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 誰かが後ろを歩いている。
 普通ならば、気にすることもない。夜道の一人歩きではあるが、若い女性ではない。ひったくられるような荷物も持っていない。
 しかし気になる。
 さっき、街灯が照らす範囲を少し出たときにさりげなく後ろに目をやってみたのだ。
 その時見えた限りでは、誰もいなかった。
 しかし気配はある。足音が。
 ――足音が、少し速度を速め、思わず、ぎくりと立ち止まりそうになった。
 近づいてくる。
 努めて同じ歩調を続けながら、振り向きたい衝動と戦う。
 足音は少し斜め後ろをどんどん近づき――。
 そして自分の隣を通り過ぎた。
 前方を足音が遠ざかる。足音だけが。
 ――つ、疲れてるんだよな。
 いつの間にか止まっていた足をまた動かして歩き出す。
 今日も友人宅に寄っていて遅くなってしまった。もう夜半近い。
 ――早く帰って寝よ。
 次の角を曲がったところで、前方に店の明かりを見つけた。
 ――そういや、紅茶切れてたっけ。
 その場所には雑貨屋と果物屋が隣り合っていて、どちらもかなり遅くまで店を開けているのは普段から知っている。
 しかし、店の手前でふと立ち止まった。
 さすがに時間が遅すぎたか、開いているのは一軒、手前の果物屋だけだ。
 だが立ち止まったのはそのせいではない。
 有名な怪談がある。
 夜道でのっぺらぼうに出会った男が、店の明かりを見つけて逃げ込むと、そこの主人ものっぺらぼうなのだ。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 自分で自分が笑えてしまう。
 ――だいたい、会ったののっぺらぼうじゃねーし。
 果物屋には用がなかったのだが、店先のりんごが明かりに照らされて妙にうまそうに見える。
 店に近づくと、奥から店の主人が出てきた。普通の中年男だ。
「うまそうだな、りんご」
「そうだろ? もう閉めるから、おまけしとくよ」
 表示された値札よりもいくらか安い値段でそれを買う。茶色の紙袋に入れた一盛りのりんごを手渡そうとして、店主は一瞬動きをとめた。
 どうしたのかと思ってその顔を見る。
「なんだか薄いね、お客さん」
「へ?」
 思わず、目だけ上に動かすが、まだ頭髪の心配をする年齢ではない。
「まあいいや。しっかり持ってな。落っことすなよ」
 店主はそう言って、こちらの手に必要以上にしっかりとその袋を押し込んだ。
 ――変な親父だったな。
 そう思いながら自分の部屋の近くまで来て、ふと違和感に気がついた。
 部屋に明かりがついている。
 おかしいな。
 自分は一人暮らしで誰が来る予定もない。第一、来たところで鍵が開けられないはずだ。部屋を出たのは朝だから明かりをつけてはいない。泥棒であれば、わざわざ明かりをつけたりはしないだろう。
 どれひとつとして辻褄の合う説明がない。
 何があっても対処できるように心と身体を緊張させつつ、忍び足で部屋のドアの前まで行き、ノブをそっと回す。鍵はかかっていなかった。
 静かにドアを開くと、正面に、あまりに見慣れた顔があった。
 いや、それとも、よく知ってはいるが見慣れていない顔、だろうか。
 自分の顔というのはあまり頻繁に見ないものだから。
 向こうもぎょっとしたような顔でこちらを見ている。
 ――ど、どっぺるげんがー?
 足下に猫が駆け寄ってきて、ふーっと唸った。
 ――ちょ、ちょっと待て。オレは本物だよ。
 と言ってやりたいが、もうひとりの人物から目が離せなくて身動きできない。
 その時、相手がふと右手を動かしかけた。
 思わず手に持った袋からりんごを掴んで投げつけたのは、完全に反射的な行動だ。
 ごっ、という鈍い音がして、壁にりんごが激突した。そのまま床に落ち、ごろごろと転がる。猫がそれを追いかけた。
 気がつくと、部屋には自分と猫しかいなかった。
 ドアと鍵を閉め、部屋に入ると、猫がふと我に返ったようにこちらを見上げた。
 こころなしか怪訝な顔をしているように見える。
 狐につままれた猫、というくだらないフレーズが頭をよぎった。

 翌日は翌日で、アルバイトのせいで遅くなった。
 同じような時間帯に同じ道を歩くというのは少しイヤだが、気にしたら負けだと思って、気にしないことにする。
 今日は誰もついてくる様子がない。少し前方を、誰かがひとりで歩いているだけだ。
 そういえば、紅茶が切れていた。昼間買えばいいのに、昼間は忘れている。
 急げば、雑貨屋がまだ開いているかもしれない。
 少し足を早め、やがて、駆け足になった。
 前を歩いている人間を追い越し、角を曲がる。
 雑貨屋はまだ開いていた。
 紅茶のパックを買って金を払う。
 カウンターに置かれたそれを手に取ろうとして、一瞬、すかっと手がそこをすり抜けたような気がした。
 なんとなく、ぎくりとしてカウンターの向こうの店主を見る。こちらの店主は、果物屋よりもかなり年を取っていた。
「駄目だなぁ、兄ちゃん。自分をしっかり持っといた方がいいぞ」
 そう言って、にんまり笑う。
 慌ててパックを掴み、店を出た。
 ――変なジジイだったな。
 意味もなくどきどきする胸を抱えながら、部屋に帰りつくと鍵を開けて中に入り、明かりをつけた。
 奥から出てきた猫がにゃ〜んと鳴いて足に頭をこすりつける。この猫がそういうことをするのは、よほど腹が減っている時だけだ。
「どーせさっきまで寝てたくせによ」
 その時、ドアの外側にかすかな人の気配がした。
 ドアに向かい合った壁に背中を預けた格好で、そちらを見る。そういえば、まだ鍵をかけていなかった。
 見ている前で、ドアノブが静かに回り、ドアが開いた。
 ――嘘だろ。
 よく知ってはいるが見慣れているとはいえないその顔の相手も、呆然としてこちらを見ている。
 猫がそちらに駆け寄って、ふーっと唸った。


Copyright(c): Kinako Sagami 著作:サガミ キナコ

◆「夜道」の感想

*サガミさんは「laundry service 」というサイトを運営、オリジナルの小説や海外ドラマの紹介などをされています。
*タイトルバックに「 Ryu's Photo Gallery DeepBlue」の素材を使用させていただきました。


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