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 アリセプトという薬がある。現在、日本で認可されている認知症薬はこの薬だけなので、多くの患者さんに投与されている。調剤薬局で働いているわたしも、接する機会の多い薬なのだが、病根を治す薬ではなく、症状の改善や進行の遅延が主な目的なので、劇的な効果 が期待できるものではない。他に治療法がないからとりあえず服薬、あるいは、副作用も出ていないからなんとなく継続、といった、どちらかというとネガティブな印象を抱いていた。
 今年の2月で86歳になったわたしの父親は、去年の春先に体調を崩した。めまいの症状がひどく、足許がふらついて外出することができないので、ほとんど家に籠もっていた。近所にある大きな病院にしばらく入院して、徹底的に検査を受けたのだが、原因不明で退院してきた。歩くことがおぼつかなくて、体の片側半分の感覚がおかしいのだが(お風呂に入っても半身が温かさを知覚できないという)、検査結果 がノーマルだと医者は冷淡だ。患者の訴えよりも、検査の数値の方を信頼しているような気さえしてしまう。
 母親の往診に来てもらっている開業医の先生に診てもらったら、不整脈が見つかって、めまいの薬と一緒に血栓を予防する薬を飲むようになった。不整脈の原因である心房細動によって血栓(血の塊)ができやすくなり、それを放置しておくと脳の細い血管を詰まらせて脳梗塞を引き起こすリスクが高くなる。父親のひどいめまいやふらつきも、そうした小さな血栓が脳に影響を与えている可能性がある、というのが先生の見立てだった。
 めまいやふらつきはある程度、回復して、日常生活を送れるようになったのだが、家に閉じ籠もってほとんど人と接していないので、言動に痴呆の症状が出るようになった。もともと趣味というものを持たず、交友関係も乏しかったので、唯一の気晴らしが近所にある家庭菜園の農作業だったのだが、体調不良でそれもできなくなった。
 では、家族でフォローすればいいのだろうが、それが難しい。我が儘で我の強い人なので、何を言い出されるかわからないという警戒心、いや恐怖心が子供の頃から染みついているので、そばにいるとはなはだ居心地が悪い。さわらぬ 神に祟りなし、といったスタンスで、いつも腰が引けている。認知症には会話が効果 的、とはわかっていても、正直、話すことが何も思い浮かばないのだ。
 開業医の先生に相談すると、認知症の簡易テストを受けることになった。「改訂長谷川式 簡易認知症スケール」というもので、30点満点で20点以下だと痴呆の疑いがあるとされる。結果 は、たったの3点だけ。自分の名前や年齢までもわからなくなっている。これはもう立派な認知症だということになって、前出のアリセプトを服用することになった。
 正直、あまり期待はしていなかったのだが、父親の病状に適していたのか、よく効いたのである。呆けたような顔に感情が戻って、言動もしっかりしてきた。頭の働きがよくなると、たまには外出して気分転換をしたくなるのだろう。今年の3月になって、季節が春めくと、車での買い物に同行するようになった。毎週、日曜日に郊外の大手スーパーで食料をまとめ買いするのだが、父親が料理番をしているときは、買い物の主役は父親だった。父親が体調を崩してからは、わたしが炊事をするようになって、買い物も一人ですませていた。
 その日は、いつも父親が愛飲しているブランドのインスタントコーヒーの特売日だった。父親は、チラシでそのことを調べていたようで、特売品のインスタントコーヒー2瓶を、わたしの買い物かごに入れた。一人、1瓶だけという制約があるので、2瓶まで。しかし、父親はそれとは別 に、 自分でも1瓶を手にすると、わたしとは別のレジでちゃっかり会計をすませている。わたしが精算するときは、そのコーヒーをポケットの中に隠して、わたしのそばに立って二人いるということをレジ係にアピール。つまり、特売品を余分にせしめたわけだ。
 庶民のせこい倹約術で、とりたてて書くこともない日常風景なのだろうが、わたしにしてみれば感慨深い出来事だった。名前も答えることができなかった認知症患者が、ここまで回復したのである。もっとも、父親は昔から小銭にうるさい吝嗇家で、性格に根ざした“本能的”な行為だと言えなくもないのだが。
 その買い物の帰り道、父親を墓に誘った。昨年、次兄が急逝して、四つあった墓石を累代墓として一つにまとめ、新しい墓を建てたのだが、我が家ではわたし以外、誰も見ていない。父親は体調が悪く、母親はくも膜下出血の後遺症で6年来の寝た切り状態、長兄はこうした家の面 倒事には無関心。こんな立派な墓ができましたよと、父親に見せて安心させてやりたいという思いがあった。機会を逃すと、新調した墓を見ることなく、鬼籍に入ってしまうのではないかという危惧もあった。
 買い物で疲れたのか、渋る父親を説得して、墓地の坂道を上がった。 舗装されていないので、風雨でかなり傷んでいる。足許がおぼつかない父親の背中を支えるようにして、どうにか我が家の墓までたどり着いた。反応はさしてなかったが、唐突に、お母さんも連れて来てやればいいと言い出した。車椅子では無理だよと言うと、裏の山の方に道があって、そこなら車椅子でも通 れるという。じゃあ、確認するために、その山道を通って帰ろうということになった。
 いやはや、大変な道だった。登山道のような急坂ではないが、山土を踏み固めただけの細い道で、とても車椅子を押して行けるような道ではない。 距離もけっこうある。ようやく開けた場所に出ると、そこから車が通れそうな道が延びていた。疲れの出ている父親を残して、わたしが車をとって来ることにした。
 車を停めてある場所まで走った。急ぐのには理由がある。父親は、おとなしく待っているような性格ではないのである。子年生まれだからではないが、せわしない性格だ。病的な、という形容詞がつくほどの、ひどい短気なのである。この地方では、そういう人のことを「イラ」とか「イラチ」という。イライラする人の略なのだろう。
 以前に、同じように父親を待たせて車を取りに行ったことがあるのだが、帰って来ると父親の姿がない。 完成したダムのお祭りに来ていて、また買い物でもしているのだろうと、会場を一周してみたがどこにもいない。ひょっとして、と最初に車を停めていたところに戻ってみると、父親が不満そうな顔で待っている。車を取って来るまでの僅かな時間が待てなくて、違う道を通 ってこっちに向かったらしい。
 車に乗っていても、目的地が近づくと、ドアの取っ手に指をかけて、すぐに飛び出せるように待機している。車がまだ動いているときに、ドアを開けたこともある。赤信号で停まったら、どうして停まるんだと不思議そうな顔で言われたことがある。確かに、車の往来がない田舎道だったのだが……。
 母親の介護でも、手伝ってくれるのはありがたいのだが、自分勝手に暴走してしまう。あれは母親が退院してきた日のことだ。車椅子からベッドに移動して、母親がゆっくりと上半身を倒そうとしていたときだ。父親の手が母親の額に伸びた。熱でも心配しているのかな、と思っていると、そのままムンズと額を掴んで、頭を枕に押しつけた。母親のゆっくりした動作が我慢できなかったらしい。
 オムツ交換をしている最中にも、自分が用意したおしぼりで母親の手を拭こうとしたり、飲み物や薬を飲ませようとしたりでせわしない。車椅子に移乗して、食事を摂れる体勢が整うまでの時間が我慢できないのだ。さすがにこれには閉口して、何度も口論になった。こうしたエピソードはいくらでもあって、腹立たしい思いをしてきたのだが、今となってはそれも懐かしい。父親が体調を崩してからは、行動範囲も狭まって、こうした父親のイラに悩まされることも少なくなった。
 話が脱線してしまった。車で山道の空き地に向かう途中で、やはりというか、ヨタヨタとおぼつかない足取りで降りてくる父親の姿が見えた。できれば空き地まで行ってから車をUターンしたかったのだが、仕方がない。父親を拾って、そのままバック走行した。車の往来で轍の部分がへこんだのか、中央部分がやけに盛り上がっている悪路だった。車高の低い軽なので、車底がこすれないように、なるべく道の端を通 るようにした。それが間違いだった。
 ガクンと車体が傾いた。草が生い茂っていたので、端にある溝の様子がよくわからなかった。昨日の雨で土がぬ かるんでいるので、ずるりと後輪がすべって溝にはまってしまったのだ。脱出しようとエンジンを吹かしたが、車輪が空回りするばかりで、ますます車体が傾いてくる。このままでは横転してしまうと、父親を促して車の外に逃げ出した。
 そのあと、車を購入したディーラに携帯電話で救援を要請して、どうにか脱出できたのだが、やれやれである。家に帰って、急いで昼食の準備をしてるとときに、ディーラーの車で先に帰宅していた父親が、母親に話している声が聞こえてきた。
「 山の方から墓に行けるのがわかったよ。車椅子でも大丈夫だから、お母さんも行けるよ」
 おいおいと思ったが、何も言えずに苦笑を浮かべるばかりだった。こうした自分勝手な思い込みは、父親の我が儘な性格ゆえなのか、それとも認知症の影響なのか、わからないのである。
 


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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