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 猛暑の夏だ。今日は、岐阜県の多治見と埼玉県の熊谷で最高気温が40.9度、日本の観測史上の最高値を74年ぶりに更新してしまった。インフルエンザに罹患しても、41度近くの高熱を出すのはまれである。今日だけで12人の熱中症の死亡者が出たというから凄まじい。
 中国山地の山間(やまあい)にあるこの町も、30度を軽く越える日が続いている。山間にあるのだから、少しは高原の涼しい風が吹いてくれてよさそうなものだが、すり鉢状の盆地にあるせいで、いつも夏は湿気が多くて蒸し暑い。冬は、雪が多くて冷え込みが厳しい。そうした気候は、同じく盆地にある京都に似ているらしい。唯一の救いは明け方で、高地のひんやりした空地が火照った体を癒してくれる。
 盆休みでお墓参りに行った。「迎え」と「送り」がある。14日の早朝に、先祖の霊を迎えに行って、15日の夕暮れに、送りに行く。本当は家族で送迎するのがいいのだろうが、両親が高齢なので、兄弟で分担することにしている。わたしが「迎え」担当だ。
 去年は、母親の指示に従って、夜が明ける前に出かけて行った。どこの家でもそうしているということだったが、大きな墓地の中で、暗闇の中に浮かび上がる迎え火の炎はひとつかふたつ。まだ蝉も寝静まっていて、ひとりぼっちだとさすがに心細い。懐中電灯頼りの作業も、面 倒だった。母親の話では、以前は家紋の入った提灯を下げて、迎え火を焚きに行っていたらしい。
 今年は午前6時近く、夜が明けているので、懐中電灯の明かりは必要ない。家族連れの団体が散見できる。近くの家族連れは、帰省した孫の姉弟が一緒で、爺ちゃんも婆ちゃんも楽しそうだ。ご先祖様も嬉しいだろう。
 独りだけで申し訳ない、という思いを抱きながら、その分、丁寧に作業した。二日前の日曜日に、親戚 が墓参しているので、仏花がまだ枯れずに残っている。それに、持ってきた花を足して、水を補充した。連日の猛暑で、花立ての中はカラカラだ。ご先祖様も暑かろうと、墓石に水をかけて、埃や汚れを布きれで拭った。
 そして、肥え松を焚いた。松ヤニを多く含む松材を、燃えやすいように小さく割いたものだ。ご先祖様の霊は、この火を目印に、冥界から降りてくる。 玄関や門口で肥え松を焚く地方もある。我が家は浄土真宗だが、これはそうした宗旨とは関係のない“慣習”らしい。
 浄土真宗では、死者はすべて極楽浄土に往生していると考えられている。だから、お盆に霊が帰ってくるという発想はないのだという。このお盆の送り迎えも、宗教的な行事というよりも、昔ながらの慣習なのだろう。それでいいのだと思う。日本は、仏様の他にも、八百万(やおよろず)の神様が同居する懐の深い国なのだから。
 肥え松の炎で線香に火を点けて、四つの墓石の前に備えた。 両手を合わせたが、さて、どんなことを語りかけるべきか。結局、いつものように、家族の平安を祈願した。祖母の墓石の前にくると、少し気持が混乱する。享年30歳、母親がまだ幼い頃に亡くなっているので、当然、わたしの記憶にはない。50歳になろうかという孫が、30歳で亡くなった祖母の墓前に参っている。 この年齢差は、年々拡大するばかりだ。
 自分の年齢のことを考えてしまう。この年までよく生きてきたという思いと、生きてしまったという思い。生きてしまったという思いには、ひとつの大きな理由がある。「ノストラダムスの大予言」を読んだのは、中学生の頃だろうか。3つ年上の兄の書棚にあったと記憶している。 1973年に祥伝社から発行された五島勉の著書で、フランスの医師・占星術師ノストラダムスが著した「予言集」(初版1555年)について、彼の伝記や逸話を交えて詳細に解釈している。
「1999年7の月に空から恐怖の大王が降ってくる」
 このノストラダムスの最後の予言に、日本中が震撼した。著者は、人類滅亡を予言したものであると宣告した。恐怖の大王の正体が、核戦争にしろ環境汚染にしろ、1999年7月には、ほとんどすべての人間が消滅する──、当然、自分もその中に入っていると思った、いや、思い込まされた。
 そのときの自分の年齢を計算した。41歳で自分は死ぬと考えると、なんだか力が抜けた。だったら、何をやっても無駄 ではないだろうか。時間が経つにつれて、本を読んだときの衝撃や、恐怖心は薄れていっても、人生に対する呪縛のような 諦観が、心の奥底に巣くっていた。地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の麻原彰晃は、ノストラダムス症候群の重症者である。
 それだけに、1997年の7月が何事もなく過ぎて、そのままあっさり2000年に移行してしまったときは、ホッとしたが、困惑もした。41歳以降の“余生”についての心構えを持っていない自分に気付いたのだ。そんな馬鹿なことが起きるわけがない、そうは思っていても、心のどこかでノストラダムスの予言に縛られていた自分に、正直、唖然とした。
 あれから8年の歳月が流れている。そして、わたしは未だに生きている。余生なんかではなかった。勝手気ままに生きてきたツケを支払っている。人生は平等(均等)なのだとつくづく思う。貸し借りをチャラにしなければ、先へは進めない。借金を踏み倒すような度量 や蛮勇 は、自分の中には微塵もないのだから。
 祖母の隣が、叔父の墓だ。22歳で戦病死した。殉國院という戒名がついている。戦死ではなく、戦病死というのが、叔父らしいと思ってしまう。戦って死んだのではなく、入隊後に体調を崩して病死したのである。軍隊になじめなかったこともあるのだろうが、そもそも兵士にはなりえない人物だったのではないか。多分に自分を投影している。
 叔父に親近感を抱く理由がある。 叔父は一時期、上京して小説家を目差していたらしいのだ。叔父の姉である伯母が様子を見に行くと、叔父の書いていた小説のタイトルが「母帰る」、文豪、菊池寛の「父帰る」の亜流やパロディだったのか、それとも題名だけパクッた独創的な物語だったのかは、原稿が残っていないので確かめようがない。その小説が完成したかどうかもわからない。その話を笑いながらしゃべってくれた伯母も、鬼籍に入って久しい。
 叔父とは話題がたくさんある。叔父の夢を引き継いでいるという思いがある。しかし、最近は言い訳ばかりだ。とかくこの世は、生きにくい。しかし、生きている。いや、生きさせていただいているのだと、死者を前にしてそう思う。だから、これからも生きていかねばならない。どんなに無様であっても、老醜をさらそうと……。
 肥え松がすっかり灰になるのを確認して、帰路についた。自宅の仏壇に焼香して、ようやくお役目終了だ。これで、先祖の霊を無事に仏壇まで案内して来たことになる。去年は、この最後のツメを欠いて、父親に叱責された。ご先祖様の霊魂は、去年は墓地で過ごしたのだろうか。はなはだ頼りない子孫ですが、これからもよろしくお願いします。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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