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 春爛漫の4月は、新年度がスタートする季節でもある。どら書房にも新入生がやって来た。市内にある大学の新入生である。
 どんな町なのか偵察がてら散策して、うちの店を見つける。お、漫画ルームがあるじゃないか、うん? ただで漫画が読める、こりゃ、時間つぶしにはちょうどいい。
 お金に余裕のない学生にとっては居心地の良い場所だと思うのだが、いつの間にか来なくなってしまう。棚の漫画が古いせいもあるだろう。漫画喫茶のように、常に新作を購入する余裕はないし、そんな大量 の漫画本を陳列する場所もない。  商店街が寂れてしまっているので、わざわざ通 ってくる魅力もないのだろう。市内とはいっても、大学がある場所と商店街はかなり離れている。
 今年も、どら書房の漫画ルームを気に入ってくれた新入生がいた。大学が休みの週末には、午前中からやって来て、閉店間際まで粘っている。正直、こうなるとちょっと辛い。お客がいないときは、わたし自身が漫画ルールのソファに腰かけて、新聞を読んだり読書したり、昼になれば昼食を食べたりと、寛いだ時間を過ごしているからだ。新入生の彼に居場所を取られてしまった感じ(苦笑)。その分、休憩時間が減ったので、古本屋の作業をする時間は増えている。
 昼過ぎになって、彼に声をかけられた。カップ麺が食べたいのだが、電気ポットの使い方がわからないという。以前に少し話して、彼が島根県出身だということはわかっている。電気ポットのない生活……、いったい彼はどんな暮らしをしていたのだろう。
 そんなことを詮索するのはさすがに失礼なので、電気ポットの使い方を丁重に説明した。再沸騰してお湯を注いだ方がおいしいですよともアドバイスした。ちなみにカップ麺は百円で販売している。自分用に買い置きしていたのだが、販売もすることにした。もちろん、百円では利益は出ない。
 閉店間際になって、店頭で店じまいの支度をしていたわたしの後ろを、彼が黙って通 り過ぎようとした。「ちょっと待って」、思わず声をかけてしまった。「あいさつぐらいはしようよ」、彼は怪訝な顔をしている。「黙って出入りされては気持が悪い。もう大学生なんだから、あいさつぐらいはちゃんとしよう」、そう言いながら、ああ、おれも齢を取ったなと実感していた。  以前の自分は、こんな説教をするような人間ではなかった。自分は自分、人は人、実害がなければ、他人の言動に口を出すことはなかった。
 腹立たしい思いをしたのは確かである。「ありがとうございました」の一言があってしかるべきではないか……、居場所を奪われた恨み?(苦笑)。しかし、彼のことを考えている自分がいる。こんなことをしていれば、自分が損するだけである。あいさつをきちんとするだけで、人間関係の煩わしさを30パーセントは軽減できる、これはわたしの60年の経験値……、まあ、当たらずとも遠からずといったところか。
 煩いことを言われたので、もう寄り付かないかと思ったが(半分それを期待していた)、読みかけの漫画があるのか(長いものは50巻を超えている)、相変わらず通 って来てくれている。肝心のあいさつの方だが、少々ぎこちないが、「おはようございます」と「ありがとうございました」がちゃんと言えるようになった。
 彼について、気に入っていることがひとつある。いつも一人で行動していること。新入生でまだ友人ができていないこともあるのだろうが、一人でも物おじせずに店に来ているところから、単独行動に馴れているような感じがする。
 今月号のミニコミ誌「県北どらくろあ」で、わたしは新田次郎の「孤高の人」を紹介した。昭和初期に活躍した不世出の登山家、加藤文太郎の伝記小説である。食糧や装備を独自に工夫して、厳冬期の単独登山を次々と成功させた。
 加藤文太郎の言動を読んで、つくづく団体行動が苦手な人なのだと思う。極度の人見知りで、山で他の登山家に出会ってもあいさつがちゃんとできない。それで誤解されて、ますます孤立してしまう。
 加藤文太郎の凄いところは、そうした自分の性格に劣等感を抱きながらも、多勢に迎合しなかったところ。朱に交わって意に沿わぬ ことをすれば、自分という個性が死んでしまうということを本能的に知っていたのだろう。だから、孤高の道を選んだ。彼の心情がよくわかる文章があるので、以下、抜粋する。

 彼はこういうとき単独行であるということをつよく意識した。ひとりだから慎重になれるのだと思った。複数のパーティがこういう場合、道を失うのは、お互いに誰かをたよっていて、絶対的な責任者の所在が不明確になるからだと思った。

 齢(よわい)60歳を超えて、孤高の人に憧れる。雇われ人という首輪から開放されて、ますますその想いは強くなった。大勢の中に入れば、首を垂れて尻尾を振ってしまう自分の弱さを自覚している。ならば一人でも、自分のやりたいことをやって生きていたい。
 若い頃に図書館で借りて読んだ「孤高の人」を再読して、より感銘を受けている自分がいるのである。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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