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「県北どらくろあ」という地域のミニコミ誌を毎月、出しているのだが、「今月の3冊」という連載企画がある。自分が読んでおもしろいと思った本を3冊、紹介している。12月号に掲載予定の、3冊の中の1冊が「知識人99人の死に方」(角川ソフィア文庫)。ミニコミ誌の小さなスペースでは書き足りなかったので、ここに書きます(苦笑)。
 対象になるのは「戦後に死んだ人」で、最初に取り上げられているのが手塚治虫。享年が60歳だということを、この本を読んで再確認、そしてちょっと落ち込んだ。自分の年齢がちょうど還暦の60歳、漫画の神様の年齢を超えてしまうという事実を受け入れることに抵抗している。今まで馬齢を重ねてしまった……。
 手塚治虫が潰瘍性の胃ガンで入院した時は、すでに手遅れに近い状態だったという。夫人は告知せずに胃潰瘍だと最後まで偽ることを選択。「あのときも主人はたくさんの仕事を抱えていました。これだけ仕事をしたくてしかたがない人がガンだって聞いたときにどうなるかって思うと、本当のことが言えませんでした。」
 不眠不休で仕事をした手塚治虫のエピソードはよく知られているが、悪評もかなりあるようで驚いた。
「結婚間もない家には覚悟を決めた編集者が刑事よろしく窓から踏みこんできた。原稿が遅れるので『おそ虫』、締め切りを守らないので『うそ虫』、そんな異名が漫画雑誌の編集者たちの間でささやかれた。」
「彼は物理的に間に合わないのに、自分の気に入った企画を引き受けるんです。サボって締切時間に間に合わないのではなく、書きすぎて間に合わない。昔は手塚番の編集者同士で殴り合いのケンカがあった。(中略)寝る時間もなく一日三十分の睡眠なんてザラでした。」
 手塚治虫は医学博士で、「ブラック・ジャック」などの医学をモチーフにした名作を生みだしている。良くならない自分の病状に疑問を抱きながらも、胃潰瘍であることを信じていたようだ。あるいは、信じたいと願っていたのか。
 病状が悪化して入院していた手塚が突然ベッドから起き上がって「隣に行くんだ」と言い張った。自宅では寝室の隣部屋が仕事部屋だったという。「仕事をする。仕事をさせてくれ」と夫人に頼んだ。これが最後の言葉になった。

「60歳まで生かしてくれ」と主治医に懇願したのは寺山修司。医師の庭瀬康二が寺山を初めて診察したときは、すでに腹水のある肝硬変になっていた。データ上の5年後の生存率はわずか20パーセント。せいぜいがんばったところで、寺山の命は残り7〜8年。
 45歳だった寺山が示した人生設計が、あと5年、50歳まで演劇でやる。それからの10年間は文筆業に専念する。しかし、「あのときの寺山は、劇団のボスで、小説やエッセイも書いて、華やかなストップライトを浴びている存在だった。それが、朝起きて、ベッドでメシ食って、点滴打って、一日中テレビを見て、という普通 の病人の生活を強制したらどうなると思う。スターだった寺山が、寺山ではなくなってしまうじゃないか。そんなこと、彼が我慢できるわけがないだろう」(庭野医師)。
 寺山修司が最後に公の場に姿を現したのは、昭和58年4月18日。前日、中山競馬場に皐月賞を見に行き、夜はドイツ映画祭の講演、翌日は横浜での公演の記者会見を行なった。19日から発熱、22日に意識を失い、そのまま一度も目覚めることはなかった。享年は47歳だった。

 こうまでもロクデナシだったのかと呆れたのが稲垣足穂。
「書肆ユリイカの創始者伊達得夫に『五十人の不良少女の面倒を見るより、稲垣足穂の世話をしたほうが、日本のためになりますよ』と言われて、なるほどと結婚してしまった京都の児童福祉士、篠崎志代さんに大亭主関白よろしく世話をさせたあげく、ほかの女は平気で家に上げるわ、何日も女の家に泊まったあげくからだ中に口紅の跡をつけて帰ってくるわ、志代さんが子宮ガンの後遺症でおなかが痛いと顔をしかめればメシがまずくなるから他の部屋へ行けと言うし……」
 志代夫人が入院しても一度も見舞いに行かないで、死んで帰った棺には「この結婚は失敗だった」と罵倒。その2年後に足穂は死ぬのだが、足腰が弱ってほとんど寝たきり、お酒も飲めなければ創作もできない状態で、ますます人嫌いになってだれにも会わない。
「それでいて東京にいる熱心な女性ファンの家に引っ越す計画まで着々と立てていたりしたと言うから、まったく懲りないオッサンだ。」
 76歳で死ぬまでの最後の2年間で、自作が収められている文庫を何度も繰り返し読んでいたという。ほかの人間が書いたものはいっさい読まず、自作だけを表紙がボロボロになるまで読みふけった。ナルシズムの権化で、足穂文学の秘密がわかったような気がした。

 今でも謎なのが、川端康成の自殺。
「川端は1歳のときに父を亡くし、2歳のときに母を失い、7歳で祖母に死なれた後は祖父と暮していたが、別の家に引き取られていた姉も10歳のときに亡くしており、14歳で祖父にも死なれることで、天涯孤独の身の上になってしまった。」
「その後家長として多くの葬式に列席し、従兄弟たちから葬式の名人という異名をもらい、先輩、友人、後輩の文学者たちの多くの死を見送り、そのたびに弔辞を読み上げ、弔辞作家という名前までつけられてしまった。」
「いかに現生を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は、大聖の域に遠い」(「末期の眼」)と述べていた川端が、ノーベル賞という世界的な栄誉のなか、逗子の仕事部屋でガス管をくわえて自殺してしまった。享年、72歳。

 田中英光について書かれた文章はとても短かった。 「終戦直後(昭和24年)、太宰治の墓前で自殺した田中英光は、 『豊島先生、花田氏、河上徹さん、できればぼくの選集を編んで下さい。古田さん、できれば、ぼくの選集をチクマから出して下さい。』などと書き遺している。執念おそるべし。作家は死を捧げて作品の出版を迫る。」
 松本清張の項目のまくらに使われていて、これが全文。田中英光がどんな作家かも説明されていない。気になるのでネットで調べてみた。
 田中英光は、太宰治によって見出されて作家としてデビュー、太宰に師事する。太宰の自殺にショックを受けて睡眠薬中毒になり、翌年、同棲相手を薬物中毒の妄想から刺す。妻子を残して女と同棲していたというから、師匠ゆずりの無頼派ぶりである。
 功なり名を遂げた松本清張の穏やかな死に方よりも、田中英光の無残な死にざまに惹かれるのは、判官贔屓だろうか。自分は穏やかに死にたいと切に願うが、後世に残る作品を書き遺せるのであれば、稲垣足穂のようなロクデナシになっても……、いやいや、自分にはそんな強さはどこを探してもありはしないということは自覚しているつもりである。タフでなければ悪人にはなれないのである。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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