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 病室に戻るとアップルマンゴーがあった。おもちゃの赤いゴムボールをつぶしたような形のマンゴーが五つ、かげり始めた日の光を浴びながら、窓際の台に置かれたカゴの中に仲良く並んでいた。
「わぁマンゴーですか? ずいぶん大きいですねー!」
 わざとらしいくらい明るい声で若い看護婦がはしゃいでみせる。
「さっきみえたお友達にいただいたのよ。こんな高価な果物いらないって言ったんだけど、海外通の関口さんにヘタなものあげられないからって」
 同室の関口さんはおしゃべりでおせっかいな、どこにでもいるフツーのおばさん。
 年に何度かダンナを置いて友人達と海外旅行に出かけているとかで、そんな仲間や親戚らしい人達がひっきりなしに訪れてくるので やかましいことこのうえない。それでいつものように談話室でマンガを読みながら避難していたのだが、看護師と森田に見つかってしまった。
「それにしてもほんとに大きいですね。色もスーパーで時々見かけるのとはちょっと違っているような・・・」
 担任の森田彦一は渋い名前に似合わずまだ25歳、担当科目は英語で、本人はフレッシュな新米教師だと言い張っているが、一年留年しているせいか、あごのあたりの無精ひげのせいか若々しさに欠け、北山中の生徒からは陰でジイサンと呼ばれている。本人も知っていて
「おっさんを通り越してジイサンはないよな」
 とぼやきながらも鼻毛など抜いたりしているものだから、ますます生徒にナメられている。
「なんでもアップルマンゴーとか言うらしいですけど、りんごの味でもするのかしらねぇ。よかったらご一緒にいかがですか? 看護師さんも」
「えーいいんですかぁ、こんな高そうなもの。ありがとうございます」
「いやぁなんか催促したみたいで申し訳ない」
 二人とも高価なフルーツのおすそ分けに素直に喜んでいる。確かにデパートで買ったら1コ800円くらいはするだろう。
 ……ばかみたい。りんごの味なんてするわけないじゃない。祥子は心の中で毒づいた。こんなのあっちの家の庭にも町の通りにも腐るほど落っこちていていくらでもタダで食べられた。学校の校庭にはこれよりもっと小振りで黄色い実のなるマンゴーの木がたくさん植えられていて、男の子達はそのまだ青い実をもいで野球のボール代わりにして遊んでいたものだ。夏になると休み時間のたびにみんなで黄色い実を拾い集め、手で皮をむいてかぶりついた。ちょっと繊維質だが甘くて水気たっぷりで、日本で食べるマンゴーよりずっとおいしかった。
 今年の3月まで祥子は南米の真ん中にあるパラグアイという国にいて、そこの日本人学校に通っていたのだ。商社に勤めるパパに海外勤務の話が持ち上がったのは3年前、祥子が小5の時だった。海外といえばグアムとハワイしか行ったことのないママは
「子ども達のことも考えてよ、あなた。英語が身につくアメリカとかオーストラリアとかならともかく、パラグアイなんて……。2年くらい単身赴任でも大丈夫でしょ?」
 と大反対だったが、いつもはハイハイとママの言うことに逆らわないパパが珍しくがんばり、
「子ども達のことを考えて一緒に行こう、と言ってるんだよ。アメリカやオーストラリアならこの先いつだって行けるさ。子どもの頃に日本とはまったく異なった環境や文化の中に飛び込んだ経験は、祥子と和也にとって将来大きな財産になる」
 と子どもをダシにママを説得した。幼稚園児だった和也は
「すごいや、ぼく達ガイコクに行くの?」
 と大喜びだったが、祥子は本当のところ、あまり気乗りがしなかった。2年間とはいえ学校の友達と離れるのはいやだったし、ママが言うようにそんなどこにあるかもわからない国に行って、勉強が遅れることも心配だった。あの頃、祥子はそれなりに優等生だったのだ。1、2学期とも学級委員に推薦され、6年生になったら児童会の選挙にも立候補しようかと密かに計画していたくらいだ。
 が、そんな祥子の思いとは関係なく、南米行きは着々と準備され、小6になる直前の春休み、大沢家の家族4人は飛行機に乗った。季節も時間も日本とは正反対で、夏には40℃というお風呂のような気温になることも珍しくない、亜熱帯の国・パラグアイ。道路の真ん中を牛や馬が悠々と歩き、人々は雨が降れば休み、晴れれば家の前で日がな一日テレレを飲む。
 テレレというのは冷たい水を入れて飲むマテ茶で、ストローのようなものでみんなで回し飲みする。祥子は初め、このテレレが苦手だった。味も苦いし、回し飲みするのも不潔に思えた。しかし、いつしかその味にも慣れ、みんなで飲むのも気にならなくなった。それどころか暑い日は自然に自分で準備して「テレレする?」と弟やママを誘ったりもした。そう、自分でも意外だが祥子はいつのまにかテレレが好きになったのだ。いつのまにかパラグアイを好きになっていたように……。
「大沢、お前も食べるんだろ? ちゃんとお礼を言わなきゃだめだぞ」
 ぼーっと突っ立って別のことを考えていた祥子をたしなめるように森田が声をかけた。「……ありがとうございます」
 渋々頭を下げながら森田のだらしのないジャージの下を横目でにらみつけてやった。アンタのそういうところがいやなんだよ。いつだってあたしがなんにも言ってないのに勝手にあたしの意志を想像して決めつける。
「いいのよ、祥子ちゃん。もうベッドに入って休んだら? 今看護師さんが果物ナイフを探しに行ってくれたから」
 愛想のいい関口さんの笑顔に適当にうなづきながら言われるままにベッドに入った。関口さんには罪はないけどこのいつも上機嫌でなんにも悩みのなさそうなおばさんもきらいだった。アップルマンゴーも食べたことがないくせに何が海外通なんだか。
 ヒビの入っていた鎖骨はもう痛くもなんともなかった。退院したくないからお医者さんやお見舞いの人の前では痛いフリをしてたけど、もうそろそろ限界かな。こんなことならもっと景気よく足の骨の一つも折っておくんだった。学校に戻ることを考えると本当にまた骨がキシキシと痛むような気がしてきた。
 「ねー英語しゃべってよ!」中2の新学期になんとか間に合い、久しぶりの日本の学校にどきどきしながら登校したその朝から、祥子はめんくらうことばかりだった。同じ町内に帰ってきたのだから中学校といえども半分くらいは見知った顔のはずなのに、紺色の制服に身を包み、祥子の知らない芸能人の話題で盛り上がるクラスメートはみんな知らない人のようだった。英語しゃべって、と話しかけてきたのが5年生の時仲がよかった理恵だと気づいたのも、気の強そうな目とその下のあるかないかのほくろのおかげだった。
 理恵の言葉に引き寄せられるように二人の周囲にわらわらと人が集まってきた。
「あー祥子じゃん! 久しぶりー」
「日焼けしたなー、お前」
 かっての同級生達にもみくちゃにされ、祥子もだんだん調子を取り戻し、みんなの顔も思い出してきた。
「2年も外国で暮らしてたんだから、英語ペラペラなんじゃない?」
 みんなにこたえる祥子にシビレを切らしたように理恵がもう一度催促した。
「そうだよね、祥子、なんか言ってみてよ」
 周りのみんなも期待した顔になる。知らない子達まで遠巻きに祥子が何か話すのを待っている。
「……私が住んでたのはパラグアイだから」
 思い切ってそう言ってみてもみんなきょとんとした顔をしている。
「パラグアイは南米にあるスペイン語の国だ。そんなことも知らないのか、お前達?」
 いつのまに教室に入ってきたのか、先生が後ろに立っていた。
「げー、またジイサンかよ」
 口の悪い男子が天を仰ぐがその口調はまんざらイヤそうでもない。それが2年D組担任教師、森田彦一だった。一通り全員の自己紹介がすんだ後、森田は祥子を前に立たせてみんなに言った。
「大沢祥子は5年生までこの町にいたそうだから知ってる人も多いと思うが先月まで2年間、お父さんの仕事の関係でパラグアイで生活していた。みんなパラグアイがどこにあるか知ってるか?」
 祥子は顔が熱くなってくるのを感じた。
 パラグアイなんてマイナーな国、誰も知ってるはずがない。案の定 数人が遠慮がちに
「南米……?」と答えたが「南米のどのへんだ? 南米は広いぞ」と返されつまってしまう。祥子はさっさと地図でも見せて終わらせてほしいと願っていたが、森田はその後中2最初のホームルームを半分以上使って、パラグアイがどこにあって、どんな国かとうとうと説明した。そして最後に
「というわけで大沢は英語はみんなと同じスタートだがスペイン語はきっとうまいぞー。それからパラグアイにはもう一つ、現地のインディヘナの言葉、グアラニー語っていうのもあるんだよな?」
 とかましてくれた。祥子はみんなの「なーんだ」という顔を見たくなくて思わずうつむいた。それに実際はグアラニー語なんてほとんど知らなかったし、スペイン語だってあいさつ程度だ。
 しかしそこでさっきの「なんかしゃべって!」がまた始まり、祥子は仕方なく知ってる言葉を適当に並べ、やっと席に帰ることができた。
 この日が祥子にとって暗黒の日々の始まりだった。クラスの女子にははっきりとグループができていて、なんとか理恵のグループにもぐりこんだものの、2年のブランクは予想外に大きく、テレビや芸能人の話題になるとどうしても取り残される。たいして興味がなくても周りから浮かないよう、人気のあるバンドのファンのフリをし、塾に通い、片想いの男の子をつくった。そうやって必死で同化しようとする祥子の気持ちを無視して、森田は時々思い出したようにパラグアイのことをみんなの前でたずねては祥子をイライラさせた。そういう いわば「特別扱い」が時としてイジメの原因になることを誰に教わらなくても祥子は知っていたからだ。
 学校の成績も落ちた。以前は塾なんか行かなくてもたいてい一番か二番だったのに、中間テストの結果はクラスの半分以下だった。パパとママも変わった。それまであまり成績にうるさくなかったパパまでが塾を増やしたらどうだ、などと言い出し、パラグアイではのんきに一緒にテレレを飲んでいたママは、祥子の顔を見ると勉強のことしか言わなくなった。向こうで祥子より早くスペイン語を覚え、現地の子ども達と遊んでいた和也でさえ、パラグアイのことはきれいさっぱり忘れたように日本の小学校に適応していた。
 そして中間テストから一週間が過ぎた月曜日の朝、2時間目の英語の宿題をあわててみんなで写している時 香奈が言ったのだ。
「あーあ、祥子、アメリカから来ればよかったのにねぇ。そしたらこんな宿題ちょろいのにさ」
 ぎくっとしてあいまいな笑顔を作りかけた時 さらに理恵が追い打ちをかけた。
「ほんと、パラグアイなんて住んでもなんの得にもならないじゃん。祥子もそんなとこ連れてかれてかわいそうだったよねー」
 いいとこだってあるよ、と言いかけたとたん、登校初日に英語を話してみろ、と言われた時と同じ緊張感が祥子の舌を支配した。
「……うん、ほんと田舎でさー、大変だった」
 だろうねー、とみんなの同情を集め、すぐに話題は変わったが祥子はその日一日教室に入ると一人だけ酸素不足の金魚のように息が苦しくなった。このままここにいるとどんどん自分が自分でなくなるようで怖かった。
 が、幸いなことに、というかなんというか家族や学校に不登校として問題にされる前に学校へ行かなくてもすむようになった。4時間目の後早退し、家にも帰る気にならずフラフラ繁華街に足を向けている途中、突然角から出てきた車にはねられたのだ。
「看護師さん、遅いなぁ。そうだ大沢、マンゴーってスペイン語でなんて言うんだ?」
 あくまで高級マンゴーを食べるまで居座るつもりらしい森田は、また例の質問をしてきた。いつもなら「知りません」と無視してやるところだが、久しぶりにマンゴーを食べられると思うと祥子の気持ちもほんのちょっと明るくなっていたので
「マンゴーはマンゴーです」
 と思わず返事をしてしまった。
「そうか同じか。じゃありんごはなんて言うんだ? みかんは?」
 珍しく素直に答えた祥子に気をよくしたのか森田は矢継ぎ早にきいてくる。そんなに知りたきゃスペイン語の辞書でも買えば?と思いつつ
「りんごはマンサーナ、みかんはナランハ」
 としぶしぶ教えてやった。
「へーよく知ってるな。ありがとう、ありがとう」
 自分で尋ねたくせにやけに感心しながら森田は手帳を出した。一応メモするんだ、と何気なくのぞきこんだ祥子は意外なものを見た。
「先生、ちょっと貸して」
 ひったくるように奪うと祥子は最初のページを見た。手書きの、へたくそな南米大陸の地図だった。
 そのちょうど真ん中にやはりへたくそなパラグアイが書き込まれていてそこだけ赤で囲まれていた。
「おいおい返事も待たずに勝手に見るなよ」
 森田は困ったような顔をしている。次のページには人口や公用語、通貨などパラグアイの概略、その後はパラグアイの食べ物や音楽、流行っていることなど森田が祥子に聞いてきた質問と祥子の素っ気ない答えが事細かに書かれていた。
「先生、これ……?」
「校長先生からおれの初めて受け持つクラスにパラグアイから帰って来る子が入るよ、って聞いてさ。こりゃラッキーだ、って思ったんだ。おれが英語の教師になったのはただ単に英語という言葉を教えるんじゃなくて、言葉を通して日本とは異なる国の、異なる文化に生徒が興味を持つきっかけを作りたいって思ったからだ。英語は英語の世界の扉を開く一つのカギだからな。だけど同時に世界には中国語の世界やスワヒリ語の世界や他にも無数の文化があって英語だけじゃそれらの世界の扉は開けない。だからこそ世界は広くておもしろいんだぞ、ってどうやって生徒に伝えていくか、悩んでたところにお前がスペイン語の世界のカギをぶらさげてやってきてくれたってわけだ。おれもはりきって勉強するさ」
 森田はそこで言葉をきって祥子の様子をうかがうようにしてから声を落とした。
「……だけど、結果としてそれがお前にずいぶん負担をかけたらしいな。おれが未熟だった。すまない」
「……先生、ここ、りんごはmansanaじゃなくて manzanaだよ」
「え、ああ、そうか」
 祥子は自分でも単純だと思いながら、森田特製のパラグアイ手帳を眺めているうちに、森田のジイサンを許してもいいような気持ちになっていた。
「先生、南米には行ったことあるの?」
 いつまでも謝れるのも照れくさいので、話題を変えるつもりでたずねてみる。森田は学生時代その頃流行っていたバックパッカーとかいうやつで海外を放浪し、そのせいで大学を留年したのだと本人がしょっちゅう宣伝していた。
「南米かー。あっちの方はアルゼンチンのパタゴニアとペルーくらいだなぁ。あの辺はおもしろいけど金がかかるからおれはもっぱらアジア専門だったよ。貧乏旅行のマニュアル通りさ」
「アジアって中国とか?」
「ああ、中国も行ったけど一番歩いたのはやっぱりタイ、ベトナム、ラオスあたりかな。深夜特急の旅を気取ってね」
「深夜特急?」
「バックパッカーのバイブルみたいな本よ。文庫も出てるから探してみるといいわ」
 女性週刊誌に熱中していると思っていた関口さんが突然口を開いた。森田も驚いたらしく、
「そうです。よくご存知ですね」
 と意外そうに彼女を見た。
「うちの息子の愛読書だったんですよ。おれもユーラシア大陸をこの目で見てくる、なんて言ってきったない格好で家を飛び出してはもっと汚くなって帰ってきてたけど、5年前バンコクで事故にあって……。ほんとに最後まで人様に迷惑をおかけしてばっかりのドラ息子でした」
 なんでもないことのように、明るくさらりと彼女は言う。祥子はこういう時なんと言ったらよいのかわからず森田を見上げた。
「すいません、いきなりこんな話をしちゃって。でもね、私、息子は幸せだったと思うんですよ。短い人生だったけど、さっき先生がおっしゃってたように世界は広くておもしろい、ってことを親の私達より先に気づいて、好きなことやって死んだんですから。それで私、決めたんです。私も狭い日本を飛び出して広い世界を見てこようって。息子が見たかった世界を息子の分まで思い切り楽しんであの世で再会した時あの子に自慢してやろうって」
 関口さんはいつもの笑顔で微笑むと 祥子に片目をつぶってみせた。
「すみません、遅くなって。なんだかあちこちで患者さんにつかまっちゃって今やっと離してもらえたんです。もうお夕食の時間になっちゃいましたけど」
 トレイに関口さんの夕食と果物ナイフを載せて慌ただしく看護師さんが戻ってきた。関口さんは雨の日に転んでアキレス腱を切ったとかでまだ歩けない。が、他の患者さんのようにグチをこぼしているのをそういえば一度も聞いたことがない、と祥子はあらためて思い返した。
「いやーよかった、よかった。せっかくのこのマンゴーの味もみないで帰らなきゃならないかと心配しました」
 窓からはもう西日が射し込み、赤いマンゴーをさらに赤く染めている。
「まあ、先生もうお帰りですか? じゃあお夕飯の前ですけどむいてしまいましょう」
 関口さんがナイフを握る。
「あの! 私がむいてもいいですか?」
「あら、今どきの子どもはナイフが使えないって聞いたけど祥子ちゃんは大丈夫なの?」
 看護師さんはちょっと心配そうに祥子の顔を見た。
「大丈夫です。パラグアイでよくやってましたから」
 そう、パラグアイで覚えたことはたくさんある。学校に戻ったら理恵にも香奈にも教えてあげよう。パラグアイがどんなに田舎で、どんなにステキなところだったか。皮はおもしろいようにスルスルとむけた。甘い、懐かしいにおいがする。まだ少し固いがみずみずしくおいしそうな、オレンジがかった黄色い果肉をそぎおとすと大きな種とその周りの実が残った。
「これ、もらってもいいですか?」
 関口さんの返事も待たず、祥子は手をべとべとにしながら光る果実のてっぺんにかぶりついていた。


Copyright(c): para 著作:para

◆「アップルマンゴー」の感想

*paraさんの掌編ファンタジー 「時間屋」もお読みください。


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