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 兄が消えた……
 ようやく長い梅雨が明けて、夏らしい暑さがやってきた。一ヶ月近くかけて自分でリフォームした部屋で、新調したエアコンをかけて読書を楽しんでいた。7月31日、明日はもう8月である。そろそろ夕食の支度が気になりかけていた頃に、電話がかかってきた。
 埼玉県の西入間署のFだと、相手は名乗った。次兄がアパートで死亡していたという。血の気が引いた。まさか、という思いでパニック状態になった。しかし、それが事実だろうということを、冷静に受け入れている自分を、心のどこかで感じていた。予感……、いや、覚悟は確かにあったのだ。次兄からの連絡があるときは、こんな形ではないか。あるいは、瀕死の重傷や重病で、病院から連絡が入るとか。
 新聞受けに、新聞がたくさん溜まっているのを不審に思った新聞配達の人が警察に連絡、それで次兄の死体が発見された。24日の朝刊から放置されていたので、死亡したのは23日ではないかと推測される。受話器からはときどき、他の警察官の声が漏れてくる。その内容で、アパートの現場から直接、電話しているのだとわかった。Fさんは、誠実な人柄がにじみ出ているような話し方だった。こんな役目は辛いだろうなと、Fさんの声を聞きながら同情した。
 次兄と最後に会ったのは、もう5年以上も前になる。母親がくも膜下出血で倒れたときに、埼玉 県で独り暮らしをしている次兄に電話した。そのときのわたしは、喪服を持参するかどうか迷ったぐらいで、それほど母親の病状は危険だった。当然、次兄もすぐに帰省するものだと思っていた。次兄の仕事はフリーの翻訳家で、いくらでも時間のやりくりはできるはずだった。
 しかし、次兄は帰らないと言う。驚いた。しばらく唖然としたが、猛然と喰ってかかった。次兄の反応は、のらりくらりとして要領を得ない。だが、やはり後ろめたい思いは抱いていたようで、最後には渋々、帰省することに同意してくれた。
 執刀医から、高齢なので可能性は少ないと宣告された手術は成功して、母親は生還した。次兄は、母親が意識を取り戻すのを待たずに、早々に埼玉 に引き上げた。
(もう、家族を切り捨てているんだろうな)
 以前の次兄は、盆暮れには律儀に帰省していた。それが、ささいなことで父親に叱責されて、へそを曲げたのか、実家に寄りつかなくなった。よくは覚えていないが、たぶん帰省時間がかなり遅れて、夜遅く帰って来たのだと思う。そういうときにはちゃんと事前に連絡を入れろというのが父親の言い分で、真っ当な主張なのであるが、父親は癇癪を爆発させると歯止めがきかなくて、くどくどと説教を垂れることになる。 それで家族との絆が切れてしまったのだから、もともとか細い絆であった。
 子供の頃なら、父親の命令には絶対服従だった。 わたしたち兄弟にとって、父親はただただ畏敬すべき存在だった。一緒に暮らした経験はほとんどなく、たまに顔を合わせると馴れていないので緊張する。会話もほとんどなくて、一方的に父親の質問に答えるだけ。まるで尋問である。
 わたしの場合は、父親が大学を決めて、就職先も決めてしまった。私立の薬科大学に入学が決まったとき、父親が大学のクラブのことを調べて、将棋部はないから囲碁部に入れと言われた。それで、近所の囲碁の有段者の元に、習いに通 わされた。わたしも、それが当たり前のように受け入れた。大学に入って、囲碁部ではなく文芸部(同好会)に入ったのは、ひそかに文学部を希望していたわたしのささやかな抵抗である。
 思えば、お金やモノでしか愛情を表現することができない、不器用な人なのだろう。 父親にしてみれば、強制ではなく、子供のために良かれと思ってしていることで、それだけお金も費やしている。学生時代にわたしが自動車免許を取って軽のポンコツに乗っていたときは、金がかかるだろうと仕送りを増やしてくれた。ただし、直情径行、自分の思ったとおりにしないと気がすまない。それ上、病的にせっかちなので(わたしの田舎ではこれを“イラ”と呼ぶ)、往々にして、周囲の状況や相手の感情を無視して、自分の思いこみだけで独断専行することになる。
 転機は就職のときで、 父親の大学時代の友人が重役を務める大手製薬会社に就職するはずだった。大阪にある本社まで、父親同伴で面 接に出向いた。そのときの印象がよほど悪かったのだろうか。こいつは戦力にならないと見限られたのか。『今年から縁故採用はしない方針になって……』などと、もっともらしい理由をつけられて、結局は不採用になった。それから独力で就職活動をして、薬業界の出版社に入社するのだが、それで父親の首輪がするりと抜けた。恥ずかしい話だが、大学を卒業する年齢になって、ようやく乳離れならぬ 父離れができたのである。
 次兄は、わたしよりもはるかに優秀だった。国立の大学を卒業して、父親が地元の代議士の秘書に頼んで紹介してもらった会社に、すんなりと入ることができた。さして勉強しているようには見えないのだが、いつも学校の成績は トップクラス。昔の公立の小学校は、成績がいちばん良い生徒が先生から学級委員に任命されていた。次兄はずっと、学級委員を務めていた。
 次兄は、人付き合いが苦手な性格で、会社勤めが窮屈、というよりも対人関係が苦痛だったのだろう。会社勤めをしながら通 信教育で英語の翻訳家コースを受講、たいがいは受講料をむしり取られただけで終わるのだが、次兄はやはり成績が飛び抜けて良かったのだろう。大学で電子工学を専攻したこともあって、特許関係などの専門分野の翻訳で生計を立てることができるようになった。誰にも相談をせずに、3年足らずで会社を退職してフリーになった。父親は大いに憤慨したようだが、それで次兄はようやく自分の人生を歩き始めたのだと思う。
 わたしが小説家に憧れたのも、小説家という職業、換言すれば、小説家の生活に魅力を覚えた部分が大きい。生来のナマケモノで、作家として自立できれば、あくせく働かなくても喰っていけると思った。そうすれば、面 倒な人付き合いをしなくても生きていける。わたしは挫折して、兄は成功した。その理由が、兄の身辺整理をしているうちに、よくわかった。
 次兄の死を、父親に報告すると、驚くほど取り乱して号泣した。父親の涙を見たのは生まれて初めてだった。これが肉親の情なのだと思う反面 、やはり認知症の影響だという気がする。思考力が混濁して、感情をコントロールできなくなっている。反対に、母親の方は冷静だった。ずっと家を護って、子供だけを生き甲斐にしてきたような人なので、衝撃を受けるのではないかと心配したが、次兄の死を淡々と受け入れている。くも膜下出血のときに、感情を司る脳の一部が損傷を受けたのかもしれない。手術後は性格が一変、まるで別 人である。
 次兄の死を近しい親戚に報告して、明日の早朝、出立しようと思っていた。しかし、父親は、今からすぐに次兄の所に行ってやれと言い張ってきかない。独りでは、次兄がかわいそうだという。気持はわかるが、とても上京できる時間帯ではなかった。実家のある庄原市は、中国山地の山間にある田舎町なので、広島駅に出るだけでも大変なのだ。それに、早く行ったからといって、次兄が生き返るわけでもない。しばらく言い争ったが、父親はわたしの部屋に居座って、頑迷に自分の言い分を繰り返すだけだ。これは、認知症は関係ない。昔からそうなのだ。
 いつものように根負けして、そそくさと支度して家を飛び出した。逃げ出したと言った方が正確か。家のことは長兄と、父親の実弟である叔父にお願いした。
 車で隣町の三次まで出て、列車の時間を調べた。三次からだと、広島行きの本数がかなりある。最終の新幹線に間に合わないようなら、8時半頃に三次駅前に発着する 高速バスにもぐり込むつもりだった。それだと、明日の早朝に東京駅に着く。時刻表で、6時過ぎの広島行きの快速に乗ると、どうにか東京行きの「のぞみ」に間に合うことがわかった。バスの窮屈な座席で、一晩、我慢せずにすんでホッとした。
 駅前の有料駐車場に車を乗り捨てて、駅のホームから、千葉の実家にいるうちの奥さんに電話をかけた。最初は義母が出たが、挨拶もそこそこに急いで電話を替わってくれた。やはり、口調が高ぶっていたのだろう。それに、携帯電話に馴れていないので、つい大きな声を出してしまう。奥さんは、小金井のアパートで待っていてくれるという。それで安心して、列車に乗ることができた。
 次兄は、どういう死に方をしたのだろう? そのことがずっと、気になっていた。母親がくも膜下出血で倒れたときに帰省したきりで、次兄は実家に帰っていない。つながりは、盆暮れに届くお中元とお歳暮だけで、電話もなかった。次兄の性格を考えれば、それも仕方がないことだと思うのだが、感情的なしこりは残っている。だから、荷物が届いても何も連絡しなかった。
 経済的に困窮して、衰弱死したのだろうか? それが一番の心配だった。餓死であれば、結果 的に次兄を見捨てたことになる。警察に通報したのが新聞配達の人なら、新聞を定期購読していたわけで、お金に困っていたならそんな余裕はないはずだ。今年のお中元もちゃんと届いていた。佃煮のセットと新茶の詰め合わせで、そんなに安くはないはずだ。いやいや、見栄を張っていたのかもしれない。
 体を悪くしても、医療費が払えないので病院に行けなかった? 子供の頃は小児喘息で、アレルギー体質だった。それが、いつの間にかヘビースモーカーになっていた。自分の健康や食べ物に、無頓着な生活をしていた。健康保険料が払えなくて、保険証がなかったのかも……。いろんな推測が、脳裏をよぎった。結局、自分の罪悪感の心配をしているわけで、そのことを自覚してさらに気が滅入った。
 もう一つ、気になっていたことがある。警察からの電話で、「お兄さんの職業は画家ですか?」と訊かれた。そんなことは初耳だった。わたしが知っている限り、次兄が絵に興味を持ったことはない。即座に否定して、翻訳を生業(なりわい)にしていたはずだと答えたが、Fさんは納得した様子ではなかった。
 ひょっとしたら、次兄は絵を描くようになっていたのかもしれない。それも、プロだと思えるほど上達していた。次兄のアパートの部屋に、アトリエのように絵がたくさん立てかけられている光景を思い描くことは、楽しい空想だった。しかし、正直、半信半疑……、らしくないのだ。
 まだ次兄が正月に帰省していた頃、次兄に将棋の対戦を申し込まれて驚いたことがある。おそらく、専門書で知識だけを詰め込んだのだろう。実戦経験がないので、有段者のわたしに対抗できるはずもなく、かなり駒を落として対戦した。次兄は不服そうだったが、それでも上手に勝つことは難しい。悔しそうに、何度も挑んできた。数少ない楽しい想い出である。
 広島駅での乗り継ぎがよくて、その日のうちに東京に着くことができた。のぞみになっていなければ、新幹線は無理だったろう。東京駅から中央線で東小金井駅に向かっているときに、日付が変わって8月になった。駅まで奥さんが迎えに来てくれていた。会うのは4月の義父の葬儀以来で、立場が逆になってしまった。
 翌朝早く、出立した。池袋まで出て、東武東上線に乗り換えた。Fさんの指示通 りに若葉駅で下車して、西入間警察署に向かった。二度ほど道を尋ねたのだが、遠回りしたようで、朝飯の時間がなくなった。食欲もなかった。約束の9時少し前に到着、警察署を新築している最中のようで、プレハブの建物だった。玄関先に、ヘルメットを被ったゴツい警官が、警杖を手にして仁王立ちしている。用件を告げると、優しい物腰で、受付まで案内してくれた。
 電話をくれたFさんは、穏和な印象の初老の人で、刑事課と聞いていたので背広姿をイメージしていたが、濃紺の警察官の制服を着込んでいた。 殺風景な控え室で、詳しい話を聞いた。次兄は、風呂場の前で倒れていたという。半裸だったから、おそらく風呂に入るつもりだったのだろう。警察医(所轄警察署の嘱託を受けて検死を行う医師)の検案(死因を判断すること)では、目立った外傷はなく、脳出血や心臓麻痺などの急病死であろうという判断だった。
 貴重品として、部屋から保管された通帳やキャッシュカード、現金などを手渡された。その現金を見て、わたしは安堵した。6万円以上あった。手元にそれだけ現金があるのであれば、餓死ということはないだろう。 次兄の死については、家族はどうすることもできなかったのだと、自分を納得させた。
 いよいよ遺体の確認だ。今まで、手術などの傷痕はないかと尋ねられた。記憶にないので、ないはずだと答えた。そのことを確認したかったのだろう。遺体の顔写 真を見せられた。白髪になって、無惨に変形しているが、面影は残っている。間違いないと答えると、建物の外にある遺体の保管場所に案内された。そこも、小さなプレハブ小屋だった。部屋の中に入って、Fさんにならって合掌、簡素な祭壇の前に安置された遺体の前に立った。甘酸っぱい腐臭がただよってくるが、覚悟していたほどのひどさではない。
 Fさんが、遺体をくるんでいたビニールシートをめくると、裸の上半身が顕れた。その姿を見た瞬間、兄はもうここにはいないと実感した。干からびて黄ばんでしまった肉体は、テレビの特番に出てくるような、珍獣のミイラを連想させた。歪んだ顔が、皮肉な笑みを浮かべているようで、それだけは兄らしいと思った。これはもう抜け殻で、すべてにおいて無精で淡泊だった男は、この世からさっさとおさらばしてしてしまったのだろう。自分の生命に対しても淡泊だった。そう、蝋燭の炎が吹き消されるように、消えてしまった……。
 あとのことは、おまえらで勝手にやってくれと言われているようで、腹立たしさを覚えたが、いかにも“らしい”と思った。手続きや葬式などの儀式は、生者のためのものである。わたしが亡くなったときは、許されるならば、何もしないでもらいたいと思う。自然葬が流行りのようだが、わざわざ海や山に散骨しなくても、近くの野原にばらまいてもらってもいい。極言すれば、ゴミの日に出してもらってもいいとさえ思う。むろん、墓石も戒名も必要なし。死んでからも、この世に残っていたいとは思わない。しかし、それは死者の我が儘で、残された者は社会の規範に従わなくてはならない。生ある限り、世の中と折り合いをつけて生きて行くしかないのだから。
 Fさんのアドバイスで、いくつか電話した。まず、葬儀会社は今後のことを相談した。早急に遺体を引き取る義務があるので、葬儀会社の斎場の安置室に搬送してもらうことになった。わたしたち夫婦は、葬儀社の別 の車で、検死した警察医の経営する病院を訪れて、死体検案書を受け取った。用紙の左半分が死亡届になっていて、この書類がないと法的に死亡が認められない。これを役所に届けて、火葬の許可が下りる。
 死体検案書では、氏名や住所などの個人データの他に記載があるのは「直接死因」と「発病(発症)又は受傷から死亡までの期間」の欄だけ。それぞれ、「不詳の死」、「不詳」と走り書きしてあった。死体検案書の作成代金は8万円で、地域によって金額が違うらしいのだが、すべて遺族の負担になる。急に呼び出されて、傷んだ死体を検分することを考えれば、一概に暴利だとは言えないが、こんなに簡単に死因を決定していいのかという疑問は残った。
 あとでネットで調べてみたのだが、死体検案をする医師に法的な規定はなく、医師の資格をもっていれば誰でもできるらしい。しかし、死体を見たこともない医師に依頼することは問題があるので、警察医として登録している医師にお願いすることになる。ただし、この警察医とて特別 な知識があるわけではなく、警察の身辺調査を参考にしながら死因を決定するのだという。
 今回の次兄のケースでは、「外傷もなく、金品も盗まれた形跡はないので、事件性は薄いだろう。だったら、脳出血や心臓麻痺などの急病死だと判断するのが妥当――」、といった感じだろうか。監察医制度によって、検死の専門医や施設を有する東京都以外の地域では、たいがいがこの警察医制度を採用している。
 他殺を自然死に偽装するのは簡単にできそうだな、などと、つい不遜なことを考えてしまう。こうした日本の検死制度に対する懸念は、ネットで少し検索しただけでも散見できて、やはり問題点は多いようだ。小説のネタになる!? そういえば、現役の医師で医療小説を書いている海堂尊さんが、そんな小説を書いていたっけ。
 葬儀社の手配で、遺体の火葬が明後日の朝に決まった。その打ち合わせと契約をすませて、次兄のアパートの管理をしている不動産屋に向かった。坂戸駅から出ている越生線に乗った。沿線の景色が急に田舎になった。東毛呂駅で下車、駅前で昼食を食べるつもりが、しょぼい商店街で、適当な店がない。駅から離れて食べ物屋を探しているうちに偶然、目的の不動産屋に行き着いてしまった。電話の約束では、駅前まで車で迎えに来てもらえることになっていた。
 近くでファミレス風のうどん屋を見つけたので、そこで昼食。食欲がないのに、欲張って定食を頼んだので、かなり残してしまった。いまだに甘酸っぱい臭いが鼻先にただよっているような気がする。 この感覚は、しばらく消えてくれなかった。それにしても、全国のあちこちで供されてる讃岐うどんは、どうしてこうもゴリゴリと硬いのだろう。コシがあるのと硬いのとは、似て非なるものだ。地元で食べた讃岐うどんは、もっとしなやかな歯ごたえだった。
 不動産屋の車に乗せてもらって、次兄が暮らしていたアパートに向かった。 武州長瀬駅のそばの、住宅街の中にあった。プラザという名前を冠しているので、マンション風の建物を想像していたが、単なる古びたアパートだった。すぐ近くに、越生線の電車が走っている。
 ドアを開けた瞬間、異臭が鼻を突いた。煙草の強烈な臭いに、独身男の不潔な生活臭が混濁している。部屋というよりも、穴蔵と言った方がふさわしいだろうか。ドアの横にある唯一の窓は、大きな書棚でふさがれている。四畳半のワンルームには万年床のベッドが置かれ、パソコンやテレビを置いた作業机や家具で床が占拠されて、足の踏み場がない。
 何か音がすると思ったら、作業机の下に置かれた扇風機が回っていた。兄が生きているときから動いているのだろうか。それとも、少しでも臭気を和らげるために、警察の人、あるいは不動産屋の人がスイッチを入れたのか。わたしも、部屋にいる間は、扇風機をそのまま動かしていた。
 部屋の作りは、四畳半の部屋にユニット式のバス・トイレと、一畳ぐらいの台所がついている。 バス・トイレと台所の上部が三畳ぐらいのロフトになっていて、普通はここを寝室に使うのだろうが、物置になってしまっている。部屋の壁や家具、散らかったガラクタのすべてが、煙草のヤニでコーテイングされていて、ネバネバした感触がする。煙草の煙りはどこにも侵入していて、本や書類、衣類もすべて被害を受けている。
 あまりの惨状に唖然としたが、期待していた絵はまったく飾られていない。飾る場所もないのだが、そうなると警察のFさんが言っていた「画家」うんぬ んの話はいったいどこから出てきたのか。ずっと不思議だったが、二日後にもう一度、不要品の処分のことで不動産屋を再訪したときに、その理由がわかった。前のときは留守だった社長さんが応対してくれたのだが、次兄の職業が画家だと勘違いしていたようで、警察にもそう話していた。どうしてそんな勘違いをしていたかは不明だが……。
 のんびりしている時間はないので、実家に送るものを大雑把に仕分けして、部屋にあった段ボールに放り込んだ。電話やテレビ、パソコンの周辺機器等々、荷物にならなくて使えそうなものだけを選んだ。書類を物色していて、町役場から届いた封書を見つけた。昨年度の一年間、医療機関にかからなかったので、それを表彰して記念品を贈ると書かれていた。机の引き出しに入っていた未使用の図書カードが、その記念品だろうか。健康に留意して病気にならなければ、医療機関にかかって健康保険を使うこともなく、それだけ地方財政の出費が抑えられるという意味だろう。
 そうなると、少なくとも去年の4月から今年の3月いっぱいまでは、病気や怪我で受診してはいないということになる。やはり、次兄の死因は脳出血や心臓麻痺などの突発的なトラブルで、苦しむことなくポックリ死んだのだと思った。そう信じることで、気分が少し楽になった。しかし、あとで次兄の仕事先の翻訳会社に連絡を入れたとき、「そういえば、しばらく前から体調不良を訴えておられました」という話を担当者から聞いた。病院に行くのが面 倒だったのだろうか。自分の健康に対しても、無精だった……。
 あとで母親には、「兄さんは、苦しまずにポックリ死んだよ」と報告した。「母さん、先をこされたね」と言うと、笑っていた。今では、「苦しまずにポックリ死ぬ 」のが、寝たきり状態になってしまった母親の一番の望みだった。
 次兄の部屋には、大量の食料が備蓄されていた。独り暮らしには不釣り合いな大型の冷蔵庫に、業務用の冷凍庫。缶 詰や乾麺などの保存食が段ボールに入ったまま無造作に置かれている。最近、届いたばかりの段ボールの送り主は、ネットスーパーだった。買い物にも出ることなく、この穴蔵にこもっていたのだろうか。
  銀行関係の書類や、クレジットなどの領収書や請求書などをバッグに詰め込んで、ノートパソコンと一緒に小金井のアパートに持ち帰った。最近は、通 帳や株券などが手元にないケースが増えている。わたしも、ネット上だけで取り引きしている銀行が3つある。もし、交通 事故などの不慮の事故で死んでしまったら、こうした口座にあるお金はどうなるのだろう?
 身寄りがない人や、ネットを利用したこともない家族が残された場合は、そうした故人の電子化された遺産を洗い出すことは困難だ。遺族が申告をしなければ、銀行は何もしてくれない。その口座は放置されて、ある期間を過ぎれば、その預貯金は銀行のものになってしまうのだろうか。おそらく、これは表に出ないだけで、すでに大きな社会問題になっているはず……だと思う。こうした遺産の“横領”が、ネット銀行の大きな収入源になっていると考えるのは、素人の老婆心だろうか。
 次兄のアパートの部屋には、3時間余りいた。ドアを開けたままで作業したのだが、真夏の暑さの中、空気の通 りが悪いので、部屋の空気は瘴気のようによどんだままだ。なるべく考えないようにしていたが、この部屋で兄は朽ちて干からびたのだ。帰路につくときは疲労困憊、生気をすっかり吸い取られてしまった。荷物の梱包や宅急便で送る手続きは、月曜日の火葬のあとで、再訪してやることにした。
 翌日の日曜日は、持ち帰った書類やノートパソコンの中身を調べた。電気、ガス、水道、電話、インターネット等々、使用中止を告げなければいけないところがたくさんある。銀行には当分、連絡しないことにした。死亡がわかるとすぐに口座を凍結されてしまうので、自動引き落としや振り込みができなくなって面 倒なことになる。
 パソコンに保管されているメールは、19日のものが最後だった。それ以降は、メールのチェックをしていないということになる。もともと毎日はチェックしていなかったのかもしれないが、具合が悪くてパソコンの前に坐ることができなかったということも考えられる。23日に死亡したと推測されるので、4日の空白がある。その間に、何かあったのだろうか。
 受信トレイには、大量のジャンクメールがそのまま放置されていた。やはり、根っからの不精者だ。最初のうちは、一つ一つチェックしていた。探していたのは、金融機関からのメールだ。ネット専用の銀行や証券会社を利用しているのであれば、何らかの連絡が定期的に入っているはずだと思った。
 そのうち、コツを覚えた。未読のものは太字のままなので、すべてジャンクメールだ。細字になった既読のメールだけをチェックすればいいのである。結局、金融機関からのメールはなかった。部屋の中にあった通 帳やキャッシュカード以外の銀行との取引はないようだ。
 たまにある既読のメールは、仕事関係やネット販売のものばかり。友人や知人からの個人的なメールは、一通 もなかった。部屋の中を整理したときも、そうした類の手紙は見つからなかった。高校時代の同窓会の案内状が、出欠のハガキを入れたまま放置されていた。
 徹底した孤独振りである。頭の良い人だったから、自分の苦手な分野で気張っても益なしと、とうの昔に人間関係をバッサリと切り捨てていたのだろう。その潔さに、羨望さえ覚えた。わたしには、そんな強さはない。人付き合いが苦手で嫌いなくせに、独りぼっちになるのが怖くて、人混みの中に紛れ込んで、一丁前の社会人面 を装っている。そして、いつの間にか人間関係の糸に絡み取られ、身動きが取れなくて汲々としている……。
 みんなは、兄の死を孤独死だという。誰にも看取られずに独りで死んで、かわいそうだという。しかし、兄は、自分で孤独を選択したのだと思う。少なくても、そういう情況を、環境を、そんな自分を、ひよることなく、愚痴ることなく、甘受した……。
 独りで生きることがどんなに寂しいことか、人間関係を築かずに食べて行くことがどんなに難しくて厳しいことか、少しはわかっているつもりだ。あの煙草のヤニでくるまれた洞穴のような部屋は、俗世間から自分を、いや自分の生活を護るためのシェルターだったのかもしれない。55年の生涯は、兄にとっては長かったのか、短かったのか。
 わたしは今でも、老親に背を向けた兄を許していない。 だが、その生き方や人生には、少なからず、共感と尊敬の念を抱いている。兄の死は、孤高死である。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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