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《 アメンボ 》

(うん?)
  河原の土手で、菓子パンの昼食を食べていたときだ。足下で何かが蠢いた。
(蜘蛛かな。いや、違うな)
 目を凝らしてよく見ると、それは間違いなくアメンボだった。水の表面張力を利用して、まるで滑空するように水上を自在に移動する不思議な生き物である。しかし、どういうわけか陸地にいたのだ。わたしの視線を感じたのか、あめんぼはまるで動かない。
(陸の上では、どうやって移動するのかな)
 細長い手足を蜘蛛のように動かして移動する姿を想像して、そんな馬鹿なとニヤリと笑った。我慢できなくて、アメンボに手を伸ばして威嚇した。アメンボが動いた。
 

 傍らを通り過ぎて行く看護師さんが、苦笑を浮かべて首を振る。わたしも苦笑を浮かべて、丁重に断った。Mさんはがっくりと肩を落として、大きな嘆息をもらした。なんだかイジメをしているようで後ろめたい気分になるが、仕方がない。病室まで自力で帰るのは、大切なリハビリなのだ。
 しかし、Mさんは諦めない。通りかかる看護師さんに声をかけては、病室まで連れて帰ってくれと懇願する。終いには、職務怠慢だと怒り出す。
「今は忙しいから、もうちょっと待ってね」
 看護師さんは逃げの一手だ。Mさんは、足は不自由だが、口は人一倍、達者である。
「どうして忙しいの?」
「人手が足りないのよ」
「だったら、院長を呼んでちょーだい。あたしがもっと人を増やすように意見してやるから」
 わたしは母親の病室で、このやりとりを聞いている。くも膜下出血の後遺症で、意識が混濁している母親の表情も、心なしかMさんの大声に反応している。この北病棟は、急性期を脱した患者の療養が目的で、長期滞在の患者が集まっている。病棟には、長患いの倦んだ空気とかすかな糞尿の匂いが充満している。Mさんの大声は、このよどんだ空気に、ささやかな風を運んでくれるのだった。
「トイレに行きたーい」
 Mさんが叫びだした。いつものことで、看護師さんは無視している。
「トイレー!」
 Mさんが諦めずに連呼する。
「誰か助けてー!」
 まるで悲鳴だ。看護師さんが駆け寄って、リハビリの大切さを諭すように説明する。
(そろそろだな)
 Mさんには、最終兵器があるのだ。
「う○こー!」
 この連呼には、さすがに看護師さんも根負けして、車椅子を押してトイレに急ぐことになる。わたしはニヤリと笑って、母親の顔を見る。
 母さんも、一緒に笑えればいいのだが……


《 親子連れ 》

 公園でやっているフリーマーケットを覗いた帰りだった。昼時を過ぎていたので、園内にある小さなレストランで、昼食をすませることにした。ゴールデンウィークの最中なので、店内の椅子や、バルコニーに配備しているテーブルセットは、すべて親子連れに占拠されていた。仕方がないので、うちのかみさんとふたり、近くにある大きな切り株に腰をおろして、蕎麦を食べていた。
 ほとんど食べ終わったときに、ふと切り株の表面に視線を落とすと、裂け目のような朽ちた隙間から、小さな突起物のようなものがうごめいている。相棒のかげぼうしが切り株を覆っているので、顔を近づけて見た。
(カタツムリかな?)
 まさしくその突起は、カタツムリの伸縮自在な触覚だった。やがて、その全貌が明らかになった。
「ナメクジ!」
 かみさんが悲鳴をあげて、ドンブリを持ったままとび上がった。かげぼうしも一緒にとび上がって、五月晴れの太陽が、その殻のないカタツムリの全身を照射した。そいつは困惑したように、頭部を左右に振って周囲の様子をうかがっている。切り株の隙間からは、さらに一匹、いくぶん小ぶりのやつが姿を現した。さらにもう一匹、明らかに子供とわかる大きさだった。
 ナメクジの親子連れ(たぶん)なのだ。かみさんのかげぼうしで、曇天になったと勘違いして、散歩気分で外に出てきたのだろうか。三匹は、まるでパニックに襲われたように、それぞれ違った方向に、匍匐(ほふく)前進を開始した。もっとも、立って歩いたり、バックするナメクジを、わたしは見たことがない。
 かみさんが、驚かされた仕返しだとばかりに、お父さん(たぶん)の進行方向に、蕎麦の切れ端を落とした。なんだろうと、お父さんが障害物にのそのそと近寄った。そして、蕎麦の濡れた表面を舐め始めた。
「喉がかわいてたんだな」
 どんどん気温が上昇して、今日は真夏日になった。蕎麦に水を垂らしてやると、さらに口の移動がスムーズになった。お父さんだけではかわいそうだと、お母さん(たぶん)と子供にも、蕎麦の切れ端を与えた。二匹とも、喜んで舐め始めた。
「食べてるよ」
 かみさんが言った。
「ほら、なんだか体が白っぽくなってるもの」
 お父さんの体の半分(上半身?)が、変色していた。蕎麦の表面をよく見ると、ヤスリで削られたように薄くなっている。なんだか、大発見をしたような気がして、嬉しくなった。
「タニシに似てるよね」
 スーパーで買ったシジミのパックに紛れ込んでいたタニシを、しばらく飼っていたことがある。水草の葉の表面を舐める仕草がそっくりだった。
(かわいい……)
 不覚にも、そう思ってしまった。テレビのCMで、チワワを見つめるお父さんの気持が少しだけわかったような気がした。
 帰り道、公園で出会った幸運を、わたしは、ナメクジの親子の分まで感謝した。
もし、家の中で見つけていたら……。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「小さきものへ」の感想

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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