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 親にとって、子供は二種類必要だと思う。自慢できる子と、ケンソンに使える子。この二種類。自慢話をしたいときにはできのいい子のことを出して、謙虚に見せたいときは、できの悪い子の話をする。とくに外面のいい親にはすごくバランスがいいんだろう。
 たぶんそれは、外面の問題だけじゃないだろうな。内面の問題もあると思うよ。すごく自分に自信がなくなってるときは、親を追い越しそうな子供がいたら嬉しいし、家庭内で主従関係作りたいときは、従わせる理由があるような子供の存在がありがたいんだ。
 ああ、だからって、そのころから、ずっとそのことを怨んでたってわけじゃないよ。ダイキを羨ましいって思ったこともなかったよ。逆だよ、むしろ逆。家の中の、役割みたいに思ってたんだ。役割が決まってたほうが楽ってことあるでしょ?
 そう考えると僕なんか、すごくいい息子だったんじゃないかと思う。その僕が、自分のポジションをわきまえないことをやろうとしたんだから、トラブルになるのは当たり前だったな。
 ――あとから考えると反省すべきだったよ。つまり、僕は、弟のダイキのポジション狙ったりしちゃいけなかったんだ。まあ、その企ては大失敗だったけどね。それに、誤解がないように言っとくけど、狙ったっていうのは結果的にで、受験がそんなつもりじゃなかった。
 とにかく僕は私立中学の受験に失敗した。今回は5校も受けたのに、まったく全滅だった。なんでだろうな――別に高望みをしたわけじゃないし、まったく成績が悪いんだったら、先生だって勧めなかったはずだ。サボったわけじゃない。
 でも、だめだった。もしかしたら、僕はこういう勝負っていうか、大きな試験みたいなのに弱いんだろうな。テスト用紙が配られるとまず、上がってしまう。
 それから、テストになると、こういう試験で高得点をマークしたはずのダイキの顔が思い浮かぶ――アイツは得意なんだろうな――それから、まるっきり期待していない両親の顔が浮かぶ。そうなると、なんだか足がむずむすしてきて、もうだめだ。もしかしたら、自分ではがんばったつもりだけど、ぜんぜん答えなんか書けてなかったかもしれない。いや、解答欄を全部間違えて、ズレてたかも――。
 とにかく、僕は地元の公立中学に入学した。
「まあ、それが妥当ってものかしらね」
 お母さんはそんなふうに言って、僕の中学受験はなかったことになった。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ、高校でまたがんばってよ」
 ダイキはそういった。励ましているのかなんなのか、複雑な顔をしていた。
「ああ、もう、受験はいいよ」
「なんで? 今回は急に受験することになったからダメだったんだよ。だから、今からやれば、次は大丈夫だよ」
「今回受けたところって、みんな中高一貫だぜ? 高校じゃ受けらんないとこばっかだよ」
「編入できるとこもあるし、高校で募集するところもあるよ」
「いやあ、もういいってば。有名校はダイキにまかせるよ。僕はパス、ムリムリ」
「じゃあ、お兄ちゃん、僕と交替してくれないの?」
「交替?」
「僕が普通の、この近くの学校行って、お兄ちゃんが僕の学校行くの」
「そんなのできないよ。こないだ、お母さん怒ってただろ? だいいち、僕、受かんないし、また、お母さんが怒るぞ」
 その時、僕は本当にうんざりしてたんだ。親の期待に全然こたえない受験なんか、するもんかと思ってた。自分のポジションは、ここなんだ。変えようとすると、喜ばれない。
 でも、僕はこのときのことを、ずっと後悔した。ダイキの言うことを、もっとちゃんと聞いてやればよかったと思った。あの時は、単純に僕を慰めようとしているとか、じゃなかったら、ちょっと学校が嫌になってるんだろう、くらいにしか思わなかったんだ。
「普通でいいよ、普通で」
 お父さんは、前にも聞いたようなセリフをいって、関西のほうへ単身赴任していった。
 それで、うちの中が前よりもっと窮屈になってた。中学二年のときくらいから、お母さんも学習塾の事務のパートに行くようになって、ちょっとは風通しが良くなったけどね。
 ダイキは塾に通うことになってた。お母さんのパート先と一緒だ。僕だったらやだな。そんなとこまでお母さんと一緒にいたくないよ。
 ああ、でも逆に大変になったことも多かったな。家事とか、手伝わされんの、僕ばっかだもんな。一応、部活やってたんだけどなあ。
 しょうもない文化部だけどさ。いや、言うほどのもんじゃないよ。それでも早くかえってこいとか言われて。困るときもある。
 ダイキはお手伝いしろなんて、言われないよ。言われないけど、風呂の掃除とか、ちょっとでもやると、逆に叱られてたな。勉強しろって。僕がちゃんとしないから、ダイキが掃除をして、で、勉強ができなくなる、そんな叱り方してたよ。僕はもうなれてたけどね。
「ねえ、お父さんの書斎、僕が勉強に使っちゃだめ?」
 ダイキが、そう言って僕の部屋から出たときくらいかな、アイツ、なんか変じゃないか? って思い始めたの。
 お母さんは大賛成だったよ。寝るときは、今までどおり、僕と一緒の二段ベッドに戻って寝るってのを条件に、すぐに許可した。
「なんかなあ、僕がいると勉強できなかったかな」
 荷物をまとめているダイキに、僕は一応謝った。
「違うよ、お兄ちゃんのせいじゃないよ。ただ一人部屋ってやってみたいんだ」
「そうだな、それは僕もやってみたかったよ」
 軽く考えてたと思う。
 それから一週間もしないうちに、もとの二人の部屋から、ダイキの持ち物がどんどん減っていくようになった。最初は教科書とか学用品、それから本、CD、枕やパジャマまでなくなって、みんな書斎に持ち込んだらしい。
「お母さん、ダイキ、マクラまで持ってっちゃって、夜、戻ってこないよ」
 なんだか心配になって、お母さんに言ってみたんだ。
「そうよ、夜中まで勉強してるみたい。あの子ももう中学だからね、いくら一貫でもエスカレーター式って意味じゃないから、大変なのよ。今まで、落ち着いて勉強できなかったんじゃないかしら。あの子、そんなことアンタに言わないだろうけど」
「そうかなあ……」
「アンタ、暢気でいいわねえ、まさか、夜中にCDとかかけて、うるさくしてるんじゃないでしょうね? ダイキの邪魔してるんじゃないの?」
「ちがうよ」
 ヤブヘビだった。
 でも、これはなんかあるな、って確信持ったんだ。あの日はテスト前だったかなあ、部活しないで、帰ったら、そのすぐ後にダイキが帰ってきた。
「早いな」
 って、キッチンで声かけて、固まったよ。なんかボロボロだったんだ。
「どうしたんだよ!?」
「なんでもないよ!」
「なんでもないことないだろ?! 誰にやられたんだよ」
 アイツ、口切れてたし、髪の毛はあちこち切られて、病気の猫みたいだった。ボコボコにされたのは見て解った。
「お願いだから、大騒ぎしないでよ」
「でもそのまんまじゃ、黙ってたって大騒ぎになるぜ」
 ダイキは玄関に立ったまま、うつむいた。ものすごく暗いオーラだったんだ。
「お母さんに言わないで」
「いいから、わかったから。その頭、散髪してやるよ。それから、シャワー浴びて、顔冷やせよ」
「うん……ありがとう」
 お母さんが帰ってくるまでには、まだ時間があった。ダイキは大人しく僕に手当てされながら、ポツポツ話た。学校じゃ、そうとう長く、シカトされてたらしい。そして今日、とうとう暴力に出てきたってわけだ。
「それ、クラスの連中かよ? なんでなんだよ」
「理由なんかないんだ。気がついたら、差別されてたんだ――」
「――いつからだよ?」
「わかんないよ」
「それだって、きっかけぐらいあっただろ?」
「きっかけも、そんな、ないんだ」
 同じ学校だったら、絶対、僕がほうっておかない。ケンカはそんなに強くないけど、絶対仕返ししてやる。でも、今できないことを言っても仕方がない。
「僕の学校は、まだ高校まで同じだろ? もうやだよ、受験とかあれば、学校変るチャンスもあるのに――」
「私立はイジメなんかないっていうじゃんか」
「そんなのウソだよ。ちゃんとあるんだ――」
 僕もどうかしてたんだ。なにかしてやりたい、助けてやりたいってすげえ思ったのに、結局お母さんをごまかす手伝いしか思い浮かばなかった。
 それから、ずっとそうだった。何か隠されたら、新しいのをこっそり買ってやったり、怪我の言い訳をいっしょにしたり。そんなことばっかしてた。
 あとで考えれば大バカだった。お兄ちゃんごめんね、お兄ちゃん、ありがとう――そんなセリフで満足してたんだな。
 ダイキが死んじゃうまで、どうにもできなかったんだから。
 もう、なんにも言わなくなったダイキを最初に見つけたのは僕だった。お父さんの書斎だよ。……小さいけどニュースにもなったから、みんな知ってる。
 ――あのときのことは、あんまよく覚えてないんだ。なんか一瞬、ぼうっとして、記憶がない。気絶してたのかもしんないな。
 お母さんに電話したのは僕だったと思うよ。そこんとこもはっきりしないけど。
 最初は、
「あんた、何をしたの!」
 って言われてさ……。また、自転車の事故んときみたいに、殴られるって思った。
 警察が来て、救急車が来て、あ、逆かな? お父さんが帰って来て、ダイキの学校の先生たちが来て、僕の学校の先生も来たな。マスコミもいっぱい来た。ダイキの学校は一応名門だったから、ほんと大騒ぎだった。先生たちは、何度も何度も謝りに来たよ。
 お母さんが一番大騒ぎだった。殺されたんだって叫んで、葬式のときも大暴れでさ。先生とか、クラスメイトの顔見ると噛み付くみたいに飛びついてた。
 裁判するっていってたけど、どうなったのかな。校長が謝ったから、結局やめたのかもしれない。イジメたクラスメイト? どうかな、来たかなあ? どうだったかわかんないや。
 理由? それも新聞にも書いてたろ? イジメってとこだね。僕にはあんまり説明してくれなかったんだ。本当のきっかけみたいのは、あったのかもしれない。でもなんか、僕から見ると、すげえ無理してたんだってしか思えない。小さい時からね。
 一ヶ月くらいしてから、お父さんは仕事に戻って、僕も学校に行くようになった。でも、お母さんはもうパートに行かなかった。
 お父さん? う〜ん、落ち込んでた――と思う。よく見てなかったんだ。
 あ、でも、仕事に戻るときに、ちょっと話したな。
「お父さん、もう行っちゃうの?」
 って聞いたんだ。ダイキが使ってた書斎でだったと思う。
「うん――ごめんな――」
 お父さんはそんなことしか言わない。いつもそうだ。
「僕、お母さんと二人になっちゃうよ」
「そうか、お母さん苦手か?」
「――」
「だろうな……お母さんな、大学卒業する直前にお前ができて、すぐに結婚したんだ」
「そうなの?」
「もっと学校にいて勉強したかったみたいだけど、諦めたんだよ」
「ふうん――」
「だから、学校にこだわってるとこあるのかなあ――わかってやれよ」
 そんなこと言ってたな。わかってやれって言われてもなあ。なんか、僕に関係ありそうで、実は関係ねえだろってかんじだった。だからなんだよ? って聞き返したかったよ。いや、しなかったけどね。
 お父さんと話したのは、それからあったかなあ――。良く覚えてないや。ダイキの法事とかあったはずだけどね。そんときは帰って来たよ、たぶん。
 お父さんと一緒に関西へ? そうだね、今思うと、そういう道もあったな――でも、お父さん、何にも言わなかったし――。考えもしなかったよ。
 は? それからお母さんは変ったかって? 僕の存在に改めて気づいた? 優しくなったかって? 甘いね、そんなことぜんぜんないよ。ほんと、不思議なくらい変ってなかった。もとからあんまりしゃべんないし、かまわれなかったからね。
 だいいち、あの親は僕の学校の行事にぜんぜん来なかったもん。授業参観も来ない。運動会とかでは、弁当は一応、作ってくれたけど。ぜんぜん来ない。まあ、一度も来ないと、別に期待もしないよ。気楽だよ、いいかっこしようと思わないし。
 でも、奇妙に風通しが良くなったのはホントかもしれないな。今までは、叱られることがいちいちダイキにからんでたんだ。ダイキの邪魔をするな、ダイキを見習え、お兄ちゃんなのにってさ、なんか言われるときって全部、ダイキがオマケについてきてた。
 ああ、これって、改めて考えるとすごいな。ダイキもそれ、聞いてたんだよな。いや、恨みって意味じゃなくてさ。なんかやだなあ、ダイキ、絶対いい気持ちじゃないよ。そんなことでいい気持ちになるようなヤツだったら、あんなことにならないよな。でも、ずっとそうだったんだ。
 だから、お母さんの文句が、だんぜん少なくなったって気がする。てえか、もともと文句以外の話ってしてなかったけど。
 ダイキの使ってた書斎はそのまま、ダイキの記念館みたいになって、使って物とかが並んでた。机の上にダイキの写真が置いてあるのが、前と違うとこかな。
 時々、僕はそこでダイキと話をしたんだ。お母さんがいるときには、僕は入らないよ、もちろん。誰もいたいときだけだけどね。お母さんも時々篭ってたみたいだね。
 そこで何をしたかって? 話をするんだよ、ダイキと。不気味かな? 別に変じゃないだろ? っていうか、声が聞こえるきがするんだよね。
 ――お兄ちゃん、大丈夫?
 って、いつも心配してるんだ。だから答えるんだ。
「大丈夫だよ。僕は。でもお前、大丈夫じゃなかったんだな」
 ――うん……。
「なんで、黙って死んだんだよ」
 ――うん、ごめんね……。
「なんで、僕に相談してくんなかったんだよ」
 ――ごめんね……。でもお兄ちゃんも、大丈夫じゃなさそうに見えたんだ。
「そうかな? なんでかな?」
 ――うん、わかんないけど。
「わかんないな――」
 ――でもお兄ちゃんは僕とは違うよ、きっともっとがんばれるよ。ホントは成績もいいんだよ。
「そうかなあ?」
 ――そうだよ、僕、応援してるよ。
 そんな風に聞こえる感じだね。実際は独り言みたいなもんかもしれないけどね。
 それから僕は、少しづつ自分のことを考えるようになったんだ。勉強も少しちゃんとやってみようと思うようなった。
 それからダイキのことも考えるようになったんだ。ダイキは無理してたのかな、失敗したら僕みたいに叱られるって思ってたのかもしれないな。交替したいなんて言ってたけど、本気じゃなかったかもしれない――。
 学校は交替したいけど、家では交替したくないってか? そりゃ、きついよな――。両方ダメじゃな。
 けっこう、僕も変ったと思うよ、あの頃。友達とかと、ずいぶん外で遊んだ。ゲーセンも言った。文句言われないしね。
 運動会の応援団をやったな、それから文化祭の実行委員も。成績は中の上くらいだったけど、なんか活発にいろいろやったような気がする。
 ああ、お母さんになんか、報告したっけかな? 一応は言ったと思うよ。練習とか準備とか、遅くなるしね。家にいるより楽しかったし。文化祭はね、お化け屋敷やったっけな。夜8時くらいまで用意してさ、中学なのに手の込んだことやったよ。応援団もさ、ちゃんとガクラン着た。
 うん、充実してたなあ――。
 ――僕、応援してるよ。
 ダイキの声がいつもしてる気がしたよ。アイツの分まで、なんておこがましいけど、書斎でさ、報告できるようなことをしようと思ってたんだ。単純に。
 高校受験は、まあまあだな。
 地元の高校だけど、一応県立だし。部活は落研やってた。落語だよ。なんかお笑いの古典ってかんじで興味持ったんだ。暗記するのが大変だったけどね。
 うん、あのときも充実してた。
 お母さんと? もう、あんま話さなかったな。お父さんはずっと帰って来なかった。なんか変だね、あの二人。でも気にしてなかったよ。学校か家か、どっちか面白ければ、ニンゲンなんとかなるもんだよね。
 ――うん、そうなんだ。思い出すとその頃からなんだ。運動会とか、文化祭とか、落研の発表会とかイベント当日がくると、突然体調崩すんだよね。最初はお腹が変になるくらいだったんだ。
 運動会当日、ヒサンだったぜえ! 午前中で収まったけど、もうトイレの住人状態でさ。でもやったよ! 僕の役目だったからな、応援団長。周りの話じゃ、真っ青で、すげえやばかったらしい。でも野郎同士のことだからさ、ちょっとウケてたけどね。
 文化祭もそうだったんだ。風邪ひいたみたくなって、辛かったなあ……。なんか吐き気すんだよね。そん時も真っ青でさ、「お前がお化けの役やれよ」なんて言われたよ。
 マラソン大会もやばかった。けっこう得意だったのに、ぜんぜん走れなかった。得意なもんに限ってそうなんだよな。
 修学旅行とか合宿なんかの泊りがけのときは、一日目だけが調子悪くなる。何日か過ぎると、大丈夫なんだよね。水が合わなくて、そのうち馴れるんだと思ってた。
 落研のイベントんとき、一回、とうとう舞台に上がれなかったことあんだよね。もう舞台が遠くなってくかんじで。顧問の先生は救急車呼ぶって言ったんだけど、それはカンベンだよな。医務室で寝てたよ。情けなかったよ。
 自分って本番に弱いんだなあって考えてた。プレッシャーで、がんばろうって思ってんのに、身体が逃げようとしてるってやつ? そういえば受験もダメだったし、あれも同じだったのかなって、よく考えた。
 そういうのって、弱点だよな。自分でもホント、つくづく情けなくなるよ。遠足の前日に熱出す子供みたいでさ。あ、子供んときはそんなことはなかったけどね。これから大人になったら、いろいろ重要なイベントとか、仕事あるだろ? 面接とか、どんな仕事するかわかんないけど、会議とか、出張とかさ。そのたんびにこうじゃ、社会人になれないぞ、とかマジで考えた。
 だから、自分ではすっげえ健康に注意してたよ。イベントの前には疲れないとか、ドカ食いしないとか、冷えないとか、気遣うんだ。でもだめなんだよなあ――。僕ってナイーブだ、なんてよく友達にも言ってたよ。
 ――怪しいって思ったきっかけ? そうだなあ、やっぱ大学受験の模擬とか始まったころかな。
 何度も、具合悪くなるんだよ。それも、よく自分で観察してみるとさ、症状が同じなんだ。最初気分が悪くなって、そのうち吐き気がしてくる。そんで腹を壊す。もうちょっとひどいと熱が出る。毎回同じ。で、ひどいときはベッドに寝てると心臓バクバクでさめまいっぽくいなってきて、超ヤバイだろ?
 絶対変だって思って、持病あんのかもしんないってマジで思ったよ。
 で、お母さんに、
「これって変だよ。医者に行こうかと思うんだけど」
 って言ってみたんだけど、反応いまいちでさ。
「そんなに大げさなことじゃないんじゃないの?」
 って言われた。かまわれないのは毎度のことだから、気にもしなかったね。
 薬も自分で買ってきて、あれこれ持ってた。胃腸薬とか、救心とかさ。あんなん、オヤジ臭いだろ? 買うとき恥ずかしかったよ。でも心臓バクバクが、マジでやばいと思ってたんだ。汗かいてきて、実際、苦しいしね。体育の授業とか、動けないときあんたんだ。
 そんなとき、ダイキが言ったんだ。あ、例の書斎でだけどね。
 ――お兄ちゃん、気をつけたほうがいいよ。
「何をだよ。気をつけてるぞ。病気はカンベンしてくれだから」
 ――そうじゃないよ、目に見えないからって、何も起こってないってことじゃないってことだよ。
「どういう意味だよ?」
 詳しくは、いつも教えちゃくれないんだ。は? そりゃ変だよ。だから言ったろ? 独り言みたいなもんだって。深い意味はないよ。心の声ってやつだろう。
 でも、案外、そういう忠告みたいなのって、的を得てることがあんだよ。もしかして……ってね。
 あ、こりゃあ、決定的だって気づいた瞬間?
 うん、はっきり覚えてるよ。
 あんときも、確か試験の前だったなあ、夜から具合悪くなってきてさ、ああ、きたきたって、もうそんときには馴れて、病気の手順みたいなのがわかってた。ムカムカしてきた段階で、薬飲んどくと、けっこう楽だったりするんで、さっそくカバンから出して飲もうとしたんだ。
 ところがその日はなかった。買ったばっかだったはずなのに、一コもない。カバンをひっくり返して探したんだけどね――思い返してみると、あれも怪しいな、確かに買ったのにな――まあ、それはそれとして、マジ困って、家の置き薬を探すことにしたんだ。
 もう夜中で、お母さんも寝ていたみたいだった。台所に、薬箱の置き場所があるんで、そっと行った。薬はいつも自分で調達してるんで、場所はうろ覚えだった。で、あちこち探して、食器棚の扉の奥に見つけたんだ。
 そんときだよ、奥にもうひとつ箱を見つけたんだ。薬箱から胃腸薬出して、仕舞おうとしたときだった。何にもラベルがないビンだったんだ。
 怪しいだろ? いかにものサスペンスだよな。
 こんなところに隠してるのが、逆にあからさますぎるっていうかさ。でも、手にとってみたら、
「これだ!」
 ってなんでか思ったんだよ。解ったんだ。
 白い粉だよ。
 そんときは何もしなかった。そのままビンも薬箱ももとに戻しといたんだ。
 もう一度、出したとき? そうだな、一週間もたってなかったよ。だって気になるだろ? あ、そんときはべつにダイキには聞かなかった。聞いたらかえってヤバイかんじでさ。はっきり言ってくれちゃいそうじゃんか。
 お母さんがいないときに、こっそり確かめたんだ。やっぱりあった。ラベルが貼ってない薬ビン。
 そんで、僕が持ってた整腸剤と入れ替えた。整腸剤はちょうど、その粉と色が似てたから、それを金槌で砕いて粉にして入れておいた。
 あの白い粉、なんだったのかな?
 ――あんときは、ただ怪しいって思っただけだけど。なんかピンときたってかんじかな。
 試してみたかって? もちろんだよ。ヤバイかもしんないけど、少し水に混ぜて一気飲みした。ヤバかったら急いで吐こうと思ってた。
 そしたらどうよ? 次の日気持ち悪くなって、熱が出て、心臓バクバクだぜ? いつもと同じだった。この粉のせいだってはっきりしたよ。その粉は、もうカバンに入れて持ち歩いてた。
 だって家の中になんか隠せないだろ? 当たり前だよ、ビンがなくなってるってわかったら、探されるぜ、ゼッタイ。だから自分で持ってんのが、一番なんだよ。安全なんだ。
 は? 怒ったかって? 恨み……ねえ。
 う〜ん、そうだね。でもなんか、最初は、
「やっぱそうか……」
 って気分だよね。
 だんだんイライラしてくるようになったのは、少しだってからだったと思う。
 ビンを僕が持ってるようになってから、イベントとか、ビッグデイに、僕は具合が悪くなるようなことはなかった。体調はいつも絶好調だった。スポーツもできるし、部活もノリが良くなったし、勉強も集中してたと思う。成績は、あんま親に報告してないけど、ちょっとは順位が上がってだ。マジで、大学受験のために塾に行こうかとおもった。
 ああ、ちょっとやけっぱちなとこはあったかもね。
 でも反面、頭ん中はぐちゃぐちゃになってた。だんだん変になるのが自分でわかるんだ。 何ヶ月か過ぎるとさ、自分がこんなに元気でなんでもできるのは、あの粉を飲んでないからだって。
 そんで意味なくムカついて、通行人を殴りたくなってさ。しないよ、ぜんぜんしないけどね。家にいても、椅子とか投げたくなる。
 お母さんは、変んないみたいだった。少なくとも表面上はね。でも何度か、夜中に棚を引っ掻き回してるような音が聞こえてたよ。探してたんだろうね。
 ああいう音って気分いいもんだよね。へっ、探してやんの! って思いながら、つい笑っちゃうよ。お探しのビンは、ここですよ〜ってかんじ。わざと、
「いってきます!」
 とか、元気に声、かけたりしてさ。
 そのまま、なかったことに?
 うん、僕もそう思ったことあったよ。
 僕がビンを捨てて、忘れればいいって。お母さんとは何にも話してないんだから、なかったことにできるよね。迷ったよ。
 で、ダイキに相談したんだ。
「もう、これで大丈夫かな?」
 僕が写真に聞いた。
 ――お兄ちゃん、油断しちゃだめだよ。
「油断?」
 ――油断だよ。粉は、なにもそれだけないかもしれないじゃない。
「これだけじゃないってなんだよ、それ?」
 ――また、具合が悪くなったら、どうすんの?
「……また、やられるかな?」
 ――その粉は、ちょっと具合が悪くなるだけかもしんないけど、もっとひどいことになったら、どうすんの?
「そんなことあるかな……」
 ――油断しちゃだめだよ、お兄ちゃん。
 ダイキは、昔から僕のことを、いっつも心配してくれるんだ。気にかけてくれててさ、弟なのに――。
「どうしたらいいんだろう? ダイキ? この家を出たほうがいいかな?」
 ――家出すんの?
「それしか思いつかないよ」
 ――お兄ちゃん、反撃しないで逃げちゃうの?
「反撃?」
 ――うん、そうだよ。
「それってなんだよ?」
 ――。
「おい? ダイキ?」
 ダイキは、それっきり、何にも言わなかった。ホントだよ。ダイキが言ったんだ、反撃って。
 だからやることにした。
 反撃だよ。
 部活がない日に、早く帰って、冷蔵庫の残りご飯に、あの粉を振りかけて混ぜた。まずは少しだけね。
 ご飯が残っているときは、お母さん、いつも夕飯はそれをレンジでチンしてんだ。まずは少しだけだよ。それから僕はもう一度家を出て、塾行ってる連中を待伏せて、適当に遊んだ。帰ったのは遅かったな。何にも言われないよ、僕が遅く帰っても。
 夜、お母さんの部屋から、変な声が聞こえた。うなってるみたいな声で、トイレにも何度も行ってるかんじだった。
 大成功だよ。
 きっと、気持ちが悪くなって、それからお腹壊して、そんで熱が出て、心臓バクバクになってるはずだと思う。
 毎日は使わないよ、いくらなんでも。ときどきだよ。お母さんのイベント日が狙えないのが残念だったけど。知らないから狙えないんだ。でもなんで僕のことは知ってたんだろう? イベントは誰かに聞いてたのかもしれないな。案外、僕の話、ちゃんと聞いてたとか? 粉混ぜるためにね。
 自分が具合悪いの、あの粉のせいだって、わかってのかなあ?
 いや、バレてもいいんだ。気にしてなかった。同じ粉だってわかったほうが、なんか気分よくない?
 反撃だもんな。
 入院したのは、粉使い出してから、一年くらい、たってたよ。ちょっと頻繁に使いすぎたかもな。ご飯、あんま食べなくなってからは、冷蔵庫の水に入れてたし、ポットにも入れたから、絶対、飲んじゃうだろ?
 僕が作る料理なんて、絶対食べないよ。ま、作ってやる気もないけどね。
 お父さん? 家に戻ったのは、お母さんが入院してからだよ。忘れてたよ、お父さんのことはさ。なんか、気の毒だったかな? お父さんにだよ。
 いや、考えるとヤバかったと思うよ。あのままほっといたら、死んでたかも。
 重態?
 違うよ、ちがう、ヤバかったのは、僕だよ。
 あのまんま、自分の病気だと思って、粉、使われてんの気がつかなかったら、死んでたよ、絶対。気づいてよかったって思うよ。
 ダイキだってきっと喜んでる。うん。
 ところでさ、あの粉、なに?
 やっぱヤバい毒かなんか?
 ダイキの声? うん、ここでは時々聞こえるよ。
 ――お兄ちゃん、大丈夫?
 って聞いてくるんだ。
 ――お兄ちゃんは大丈夫だよ、きっと僕よりうまくできるよ。僕、応援してる。
 そんなこと言うときもあるな。
 僕は、こう答えるんだ。
「大丈夫だよ、僕はうまくやるよ」
 ってね。


Copyright(c): Hisae Ishii 著作:石井 久恵


◆ 「スケープゴート」の感想


*タイトルバックに「
CoCo Style」の素材を使用させていただきました。

*石井久恵さんの作品集が、文華別 館 に収録されています。
*光文社が一般公募していた「奇妙におかしい話」(阿刀田高選、文庫457円)に石井さんの作品が入選、収載されています。


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