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※この作品は、かつて友人のHPのために書いたエッセイを再編集しました。


 無職のころだったから、25歳のときかな。年末になって、帰省するかどうしようか迷っていた。実家が広島の山間地なもんで、交通 費のことを考えると頭が痛い。蓄えが乏しくなれば、それだけ早く勤労者に戻らなくてはならないからね。かといって、実家でしばらくタダ飯にありつけるのも捨て難いし。
 バイトでもして旅費を稼ぐか、とアルバイト雑誌を買ってきてパラパラめくっていた。半分は遊びで、勤労意欲はほとんどなし。求人募集を読んでいるだけで、けっこう面 白い。
 ホント、いろんな仕事があるもんだね。中でも興味をひかれたのが、オモチャ屋の店員。えっ、別 に珍しくない? オモチャといっても、大人のオモチャなんですよ。あと、ランジェリー・ショップの店員なんてのもあったな。どうして男の店員を募集しているのか、不思議で仕方がなかったけど。
 楽ができて面白いバイトはないかな、なんて虫のいいことを考えながらページをめくっていたら、ある広告で目が止まった。伊豆・熱川の温泉ホテル、年末年始の2週間で往復の交通 費全額支給、衣食住完備、バイト代は1日5千円だったかな。この往復の交通費全額支給という文句に、ある考えがひらめいた。伊豆なら、新幹線の沿線だ。バイト先からそのまま田舎に帰れば、支給された交通 費が丸々、浮くじゃないの。
 今、思い返すと、東京から熱川までの交通費なんて、大したことはないんだよね。帰省するには、熱川から電車を乗り継いで熱海まで出るのも面 倒だったし。東京駅からひかりに乗って、まっすぐ広島まで帰った方がよっほど簡単。でも、そのときは、俺ってなんて頭がいいんだろう、なんて自惚れていた。金のないときは、千円の違いだって、でっかいもの。
 温泉ホテルだから当然、温泉にも入れるだろうし、衣食住完備だからバイト代がそのまま残る。一石三鳥のグッド・アイデアに思えたんだよね。とりあえず電話をしてみたら、すぐに採用してくれた。

 その温泉ホテル、熱川では高級ホテルとして名前が通っていた。しかし、当然のこととはいえ、お客と従業員の待遇は、天と地ほどの差があった。
 まず食事、ホテルなんだから従業員でも美味いものが食えると思ったのが甘かった。とにかく、ご飯がひどすぎる。でっかい保温ジャーから自分でよそるんだけど、長時間の保温で臭くなっているし、ところどころ干からびてガビガビになっている。たぶん、昨日のお客の食べ残しをぶっこんでいるんじゃないかな。おかずも質素の一言。それに従業員用の食堂は狭いから、満員だと立って食べたり。
 一番いやだったのが、従業員用のトイレ。汚いのは仕方がないにしても、残り少なくなったトイレットペーパーが、無造作にバケツに放り込んである。客用のトイレットペーパーを、新しいものに取り替えたときの残り物なんだろうね。かなり古いのもあって、黄色く変色したりしている。こんなんでケツを拭くと、かえって汚れてしまいそうで、こっそり客用のトイレを使っていた。
 仕事もハードだったなあ。おれが配属されたのは内務という部署で、要するに雑用係。布団の上げ下ろしや部屋の掃除、食膳運び等など。一番、大変なのが食膳運び。でっかい台車を使って、各階の控室に運ぶんだけど、食事どきになるともう戦闘状態。とくにお客と直に接するルームさん達(そのホテルでは、仲居さんのことをそう呼んでいた)は、殺気立っている。女性同士なので、感情がモロ出し。女性の喧嘩は陰湿だから、怖いですねえ(しみじみ)。あっ、もちろん、例外はありますよ。何事も例外はつきものです、はい。
 布団の上げ下ろしは、内務係が唯一、お客さんと直に接する機会。中には、奇妙なカップルもいたな。外見から判断して、2人とも高校生ぐらいにしか思えない。年末年始は特別 料金で、かなり割高になる。高台に立っているホテルから太平洋が一望できるので、元旦の初日の出が拝めるというのが( “売り”だった。確か、2泊3日のパック料金が、10万円ぐらいしたんじゃないかな。浴衣を着た幼いカップルを見て、コンチクショーと思ったよね。布団のシーツの皺を見て、いろいろと想像してしまって……。

 こうして書いていると、嫌なことばかりだったようだけど、けっこう余得もあったんです。まずは、臨時の栄養補給。お客が食べ終えた食膳を、一階の洗い場まで運ぶときが勝負。ホテルの料理は量 が多いから、食べ切れずに残してることが多い。エレベーターで一人になったときに、伊勢海老の焼きものなんかをパクリ。禁止されていたけど、どうせゴミになるんだから、有効利用しなくちゃ。いってみれば、これもリサイクルかな。
 もちろん、温泉にも入ることができたしね。お風呂だけは、お客と同じ大浴場を使わせてもらえた。なんだかそれが、とても嬉しかった。それからじゃないかな、温泉が大好きになったのは。お湯は平等だからね。裸になった者は誰でも、やさしくつつんでくれる。
 そうそう、お風呂といえば、強烈な思い出が残っている。内務の先輩と一緒に、大広間で卓上コンロの掃除をしていた。その先輩、どちらかというとキリギリス派で、ちんたらちんたらコンロを布で磨いている。この仕事をできるだけ引き伸ばして、楽をしようという魂胆が見え見え。当然、後輩のおれもそれにならって、ちんたらちんたら。
「おい、ちょっとこっちに来てみろよ」
 窓際にいた先輩が手まねいた。そばに行って、言われるままに窓の下を覗くと、露天風呂が一望できる。湯船の中に、女性が一人。年齢は30代の半ばぐらいだろうか。むろん、全裸。
「長いこと、この仕事やってるけど、こんなこと、初めてだよ」
 先輩の言葉に、幸運を実感。ああ、熱川まで来てよかった(ちょっと大袈裟かな) 。
 秘密を共有して、2人は急に打ち解けた。その先輩、もう名前も忘れちゃったけど、38という年齢ははっきり覚えている。今のおれと同じ。あらためて自分の年齢を考えると、なんだか不思議な感じがするよね。いつの間に、こんなに齢を取っちゃったんだろう。でも、これは誰でも思うことなんだろうね。
 その先輩、話をきいてみると、なかなかユニークな人生を送っている人だった。今のホテルで働き始めてまだ1カ月、その前は隣のホテルにいたという。給料が安いので、半日でそこを飛び出してこのホテルに鞍替えした。普通 はきまずいから、もっと離れたホテルを選ぶと思うんだけど、すぐ隣のホテルに駆け込んだというのがなんとも、逞しいというか、いいかげんというか。雇う方も、抵抗はなかったのかな。その先輩、そうやって気ままに全国のホテルを渡り歩いている。
 考えてみれば、住み込みの従業員は衣食住完備だから、体一つで行けば、そのままもぐり込むことができる。それに、ホテルは労働条件がきついので、慢性的に人手不足、贅沢をいわなければ働き場所に困ることはない。寒いときは南に行き、暑いときは北を目指す。けっこう、自由人してるでしょ。
 世の中、働き者のアリさんばかりじゃ、息が詰まってしまう。土地や家族にしばられない人がいてもいいじゃないか。どうせキリギリスは、冬の寒さに凍える定めになっているんだからね。楽したツケは、ちゃんと自分で払うんだもの。

 あのホテルでの体験を元にして、あとで小説を書いた。その先輩も、ゲンさんという名前で登場している。タイトルが『伊豆の踊り子』、川端康成のパクリだと、早まってはいけない。踊り子と書いて、ストリッパーとルビを振る。熱川のホテルにバイトにきた男と、温泉小屋のストリッパーとの恋物語。実際、おれがバイトしていた当時、熱川の商店街の片隅にストリップ小屋が存在した。でも、ポシャってしまったのか、建物が廃屋のように荒れていた。
 思い入れだけで書いた習作で、活字になることはなかったけど、今でもときどき、その先輩のことを思い出すことがある。相変わらず、温泉ホテルを転々としているんだろうか。あれからの年月を勘定すれば、もう50歳を過ぎているはず。風来坊の生活は、もう辛いかな。
 そういえば、あの童話の結末、どうなるんだった? アリはキリギリスに、餌を恵んでやったのかな。それとも、キリギリスは部屋に入れてもらえず、雪の中で凍え死んだんだろうか。それだとちょっと、悲しいよね。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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