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 毎月出しているミニコミ誌で、先月は「地域おこし協力隊」を取り上げた。平成21年にスタートした制度で、田舎暮らしに興味がある都会の人に、過疎地で実際に働いてもらって、その地域を活性化してもらおうというシステムだ。人件費(給料等)も活動費も、それぞれ200万円を上限に、総務省が負担してくれる。
 新聞の地方欄にもこの「地域おこし協力隊」のことが取り上げられることがあって、地元でもときどき話題になるが、正直、あまり肯定的な意見ではない。部外者に高い報酬を払って何も成果 が出ていないじゃないか……、たぶん、地方自治体の乏しい財政から費用を捻出しているのだと誤解している。一度、どういうシステムなのかを紹介しておく価値はあるのではないか、まあ、そんなことで取り上げたのだが、決してネタに困ったのではないので誤解のないように(苦笑)。
 具体的な活動例を紹介するために、近隣の市役所で地域おこし協力隊として採用されている人の取材をした。詳細を知りたい方は、「県北どらくろあ」がネット上で公開されているので、その記事を読んでもらいたい。
 相手の都合で取材できたのが5月21日。いつも記事を書いたら、取材した人に内容を確認してもらうことにしている。取り上げた個人やグループの活動を応援するというのが創刊以来の基本スタンスなので、意向に沿わないようであれば書き直す……、喧嘩する勇気もその必要もないというのが本音ではあるが。
 記事を送ったのが27日で、できるだけ早く確認してくださいとお願いして、本人の訂正箇所だけは先に送ってもらったのだが、市役所からのオッケーの連絡が来ない。月初発行なので、仕方なく1日に先行発行、問題があればあとで訂正する趣旨のメールを送った。そして、取材した本人から「とくに問題はないそうです」という返信が届いたのが6月11日だった……。
 ぐたぐたと愚痴を書いたが、一事が万事、これがお役所仕事なのである。私的なミニコミ誌ということで相手にされなかったこともあるのだろうが、決定がとくかく遅い。自分の責任になるのが怖いのか、すべてに上司のご意向うかがいで、裁定が下るのを待っている。
 地元の市役所に勤めていた同級生が話していたことがある。毎年、毎年、恒例のようにする行事というか仕事があるのだが、どうしてこんなくだらないことを続けるのですかと上司に質問したことがあるそうだ。やっても誰も喜ばないし役に立たない、そして、自分もそんな面倒なことはやりたくない。
 上司の答えは、「今までやってきたことだから」。自分の代でそれをストップするのが怖いのだ。あとで責任を追及されるかもしれない。反対に、新しいことには常に及び腰で「今までの前例がないから」と責任逃れ。
 ただただ約束事を踏襲してリスク回避、年功序列で出世して、退職後は天下りでどこかの管理職にもぐりこんでしばらく骨休め、老後は手厚い年金で悠悠自適の生活。恩恵にあずかれない部外者には、「われわれの税金で」と恨み骨髄だが、公務員としてはこれが理想的な人生設計だろう。しかし、上司がこれでは、やる気がある若者も、次第に生気を抜き取られてしまう。
 公務員という組織が、ミニ社会主義国家のようなものだから、これは個人の問題ではなく、システムの問題、いや障害なのだろう。地域創生が公務員の手に委ねられている限り、絵に画いた餅である。だったら、地域おこし協力隊のような補助金制度は税金の無駄なのでやる必要はない……、とはわたしは思わない。
 岡山の美作(みまさか)市のような成功例もある。人口減、少子高齢化、耕作放棄地と化した棚田、間伐もままならない里山、絵に画いたような過疎地で、限界集落とも呼ばれるようになった地区が、地域おこし協力隊を起爆剤に、住民と一緒になって20ヘクタールの棚田を見事、再生させた。
 たとえ失敗したとしても、補助金が地方に交付されただけでも経済効果はある。無駄使いだろうと何だろうと、お金が落ちればその土地は潤うのである。都会で吸い上げた税金を地方にじゃんじゃん補助金の雨を降らせて(これが田中角栄人気の源泉)、それが不公平だと文句を言うのなら、その恩恵に与かるために地方に住めばいい……、暴言は承知である(苦笑)。
 わがふるさとに限らず、過疎に悩む田舎町は、あれこれと振興策を打ち出している。そのどれもが、どこかで成功した事例の二番煎じ。同じことをしていては、最初にやったところに勝てないだろうし、他にも二番煎じのライバルがたくさんいる。やらないよりはやった方がいいのだろうが、力を貸す元気も暇もない。それよりも、どうか田舎に来てくださいと、都会の人に媚びているように感じるのはわたしだけだろうか。甘い言葉で誘っても、地方には都会人には馴染めない因習がたくさんある。安易な覚悟では定住できない。
 わたしは昨年から、地元の自治会の会計を担当している。他にやってくれる人がいないと押し付けられた。会費の徴収がいちばんの責務なのだが、この担当を戸別に順繰りにやる。会計から今月の担当者(家)に連絡して、その月の常会費を集めてもらうのだ。母親の介護のために実家に帰った当初、この会費徴収を命じられて戸惑ったことを今でも覚えている。東京暮らしでは、自治会という概念さえまったく脳裏になかった。
 月別ではなく年会費を一括して払っている人もいて、徴収する戸数が減ると集める人も楽だろうと年会費を申し出ると「月に一度、顔を合わせることで親睦をはかる意味もあるんです」と言われて、なるほどと思った。しかし、実際に会費を徴収してみると、お金を介してのやりとりは貰う側に精神的な負い目があって、和やかに会話という雰囲気ではない。それに、留守宅や金を出し渋る家もあって、何度も訪問しなくてはいけないこともあった。
 会計を担当してあらためて実感したのは、常会(自治会)のメンバーが高齢化していて、足腰の弱っている人がかなりいること。一人暮らしの人も多くなった。こういう人に、会費の徴収を頼むのは酷である。だったら、自分で徴収した方がよっぽど気が楽。しかし、それをやっては規約違反だと文句が出る。
 わたしが会計担当になって1年が過ぎ、会費の徴収方法を変更してもらった。集めるのではなく、持って来てもらうことにした。どら書房の開店日に、自分の都合の良い時に持参していただく。これなら一人で集める手間もなくなるし、お金を要求するという精神的な負い目もなくなる。
 しかし、こんな簡単な変更にも、反対する人はいた。「あなたは店をやっているからそれでいいだろうが、勤めている人が会計になったらどうするの?」。「そのときにまた良い方法を考えればいいんじゃないですか?」と答えたが、納得はしてもらえなかった。内心、勤めで忙しい人が会計を引き受けてくれるとは思えないし、当分はわたしが会計をやることになるだろうとの諦観もあった。
 これはほんの一例で、田舎にはさまざまな慣例が存在する。うちの常連客の四十代の人で、若い頃に田舎暮らしにあこがれて移住して来た家族なのだが、若いんだからといろんな役目(役職)を押し付けられて困っていると愚痴をこぼしていた。まわりが高齢者ばかりだと、こういうことが起きてしまう。地域の風習を受け継ぐことは大切だが、負担が多くなってしまっては、人も文化も閉塞してしまう。
 もっと軽やかに、田舎の生活を楽しみたいと願っている。古本屋もミニコミ誌も、自分が愉しむために始めた……、その原点を忘れないようにしなければいけない。自戒を込めて、そう思う。地元の人が楽しく暮らせていない場所に、よその人が住みたいと思うわけがないではないか。
 うーん、今回も脱線続きで、オチもまとまりもありません(苦笑)。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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