石井久恵 作品集表紙に戻る

「ごめんください……」
 隣の息子が改めて訪問してきたのは、午後のことだった。オレは、帰る潮時を計っていたところだったので、心の中でため息をついていた。
「あ、はい!」
 カヤマが玄関を開けると、畏(かしこ)まりすぎて小さくなったおっさんが立っていた。
「先ほどはすいませんでした」
 おっさんは玄関先に並んだオレらの顔を交互に見る。
「先ほどだけじゃありませんよね……? これまでにも、きっとご迷惑をおかけしていたでしょう」
「いや、こっちも、いつも家にいるってわけじゃありませんし」
 カヤマもつられて申し訳無さそうに答える。こっちは少しも申し訳なくないんだが。
「具合、どうなんすか?」
「あ、父ですか? 歳のせいでしょうか、このごろめっきり痴呆が進んだようで……」
 こういう場合、どんなにあからさまでも、あ、やっぱりそうですか、とは答えられない。
「大変ですね……世話とか」
 オレは同情を表現しようと努力する。
「ばあさ……いや、奥さんも具合が悪いんですか?」
「そうなんですよ、もともと仲のいい夫婦でして……親のことを言うのもなんですが」
 そんなことまで仲良く足並み揃われては大変だ。
「しかし、二人揃ってじゃあ……」
「はあ、なにしろ、夫婦二人暮しですから」
 まさか、これからもよろしくって言うんじゃないかと、以心伝心、カシマとオレは身構える。カシマが、思い切ったように口を開いた。
「オレも、様子見れればいいんすけど、なにしろ、昼間も、忙しいときは夜も帰りませんし……」
 予防線だ。
「ああ、ご心配なく。これからは私がここへ毎日通いますから」
「通う?」
「仕事、大丈夫なんすか?!」
「実は私、自宅で翻訳をしてるんですよ。家は横浜でしてね。今までは自宅で仕事してたんです。これからは通勤しますよ、実家にね。ここで仕事をします。自由な仕事で、良かったと思ってますよ」
「そりゃあ、かえって大変じゃないすか?」
「いやいや、ホントにご心配なく、毎日、ちゃんと面倒見ますから……」
 おっさんはゼンマイ仕掛けのように、何度も何度も頭を下げながら、後ずさりで玄関を去り、門を出た。
「横浜から通うって? あのおっさん」
 相手に聞こえないくらいの時間を置いて、オレは言った。
「越してくるとか、親を引き取るとか、そのほうが早くないか」
「だよなあ、あの歳なら結婚もしてるだろ? 普通、嫁さんが通うよな」
「なんか、来れない事情があるとか?」
「さあ、人んちのことはわかんねえよ。でもまあー安心じゃないか? とりあえず、あのおっさんが見張っててくれるよ」
「そうだな」
 いいオチがついた。
「じゃ、そろそろオレ……」
「もう一泊していけば? こっから会社行けばいいじゃんか」
「明日、ちょっと早いんだよ」
「そうか……じゃ、な。また来いよ」
「ああ……」
 オレはバッグを持って門を出た。なんだかものすごく疲れる休日だった。隣の家の前を通 りかかったとき、あの猛犬が、気がふれたように吠えていた。

 カヤマから電話があったのは、それから1週間後だった。
「おう、こないだは、なんか悪かったな」
「お前のせいじゃないし、しょうがないさ。ま、貴重な経験だな」
「これに懲りずにまた遊びに来いよ」
「ああ、行くよ」
「来月の連休は? 予定あんの?」
「後半なら……な。前半は、ちょっと家、帰るわ。こないだのさ、ああいうの見ると、自分の将来、考えちゃうよ」
「だよなあ……オレんちも今、両親二人暮しだしな……ちょっと帰ってみっか」
「それでどうよ? おっさん、毎日来てんの?」
 オレはドラマの続きを聞くような口調になっていた。1週間過ぎれば、もう連続ドラマなみに遠い世界だ。
「来てるぜ。こないだ、朝、ばったり会ってよ、聞いたら、向こう朝5時起きだってさ」
「ひょえ〜すっげえな。よく続くよ。奥さんとか、兄弟とか、交替しないのかね?」
「それだよ。奥さん、来ないんですかってついで聞いたら、『犬の散歩がありますから』って言ったんだぜ」
「犬の散歩ぉ? 子供が小さいとかじゃないのかよ」
「犬だよ、イヌ」
 カヤマの口調はすっかりワイドショーか、奥様井戸端会議状態だ。
「おっさん、なんか悲劇入ってるよなあ。で、レレレのじいさんとばあさんは元気なわけ?」
 聞いてるオレもワイドショー化している。
「回覧板もおっさんが持ってくるし、買い物も行ってるみたいで、それはいいんだけどな」
 カヤマが言うのは、直接、隣人の顔を見ることも、接することももうないが、ときどきヤバイことがあるという。
 息子のおっさんは、パソコンとコピー機と電話機を入れて、本格的に実家を事務所に整え、本当に通勤している。だが夜は横浜に帰るのだ。すると……
「夜中に帰ったら、隣からすっげえ焦げた臭いがしてさあ……」
 魚かなにかのようだったという。またある夜は、一晩中、ごはんの炊ける臭いが漂った。そういうことがあった日の翌朝は、おっさんが一心不乱にゴミをまとめているという。そしてまた、反対隣のイヌが吠え立てる。
「それ、まじでヤバくないか? 火事とか」
「それなんだよな、それが一番心配でさ……それから時々、釘の音とか、屋根を剥がすみたいな音もしてくんだよ」
「やばかったら、すぐ消防署とか警察に電話したほうがいいぞ、あ、先に言っておくのもいいかもな、そしたら、これから注意してくれるだろ?」
「先に言うのはちょっとマズイよ、ここらへん住宅地だし、騒ぎになりそうでさ」
「お前も大変だなあ」
「ああ、まあな、それより連休、来いよ」
「うん……」
 これって約束したことになるのだろうか? カヤマの気持ちもわかるが、オレもちょっと気が重い……。

 再びカヤマから電話があったのは、さらに2週間後だった。
「連休どうする? 来れそうか?」
 オレはカレンダーを眺めた。
「そうだなあ、たぶんな……」
「来れるなら来いよ。今のうちだよ。オレさあ、マジで引っ越すかもしんねえわ」
「マジで? またなんかあったのか?」
「なんか騒ぎ多くてくたびれんだわ……こないだみたいに遊ぶんなら、早いほうがいいぜ」
 ここで再びカヤマが言うには、奴が休みを取って家でのんびりしようという日に限って、合わせたようにトラブルを目撃させられているのだそうだ。
「先週はよ、門の外ですっげえ騒いでっから、何事かと思って出てみたら……」
 居間のガラス戸を少し空けて、様子を窺ってみると、門の外に、小型バスくらいの車が止まっている。そしてその周辺にちょっとした人だかりができていた。
「いいから、いいからね? 息子さんから連絡もらってるんだから、車に乗って……」
「どこへ連れて行く気だ! 聞いてないぞ! 息子がそんなこと言うはずはないんだ!」
 ただごとじゃない騒ぎだ。思わず玄関へも回らず、近くにあったサンダルを引っ掛けて、そのまま表へ出た。
 門まで近づいてみると、男2人、女1人が、隣のじいさんとばあさんを取り囲んでいる。時々、じいさんとばあさんは腕を捕まれ、車に乗せられようとしている。二人は尻込みして、どうやらそれを拒んでいるようだ。ますますただごとじゃない様子だった。
「どうしたんすか?!」
 思わず声をかけた。
「すいませんね、お騒がせして。私たちはデイサービスの者なんですよ、こちらの息子さんから、相談があって、ご両親が外にも出ないし、風呂にもろくに入らないんで、市の入浴センターに連れて行ってくれって言われまして、こうして迎えに来たんですが……」
「デイサービス?」
 オレも思わず聞き返した。
「ヘルパーさんとかが来る、あれか?」
「よく知んないけど、定期的に風呂に入れてくれるサービスもあるんだと。こっち、温泉みたいな施設できてさ、そこへ連れて行くらしいんだ」
「風呂、入ってなかったのかよ? あんだろ? あの家、風呂くらい」
「あるよ。あとでおっさんに聞いた話じゃ毎日ちゃんと用意してから帰ってたんだってよ」
「なのに入ってないってか」
 面倒くさかったのか、風呂に入るという週間そのものを忘れてしまったのかはわからない。はじめはおっさんも気づかなかったが、よく注意してみると、じいさんとばあさんがいつまでも同じ服を着ている。それに、じいさんは相変わらず犬を抱いたままで合体して、臭気も漂ったらしい。
「そんで、デイサービスか」
「そうらしいんだが、当人は納得してなくて、そんでその騒ぎよ」
「そんで、風呂には行ったのかよ?」
「そこがすげえんだ。サービスの一人がさ、ふと思いついたみたいに『旦那さん、変なところへ行くわけじゃありませんよ。ちょっと旦那さんの手を借りなきゃいけないことがあるんで、来て欲しいんです。印鑑も必要で』ってこう言ったんだ」
「なんだそりゃ?」
「そしたらあら不思議、だ。おっさん、大人しくバスに乗ったんだ。仕事人のプライドってえか、習慣みたいのが甦ったんだろうな」
「うまいもんだな、いろんなやり方があるもんだ」
「ひと騒動だったよ」
「犬も一緒に行ったのか?」
「あ、そこは確認してなかったな。犬も洗ったほうがいいな」
「なんか、大変だな……トナリ……」
「いや、それどころか……」
 少しずつ壊れていっているという。
 騒ぎのあと、またおっさんがカヤマを訪ねてきた。そして言うには、少し前には、父親(つまりじいさん)は突然(犬を抱えたまま)家を出てしまい、まる1日行方が知れなかった。つまり徘徊である。
「とうとうそうなったか……」
 オレは思わず言ってしまった。
 そして母親(つまりばあさん)は、買い物は、息子が毎日、買い物もしていてくれているのに、どういうわけか、自分も夕方になると買い物に行くという。
「食事の用意が重なっちまうじゃないか」
「ところがさ、毎日カレーの材料を買ってくるんだってよ」
「カレー? 毎日作ってるのか」
「いや、作ってないんだ。買ってきて、材料を台所に置くと忘れちまう。毎日。おっさんが気がついたときには、台所の隅に、カレー材料袋が大量にあったんだと」
「なんでカレーなんだろうな?」
「さあな、材料買った、ってところで安心して忘れちまうんだろうって、おっさんは言ってたぜ」
 カヤマが、こうして噂話と体験談を混ぜて話す口調は、まったくおばさんそのものだった。いや、これって差別用語か?
「しかしなあ、それってマジヤバイぜ。誰か一日中ついてたほうがいいんじゃないか?」
「だよなあ、でもおっさんがせっせと通ってきてるけど、奥さんて、まだ来ないぜ」
「こういうの女にぜんぶ背負わせたら、ワタオニの世界かもしれねえけどな」
「最近の男は大変だよ……ところで脱線したけど、どうなんだよ、連休」
「ああそうだな……」
 そんなやっかいそうな話を聞いたら、行きたかねえよ、というセリフも喉に引っかかっていたのも事実だった。でもなあ、ここで急に用事ができたってのもわざとらしい。
「ま、急用がなかったら、行くよ」
「おお、いいよ、来いよ。歓迎だよ。またビデオ見て、宴会しようぜ!」
 カヤマは少し、以前の調子に戻ったようだった。

 そうこうしているうちに連休に突入した。話は早いほうがいい。
「よ! お疲れ!」
 私鉄の駅前で、カヤマは車を止めてオレを待っていた。
「なんか暑くなったなあ、今日はジンギスカンがいいかと思ってたんだがな」
 車をロータリーから出しながらカヤマが言う。
「いいじゃねえか、ジンギスカン」
「そうか? 例のスーパーにさ、けっこういいヒツジ、入ってんだよ」
「じゃ、行ってみようぜ。ヒツジはダイエットに効くっていうじゃねえか」
「別に食って痩せるってわけじゃないだろ? 脂肪が少ないってだけだ」
「なんだそうか? 食えば食うほど痩せるんじゃなかったか」
「都合のいい勘違いだな」
 笑っているうちに、スーパーに着き、オレらはジンギスカンの材料と、酒と、ビデオを手に入れて、スィートホームに向かう。
「おい、まただぜ」
 家の近づくと、カヤマの顔が曇った。見ると、隣の門の前に、どこかの業者の車が止まっている。隣の門とカヤマの家の門はとても近い。駐車されると車が庭に入れにくくなるのだ。
「すいませ〜ん」
 声をかけたとたん、諍いの声が聞こえた。
「とにかくね、注文は確かに受けてるし、代金ももらってるんですよ、受け取ってもらわないと!」
「そんな得体の知れない弁当なんか、受け取れませんよ!」
「得たいが知れなくなんかない、ちゃんとした宅配です!」
 両者ともかなり大声である。また反対隣のイヌが吠え立てる。ああ、大変ですね、静にね、で通り過ぎるのは難しい状況だ。オレとカヤマは顔を見合わせ、車から降りた。
「なんすか? どうか……」
 カヤマが声をかけた。隣の玄関先に、じいさんとばあさんが立っている。向かい合ってオレンジの作業服の男。背中に「タイヨウ・フード・サービス」と書かれている。
「あ、車ですね」
 オレンジの男が振り返った。両手に箱を抱えている。これがたぶん弁当だろう。
「なんかあったんすか?」
「こちらの息子さんから、昼食を届けるようにって注文いただいたんですよ。なのに、そんなこと知らないって言われちゃって」
 心底困った様子で訴えたのに、肝心のじいさんとばあさんは、困っているのはどちら様でしょうという顔をしている。オレは気転をきかせた。
「あ、とにかく、息子さんに連絡しますから、弁当はこっちへ運んでください」
「そうですか?」
「え? なんで家に?」
「じいさんとばあさん、メシ食わないわけにいかないだろ」
 そのうちなだめて食べさせりゃいい。弁当の箱をかかえて、オレンジのフードサービスが隣の家を離れると、オレはすかさず聞いた。
「今日、息子さんは来ないんですか?」
「息子? 息子は横浜ですよ。自分で仕事をしていましてね、家を建てたんです。近いようで、これが遠くてね」
 じいさんは言う。
「これだよ……」
 すると今度はカヤマが推理を働かせた。
「おい、じいさん、犬を抱えてないだろ? 息子が散歩に出たんだ。最近、時々出るらしい。こっちに来てるよ」
「弁当は時間差が出たってとこか。オレ、その辺見てくるわ」
「河原のほうだと思うぜ」
 家のほうはカヤマに任せ、オレは小走りに道に出た。振り返ると、カヤマは車を移動させ、フードサービスはもう車を動かしている。じいさんとばあさんは、それをじっと見ていた。
 付近の様子はよくわからなかったが、キョロキョロしながら歩いていくと、道の合間から緑の壁が見えた。あれは土手だ。すると河原がその向こうにあるのだ。オレはまっしぐらに緑に向かい、その斜面を上がった。
 広々とした河原。野球場もいくつかある。犬を散歩させている人はかなり多い。目を凝らして丁寧に見ていくと、見つけた。ずっと川の側を歩いているのがそうらしい。
 オレは土手を降り、近づいた。やはりおっさんだった。
「あのう、覚えてますか? オレ、ご両親の家の隣の者の友達なんですけど」
「ああ! 隣の。その節は……」
 愛想良く笑いながら、おっさんは近づいてきた。犬は引っ張りまわされて不満そうに唸る。
「この犬、ずっと父に抱えられていたもんだから、散歩というものは飼い主に抱えられて出かけるものだと思っているらしくて、歩くのを面倒がるんですよ」
「それは良くないですね」
「お散歩ですか?」
「お宅にお弁当が届きまして」
「ああ、私が予約しました。たまには買い物も休もうかと思いまして」
「ところが、ご両親がんとして受け取らないんで、業者の人が困ってるんです」
「ええっ! あれほど言っておいたのに……」
 おっさんの顔は、一瞬紅潮し、次にさっと白くなった。どことなく疲れているようだ。丈夫そうな体格なのに。
「とりあえず、家のほうで受け取ったんですが、なんか揉めてるんで」
「探しに来てくれたんですね? それは申し訳ない」
 言うが早いか、おっさんは小走りになった。5メートルほど走ったが、犬がついてこないので、立ち止まって抱え、また走る。
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
「いやいや、今日は仕事のことで宅配便も届くんです。その調子じゃ、それもアブナイ」
 土手の坂道に差し掛かると、おっさんはすぐに息を切らした。
「ゆっくり行きましょう、ゆっくり。オレ、ケイタイで連絡しときますから」
「いつも、いつもご迷惑をかけて……このあいだのデイサービスのとき……も……」
「そんな、よくあることですよ」
「昔はあんなじゃなかったんです、あれでも、うちの両親は。もっと……」
 おっさんはしゃべりながら、土手の中腹で、がっくりと膝をつき、犬がこぼれ落ちた。肩で大きく息をしている。そのままうつぶせるように四つんばいになってしまった。
「ちょっ、だいじょうぶっすか?」
 片方の手で足元の草をしっかり掴んで、もう片方は固く握り締めたまま胸に押し当てていた。
「急に走……り出したからですよ……ちょっと休めば……」
 肩に手を置いて顔を覗き込むと、すごい脂汗だ。顔をゆがめ、頬と目の周りは赤いのに、触った手は異様に冷たい。
「どうしたんすか?!」
「あの……すいませんが……犬を家まで……」
 目をつむったまま切れ切れの息で言う。
 冗談じゃない。犬どころか、本人もここには置いて置けない。どうみてもただごとじゃなかった。
「救急車、呼びます!」
 オレはケイタイを出して、救急車を呼ぶのは何番だったか思い出すのに、ものすごく時間がかかったような気がした。さらにカヤマにも電話し、救急車の到着を待つ時間は、さらに長い長いように思えた。地球が終わりそうだった。

「おい! 大丈夫か!」
 救急病院の廊下のソファに座り込むオレに、カヤマが声をかけながら駆け寄る。
「おっさんは?」
「あっち」
 オレは顎で、廊下の奥を示した。「集中治療室」のライトが見える。カヤマも隣に座り、顔を洗うように両手で顔をなでる。
「急に倒れるなんてなあ! やっぱ心臓か?」
「わかんねえよ。いやもう、まいったよ」
「救急車なんて乗ったこともないだろ?」
「だよなあ。じいさんとばあさんは?」
「家に入って、今んとこ大人しくしてる。だもんで出てきたんだ」
「そうか、もうちょっと大人しくしててくれるといいがな」
「本当なら、連れてくるべきなんだろうけど」
「そりゃあ、キビシイな……説明できねえよ」
 同時にため息が出た。
「あれ? お前、犬は? 散歩じゃなかったのか?」
「あ!」
 オレは思わず床を蹴った。そうだった。いつ見失ったのか。
「どっかいっちまった。救急車には乗ってなかったと思う」
「そうか……そりゃあ……」
「あのさ」
「あん?」
「オレら、そろそろ帰ったほうがよくないか?」
「帰るか? でもなあ」
「そりゃあ、放り出して行くみたいではあるけどよ、オレら他人だし、こっから先は親族の世界って気、しないか?」
「う〜ん、ちょっとでしゃばったかな。でもなんかシカトできなくてよ」
「隣のじいさんになんとか、横浜の家の電話番号聞いて、連絡しようぜ」
「あ、それよか、おっさん、ケイタイ持ってんじゃないか?」
「そこに家の番号入ってるな、絶対」
 その時、廊下の角を曲がって、女性の看護師が小走りに寄って来た。
「救急車で来た方の連れの方ですよね?!」
「あ、はいそうですけど……」
「ご家族ですか?」
「いや、隣の家の者で」
 オレらは顔を見合わせた。
「ご家族には、連絡はされていますよね? こちらへは?」
「あ、いや来れないと思います……」
 カヤマが言った。
「来れない?」
「隣、じいさんとばあさんの二人暮しで、あの人、息子なんですよね。毎日通って来て面倒みてて」
「じゃ、ご両親がいらっしゃるんですね」
「いるにはいるんですが、ちょっと痴呆来てて……そんであの人が」
 看護師の顔に、困惑の色が浮かんだ。それはもう見事な困惑だったが、少し迷惑も入っていたかもしれない。そしてそれは、一瞬の後、同情の色に変った。まったく鮮やかなくらいだったな、その変りようは。
「あの方のご家族は、他には?」
「本当の家は横浜で、奥さんがいるそうですけど、詳しくは知らなくて」
 今度はオレが説明した。カヤマも頭を振っている。
「横浜から通ってたの? 毎日? それは疲れがたまって無理したのかもしれないわね」
 看護士の同情の色はさらに深くなる。
「なんすか、そんなに悪いんですか?」
「急性心不全らしいんです……」
「急性心不全?!」
 オレらはハモって言った。
「それってかなりヤバイんじゃ……」
「ええ、やばいわ……いえもう……」
「うそだろ〜しゃれんなんねえよ」
 とこれは、さすがに声には出さなかった。心の叫びである。
「家族には知らせなきゃね。何か方法、あるでしょ」
 その時、奥のドアが開き、白衣の長身が現れた。あれが医者らしい。
「救急車で付き添ってきた人だね。君たち、これも縁だと思って、お別れをしてあげてくれないか」
 オレらは集中治療室に招き入れられた。
 横たわったままのおっさん。
 オレらは、ボキャブラリーをまったくなくして、「ウソだろー」と「マジかよ〜」「シャレんなんねえ」「どうすりゃいいんだよ」を繰り返し、テレパシーで言い合ってばかりいた。百万回は言ったと思う。

 それからオレらがしたこと。
 おっさんはポケットにケイタイを持っていたので、その中から、それらしい番号にあちこちかけて、やっと奥さんに連絡がついた。対応したのは看護師だ。
 それから、その看護師から、「両親にも連絡を」という特殊任務を受けて、帰宅することとなった。
「他の親戚にも知らせるように言ったから、誰か行くと思うわ」
 看護師は援軍の可能性をほのめかしたが、かなり難儀な特務である。
「お出かけですか?」
 門のところで、以前とまったく変わりない挨拶を受けたオレらは、ここでどっと疲れを感じた。
「あれ!? 犬!」
 カヤマが思わず指差した。じいさんの腕にはしっかりと、行方をくらましていた犬が抱えられていたのだ。
「犬、戻ったんすね」
 オレも思わず聞いた。
「は? 犬? 犬はずっとわたしと一緒にいましたよ?」
「え? だって、息子さんが散歩に連れて出たでしょう?」
「息子? 息子は横浜ですよ。自分で仕事をしていましてね、家を建てたんです。近いようで、これが遠くてね」
「どうしたんです?」
 ばあさんも玄関から出てきた。
「この人らがね、犬が逃げたんじゃないかっていうんだ」
「はあ、うちの犬じゃないでしょう」
 オレは胸に熱い塊が競りあがってくるのを感じた。カヤマも同じかもしれない。どうしたものか、あの、重大事件は話すべきか? しかし黙ってもいられない。重要任務なのだ。思い切ってオレは口を開いた。
「あのですね、落ち着いて聞いてほしいんですけど、息子さんが、さっき散歩に出た先で急に心臓発作を起こして倒れまして」
「そうですか、それは大変だ」
「……」
 言葉に詰まっていると、カヤマがバトンタッチした。
「それでですね、救急車で運んだんですが、残念ながら……」
「まあ、亡くなったの?」
「?! ……え、ええ……」
「それはお気の毒に……」
 老夫婦は声を合わせた。オレとカヤマは顔を見合わせた。
「お通夜は、何時から? あなた方のお知り合いなの?」
 ばあさんは心底、同情したような表情をしていた。
「いや、だからですね、亡くなったのは、あなたがなたの……」
 カヤマが突然オレの袖を引っ張って遮った。
「それには及びませんよ」
「でも、そんなわけには……お葬式くらいはねえ……」
「そうですか、それじゃあ、時間が決まったら知らせますから」
 カヤマはペコペコと頭を下げる。
「あ、そうだ、お二人とも、おなかすいてませんか? もらいものなんすけど、弁当があるんですよ」
「あら? くださるの? そういえば……」
「昼は食べたかな……」
「じゃあ、すぐ、持ってきますから、家で待っててください」
 オレらは、そそくさと家に入った。
「どうすんだよ?! じいさんとばあさんは、葬式のことなんか、もう頭にないかもしれないぞ」
 玄関に入るやいなや、オレが言った。
「しょうがねえだろ、あの調子じゃこっちの説明なんか半分も聞いちゃいねえよ。ていうか、息子が死んだことなんか受け入れないね」
「そんなことありかよお……だって息子が死んだんだぜ」
「だけどオレらにはどうしょうもないだろ。オレ、弁当届けてくるわ。忘れないうちに」
 カヤマが冷え切った弁当箱を持って出かけると、すぐに電話が鳴った。なかなか切れない。
「あ……もしもし」
「カヤマ……さんですか?」
 女性の声だ。
「カヤマは今ちょっと出かけてて、オレは友達の」
「私、横浜の……」
「あ!! いやどうも」
「病院から、この電話番号、聞いたんです」
「さっき、一応、教えといたんで」
「このたびは大変お世話になりまして、これからすぐに病院に夫を引き取りに参ります」
「そうですか……まったく急なことで」
 カヤマが帰ってきた。この状態をパントマイムで説明するのは難しい。口でヨコハマと声を出さずに言った。
「それで、両親の様子はどうでしょうか?」
「はあ、それが、知らせるようにと病院から言われたんですが、てんで聞いてくれなくて」
「息子が死んだのがわからないんですか?」
「どうもそんなかんじで」
「それは、ある意味、幸せかもしれないです。逆さごとですから」
「さかさごと? は?」
「あ、最近は言わないですか? 子供が親より先に逝くのを、逆さを見るっていうんです。順序が逆っていう意味で」
「なるほど。で、ご両親は……」
「あ、義理の姉、娘が行きますから」
「娘さんがいたんですか?」
「ええ、北海道にいるんですけど、今日中には着くんじゃないですか? さっき、知らせましたから」
 じゃあ、義姉によろしく、と言って、電話は切られた。
「なんだって? 娘さんが来るのかよ」
 カヤマが聞く。
「ああ、逆さを見なくて幸せだって、言ってたぞ」
「なんだそれ?」
「親より子供が先に逝くことだってさ」
「マジかよお」
 オレも同じセリフが言いたかった。妙なドラマの中の、辺に重要な役を振り分けられたような気がする。力不足で不相応だ。こんな芝居は放り出して、オレは家に帰りたかったが、カヤマを見ていると、じゃあな、とはなかなか言えなかった。
 オレらは耳を済ませていたが、隣に人が来た気配はなかった。

 結局、通夜には顔を出すことにした。オレは喪服を持ってきてないし、カヤマもろくな喪服を持ってなかったので、箪笥の中から黒い服を引っ張り出して、目立たないように通夜に参列することにしたのだ。
 会場は駅前のセレモニーセンター。オレらは事務的に会場に行って、事務的に遺影に頭を下げた。
 カヤマが突付いたので、視線の先を見ると、じいさんとばあさんが黒い服を着せられて、しつらえた席にちょこんと座っていた。視線が妙に落ち着かない。
「奥さんての、どこかな」
「わかんねえな、娘は来たのかな」
「わかんねえな」
 当たり前だがまったく他人事の葬式だった。
 帰り際、カヤマが言った。
「これで一応決着だな」
「でもよ、これからどうすんだろうな、隣」
「誰もいないとなると、参っちゃうなあ」
 とりあえず、カヤマの言うように決着かもしれない。この日の夜、オレも自分の家に帰った。

「じいさんとばあさん、施設に行っちまった」
 カヤマからそんな電話があったのは、葬式から2週間後だった。
「それしかないだろうなあ、それにしても早業だな」
「オレは仕事だったから、現場見てないけど、けっこう騒ぎだったらしいぜ」
 聞けば、デイサービスの迎えの時と同じで、行くの行かないのと、ひと騒動だったという。なだめすかして、連れて行ったのだ。
「なんか騙してるみたいでよ、気分悪いな」
「結局、娘は来なかったのか」
「会ってないな」
「誰から聞いたんだよ、奥さん来たのか?」
「いや、奥さんて人も見なかった。話は反対隣のばあさんから聞いた」
「ああ、あの無駄吠えの。暇なんだな。報告してくれたってわけか」
「まあな、一日の仕事が犬の散歩だから。でも話聞かなかったら、不気味だぜ。いきなり隣が無人になってんだから」
「それはサスペンスだ、まるで」
「でよ、もうトラブルもないだろうから、また来いよ」
「引っ越すかと思ってたよ」
「それはすぐじゃないしな」
「そうだなあ……」
 生返事をしてしばらく考えた。そして、カヤマの家に行ったのは、さらに2週間後だった。ドラマや映画のラストシーンを確認するような気分だったかもしれない。
 仕事帰りで、着いたのは夜だった。カヤマは早めに帰宅して、車で迎えに来てくれた。
「おいっ、電気! 点いてるぞ!」
 家の前まで来たとき、オレは不覚にもホラーなみに驚いていた。無人のはずの隣に、煌々と電気が点いている。
「なんでだ!?」
 カヤマが慌ててブレーキを踏んだので、車がガクンと揺れた。ドロボウかなにかのように、オレらは恐る恐る車を庭に入れ、隣を窺った。
「誰か来てるんだろ?」
「今までも電気が点いてたことあんのかよ?」
「いや、見てない……」
 ヒソヒソ話を破って、出し抜けに玄関が開き、おばさんが出てきた。
「あらっ? お隣の方?」
 初めて見る顔だ。
「その節は、お世話になりました」
 深々と頭を下げる。声は聞き覚えがあるが……。
「あ、横浜の?!」
「そうです〜挨拶があとになってしまいまして〜」
「奥さんですか」
 カヤマも暗がりで顔を見透かしている。
「電気点いてるもんだから、ちょっとびっくりして。空き巣かと」
「荷物の片づけをしようと思いましてね、夜になってしまったので、今日は泊まりです」
「こちらのご夫婦は……」
 聞いていたけどすっとぼけて聞いてみた。
「千葉の、海の近くにいい病院が見つかりまして、幸運なことに夫婦で受け入れてくれて」
「そこへ行ったんですか」
「ええ、面倒を見る人もいませんし。家は横浜ですし、夫の墓も家の近くで」
「この家は、売るか何かするんですか?」
 カヤマが聞いた。
「しばらくはこのままでしょうけど、一応財産ですし、そのうち片付けることになると思いますよ」
 お得な情報を打ち明けるような口調に、オレらはうんざりして、話を切り上げた。
「誰もいなくなると、来るんだな」
 カヤマがポツリと言った。
「そういや庭で話てんのに、犬が騒がないな」
 思い出すと、この間も、騒いでいる記憶がない。こっちが騒いでたせいかもしれないが。
「その無駄吠えの犬も死んだんだ」
「ええっ!? そうだったのか」
「先週かな。朝から、あのばあさんも号泣でさ、でもそれっきり、すっかり静になったよ」
「あんなにうるさかったのにな」
「あっけないよな」

「考えてみたんだけど」
 夕食のジンギスカンをつつきながら、カヤマが言った。
「どっちがしあわせなんだろうな?」
「ん? 誰と誰が?」
「ボケてたら息子が死んだのもわかんないから、悲しくはないっていうようなこと、言ってたんだろ? あの奥さん」
「逆さになってもわかんないだろうってな。オレも考えてたよ。でもなあ、息子が死んだのにわかんないってのも悲劇だよな」
「だよな、息子が死んだら悲しいだろうけど、ちゃんとわかったほうがいいんじゃないか……よくわかんないけど……どっちがいいのか」
「人間だもんな……」
 オレは缶ビールの2本目を空けた。
「それにしても静かになったなあ、これなら仕事もはかどりそうじゃんか」
「なんか、逆に調子狂うよ」
「おせっかいだよな、けっこうオレらも」
「だな……」
「引っ越すのか?」
 肉の塊を飲み下してから、カヤマはポツリと言った。
「わかんねえな……どっちがいいのか」


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「アブナイ隣人・後編」の感想


*タイトルバックに「Funny PoP 」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別 館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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