばあさん、のろのろやってっから、犬がじれてんだよ……」
 カヤマは二度寝に入ったらしい。犬はまだ啼いている。オレにはどうしても、ばあさんが箒の柄で犬を殴る図が浮かんで消えなかった。ちょっと様子を見てやろうか――。ちょうど隣に面したあたりに窓がある。オレはコタツを這い出して、ガラス窓を開けた。
 ――ガラガラガラ……!
 想像以上に大きな音が響いてオレはびびったが、かえって抗議の味が出たかもしれないと考え直して、顔を出す。
「あら、おはようございます!」
 意外な近さで隣の庭があった。ここでオレはまたびびった。隣の家との境界線は低い煉瓦塀で、隣が丸見えだ。そこに、よたよたと立ったばあさんが、犬のリードを引こうとしている図があった。満面の笑みを、こっちに向けている。犬は吠えながら跳ね回り、そのたびにばあさんがよろける。べつに虐待はなかったようだ。いや、どちらかというとばあさんが犬に虐待されている。
「若いのに、早起きですねえ」
「いや、あの……犬があんまりなくんで……」
 これはちょっとストレートすぎたか?
「あらあら! すいませんねえ! うちの犬、ほんとに声が大きいんですよ!」
 声が大きいのは、ばあさんだ。
「越して来た人でしたっけ?」
「いえ、自分は友達で……」
「遊びに来たのね、いいねえ、若い人は!」
 この間にも犬は散歩のスタートをせがみ、飼い主に頭突きをする。
「早く散歩、行かれたほうが……」
「もともと家には、犬は三匹、いたんですよ!」
 良く通る声が、明け染めた街に響く。
「これの親と、あと一匹は拾ったんですけど、もうこれの親は、これより吠えまして、実際、カラスがきても吠えるんで困りましたよ。これは子供のうちは大人しかったんですけど、なんですか、親が死んだら、自分が吠えなきゃとでもいうんでしょうか、急に、やたらと吠えるようになりましてね」
「それは大変ですね」
 オレは窓を開けたことを後悔した。ばあさんは犬の声に負けじとしゃべる。吠え声との合唱が広がっていく。
「拾った犬はですね、これがイタズラ者で、よく咬みまして」
「咬む?!」
 そりゃイタズラじゃすまないだろう。
「お宅に前に住んでた人を咬んじゃいまして、もう大騒ぎで!」
「そうでしたか」
 まさかそれで引っ越したとか?
「そう、それでね、保健所に連れてってもらったんですよ」
 いやなオチがついた。オレは、気をつけて、とかなんとか口の中でごちゃごちゃ言いながら窓を閉め、コタツに戻る。
「なにお前、話なんかしてんのか?」
 カヤマが毛布から顔を出した。
「いや、気になってよ」
「気をつけてくれよ、ここらへんさあ、田舎だから、なつかれると面倒だぜ? そのへんが都会とは違って、気を使うとこなんだ」
 確かに、距離感が難しいようだ。ほかにも難しいところがあったようだが。
「お前、付き合ってないわけ? 隣と」
「向こうからなんか言ってきたら、返事するけど、こっちからはしないぜ。まあ、オレもめったに帰ってこないしよ」
「そうだな……」
「それに、この辺けっこう高齢化が進んでんだ。働いて家建てて、リタイヤってのがそろってんだろうな……付き合うったってなあ……」
 うつらうつらしていると、またひとしきり犬とばあさんの声の不調和音が響いた。散歩から帰ったらしい。それからまた、2時間ほどごろごろしてから、オレたちは起きて、コタツの上の宴会の残骸を片付けた。
「コンビにでも行くか?」
「そうだなあ」
 顔も洗わず、着の身着のままで玄関まで出たとき、ガラス越しに人影が写った。
「ごめんくださいませ……」
 か細い女の声だ。
「は・はい」
 カヤマが声をかけたが、影が動かないので、手を伸ばしてガラス戸を開けた。小柄なばあさんが立っていた。
「朝早くに、ごめんなさいね、あのね、ゴミ捨て場の掃除当番なんだけど」
 ばあさんは言いながら、手に持ったホウキとチリトリを、おずおずと差し出す。
「このへんでは、順番にやってるのよ。ホウキとチリトリが順番のしるしなの。これを廻すのよ。お宅、いつもいないでしょ? 順番が来て、いないときは、飛ばしてたんだけど」
「え、そうなんすか? 自分、聞いてなくて」
「あらそう? でも今日はいらっしゃるんだから、お願いしてもいいわね?」
「はあ……まあ……」
 オレはカヤマの横で、まじまじとばあさんを見た。言葉遣いはちゃんとしているのに、なんとなく変だ。どこがというとわからないが……。
「じゃあ、ゴミ捨て場をさっと掃くだけでいいから。終わったらお隣へ廻してくださいね」
 ばあさんは言うだけ言うと、回れ右をして去っていった。玄関も門も閉めなかった。
「あのばあさん、隣の人か?」
「そ、犬のばあさんと反対の」
「じゃ、レレレのじいさんの奥さんか」
「まあな、それより、聞いてないよなあ」
 カヤマはホウキとチリトリを玄関に立てかけた。
「大変だな、一軒家も」
「マンションじゃないよな、こういうの」
「オレんとこは、町内会で話し合って、マンションの住人全員がパスしてるぞ」
「そんなのありか?」
「管理人が駄賃みたいに金を集めて、トイレットペーパーだかなんだが、お礼にあげてるらしいよ、当番の人に」
「金払うのか、それでもそのほうが楽だな」
 一軒家暮らしのマイナス点だ。掃除は今日中にやればいいだろうっていうんで、オレとカヤマはコンビにへ出かけ、朝飯用のパンと、菓子を買い、でたらめなブランチをとった。
「けっこういい天気になりそうだよな、どっか行くか?」
「いや、洗濯とかしようかと思うんだ」
「せんたく? いやに健全だな」
 しかし、なんとなくそういうことをして過ごしたい気分ではある。
「ベランダで干したら、気持ちいいだろうな」
「布団も干してみるか」
「がらでもねえな……」
 そのとき、再び、玄関先に人の気配がした。
「ごめんくださいませ……」
 オレたちは思わず顔を見合わせた。
「レレレの奥さんだ」
 カヤマは立って玄関に出た。
「朝早くに、ごめんなさいね、あのね、ゴミ捨て場の掃除当番なんだけど」
「は?」
「このへんでは、順番にやってるのよ。ホウキとチリトリが順番のしるしなの。これを廻すのよ。お宅、いつもいないでしょ? 順番が来て、いないときは、飛ばしてたんだけど」
 カヤマは振り返ってオレの顔を見た。オレも立って玄関に行った。
「ええと……それがね、あたし最近、どうかしていて、今お宅にホウキとチリトリをお届けしようと思ったのに、見当たらなくて……もしかしてどこかに置き忘れたのかと……」
「あの、ここにありますよ」
 オレは言った。
「え? あら?! どうしてあるの?」
 ばあさんはオレらの顔とホウキを交互に見る。
「さっき持ってきて、もらったんすけど……」
 カヤマが言った。なんだか悪いことでもしたような気分だ。
「誰が?」
「あの、おばさ……いえ、奥さんが」
「え?! あらっ?!」
 ばあさんの顔は見る見る真っ赤になった。そして両手で頬を押さえた。妙に大げさなリアクションだった。
「あたしが? あたしがお届けしたの?」
「ええ」
「いつ?」
「ですから、さっき」
「い・いやだわ、あたし、ホントにどうかしてる。自分で持ってきて、忘れちゃったのね、ああ、恥ずかしいわ! おかしいでしょ?」
「いいえ」
 オレたちは揃って首を振る。
「ああ、恥ずかしい、恥ずかしいわ……」
 繰り返しながら、ばあさんは回れ右をして去った。玄関も門も閉めなかった。
「忘れるか? ふつう……」
 カヤマは開けっ放しの玄関で立ったままだ。
「ど忘れ、じゃないのか?」
 カヤマは首を振りながらサンダルをつっかけ、ホウキとチリトリを持った。
「オレ、掃除、やっちゃってくるわ」
「ああ」
 カヤマが出かけている間、オレは台所をかたづけた。それから、二人で洗濯をし、布団を干した。ベランダに立つと、やかましい犬の家が良く見える。ベランダでビールもいいなと考えていたら、窓からばあさんが覗いているのが見えた。また話しかけられたら厄介だ。そうそうに引っ込もう。夜になったら、また宴会だ。
「おい、今日はなに食う?」
「夕べは焼肉だったからな……鍋かな」
「鍋か、ちょっと季節外れだけど、いいな」
「豪華に海鮮鍋にしようぜ」
「そりゃいいなあ」
「ごめんくださいませ……」
 階下で声がする。オレたちは、また顔を見合わせた。ほんの少し、背筋が寒い。オレたちは音を立てて階段を降り、玄関に立った。
「はい?」
 見覚えのある影に、カヤマが声をかけ、玄関を開けた。デジャヴェのように、小柄なばあさんが立っていた。
「忙しいのに、ごめんなさいね、あのね、ゴミ捨て場の掃除当番なんだけど」
「……」
「このへんでは、順番にやってるのよ。ホウキとチリトリが順番のしるしなの。これを廻すのよ。お宅、いつもいないでしょ? 順番が来て、いないときは、飛ばしてたんだけど」
 オレたちは凍り付いていた。背中がぞくぞくする。
「それがねえ、だめねあたし……今、順番がどこまでいったのか、わからなくなっちゃったのよ。今朝まで、家にホウキがあったように思うんだけど……いえ、昨日かしら……いつ回ってきたか、ご存知ありません?」
 困ったように、ばあさんはオレたちの顔を交互に見た。
「いやあの……」
 カヤマは言葉を選んでいる。本当に真剣に考えている。それがオレには良く分かる。
「あの……今朝、受け取りました、ホウキとチリトリ、で、オレ、さっき掃除して、隣のばあさ……いえ家に持って行きました。だから、順番は当分きませんよ」
「ええっ?!」
 ばあさんの顔は見る見る紅潮し、すぐに青くなった。
「あたしが、持って来たの?」
「はい……」
 さすがに、その後また聞きに来た、とは言えない。オレは言葉がなくてやたらと視線を泳がせた。そして気がついた。ばあさん、エプロンがえらく汚れている。いやボロボロだ。良く見ると服もどことなく薄汚れていた。それでさっき変な気がしたのだ。
「ああ……いやだわ、恥ずかしい。変に思ったでしょ? ほんとに忘れっぽくて……笑わないで……誰にも言わないでね」
 口の中で繰り返しながら、ばあさんは回れ右をして去った。玄関も門も閉めなかった。
「三回目かよ……」
 オレは玄関を閉めた。
「レレレのじいさんに、言ったほうがよくないか?」
「なんて言うんだよ。ああいうの、すでに家の中でな問題になってるってこともありだぜ」
 カヤマは玄関に立ったままだ。確かに説明は難しい。
「買い物でも行くか……」
「ああそうだな」
 気分を変えよう。きっと、ほんのちょっとした勘違いなのだ。オレたちは無言のまま合点して、街へ出た。
 改めてみると、街中は確かに、高齢化が進んでいるようだった。行き交う人は、みな、熟年以上だ。そしてみな、とってつけたように、犬を連れていた。
 オレたちはスーパーに入ると、鍋の材料を選んだ。海老も蟹も鮭もホタテもみんな駕籠に入れた。酒はビールと日本酒で渋く決める。映画は、派手なアクションものを見ることにした。

「ごめんくださいませ……」
 ほろ酔い気分の耳なのに、いやにはっきり、あの声が聞こえた。一瞬、オレたちは聞こえないふりをした。
「こんばんわ……ごめんくださいませ……」
 確かにいる。あきらめないらしい。
「また、ホウキかよ」
 カヤマは苛立ちを隠さずに立ち上がり、玄関を開けた。その音が少し荒っぽい。
「なんですか?」
「ごめんなさいね、お食事中?」
「いや、いいすよ」
 オレも立って玄関へ行った。やっぱりばあさんだ。
「あのね……」
 恥ずかしそうに、ばあさんは交互にオレたちの顔を見る。
「あのね、うちで飼ってるウサギがね……」
「ウサギ?!」
 オレたちは同時に聞き返した。
「そう、ウサギを飼ってるの、知ってるでしょ?」
 いや、知るものか。
「そのウサギが、逃げ出しちゃったのよ、見なかった? あたしのウサギ」
 どこか幼女のような言い方だった。
「あのね、お宅の方へ跳ねて行ったのよ。車の下とか、ちょっと見てみてもいいかしら?」
 そういいながら、返事も待たずに、ばあさんは玄関前から離れ、腰をかがめてあたりを窺いだした。
「どこ行ったの? ウサちゃん? どこなの?」
 あたりはもう暗い。
「ウサギのウサちゃんかよ」
「マジか? ウサギなんかいたのか?」
「知らねえよ」
 カヤマは玄関脇のライトをつけた。ばあさんが車の下を覗いている。
「ウサ子ちゃん? どこ行ったの?」
 玄関を閉め、カヤマは居間に戻った。
「いいのかよ、ほっといて?」
「別に探すのはいいさ」
「まあ、それもそうだな……」
 オレたちは鍋に向かいなおし、箸を持つ。
「どこ行ったの? ウサちゃん? どこなの?」
 車から離れ、隣の家との境目あたりを探しているらしい。あのあたりは真っ暗なはずだ。
「ウサちゃん? どこ行ったの? 出てきてちょうだい」
 今度は家の裏手だ。声だけが家の周りをまわっている。
「おい、お前、ウサギ食べちゃったんじゃねえだろうな?」
 酔いに任せてオレが言った。
「この鍋に入れてか? ジビエ入りか」
「『危険な情事』にあったろ? ウサギ煮ちゃうの」
「だっけか? やべえよ」
「庭でさっき捕まえたんですけど、探しているウサギ、これですか? って鍋見せたりしてな」
 やけくそになって二人で笑う。
「どこ行ったの? ウサちゃん? どこなの?」
 声が玄関に戻ってきた。
「ああもう! やってらんねえよ!」
 カヤマは立ち上がった。
「おい! あんまきつい言い方すんなよ」
 てっきり追っ払うんだろうと思い込んでいたオレは、止めに入るつもりで後を追った。だがカヤマは意外なことを言った。
「オレも探しますよ」
「ええっ? 一緒に探してくれるの? ホントに?」
「車の下は見ましたか?」
「ええ、見たのよ、でもいないのお」
 カヤマは懐中電灯を持ち出し、真剣に車の下を照らす。
「おい! 縁の下じゃないのか?」
 オレも、つい加勢してしまった。
 それから一時間、いやもっとか。オレたちはばあさんと一緒に腰をかがめてウサギを探した。ウサ子ちゃーん、だ。
「どこ行ったの? ウサちゃん? どこなの?」
 ばあさんのテンションは不気味なくらい変らない。
「ああもう! やってられっかよ!」
 とうとう、オレは言ってしまった。
「さすがに疲れたな……」
「だいいちよ、ウサギって鳴くのか?」
「鳴く? どうだっけ?」
「ああして呼んだって、返事しないだろ? 子猫じゃないんだから」
「そうか……そうだな」
 カヤマはばあさんに、もう明日にしたら、と言った。ところが、
「犬にでも食べられたらかわいそうじゃない」
 と言って譲らない。反対隣の犬を警戒しているらしい。話しかけても、顔も上げず、地面を舐めるように、腰を曲げている。
 結局、オレたちは後ずさりするように家に入った。鍋は煮詰まって冷えていた。もう一度鍋を火に掛け、コタツに戻る。
 ウサギを探すばあさんの声は、いつまでもぐるぐる家の周りで聞こえていたが、オレたちは無視して、やたらと酒を飲み、アクション映画のビデオをかけた。明日は日曜日だ。
 ビデオが終わる頃、家の周りの声はもうしなくなっていた。
「ばあさん、もう諦めたかな」
「ウサギはいたんかよ……もう……」
「そもそも、ウサギがいたのか?!ってな……」
 ――バリバリバリ! ガターン!!
 酔いを破って、ものすごい音が響いた。
「な・なんだよ!」
「うちか?」
 カヤマが天井を見上げる。
 ――バターン!! ガンガンガン!
 オレたちは顔を見合わせた。今日、何回目だろう?
「隣だ!」
 先を争うようにコタツから立ち上がって玄関を出る。オレたちの脳裏には惨劇の場面が浮かんでいた。ウサギを失ったばあさんが、自棄になってじいさんを虐待する、の図。いつまでもウサギを探すばあさんに腹を立てたじいさんが、ばあさんを殴るの図――。
「どうしたんすか?!」
「なにがあったんです?」
 息を切らして、隣の門を乗り越え、玄関を叩いた。
 玄関内にぼんやりと明かりがつき、影がふたつ揺らめいたかと思うと、ゆっくりとドアが開いた。
 レレレの夫婦が、にこやかに立っている。
「おや? どうしました?」
 じいさんが穏やかに聞いた。
「すんごい音がしたんで、何事かと……」
「あ、聞こえましたか? 夜分にお騒がせしてすみません。実は押入れやら、天井裏を探してまして……」
「探した?」
「ウサギをね、そうしましたら屋根が少し壊れまして。恥ずかしいですな、すっかり家が古くなって」
 怪我はしていないようだった。
「あら、お隣さん、どうしましたの?」
 じいさんの背後からばあさんが現れた。
「ウサギ!」
 オレたちは同時に言った。ばあさんは腕にしっかりとウサギを抱いていた。そのウサギは、ばあさんのエプロンをしきりと齧っていた。そしてじいさんは、これまたしっかりとミニチュアダックスフンドを抱えていた。

「ったく! 人騒がせだよな!」
 オレたちはやけになって酒を飲んで、寝てしまった。昼間干した、今日は2階に布団を敷いた。ふかふかの布団が、安らぎだ。隣の家は遅くまでなにやら物音がしていたが、もう無視した。

 ――ギャギャギャワン! ウ〜! バウバウバウ!
 5時。昨日と同じ目覚まし。
 オレは実家の朝を思い出した。一軒家ってのは、意外と騒音に悩まされるものなのだ。集合住宅なら、ちょっとした音にも振動にも神経を尖らせる。だが一軒家だと、歯止めがなくなるというか、自宅のスペースならなにをしてもいいってんで、遠慮がなくなる。だから「騒音おばさん」なんかが登場するのは、閑静な住宅街と決まっているのだ。寒冷な住宅街というイメージを守るなら、かなりの努力が必要なのだ。
 犬とばあさんは、決まったように悶着をしながら、散歩に出た。気配が、手に取るようにわかる。カヤマは、今朝も目を覚まさない。
 ――ガタッ! ズササササ!
 うとうとしかかったとき、床下を何かが走り過ぎたような音がして、オレは思わず半身を起こした。2階にいてもよくわかる。何かが入り込んだのだ。
「ウサギか?」
 オレは四つんばいのままベランダまで進み、ガラス戸を少しあけて(できるだけ静に)上半身を伸ばして下を見た。小さな庭が見える。前の住人が残していった、申し訳程度の低木の頭が見えた。
 誰かいる。
 薄暗い中、その低木の間で、何かが、いや誰かがごそごそと動いていた。ドロボウか?
 オレはさらによく見ようと、半身を伸ばして、ベランダの床に手をついた。床の隙間から、少しだけ下が見える。
 ――ミシリ
 しまった。瞬間、低木の間の頭が動き、おもむろに振り仰ぐ。
 レレレのじいさんじゃねえか。
 反射的にオレは頭を引っ込めた。気づかれたかもしれない。一瞬、じいさんは不思議そうに窺っていたが、また低木の間をうろうろし始めた。考えてみたら、朝っぱら、人の家の敷地内に入り込んでいるのは、むこうだ。オレが隠れる必要はない。
 それにしても、なにしてんだ?
 隙間に顔を近づけたが、よく見えない。家の近くに寄って来ているらしい。オレは急いでベランダを離れ、蹴飛ばしそうな勢いで、眠りこけているカヤマを揺すった。
「なんだよお……」
「レレレのじいさんが、庭に入ってきてるぞ」
「にわに〜? なんでだよ〜」
「わかんねえよ。でもなんかやばくないか?」
「……いってみるか」
 カヤマはやっと事態が飲み込めたらしい。おだやかそうな顔をしてとんでもないことをしでかす人が多いのがこのごろだ。オレたちは階段を降り、玄関を開けた。
「だいじょうぶか?」
「だれもいねえぞ?」
 カヤマが顔を出す。
「おい、門が開いてるぞ」
 カシマの肩越しに、人一人が通れるくらい、開いるのが見えた。
「お前、掃き出しのサッシから見てみ」
 居間に入り、掃き出しのサッシのカーテンを20センチほど開けた。
「わっ!」
 とたん、オレは不覚にもひっくりかえりそうなほど驚いてしまった。じいさんがガラス戸に顔を近づけていたのだ。その無表情をもろに、アップで見てしまった。
 ――様子を見ていたのか?
 だがじいさんは驚きもせず、じっと顔をガラスにつけている。その瞬間、床下を何かが走りぬけた。弾かれたように、じいさんはガラスから離れ、そしてかがみこんだかと思うと、再び上体を起した。犬を抱えている。
「犬だったのかよ!」
「なにしてんすか?」
 カヤマが玄関から回ってきた。
「え?」
 じいさんはおだやかな笑みを浮かべた。
「うちに、なんか用すか? こんな朝から」
「え? なんですって?」
 なんですって? はこっちのセリフだ。さすがに昨日の今日だから、カヤマの声は尖ってしまう。オレもカーテンと一緒にサッシを開けた。じいさんは、街中で偶然知り合いと合った、というような風情で、たたずんでいる。
「オヤジ! なにしてんだよ!」
 塀ごしに声がしたかと思うと、隣から、男が駆け出してきて、あっという間に庭に入り、じいさんの腕をつかんだ。
「オヤジ?!」
「息子さんすか?!」
 息子といっても、じいさんの息子だから、もうおっさんである。
「夕べ来たんです。オヤジの様子がなんか変だって、近所の人が電話をしてくれて……」
「オレらはべつに……」
「いや、電話をくれたのは、昔から付き合いがある人です。すいません、お宅になにかしましたか? オヤジが」
「なんか、犬を探してたみたいで……」
 オレが言った。いいわけみたいな口調だ。
「そうでしたか? いやほんとうに申し訳ない。オヤジはこのとおり歳でして……なんかあったら、遠慮なく言ってください」
 息子はペコペコ頭を下げながら、父親を引っ張って門を出て行った。オレたちは後姿を見送る。
「変なのは、オヤジさんだけじゃないって言えばよかったか?」
「う〜ん、ああいう状態は、実際に見ないと信じられないだろう? そうですか、それじゃあ、と昨日の話をしてもいいが」
「だな……」
「やっぱ、ボケかな?」
「わかんねえな……」
 オレたちはすっかり目がさめていたが、なんだかぼんやりして、居間でテレビをながめた。
「なんか……のんびりしてくれってつもりで呼んだのに、変なことになっちゃったな……」
 ひんやりしたコタツから頭だけ出して、カヤマがつぶやいた。
「いいよ……お前のせいじゃないし……貴重な体験したってかんじだよ……それよか、大変だな、隣……これから大丈夫か?」
「う〜ん……息子っていうあのおっさんが、これから見張っててくれるなら、大丈夫じゃないのかな……」
「今まで、夫婦二人暮しだったんだろ?」
「見たことないぜ、息子なんか。まあ、オレも家にいなかったけど」
「でもあのおっさんだって仕事、あるだろうしな」
「嫁さん、いるんじゃないか?」
「ほったらかしってことはなくなるだろ……」
 オレは言いかけてやめた。玄関にまた人の気配がしたのだ。
「ごめんください……」
 おっさんの声だ。(次号、後編に続く)


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「アブナイ隣人・前編」の感想


*タイトルバックに「Funny PoP 」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別 館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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