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次回

 通勤で、高速の中国縦貫道を走っている。都会と違って、走行車も少なく快適だ。もっとも、下の一般 道を走っても、少しスピードをセーブするぐらいで軽快に走れるのだが(信号も車も少ないので)、気分がまったく違うのである。高速道路は車が走るためだけに造られた人工物で、住民の生活圏や自然から明確に分離、いや、隔離されている。それが、心地よいのだと思う。そんなことを考えてしまうのも、いささか日々の暮らしに疲弊しているからだろうか。
 高速に乗っている時間は25分ぐらいで、一般道を走っている時間も入れて通 勤時間は30分ほどだ。ETC装置を会社の経費で取り付けてもらったので(ETCだと通 勤割引で高速料金が半額になる)、ゲートもスムーズに通過できる。いや、一度だけゲートの遮断機が上がらなくて、立ち往生したことがある。
 年度末のETCカードの切り替えで、古いカードを処分したのはいいが、新しいカードを装置に入れるのを忘れていた。あわててカードを挿入しても、ゲートは開いてくれない。バックしようと後ろを見たら、観光バスの運転手が苛立った顔で睨んでいる。手振りで、下がってくれるように頼んだが、知らんぷりだ。途方に暮れていたら、門番の爺さんがあわてて駆けつけてきた。通 常の高速券を手渡されて、出口で精算してくれという。そのやさしい笑顔と口調に救われた。こういうトラブルには馴れている?
 車中では、缶コーヒーを飲みながら、CDを聴いている。以前はもっぱらジャズばかり流していたのだが、いいかげん音楽にも倦いてきた。ミュージシャンの名前や曲名がちっとも覚えられないので、もともと音楽的な素養のない人間なのだろう。最近は、音楽ではないCDを聴いている。小説の朗読や落語、漫才などである。ラジオでもいいのだが、山間地を走っているせいか、甚だ感度が悪いのである。
 図書館のCDの棚に、日本文学の朗読を見つけて、気まぐれで借りてみたのだが、すっかりハマってしまった。肩が凝りそうだと敬遠していた森鴎外も、ベテラン俳優の渋い声で語られると、登場人物の心象までも胸に染み入ってくるようだ。「高瀬舟」は、やはり名作である。
 五千円札になった樋口一葉の作品にも、初めて本格的に触れた。朗読だと、意味のわからない言葉が出てくることがあるのだが、何度も繰り返して聴いているうちに、パッと光が点灯するように、その漢字の形が浮かんでくることもある。毎日のことなのだから、焦る必要はない。納得するまで、何度でも聴けばいいのだ。最初は共感できなかった人物の言動も、そういうことだったのかとストンと腑に落ちることもある。
 逆の意味で、印象に残っている作品が、夏目漱石の「坊っちゃん」。朗読は、俳優の上川隆也だった。子供の時に活字で読んだ記憶がある。 古典的な名作である、いや、名作だと言われている。しかし、この坊っちゃんの性格や言動が、なんとも腹立たしい。ストーリーは単純だ。気の短いおこりんぼの江戸っ子が、四国の片田舎にある中学校に赴任して、騒動を巻き起こす。坊っちゃんにもそれなりに義があるのだが、その憤りの根底にあるのは都会人としての奢りであり、田舎者に対する蔑視である。
 坊っちゃんは最後まで、自分の生徒たちを受け入れようとはしなかったし、生徒たちの方も心を開くことはなかった。教師失格である、というより、もともと教師になろうなどという気概はなく、金に釣られて嫌々四国くんだりまで流れて来たのだけのことなのである。だから、不便な田舎暮らしにも不平不満たらたらで、まるで八つ当たりのように周囲の人間をこき下ろしている。悪役である赤シャツの陰湿な所業よりも、青臭い正義感を振りかざした坊っちゃんの独善に腹立たしい思いが募った。
 こんなことを書くのも、わたしが田舎者だからだろうか。「坊っちゃんは従来の日本の象徴、赤シャツは西洋かぶれの象徴として、その葛藤を描いている」という高尚な読み方もある。しかし、わたしには、漱石が松山の中学校に“島流し”にされたときの憤怒が、そのまま作品になったとしか思えない。 地元の人は、「坊っちゃん」をちゃんと読んでいるのだろうか。お追従するように、「坊っちゃん文学賞」など創って、喜んでいていいのか?
 柄にもなく、熱くなってしまった。漱石の文体の毒気に当てられてしまったようだ。さすがは漱石、と言うべきか。「夢十夜」も聴いたが、楽しめた。ただし、名文タイプの文章に凝る作家なので、朗読よりも活字で読んだ方が味わい深いという印象を受けた。
 もう一つ、意外だった作品がある。宮沢賢治の最晩年の作と言われる「 十六日」、読んだ人は少ないのではないだろうか。結婚して3年ぐらいの若夫婦の住む山小屋に、化石の採掘に来た大学生が立ち寄り、道を尋ねる。十六日の盆休みでくつろいでいた主人は、食事を出して歓待するが、その学生が帰ったあとで、女房がぼんやりしているのを見咎めて激しく嫉妬する。知的で美しい若者に、妻が懸想したのではないかと疑ったのだ。膳をひっくり返して怒声を上げる夫に、妻はおろおろして泣きじゃくる。その妻の耳元で、夫が優しくささやきかける。みんな嘘だよ、ちょっと、ふざけただけだ。でも、せっかくだから、もう少し遊んでみようじゃないか。これからあの学生を追っかけて、今夜はこの山小屋に泊まるように勧めてみる。おまえは、おらの妹だということにして、あの学生を誘惑してみないか……。
 人間の業のザラリとした感触が、心に残った。さて、その結末は……、木訥な妻は夫の提案を一笑に付して、メデタシメデタシとなるのだが、わたしの薄汚れた脳髄は、若妻の肌の火照りや熱い吐息を、生々しく感じ取ったのである。賢治の遺した官能小説、と書いたら笑われるだろうか。
 活字だと臆してしまうものでも、朗読だと気軽に試聴することができる。恋愛ものが大の苦手で、今まで敬遠していた「源氏物語」も、田辺聖子の講演で大まかな概略を知ることができた。今は、古い落語や漫才のCDを聴いている。
 さて、けっこう充実している通勤時間だが、高速を走っていて、気になることが一つある。それは、 高速道路に架かっている橋。中国縦貫道は、名前の通り中国山地の中を走っている。山を強引に削った所も多くて、それを補うように、小さな橋がたくさん架かっている。その多くが、歩道橋に少し毛の生えた、いや、少し毛を抜いたようなしょぼい橋だ。これは推測だが、土地を買収したときに、橋を架けるという条件を提示したのではないか。高速道路で分断されてしまえば、向こう側に渡る方法がなくなってしまう。あるいは、山道があった場所に橋を架けたか。もちろん、自動車の行き交う大きな橋も、いくつか存在する。
 面白いと思ったのは、その橋すべてに名前がついていることだ。緑色のボードに白抜き文字で、橋の名前が記してある。通 勤でその橋の名前を眺めているうちに、その名前の由来はなんだろうと考えるようになった。地主の名前か、地名に関係したものなのだろうか。
 庄原インターチェンジから高速に乗って、最初にくぐる橋が寺峠橋、寺峠さんという名前は馴染みが薄いので、おそらく地名に由来するのではないか。峠に寺があったと考えるのは安易過ぎるか。次に、細山橋、野田橋、永迫橋、これらは名前でも地名でもおかしくない。次の西城往来橋は、車が行き交う大きな橋で、西城は西城町という地名である。ちなみに、西城秀樹の芸名は、西城町にちなんでつけられたという説もある。
 次の明神橋は、名前としても馴染みがあるが、もっと単純に、近所に明神さんの祠でもあるのかもしれない。竹渡橋は、竹林があったのだろうか。竹渡橋のすぐそばにある未渡橋は、どういう意味だ? 未渡、まだ渡していない……、道がない場所に強引に橋を渡した? 竹渡橋と関係している?
 そして、帝釈サービスエリアの手前に 、風頭橋がある。どうしてこんな名前をつけたのか。まさか、風頭さんという人はいないだろう。想像がどんどん膨らんだ。漢字から受けるイメージは、風に吹かれる頭……、長い髪がたなびいている。当然、女性だろう。どうせなら、美しい女性がいいな。
 ある物語が浮かんできた。風頭橋の上で手を振る女性がいる。毎朝、通勤する車に向かって、まるで見送りをするように、ニッコリと微笑んで手を振っている。ある日、突然、彼女の姿が見えなくなった。同じ庄原から通 っている同僚にそのことを尋ねると、そんな女性は見たことがないという。そんな馬鹿な。不審に思ったわたしは、風頭橋の近辺で彼女の捜索を開始した……、なんだか作品が一本、書けそうだ。
  石堂橋、牛川橋をくぐって、大きくカーブを曲がると、勤務地のある東城の出口が見えてくる。ちなみに、庄原インターから東城とは反対の三次方面 に向かうと、橋はさらに多くなる。庄原―三次間にある橋の名前だけでも列挙しておこうか。新宮山橋、宮山橋、大平橋、小田ノ口橋、友愛橋、浅谷山橋、八幡橋、金作橋、行政橋、諏訪橋、倉組橋、森谷橋、下組橋、雨の宮橋、北山橋、下山橋、木戸下橋、甲平川橋、下沖橋、下垣内橋、岩野本橋、龍王橋、小持亀橋、中山橋、緑岩橋、亀尻橋、松ヶ迫橋、天狗松橋の計28本の橋が、一区間17キロメートルの間に架けられている。庄原―東城間は、30キロ余り。
 東城インターの出口に向かうとき、良く晴れて空が青いときは、ちょっと虚しい。こんな日は、仕事なんかしていないで、このまま高速道路を走っていたい。すべての鎖を断ち切って、このままどこまでも、どこまでも、風に吹かれて疾走していたい。ただただ、 過ぎ去るだけの乾いた風のように……


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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