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 囲碁棋士の鹿島啓吾五段は、公園のトイレに入っていた。桜の名所として有名な公園で、今日は桜祭りが開催されているため、大勢の花見客が押しかけている。トイレの前にも、長い行列ができていた。
「にいちゃん、何してるんや」
 後ろで待っている男が、苛立った声を上げた。
(まだ、30秒だ)
 激しい尿意を我慢して、啓吾は心のなかでつぶやいた。
(50秒、5、6、7)
 勢いよく放尿した。心地よい開放感が、全身を浸した。
 啓吾が日本棋院の院生として、プロ棋士を目指していた頃、性格の弱さが災いして、終盤で逆転負けすることが多かった。とくに持ち時間を使い果たして秒読みになると、動揺して悪手を指してしまう。啓吾は、秒読みに慣れるために、日常生活に秒読みを取り入れた。何かをするときは、心のなかで秒を読み上げて、57秒になったときに始動するのである。
 こうした努力が実って、啓吾は秒読みになった終盤の局面で、無類の強さを発揮するようになった。いつもは優柔不断な啓吾が、妙を読まれることで迷いが吹っ切れて、したたかな勝負師に豹変する。こうなると、対戦相手の方が意識してしまい、リズムを狂わせて悪手を指してしまう。いつしか啓吾は、仲間内で「秒殺の鬼」と呼ばれるようになっていた。
 啓吾がトイレから戻ると、真奈美がベンチから立ち上がって手を振った。
(美しい……)
 満開の桜の下で見る彼女の笑顔は、まるで妖精のようだった。
(僕の生涯の伴侶は、彼女しかいない!)
 啓吾は、あらためて強く思った。真奈美との初めてのデートだった。いや、啓吾にとっては、女性との初めてのデートだった。
「真奈美さん」
 啓吾は、硬い表情で彼女の名前を呼んだ。プロポーズするつもりだった。啓吾にとっては、女性と付き合うということは即、結婚と結びついていた。
「どうしたの? 」
 彼女が不思議そうな表情で、啓吾の顔を見た。
(まだだ、まだ早い)
 気持の動揺を抑えて、啓吾は心のなかで秒を読んだ。
(50秒、5 、6、7)
 啓吾が口を開こうとしたときだった。軽やかな電子音が響いた。
「ごめんなさい」
 そう言って真奈美は、ポシェットから携帯電話を取り出した。電話の相手と楽しそうに談笑する彼女を見ながら、啓吾はがっくりと肩を落とした。
(切れ負けだ)
 突風に花弁が散って、桜吹雪になった。
※切れ負け:時間切れで負けること


(50秒、5 、6、7)
 啓吾は、勢いよく浴槽から立ち上がった。
「あなた、下着の替え、ここに置いとくからね」
 愛妻の声が、ガラス戸の向こうから聞こえてきた。真奈美だった。あの公園でのデートで、啓吾の消沈した様子を不審に思った真奈美が、その理由を訊きだしたのだ。彼女は笑顔で、再戦を申し出た。彼女も囲碁のプロ棋士なのである。そして、啓吾は勝利した。
 いや、本当の勝利者は真奈美なのかもしれない。彼女は、啓吾の才能を見抜いていた。だからこそ、親子ほども年下の啓吾のプロポーズを受け入れたのである。いや、そもそも、啓吾が彼女に好意を抱くようにしむけたのは、真奈美の方なのだ。
(わたしがこの人を日本一、いや、世界一の棋士にしてみせる)
 結婚式のときに、真奈美は心のなかで誓ったものだ。
 その啓吾の成績なのだが、結婚を機に、安定感を増した。以前は、一度負けるとずるずる連敗する悪癖があったのだが、そうした精神的なもろさが影を潜めた。ただし、弱点がひとつだけあった。老練なベテラン棋士に、なかなか勝てないのである。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


◆「秒殺の鬼」の感想


*この作品は「文華」の課題テーマ「時間」に参加した作品を改稿したものです。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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