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 お気に入りの場所が二つある。一つは、中国縦貫道の地元のサービスエリア、高速道路に乗らなくても、一般 道をたどって、裏側から入ることができる。たまにレストランを利用することもあるのだが、大概は無料の紙コップのお茶を飲みながら、休憩所で大画面 のテレビを眺めたり、本を読んだりして時間を過ごしている。玄米茶と緑茶の二種類があるのが嬉しい。
 寒くなる前は、アイスクリームを奮発して、建物の外のちんまりとした緑地に建てられている東屋(あずまや)まで出かけていた。ベンチに腰掛けて、カップのソフトクリームを舐めながら、風に吹かれている。遠く高速道路をつたってくる風は、田舎町の閉塞感をいくぶんなりとも宥めてくれる。
 もう一つの場所は、簡保の宿のロビーである。広々としたスペースに、豪華な応接セットがいくつも設えてある。ロビーの隣には喫茶ルームもあるのだが、ロビーの大きな布張りのソファの方が断然、坐り心地、いや、居心地がよろしい。以前は、簡保の温泉に入浴したあとで、ロビーでひと休みしていたのだが、ロビーのソファだけを目的に来ることも多くなった。新聞ラックに、スポーツ新聞があるのも嬉しい。
 先日、成人の日の祝日に、簡保のロビーで午後のひとときを過ごしていた。売店で買ってきたロイヤルミルクティのペットボトルをテーブルに置いて、図書館から借りてきたディック・フランシスの「再起」を読んでいた。ディック・フランシスの競馬シリーズ、六年ぶりの新作である。前作の「勝利」で断筆宣言をしていたので、本の折り込みチラシで「再起」のことを知って驚いた。図書館の新刊本コーナーを探してみると、まるで待っていてくれたように、背表紙が輝いて見えた。
 ディック・フランシスは、イギリスの障害競馬の元騎手で、チャンピオンジョッキーになったこともある国民的英雄である。それが、引退後に小説家としてデビュー、競馬を題材にした上質のミステリーで、たちまち世界的な流行作家になってしまった。CWA(英国推理作家協会)賞シルバヴァー・ダガー賞やMWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞最優秀長編賞など、受賞歴も華々しい。例えるならば、武豊が引退後に、ベストセラーを連発する作家に転身したようなものである。
 いささか、ディック・フランシスの解説が長すぎたか。「再起」はおもしろかった。御年、八十六歳の老作家の描く人物は瑞々しく、ストーリーは老練である。主人公が片腕の元障害騎手の探偵、シッド・ハレーというのも、ファンにはこたえられない。毎回、主人公が違うフランシスの小説の中では異例の、四度目の登場となる。
 ロビーの面した壁は、素通しのガラスになっていて、一昨日から昨日にかけてのかなりの降雪で外は雪景色だというのに、よく晴れ渡った日光がさんさんと差し込んできて、まるでサンルームのような暖かさだ。目が疲れたら、本を胸に伏せて、ソファに背もたれてしばしまどろむ。クラシック音楽が、たゆたうように流れている。
 そのとき、感じてしまったのである。そう、幸せを。とりわけ幸福な人生を送ってきたというわけではないが、それでも幸福感を覚えたことは今まで何度となくある。しかし、それは後で思い返して再認識したり、陶酔感や歓喜の感情に押し流されて、その場で意識したことはなかったように思う。それが、このほんわかとした幸福感を、まるで飴玉でも舐めるように味わっている自分に気づいたのである。
 少しとまどった。そして、苦笑した。こんな些細なことに幸福を感じてしまった自分の小市民ぶりに。なんだか、自分の器の限界を知ってしまったような諦観も少し。でも、悪くないと思った。心のどこかに常在していた屈託や焦燥感を、きれいさっぱり忘れている。心底、リラックスして、充足感を覚えている。この時間が愛おしいと思った。時計を見る。まだ、二時間ほどの余裕がある。喜びの波動が、じわじわと体中に染み渡った。
 こういう気分が味わえるなら、人生はまんざら悪くない、いや、悪い人生だとしても、なんとかやっていける……。これが、年を取るということなのだろうかと、達観したような、じじむさいことを考えてみたりする。
 ディック・フランシスに一喝された。訳者の解説文によると、八十半ばの引退した老作家を“再起”させたのは、「長身で明るい六十歳の女性」なのだという。おまえが人生を語るのは百年早い、そんな声が聞こえてきそうだ。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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