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※10年ほど前に友人のHPに書いたエッセイを改稿&再編集しました。


 JRが出している期間限定の特殊切符に、青春18きっぷというものがある。毎年、 春、夏、冬の3シーズンに発売されている。学校の長期休暇に合わせているため、 学生専用の切符だと思っている人も多いが、年齢制限は設けられていない。快速・ 普通列車が乗り放題というありがたい切符で、5回分(5日分)がセットになっている。料金は 11,500円、1回分(1日分)がわずか 2,800円という計算になる。 今回は、その青春18きっぷを使った気ままな一人旅。

 会社の夏休みは8月14日から5日間、出発したのは8月13日の夜だった。予定していたのは、東京23時43分発の大垣行き。何年か前に、同じ便を使って帰省した記憶がある。横浜から日付が変わるので、最寄りの東小金井駅から横浜までの乗車券を買って、改札に入った。うっかり青春18きっぷを使うと、横浜の手前で1回分を浪費することになってしまう。
 余裕を持って家を出たので、23時前には東京駅に着いていた。とりあえず東海道線のホームに上がってみると、まだ乗客が並んでいる様子はなかった。トイレに行っておこうと、階段に向かう途中だった。電光掲示板の文字が目に入った。
 23時43分発快速ムーンライトながらの指定席は、おかげさまで満席になりました ……、掲示板の中を流れる文字を読んで、顔の血の気が引いた。そんな馬鹿な、このまえ乗ったときは、全席自由席だったはずだ。あわてて時刻表を取り出して調べると、確かに全席指定のマークがついている。ページの下の空欄に、付け足すように書いてあったので、見落としてしまったのだ。
 床の上に坐り込んで、これからのことを考えた。選択肢は2つしかない。家に帰って出直して来るか、どこかに泊まって早朝に出発するか。結論は簡単に出た。明日出直してくるにしても、指定席が取れるとは限らない。それに、夏休みの貴重な1日が潰れてしまう。しかし、都心のホテルで高い宿泊費を使ってしまっては、せっかく安価な青春18きっぷで旅する意味が、いや意義が失われる。
 泊まる場所に、一つアテがあった。楽天地グランドサウナ、天然温泉がわき出る24時間営業のサウナ風呂だ。以前から、一度は入ってみたいと思っていた。温泉のガイドブックを頼りに、総武線で亀有駅まで出た。その本には、駅のすぐ前だと書いてある。しかし、駅の周辺を歩いてみたが、それらしい看板はどこにも見当 たらない。仕方ないので電話で確認すると、亀有ではなく、一駅手前の錦糸町駅なのだという。ガイドブックの掲載ミス、泣きっ面 に蜂だった。
 錦糸町まで電車で戻り、駅前のビルの9階にある楽天地グランドサウナに到着したときは、午前0時を過ぎていた。しかし、時間的にはちょうどよかった。0時を 過ぎてからの入場は、割り引きされて3,300円。でも、パンフレットがなかったので、正確な料金体系はわからない。
 ロッカーで着ているものを脱いで、浴場のドアを開けた。いきなり2人の男にギ ロリと睨まれた。浴槽の縁に並んで腰掛けている。1人は、新聞を広げている。もう1人は、煙草をくわえている。いずれも、ドアに貼られた注意書きで禁止されている行為だ。従業員に注意されない理由は、すぐにわかった。2人とも、派手な刺青が肌を覆っている。一瞬、足が止まったが、今さらロッカー室に引き返すのも不自然だ。視線を合わさないようにして、浴場の奥へと入って行った。駅前に歓楽街が広がる錦糸町だということを意識する。
 ここの売り物の天然温泉は、黒湯と呼ばれるコーラ色をした鉱泉だった。ぬ めり気の強いお湯は、新宿の名湯、十二社(じゅうにそう)温泉に近いものがある。独特の臭みがあるのは、成分表のヨウ素や臭素のせいだろうか。まるで、汚水の中に浸かっているような気がするが、それがなんだかとても心地良い。つげ義春の漫画で『山椒魚』という作品があるのだが、読んだ方ならこの感覚はわかってもらえると思うのだが……。
 仮眠室のベッドは満員だった。飲み過ごして、帰る電車がなくなってしまったのか。それとも、遠いわが家まで帰る元気をなくなってしまったのか。娯楽室の端に並べてあるマットレスに横たわって、バスタオルを体に掛けた。なかなか寝付けなかった。起きる時間も気になっていた。始発の電車に乗る予定だった。寝過ごしたら、ここに泊まった意味がない。
 それでも、いつの間にか寝入ったようだ。目覚めたとき、あわてて壁の時計を確認した。まだ3時になったばかりだった。もう少し眠ろうとしたが、意識はすでに動き出している。少し粘ってみたが、諦めて風呂に入った。先客がいた。浴場の中の椅子に腰掛けて、精根尽き果 てたといった感じで、死んだように眠っている。サウナで汗を流したあとで水風呂に浸かると、体の方も目が覚めた。
 4時過ぎに、楽天地グランドサウナを出た。外はまだ、夜の帳(とばり)が降りたままだ。空腹を覚えて、駅の周辺を歩いた。期待していたわけではないが、立ち食いそばの暖簾が出ていた。コロッケそば340円、愛想のないおばちゃんだったが、こんな時間に朝食にありつけただけで感謝。
 錦糸町駅の改札で、青春18きっぷに日付入りの検印を押してもらって、構内に入った。思わぬ アクシデントで、スタートから躓いてしまったが、いよいよこれから青春18きっぷの旅が始まる。

 上り電車の始発は、4時54分だった。電車を待つホームは、艶やかな格好をした女性たちの姿が目についた。夜の蝶とはよく言ったものだ。これからねぐらに帰るのか。浴衣姿のフィリピーナが、公衆電話で話している。外国語だと思っていたが、しばらくしてカタコトの日本語だということに気づいた。
 電車が到着して、乗り込んだ。混雑している。なんだか不思議な光景だった。行商風の婆さんが、大きな荷物を抱えるようにして、座席にちょこんと坐っている。 ゴルフバッグを担いだ人がいる。登山姿のグループがいる。そして、夜の蝶々さんたち。それから、けだるい顔のロン毛と茶髪のカップル……。
 ふと、汽水という言葉を思い浮かべた。河口付近で、海水と淡水が交じりあっている水のことをいう。その汽水域では、海水魚と淡水魚が同居しているらしい。始発電車の中には、汽水に似た空気が流れているのだろうか。
 秋葉原で乗り換えて、東京駅に着いた。すでに東海道線のホームで待機している5時20分発静岡行きの電車に乗り込んだ。新幹線のような豪華な内装にたじろいで、思わずホームに出て掲示板を確認した。鈍行というイメージではないが、この電車に間違いなかった。
 電車の中で読むために、文庫本を3冊、図書館から借りてきた。最初に読み出したのがフィリップ・K・ディックの『高い城の男』。ディックの最高傑作だと名高い長編で、ハインライン賞を受けている。太平洋戦争で日本がアメリカに勝ったらという架空の世界を描いている。しかし、相性が悪いのか、少しも面 白くない。私見だが、ディックの本領は短編にあるのではないか。早々に本を投げ出して、窓の景色や乗客の様子を眺めていた。
 終点の静岡で乗り換えた。さらに浜松、豊橋と電車を乗り継いで、米原で快速電車に乗り込んだ。いずれも坐ることができた。わたしと同じように、鈍行を乗り継いで旅している人がけっこういることに気づいた。やはり、青春18きっぷを使っているのだろうか。わたしがもっと気さくな人間なら、話しかけることもできるのだが……。
 旅行雑誌の紀行文を読むと、ライターが旅先で出会った人達と気軽に会話を楽しんでいる。こうした人との出会いこそが、旅の楽しさだと強調しているようだ。その通 りだとわたしも思う。内心、俺だって勇気を出せば、という気持もどこかにある。そうすれば、違った旅の楽しさが開けてくるかもしれない。でも、そうはしないことを、自分自身が一番よくわかっている。まず、自分の性格に対する諦めがある。 その裏には、そうした自分に対する慣れや愛着もあるのだろう。40年近くも付き合ってきたんだものね。無理をしては長続きしないし、楽しむこともできないだろう。
 尼崎で降りたときは、14時半近くになっていた。旅立つ前の計画では、このまま 一気に広島の実家まで帰るつもりだった。明日は、九州まで足を延ばす予定だった。 しかし、大垣行きの夜行を逃した以上、計画の変更は仕方がない。勝手気ままに予定を変えられるのが、一人旅の特権だろうか。
 宝塚線(福知山線)に乗り換えて、三田(さんた)駅で改札の外に出た。青春18 きっぷは、乗り降り自由なのがありがたい。駅員に切符を見せるだけで、改札を自由に出入りできる。しかし、使えるのはJRだけだ。神戸電鉄の三田駅では、新たに切符を買って改札を入った。当たり前のことだけど、なんだか損した気分。目的駅に着いたときは、16時を過ぎていた。
 有馬温泉――、日本書紀にも名前が登場する日本三大古湯の一つだ。今回の旅行も、やはり温泉がメインになる。しかし、他の2つの古湯はどこなんだろう? 順当ならば、草津と別 府あたりか。でも、和歌山の白浜温泉・牟婁の湯(むろのゆ)も、日本最古の温泉を謳っている。

 駅で観光案内のパンフを手に入れて、温泉街の中心にある温泉会館に向かった。有馬唯一の外湯で、入浴料は520円。いや、すごいお湯でした。茶褐色のお湯と透明なお湯の二種類あるのだが、茶褐色のお湯の方は、鉄錆の強烈なにおいがする。嘗めると 猛烈に塩辛い。透明のお湯の方は無臭で、かすかに塩気を含んでいる。茶褐色の湯が金泉、透明な湯が銀泉と呼ばれている。太閤秀吉が愛した温泉らしいネーミングではないか。しかし、お湯の温度がかなり高い。混雑していることもあって、早々に引き上げた。
 そのあと、パンフレットを頼りに街中を散策した。温泉寺、極楽寺、湯泉神社、天神泉源……、金泉の湯煙りのせいか、街全体が鉄錆色に染まっているようだ。再び神戸電鉄に乗って、有馬温泉をあとにした。三田でJRの福知山線に乗り換え、宝塚駅 で降車。これで青春18きっぷは、1回分の役目を終えた。

 今回の旅行を思いついたきっかけは、以前に書いた山梨の1万円旅行にある。石和(いさわ)にある24時間営業の温泉施設の仮眠室に一泊して、行動距離を伸ばした。 安上がりで、予約もなしに気軽に利用できるのが魅力だった。ならば、他にもオー ルナイトの温泉施設はないものかと考えた。そうした施設を利用すれば、温泉地を巡る気ままな一人旅ができるのではないか。
 JR宝塚駅に着いたときは、夕方の6時半を過ぎていた。せっかくだからと、宝塚歌劇団の大劇場を見学に行った。標識を頼りに5分ほどで到着、ゲートが開いて いたので、建物の中に入ることができた。土産物屋やレストランの前を通り過ぎて奥へと進むと、劇場の扉の前に出た。公演が終わったあとなのか、ほとんど人影はなかった。早々に引き返して、阪急の駅ビルで夕食。お盆休みなので、地階にある食堂街はどこも混雑していた。一人旅で一番、侘しい思いをするのは、食事時だろうか。
 JRの駅前に戻って、食後の缶コーヒーを飲みながら、宝塚温泉・チボリカラカ ラテルメの送迎バスを待っていた。パンフレットでは、1時間に1本の割合で、無料のシャトルバスが往復することになっている。19時45分、時刻表通 りに小型バスが到着すると、5、6人の乗客が降りて来た。乗り込んだのはわたし一人だけだ。50分まで待って運転手が車をスタート、わたしの貸切状態だ。国道176号線を尼崎方面 に向かって走った。
 15分ほどで贅沢なドライブは終了、玄関先の白いライオン像が出迎えてくれた。 チボリカラカラテルメ、パンフレットには「古代ローマ時代のカラカラ浴場を再現した」と書いてある。名前の由来は理解できたが、肝心のカラカラ浴場がどういうものか、さっぱりわからない。
 券売機で3,000円の入場券を買って、自動改札を通った。パンフレットの料金表には、3時間までの利用は2,400円、午前0時を過ぎると深夜割増料金の900円が加 算されると書いてある。しかし、実際にチェックアウトするときに、1,500円の割増料金を請求された。お盆期間の特別 料金なのだそうだ。さすがに関西商法だなと苦笑したが、あとでパンフレットを読み返してみると、そのことがちゃんと記載されていた。
 ロッカーでサウナウエアに着替えて、さっそく浴場に向かった。いやはや、とにかく豪華の一言に尽きる。白で統一された広々とした空間に、13種類の風呂が備えてある。個々の浴槽が、円を基調としたふくやかな曲線を誇っている。縁石はすべて、 大理石だろうか。
 とりわけ印象深いのは、別室になっているローマ風呂だった。奥まった場所に、裸婦像が立っている。その下の台座からライオンが首を覗かせて、口から透明なお湯を吐き出している。大きな正円形の浴槽は、湯船の底からもライトアップされていて、お湯がきらめいている。

 露天風呂には、4種類のお湯が湛えてあった。有馬とよく似た錆色のお湯もあったが、それが源泉なのだろう。周囲の植木には、イルミネーションまで施してある。しかし、これはちとばかり中途半端で、俗に過ぎる感じ。
 風呂は早めに切り上げた。睡眠不足で体がだるい。こればかりは、いくら温泉に浸かっても治らない。仮眠室のベッドで、早々に横になった。シネマルームや娯楽室にあるリクライニングシートではなく、ちゃんとしたベッドなのがありがたい。 狭くて一畳ほどの幅もないが、清潔なシーツがかかっている。すぐに熟睡、目を覚ましたときは、朝の4時を過ぎていた。心地よい目覚めだった。
 浴場に降りて行くと、先客がいた。一瞬、自分の目を疑った。どっしりとした白 い円柱の前に、裸の少女が立っている。年格好は、中学の2、3年といったところ か。胸の淡い膨らみは、まだ思春期を迎えたばかりだろう。ボーイッシュなショートカットの髪の下に、端正だがまだ幼い顔が覗いている。
 そんな馬鹿なと、視線を下に向けた。濡れたタオルで隠しているが、その下のかすかな膨らみが見て取れた。男だったのかと、目の前を通 り過ぎて行く少年の後ろ姿を眺めた。体の線のやわらかさは、やはり少女のものだ。思春期の微妙なホルモンのバランスが、こんないたずらをしたのだろうか。
 ローマ風呂の縁石に背もたれて、お湯に体をゆだねていたときだ。あの美少年が姿を現した。どうやら、浴場には一人で来ているようだ。パンフレットによると、カラカラテルメにはホテルチボリが隣接している。家族で泊まっていて、一人だけ 朝早く目が覚めてしまったのだろうか。
 ふと、映画の『ベニスに死す』を思い浮かべた。トーマス・マン原作で、ルキノ・ ビスコンティが映像化した。水の都ベニスで、ドイツの老いた大作曲家が美しいポ ーランド人の少年に魅せられる。主演のビョルン・アンドレセンの美しさは、ギリ シャ彫刻のようだと形容された。目の前の少年の美しさは、博多人形のようだとでも形容できるだろうか。
 浴槽は広く、互いの位置は離れている。しかし、なんとも落ち着かない気分で、 わたしの方が先にローマ風呂の外に出た。
 チェックアウトしたのは5時半だった。2階にある自動改札の前で、靴紐を結んでいるときだった。デイパックを背中に下げたあの少年が、カウンターに向かって いる。少年らしい服装をしているので、少女の面影は影をひそめている。だが、一 人だけだった。すると、仮眠室で一晩、過ごしたということになる。よぽどの風呂好きか、それとも何か事情があるのだろうか。気にはなったが、そのまま階段を降りて建物の外に出た。
 パンフレットに載っている地図を頼りに、阪急今津線の逆瀬川駅を目指した。そこが最寄りの駅のようだ。シャトルバスの始発を待っていると、旅立ちが遅くなってしまう。
 目印になる建物を確認しながら歩いていると、反対側の歩道を行くあの少年に気づいた。十字路に差しかかり、横断歩道を挟んで対峙した。やがて信号が青に変わり、 互いに歩み寄る。少年の姿が近づくにつれて、なぜか胸の鼓動が早くなった。すれ違うとき、視線が触れた。しかし、無言で通 り過ぎた。わたしの中にも、老作曲家の嗜好がどこかに潜んでいるのだろうか。
 カラカラテルメから30分ほどで、逆瀬川駅に着いた。カメラを片手に散策しながら歩いたので、時間がかかった。まっすぐ歩くと、15分ぐらいだろうか。6時10分 頃の電車に乗って、西ノ宮北口駅まで出た。駅前の立ち食いうどんで朝食。きつねうどんが 240円、東京に比べるとかなり安い。ちなみに、関西ではうどん屋、関東では蕎麦屋という呼び方をすることが多い。関西の色の薄いおつゆには、色白のふ くやかなうどんがよく似合う。関東の濃いおつゆには、腰の強い色黒の蕎麦こそふさわしい。
 すぐに山陽本線に乗り換えられると思ったのだが、阪急の西ノ宮北口とJR西ノ宮はかなり離れている。うどん屋のおばちゃんに道順を尋ねると、30分はかかると脅かされた。実際には、途中で迷いながらも20分で到着、30分というのは自分の足を基準にしているのだろう。改札で検印を押してもらって、青春18きっぷの2回目のスタートだ。
 7時少し前の電車に乗って、芦屋で乗り換え、姫路まで出た。わたしの生家は、広島の県北にある庄原市にある。駅名は、芸備線の備後庄原という。姫路から姫新線、あるいは岡山から伯備線を経由して芸備線に乗り継ぐという方法もあるが、電車のつなぎがうまくいかない。とくに、姫新線は最悪だ。途中でブツブツ切れている。悪意があるとしか思えない。できれば、湯原温泉か奥津温泉に立ち寄りたいと思っ ていたが、時刻表を調べて諦めた。
 姫路で乗り換えて、11時すぎに福山に着いた。一人旅も2日目となると、次第に余裕が出てくる。昨日は、周囲の視線を意識していたような気がする。今日は、自分の方が周りを観察している。そして、それを明らかに楽しんでいる。
 11時20分発の福塩線の電車に乗った。わずか2車両だけのワンマンカーだ。バスと同じで、乗車するときに整理券を取り、降りるときに運転手に料金を払う。むろん、青春18きっぷには関係ない。終点の府中に到着したのは、ちょうど 12時だっ た。乗り継ぎの便まで、45分のランチタイムがある。
 駅舎の周辺を探すと、裏通りにお好み焼き屋の暖簾が見えた。扉を開けて中に入ると、常連客の酒宴の最中だった。鉄板を囲むカウンターに、4人の客が陣取って いる。引き返すのもバツが悪いので、女将さんに促されるまま、空いている席に腰を降ろした。これで満席だ。
 目の前で、お好み焼きが出来上がるのを見るのは楽しいものだ。お好みソースの焼ける音と匂いがたまらない。わたしが子供の頃のお好み焼き屋は、駄 菓子屋や貸本屋を一緒にやっている店が多かった。貸本の漫画をタダ読みしながら、一番やすい野菜だけのお好み焼きをハグハグ食べる。至福の時間だった。
 完成したお好み焼きが、わたしの前の鉄板に運ばれた。金属のヘラを使って切断し、それをヘラですくって口に運ぶ。うまい! そして、なつかしい味だ。そばと肉入りで 500円。しかし、隣の茶髪のにいさんが話しかけてくるのにはまいった。適当に応対していたが、「学生さん?」と訊かれてガックリ。もうすぐ四十郎ですとは、とても言えなかった。でも、あのにいさん、かなり酔っているようだったからなあ。
 12時45分の始発に乗って、芸備線とぶつかる塩町まで出た。次の電車まで、20分余りの時間がある。さっそく、カメラを取り出した。ホームの向こうに、あざやかな緑の田圃が広がっている。今年の夏は暑いので、稲は逞しく育っている。引き込み線の途切れたレールの手前には、ディーゼル機関車がどっかりと腰を据えている。 けだるく、ゆったりした時間が流れている。待ち時間も、また楽しいものだ。


 電車の到着時間が近づくと、乗客が3人ばかりホームに姿を現した。電車が到着して、乗り込んだ。知った顔はいないかと、車輛の中を見渡した。昔は帰省したときに、車内に警戒の目を向けたものだ。知っている人に会いたくないという気持が強かった。今は、そんな抵抗感は薄れている。それだけ、故郷が遠くなったということだろうか。いつの間にか、広島で過ごした歳月よりも、東京暮らしの方が長くなっている。
 窓の外に、記憶にある景色が流れてきた。道路の急カーブや坂道、陸橋、ガソリンスタンド、飲食店や雑貨屋の古びた看板……、個々のものへと焦点が向かう。周りの空気が次第に濃密になってくる。もはや、気軽な旅人ではあり得ない。古里への思いは、未だに複雑なのだ。
 14時45分、備後庄原駅に到着。青春18きっぷは、2日目の役割を終えた。(つづく


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


◆ 「青春18きっぷの旅」の感想
(掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*タイトルバックに「Gallery DORA 」の素材を使用させていただきました。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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