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 石の上にも三年っていうでしょ?
 何でもそうだけど、仕事ってね、やっぱりひとつのことにずっと取り組まなくちゃ、一人前になれないって思うのよ。
 最近の若い人は、すぐに仕事辞めちゃうでしょ。それだけじゃなくて、業種そのものを変えちゃう人も多いんですってね。自分はこの仕事向いてないんだって、簡単に結論出しちゃって、別 の仕事探すんですって。ちょっと試してみたくらいじゃ、自分がその仕事に向いてるかどうか、分からないじゃない? つまりは、その職場が嫌になって、辞めていくのに、理由をつけてるだけじゃないかな。
 私はこう見えても、編集者なのよ。そう、ずっとね。
 今いるここは、小さなプロダクションだけど、初めに就職したのは一応、大手の出版社だったの。そこには8年くらいいたかしらね。当時は、本は出せば売れるって時代で、出版界も活気があったわ……。毎日、ベストセラー作家や原稿を頼まれたりインタビューを受ける有名人が来たり、会社で対談があったりして、それは華やかだった。でもねえ、だんだんと会社の方針が合わなくなって、辞めちゃったの。残念だったけどね。
 でもそれから別の仕事なんかやってないわよ。次に勤めたところも出版社だもの。そりゃその前の出版社みたいに大きくなかったけど、それなりに充実してた。そこは地味だけど、堅実な単行本を中心に出してるとこでね、勉強になったわ。今でも家の本棚にあるのよ、そこから出していた本。いいものは時間が経っても変らないわよね。だけどねえ、そこは潰れちゃったのよ。不景気でね。ああいう、いい出版社を潰すなんて、世の中間違ってるって思ったわ。そうね、あそこには10年くらいはいたと思うわ。
 その時はね、さすがに落ち込んで、本気で別の仕事をしようかって思ったわ。でも捨てる神あれば拾う神あり、よ。前の会社の人たちが、独立して会社を作るって話があって、私も声をかけてもらったの。会社の規模は、それまでに比べたらずっと小さいわ。でも、会社が小さいと、仕事がぐっと遣り甲斐増すじゃない? けっこう面 白かったわよ。
 そこもねえ、編集者同士がうまくいかなくてね。ほら、みんなが同じ仕事してて、営業とか、経理とか、苦手な人ばっかりじゃない? だから上手くいかなかったのよ。結局、分裂しちゃったわ……。会社そのものは10年近くもったんだから、まあ、よくやったうちかもしれないけどね。
 ここのプロダクションのチーフはね、その、前のメンバーの一人なのよ。私、また声をかけてもらっちゃって、で、ここに来たってわけなの。
 まあね、キャリアだけはあると思うわ。まがりなりにも、この仕事、長年やれて来たんですからね、つまりは編集の仕事が合ってるってことだと思うわ。合ってなかったら、こんなに長く、やれてないと思わない? だからね、話は元へ戻るけど、石の上にも三年よ。ちょっとかじったくらいじゃ、仕事なんてわかんないわよ。
 最近の若いコは、そこんとこわかんないくせに、生意気よね。まだこの仕事始めたばっかりなのに、何でも分かったような顔して、先輩を小ばかにするのよ。あれは問題ね。
「センパイ」
 来たわ。後輩のサトコ。何の因果か、今、このコと組んで、雑誌の決まったコーナーを担当しているの。
「なに?」
 私はいつも、余裕を見せて返事をするの。
「ここんとこ、ダイワリとページが違うじゃないですか」
「あ、そこね、ページがずれたのよ。知らなかった?」
「ページがずれたら、校正紙の方も直してもらわなくちゃ、困るじゃないですか」
 ここのオフィスはマンションの壁と柱をぶち抜いた大き目のワンルーム。壁で仕切ってるのはトイレと厨房、そこは大きなスチールのロッカーで廊下が作ってあってフロアからは見えないようになってる。ミーティングコーナーは移動式の壁で作ってあるだけ。だから、声は筒抜けなのよ。このコ、最近とみに声が大きいような気がするわ。あてつけかしら。
「そこ、あなたの担当なんだから、あなただってチェックするのが当たり前でしょ?」
「ダイワリを作るのは、センパイじゃないですか。ダイワリ狂ったら、写真とかイラストとか、指定も狂うでしょ」
 センパイって口では言いながら、こんな高飛車な口の聞き方するのよ、このコ。自分だってチェックしてないくせに。
「いいわ、私が直してあげるから」
「当たり前です。そうしてください! 早めにお願いしますね、それが仕事なんだから」
 私は、返事をしないで、パソコンに向かったわ。あれは一種の挑発よ。まともに受けちゃだめなのよね。でもなんでかしら? まだサトコが私のデスクの脇に立って動かない。私の仕事ぶりを見ているつもりなのかしら――。
「センパイ、センパイが使ってるソフト、何なんですか?」
「え? ワープロソフトだけど?」
「バージョン、古いですよね? それ。表を作るんだったら、ワードか、エクセルにしてもらえませんか?」
「何だっていいでしょ。問題あるの?」
「ありますよ、前から思ってたんです。データは、できれば、皆が共有できるかたちにしたほうがいいって」
「プリントしたものを見ればいいんだから、別にかわまないでしょ?」
「かまわなくないです。共有できるデータとかは、サーバーに上げて、いつでも見れるようにするのが普通 でしょ」
 何が普通なのよ。言い返そうとしたら、最後のセリフは捨てゼリフだったみたい。さっと行ってしまった。だいたい私、けんか腰のやり取りには慣れてないのよ。だからいつも言い負かされてしまう。まったく、失礼なコよね、あれで編集歴、5年ですってよ。いっぱし、キャリアが身についてるつもりなのよ。
 こういうとき、チーフは何も言わない。なんでかしら? フロアの奥のほうに、デスクがあるけど、こういう事件、関心がないのかしら? 視界のはしに、チーフのデスクが見えるのに、パソコンの画面 で顔は見えない。どういう顔になってるのかしら?
 まあ、男の人って、女同士の諍いって苦手よね、一般的に。だから私、できるだけことを大きくしないように、今日みたいなときは、自分のほうが引くように心がけているわ。そうでなくても、会社内で、トラブルはよくないわ。そういう空気、読めないのかしら? あのコ。
 なんか、カンチガイしてるのよね――。あ、フリーズしたわ。あのコのせいね。なんであんなコ、雇ったのかしら? 気が知れないわ。
「どう? 仕事は」
 帰りがけに、チーフが声をかけてくれた。
「ええ、問題はありますけど、順調です」
 私は余裕で答えるの。やっぱり、今日のあのこと、気にしてくれてたんだわ。見てないふりして、ちゃんと見てるのよ。チーフは壮年期の働き盛り、気配りも万全ね。
「若いコとは、いろいろあるだろうけど、うまくやってよ、君はベテランなんだから」
「ええ、大丈夫です」
 飲みにいくのかな、と思ったけど、言うだけ言ったら、チーフは帰ってしまった。もう10時ですものね、まあいいわ。あんなふうにねぎらってもらえれば、また頑張れるもの。そうじゃない?

「センパイ! 写真のデータ、サーバーに入れておいてっていったのに、入ってないじゃないですか!」
 サチコのヒステリーが始まったわ。私、何かのウサ晴らしに使われてるかもしれないわ。
「あなたのパソコンにメールで送ったわよ」
 確認してから言ってね、と加えたかったけど、そこはガマンね。
「ええっ、いつですか? メールしたの」
「3日くらいになるわよ、もう」
「3日〜?! ずっと待ってなのに!」
 大げさな声――。と思ったら、サンダルの音も高らかに、駆け寄ってきた。
「ほんとですか? 送信記録、見せてください」
 私からマウスを取り上げて、勝手にメールを見てる。信じられないでしょ? どういう教育受けてんのかしら。
「打ってないじゃないですか、あたしのところになんて」
「もう3日前だから、記録は削除したのよ」
「は? ……じゃあ、もう一度、データを送ってください」
「データ?」
「写真ですよ、もう一度、送ってください」
「もうないわよ」
「はあ?」
「あなたに送ったから、もう必要ないと思って、昨日くらいかしら、削除したわ」
「ええ〜っ!! 信じらんない!!」
 信じられないのは、このコの声よ。
「パソコンに残しておいたら、重いでしょ」
「なんで、ちゃんとあたしに確認しないうちに削除するんですか?!」
「あなただって、毎日メールチェックしていないの?」
「来てないメールはチェックできないじゃないですか! 人のせいにしないでください!」
 自分だって今、人のせいにしたくせに、自分のことは棚に上げて。人のせいにするの、カンチガイしてるコの悪いクセよね。
「だから、メールじゃなくて、サーバーに入れてって言ったのに! どうするんですか?! 2週間も前から申請書を出して、やっと許可が降りて、送ってもらった写 真なのに! 普通、進行中のデータは捨てないでしょ」
 サトコはプリプリ怒りながら、自分の席に戻って、まだ文句を言ってる。謝罪の電話を入れるのかしらね? まあ自業自得よね。そこは自分でやってほしいわ。
 昔も見たわ、こういうコ。その、申請書を出したのは私なのよ? だから私のアドレスに写 真が届いたんじゃないの。そんなに大事なら、自分で全部、手配すればよかったのよ。怒る気にもならないわ――。
「きついっすよね? サトコさん――」
 ため息をついていたら、声をかけられた。出入りしているライターのヤツカちゃんだわ。
「あら、締切は今日だった?」
「昨日っす。すんません! 24時間遅れで」
 両手を合わせて、片目をつむって見せてる。これがね、けっこうイケメンなのよ。ジャーニーズ系っていうの? まあ、あくまで『系』だけどね。楽しみになるわよね、こういう若いコが出入りしていると。
「じゃ、原稿ちょうだい。取材は上手くいったのね」
「まあまあっす。写真はメールで送っていいですか? まだ整理してないんで」
「いいわよ。そうそう、ちょっと聞いていい? サーバーに上げるってどうやるの?」
「や! すごいっすね、高度じゃないすか」
「必要に迫られて、よ」
 さっきのやり取り、全部は聞かれてないらしかったわ。もしかしたら聞いてたのに、聞かないふりしてる? いいコなのよね。思いやりがあって。駆け出しだけど頑張ってるし。
「簡単すよ、ここをクリックして――」
 けっこう私、懐かれているのよね。やっかまれているのかもしれないわ。ま、とりあえず、今度は写 真はサーバーに入れられるわ。

「どう? 仕事は」
 チーフが、帰り際にまた声をかけてくれた。
「ええ、順調です」
「毎日、遅くまで頑張るね」
 見回したら、もうスタッフはだれも残っていない。もう9時ですものね。私、朝早くから夜遅くまで、最近張り切りすぎかも。
「仕事、多すぎるの?」
「いえ、そんなことありません」
 ちょっと、じっくり時間をかけすぎたかもしれないわ。チーフに心配かけたらだめよね。
「一昨日、ヤツカが原稿持ってきたでしょ?」
「ええ、締切1日遅れで。すぐに割付して、デザイナーに廻しました。写真は今日、受け取りました。サーバーに……」
「いや、それ、僕、今日読んだんだけど、あれ、よくないよ。イマイチだね」
「え?……」
「今月号のグラビア、リゾート特集でしょ? あれじゃ、ただの観光案内だよ。本文ももっと、スローなムードも欲しかったし、短くても描写 風のネームに仕上げて欲しかったな。コンセプト、打ち合わせなかった?」
「いえ……打ち合わせたつもりですけど……」
「出来上がった原稿はさ、デザイナーに回される前に、よく読んで、問題だと思ったら、僕に見せてよ」
「は……でも、あのコーナーは任されて……」
「任されてたら、気をつけてもらわなくちゃ」
「は……」
「それにね、あのヤツカって奴、黙ってると、ここの取材費で出かけていて、別 の仕事ついでにしてきてるから」
「でもそういうことってよくあるんじゃ……」
「ちゃんと、二つの仕事がやれてるんならいいよ。でも奴はまだまだだね。その辺も注意してもらわなくちゃ」
 知らなかったわ、そんなこと――。誰も教えてくれないんだもの――。
「だから、仕事きついようだったら、サトコ君に、もっとまわしていいんだよ。サトコ君の仕事は新人に回すから」
「新人、入れるんですか?」
「まだ考えてる。まあ、次回から気をつけて」
「はい……」
「落ち込まないでよ、君はキャリアがあるんだから、調子を戻せば大丈夫」
 私は呆然として、チーフの後姿を見送ったわ。ひどいでしょう? こんなこと、今までチーフは私に言ったことないのよ。よりによって、なんでサトコの名前が出てくるの? おかしいでしょ? 私、すぐに分かったわ。勘付いたのよ。サトコが根に持って、チーフに何か言ったんだわ。もちろん、自分のことは例によって棚に上げてね。よりによってヤツカちゃんを巻き込むなんて、かわいそうだわ。
 でもチーフはさすがよね? ああいう話をするのに、誰もいない時間を見計らったんだもの。サトコみたいに、無神経じゃないのよ。私はチーフを信じるわ。だって言ったでしょ? キャリアがあるから大丈夫だって。そうよね、それが私の宝物だもの。
 それにしても新人ってほんとかしらね? また無神経なコが来るんなら困るわ……あのサトコ、軽率なコだと思ってたけど、腹黒いのかもしれないわ。チーフに、いつ私のことなんてしゃべったのかしたね――別 のカンチガイをしてるのかもね。まあ、いいわ。奥の手なら、私にもまだ使えるんだから。

 新人の女のコが来たのは、あれから一週間くらいあとだった。いつ面接とかしたのか、ぜんぜん気がつかなかったわ。これがね、また妙なコよ。よくあるタイプだとは思うけど。
「よろしくおねがいしまぁす!」
 チーフに連れられて、フロアを歩いてるときは、普通に明るい、まあ、ちょっとかわいコぶった感じのコだと思ったのよ。
「この人はこの道のベテランなんだよ。何でも知ってるから、いろいろ聞いて、教えてもらって」
 チーフは、そんなふうに、私を紹介してくれた。
「ええ〜ホントですかぁ? すっごぉい」
「チーフは大げさです。私なんか、古くて」
 ってまあ、私も謙遜して言ったわよ。
「何年くらい、この仕事やられてるんですかぁ?」
「社会に出てからずっとだけど」
「子供さん、いらっしゃるんですかぁ?」
 いきなりこうよ?! まったく最近のコって、失礼ですけどって前置きもしないのよ。しかも初対面 で。気づくと、なんだかフロア中の視線が集まってる気がしたわ。今まで、こんなに面 と向かって、こういうプライベートなことを聞く人なんていなかったわよ。目の端に、サトコがこっちを見ているのが見えたわ。
「結婚、してないけど――」
「仕事一筋なんですね、すごぉい」
「――べつにすごくはないわ。なかなかチャンスがなくて、まだなだけで――」
「じゃあ、これからに期待してるんですね」
 クスッ、笑い声がフロアのどこかでしたわ。サトコかしら? きっとそうよ。私は顔が熱くなって、反対に指先が冷えるのがわかったわ。なんで私、こんなこと言われなきゃいけないの? チーフはいつの間にか、自分のデスクに戻ってた。どうして助けてくれないの? でも、それがどうしたの? いけない? なんて言ったら大人気ないって思われる。
「いいじゃない、人のことは。それより仕事がんばってね。とにかく、石の上にも三年よ」
 やっと、間が空かないように、言えたわ。
「それって、この会社とか仕事が、石みたいだってことですかぁ?」
 やだこのコ、バカかしら。
「ことわざよ、できれば長くがんばってって意味じゃない」
「やぁだぁ、そんなこと分かってますよぉ! ちょっと突っ込みいれただけじゃないですかぁ マジになんないでくださいよぉ」
 甲高い笑い声に、フロアの何人かが声を合わせてた。おかげで、私はそのあと、ちっとも仕事がはかどらなかった。乗らないの。それでもちゃんと決められたことはやったわよ。そこはキャリアよ。別 のこと考えてたって、手は動くの。
 注意してみてたら、あの新人、チーフのデスクに呼ばれて、ずっと話してたみたい。仕事の説明にかこつけて、注意されたんだわ、きっと。チーフはちゃんと私のことを考えてくれてるのよ。
 それにしても、会社内の、この空気の悪さは何かしら? 気にしてるの、私だけなのかしら? イジメだなんて、そんなヒネたことは考えていないわよ。見当はついてるの。あのサトコが、私が席を外してるときとか、会社の外で、あれこれ噂してるのよ。私を追い越したいんでしょ。まだ駆け出しのクセに、私の存在がうっとうしいのね。

 帰り際、またチーフがひとこと言ってくれるだろうと思ったから、遅くまでねばってみたんだけど、今日はなかなか、みんなが帰らなかった。気がついたらチーフが帰ってしまってたわ。少しがっかり――でもいいわ。大丈夫、私はチーフを信じていればいいのよ。だってそもそも、この仕事に誘ってくれたのは、チーフなんですからね。私のことは、よくわかっているはずなのよ。

「校正、持ってきましたぁ」
 例のヤツカが来たのは午後一だった。今日は、ビシッと言わなくちゃね。チーフからも注意するように言われてたし。
「FAXでもいいのに、わざわざ悪いわね」
「いやぁ、近くに用事もありますから。じゃ、これ、赤入ってます」
「近くに用事って、別の仕事?」
「そうすよ、一応フリーですから、自分」
「それはいいけど、まさか、うちの取材費で、よその取材もついでにやってないでしょうね?」
「ええ? それもよくあることじゃないすか」
「そうね。でもね、取材費出してる方としては、仕事掛け持ちしても、こっちを主軸にしてほしいのよ」
 私のセリフはじつに滑らかだったわ。だって練ってきたんだもの。
「なんか、問題あったんすか?」
「この原稿ね、今回は急いでるから、これでいくけど、よく読むと問題ありなの。今月号のグラビア、リゾート特集でしょ? あれじゃ、ただの観光案内よ。本文ももっと、スローなムードも欲しかったし、短くても描写 風のネームに仕上げて欲しかったな。コンセプト、打ち合わせなかったかしら?」
「打ち合わせた……かな? 自分はそのつもりだったんすけど」
「こっちも説明不足だったかもしれないわ。今度から、きっちり打ち合わせましょう。ヤツカちゃんもがんばってるんだし」
「すいません……」
「任されてたら、気をつけてもらわなくちゃ。怒ってるんじゃないのよ」
「はい――でも、さすがっすね、ちゃんと見てるんですねえ」
「当然よ、この仕事長いんですからね」
「いや、ありがたいっす」
 ヤツカちゃん、いつもは馴れ馴れしい雰囲気だけど、今日は気を引き締めたみたい。若いコにはいい薬よね。
「いやあ、怒られちゃったよ――」
 なんて、新人の前で頭をかきながら出て行ったわ。
 いいかんじで、言えたと思うわ、われながら。私も気分良かったから、コーヒーでも入れようと思って、厨房へ立った。新人はお茶なんかいれないわよ。
 ロッカーの向こう側に回ったとき、厨房から、思いがけず話し声が聞こえてきたの――。
「ヤツカちゃんて、呼ばれてるんですね」
 新人の声よ。私は思わず足が止まった。
「ライターさんなんですってね? ちゃんづけで呼ぶと、それっぽいですね」
「あんた、編集の見習いだっけ? いま時さ、そんな呼び方する奴、いねえよ。業界気取ってんだよな」
「昔はそんなふうに呼んでたんじゃないですか? ドラマとかで見たことありますもん。あの人30年くらい、仕事してて、すっごいベテランなんですって。はい、コーヒー」
「サンキュ。長くやってんのと、ベテランってのは、イコールじゃないぜ? いまだって、一応雑誌編集だけどさ、メインはサトコさんだもんな」
「えっ? そうなんですか?」
「あの人がやってんのなんて、毎回、似たようなページだろ? チーフが毎回チェックしてさ。俺の取材先立って、決定すんのはチーフだぜ。あの人、それを受けて進めるだけだもんな」
「それって、任されてるのと違うんですか?」
「サトコさんはさ、自分で考えて、それをチーフに持ちかけてんの。アイデア出してんだよ。冒険もするしね。あの人は、そういうのナシ」
「そうなんですかぁ」
「写真の短いキャプションだって、ほとんど自分で書かないぜ。俺の書いたのを、まとめてデザインに渡すだけだもんな、事務的に」
「それって、編集とは違います?」
「違うね、それならあんただって、やれるよ」
「ほんとですかぁ?」
「あの人、そういうのぜんぜん自覚ないもんな」
「でもさっき、ちゃんと読んでるって」
「あれもどうだかな。誰かに言われたんじゃねえの? だってさ、最初にちゃんとネーム読んで、気がついたんだったら、もっと早く言うだろ? 校正の段階の前に」
「それもそうですね……」
「組んでるサトコさん、そうとうイラついてんだろ?」
「まだよくわかんないけど、そうみたい」
「あの人のフォロー役だもんな」
「それって、さかさま……」
「カンチガイしちゃってんのよ」
 根が生えたように立ち尽くしていたはずなのに、気がついたら、会社の外にいた。私はコーヒーを諦めて足音がしないように回れ右をして、そのままフロアを出たんだわ。でもドアを出たら、足音はどんどん大きくなった。
 なんなの?! なんなの?! なんなのよ!! 
 あの二人、どういうつもりかしら?
 ついさっき聞いた話は、誰のことだったの?
 私? 私のこと?!
 私がサトコのフォローですって?! アイデアを出してるのは、サトコですって?
 カンチガイしてるのは、どっちよ!
 あの、新人の見習いと、下請けのライターが、何を分かったような口を!!
 聞かなければよかった。ああ、それなのに、一度耳に入った話が何度でも聞こえてくる。
 ――あの人、ずっと大手の出版社にいたっていってるけど、他で聞いた話じゃ、受付だったらしいよ。それでも一応出版社勤務なんで、次の就職のときも、ごまかしたって噂だぜ。
 怒鳴り込んでやればよかったかしら? フロア中を騒動に巻き込んでね。ああでも正面 切って戦うなんて、やっぱり私にはできないわ。ホント、この性格を呪うわ。
 ――仕事ができないってわかっても、すぐにクビにできないだろ? だからだんだん、どうでもいい仕事ばっかりになってくんだってさ。追廻とか使いっぱしりとか。この世界は広いようで狭いからね。会社が倒産しても、そこから散った人が、どっかで似たような仕事してんだよ。こわいぜ。
 絶対、あれは、誰かに吹き込まれたのよ。陰謀よ。だって良く考えてみて? さっきの話の内容は、ことごとくサトコに有利よ。そして、私に個人攻撃を仕掛けているの。それも、最も陰湿で、卑怯な手段でね。そう思うでしょ?
 ああ、どうしたらいいのかしら?
 どうやったら、あのサトコに反撃できるかしら?
 ギャフンといわせる、効果的な手段はないかしら?
 あの、新人とライターにもよ。
 その時、反射的に会社を出てきてしまったものだから、バッグ持ってなくて、手ぶらだったの。だから喫茶店にも入れなくて、あたりをグルグル歩いたわ。靴も履き替えてなくて、フロア用のサンダルのまま。どれくらい外にいたのかしら――会社に戻ったときは、もうぐったりだった。なかなか、反撃のアイデアは浮かばなかった。
「センパイ! どこ行ってたんですか?!」
 戻る早々、サトコが言いがかりをつけてきた。ああ、疲れて、ちょっと油断したわ。
「本屋で資料を見てたのよ」
 仕事が仕事だもの、そういうことは珍しくないのよ。
「出かけるときには、一声かけるって、マナーじゃないですか。それにケイタイも持たずに」
「ケイタイ?」
 私はぼんやり答えた。
「何度も鳴らしたんですよ。そしたらデスクで鳴ってて」
 また、フロアのどこかで、笑い声がした。
「つい、うっかりしただけよ。大騒ぎすることじゃないでしょ」
「今日の2時に、デザイナーと打ち合わせじゃなかったんですか? 校正を戻して、話もあるからって、呼んだんじゃないですか? ずっと待ってたんですよ。ヤツカ君は、その前に来てましたよね」
「――」
 改めて時計を見たら、もう3時過ぎてた。そうよ、そうだった。でも、あんなことを厨房で聞いたりしなかったら、そんなことにはならない。キャリアがあったら、こんなはずはないのよ。あんなアクシデントさえなかったら――。
「校正なら、ほら、机の上にあったんだけど――デザイナーさんは……」
「事務所で電話を待ってます。あとはFAXとメールでって言ってました」
「そう……」
「行って来た方がいいんじゃないですか?」
「え? どこへ……」
「校正持って、デザイナーに逢ってきたほうがいいです」
「でも、電話とFAXでって……」
「センパイがすっぽかしたんじゃないですか、それくらい誠意を見せたほうがいいです」
 すっぽかしたわけじゃないわ。それどころじゃなかっただけよ。そんなこと私はするはずないのに――。
「チーフに聞いてみるわ」
「わざわざ聞かなくても、常識でしょ」
「でも――」
「あそこのデザイナーとは、これからも付き合っていかなきゃならないんだから、ちゃんと筋通 してください。急いでくださいね」
 言われなくてもわかってるわ。なんで命令すんのよ。このコ、人のミスだと、ほんと、鬼の首を取ったようなのよ。それから私、校正を持って、すぐに会社を出たわ。ちゃんと話をして、謝れば、デザイナーだってわかってくれるわ――。

「ちょっと、こっち、来てくれるかな」
 会社に戻ったら、チーフが待ち構えていたかのように、ミーティング・ルームに呼ばれたわ。
「最近、スタッフとうまくいっていないの?」
 さっきの話、チーフはどこまで知ってるのか、私は急に不安になった。
「別にケンカをしてるわけじゃないんです」
「うん、そうだろうね」
「私は、一生懸命、仕事をしているんですけれど……」
「一生懸命なのは、わかるよ。そうでなきゃ困るしね」
「でも、悪意を持たれていたりすると、難しいこともあります」
 この際だから、ちゃんとチーフにわかってほしかったのよ。チーフだって、そう思ったから、こうして話してるんだし。
「任されてるって思ってた仕事に関して、細かく言われると、やはりやりにくいこともあるんです。私なりに、この仕事、長いですし」
「う〜ん……」
 チーフは考えるふうで、タバコに火をつけた。ここだけが喫煙OKなのよね。
「実はね、やってもらいたいことがあるんだ」
「私にですか?」
「俺のデスクの廻り、ひどいことになってるだろ? 散らかってて。ゴミの山みたいに見えるけど、埋もれちゃってる資料なんかもあるんだよ。整理して欲しいと思ってね」
「ファイリング……ですか?」
「うん、写真の整理もね。こういうの、よく分かってない人がやると、大事なものを捨てちゃったり、変な整理をしたりするだろ」
 私なら安心なのだ。やはりそうだ。
「そう、ですね。私なら、わかると思います」
「そうだよね、この仕事長いんだし。じゃあ、とりあえず、机を整理して、移動できるようにしておいて。明日から頼むよ」
「あの、いま進行中の仕事は……?」
「もちろん、それは進めて。残りは分かるようにしておいてくれればいいよ」
「わかりました」
 そう、私には全てがわかったわ。チーフの近くで、チーフの仕事を手伝う。つまり、チーフは、私を守ってくれてるのよ。目の仇にしている人がいるのを気づいて、フォローしてくれているんだわ。
 私は心からホッとしたわ! 昼間、心の中で吹き荒れてた暴風雨なんて、どっかへ行った気分よ。
 あくる日、私はさっそく大量のファイルを買い込んで、チーフのデスクのまわりの茶封筒なんかを、片っ端から片付けた。こういうの、けっこう大事なのよ。いわばチーフの仕事が蓄積されてるわけじゃない? 勉強になるわよ。門前の小僧がなんとかって言うけど、チーフの仕事振りを見てるだけでも参考になるし、ベストポジションよね。
 でも、こういう仕事って、やっぱり簡単だった。3〜4日もやってたら、デスクの周りもずいぶん片付いちゃったわ。だから、そろそろ、編集のほうもやっとかなくちゃ、と思っていたら、新人が声をかけてきたの。
「センパイ、あっちの机のパソコン、必要なデータがあったら整理しておいてくださいね」
 なんだか引っかかる言い方するのよね。
「どうして? パソコン、使いたいんだったら使っていいのよ。今、私、忙しいから」
「あ、そうじゃないんですぅ。ここのパソコン、何台か買い換えるんで、あたしのパソコンは買ってもらえるんですよぉ。だから使わせてもらうのはちょっとだけで。でもセンパイのは古いじゃないですか、だから処分するみたいでぇ。センパイが使ってるので、もう使えないソフト、あるじゃないですか、あのへん、どうするのかって」
「処分? そんなこと聞いてないわ。あのパソコン、まだ使ってるのよ。今月号の記事もそろそろまとめようかって思ってたし、そんな急に買い換えるなんて!」
「センパイのパソコンは新しくなるかどうか、知らないです。あ、それから、今月号のカラーページ、あたしがサトコ先輩に教わって、やってるとこです」
「なんですって?!」
「だから、心配しないでくださいぃ」
「なんで、あんたがやるの?!」
「チーフから、聞いてませんかぁ? 次からあたしがやってみることになったんです。この間、サトコさんから言われて…」
 チーフに確かめようと思って反射的に振り返ったんだけど、こういう時に限っていないのよ。でもいいわ、分かってるのよ、サトコの陰謀だわ。隙を突いて、何か企んでいるのよ。そういうのって会社のためにならない。私は決心したわ。
「ちょっとどいてよ!」
 私は新人を押しのけて、サトコのデスクに突進したわ。
「あなた! 一体どういうつもり?!」
「なんですか? 後送の原稿をすぐ作らなきゃならないんですけど」
 サトコはパソコンから顔も上げない。
「自分だけ仕事をしているような顔をするのはおよしなさい!」
「どういう意味ですか?」
「私の担当の仕事を、勝手に、あんな新人に回して」
「勝手にじゃないですよ。チーフだって知っています」
「それだって、あなたが言い出したんでしょ?! 私を排除しようと企んで」
「そういう言い方、止めたほうがいいと思いますよ」
 ここでやっとサトコは顔をあげた。
「人のことを後輩とか新人とか、見下げているかもしれないけど、今、自分がやってる仕事こそ、新人かバイトなみだってこと、わかってます?」
「今の仕事だって、チーフから頼まれてます」
「チーフは、ああいう性格だから、直接的には言わないけど、困ってんですよ。原稿まとめてもミスがあるし、校正モレは多いし、全部あたしか、チーフが直してるのに、ちっとも気付かない。気にしてもいないでしょ。ほんとに今まで、この仕事してきたんですか?」
「なんですって…」
 でたらめをよく言うわ。あたしのキャリア、知ってるくせに。あることないこと、言いふらしてたくせに。
「あなたねえ、チーフの名前を使って、勝手なこと言うんじゃないわよ」
「勝手な話じゃないって、何度も言ってるじゃないですか。はっきり言いますけど、担当から外したのは、あたしじゃありません。そうしたいって思ってたのは事実ですけど」
「やっぱり、あなたの企みじゃない。ちょっと仕事に慣れたからって、カンチガイしないでよ!!」
「カンチガイ?」
 サトコはうっすらと笑いまで浮かべてる。
「カンチガイしてるのは、センパイじゃないですか? 納得いかないんだったら、直接、チーフに聞いてみてくださいよ」
「どうせ、あなたが、いろいろ告げ口したんでしょ?」
「仕事の報告を、告げ口だって言われるなら、しかたありませんけど、何を言われても、判断するのはチーフです。チーフと話してもらえませんか」
「私はあなたに確かめたいのよ」
「私、チーフが決めたことなら、それに沿うように努力します。ですからまず、チーフと話してください。チーフがからむことを、二人で話しても仕方ないでしょ? 今、勤務時間中ですから」
 そこまで言うと、サトコはついと立ち上がってカラープリンタの方に歩いて行ってしまった。なにかしらね、あの落ち着き。開き直りかしら? まあ確かに、デスクにチーフは居なかった。――帰社するまで、待たなきゃ――私はのろのろとチーフのデスクのところに戻って、片づけを再開したわ。
 時間は4時すぎ――もうすぐチーフ、帰ってくるわね――。
 それにしても、サトコ、どうしてあんなに強気なのかしら? ミスが多いなんて、一度も指摘されてないわ。そりゃ、一度もミスがなかったとはいわないけど、事件になってたら、チーフだってちゃんと注意したはずよ。
 それともチーフとなにか、あるのかしら? 特別信頼されてるって思い込むようななにか……いいえ、そんなはずはないわよ。チーフはもっと冷静なはずだわ。それに、さっきの空気――フロアのみんなが黙って聞き耳立ててて――あんな小娘を言いたい放題させて――。あのサトコ、みんなにも何か言い含めてるのかしら? そんなに大きな計画だったら、どう立ち向かえばいいのかしら? 私だってチーフに信頼されてるのよ。ここの会社に誘ってくれたのだって、チーフだったし……。手元に置いて、指導してくれてたし――。
 カンチガイしてんのは、あのコのほうよね?
 確かめれば分かるわ、きっと――そう、きっと。でも、なんて聞けばいいのかしら……。
 もうすぐチーフは戻ってくる。今回もきっと、私を守ってくれるわ……そして形勢大逆転よ。


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「ああ、カンチガイ」の感想


*タイトルバックに「CoCo Style 」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別 館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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