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 最近の気になる出来事は、高齢者の所在不明問題。あらためて説明する必要もないと思うが、東京・足立区で、生存していれば111歳であるはずの男性が、ミイラ状の遺体で発見された。自宅で一緒に暮らしている家族が、30年以上も死体を放置していたという猟奇性が話題を呼んで、マスコミが一斉に食いついた。その結末は、遺族年金の不正受給による詐欺罪で、娘と孫娘が逮捕されている。
 その後も続々と“迷子”老人が発覚して、法務省の発表によると、戸籍上は生存していながらも所在不明の100歳以上老人は全国で23万人を超えるという。地方の都市が一つ、消滅してしまうほどの人数で、100歳以下の高齢者を含めると、いったいどれくらい数字が膨れ上がるだろうか。この話題を取り上げて、テレビでコメンテーターなる文化人が、「日本の家族制度は崩壊した」などと、したり顔でのたまっている。本当にそうだろうか?
 不明老人の中には江戸時代生まれの人物(幽霊?)もいるようで、これらは行政の怠慢である。戸籍担当者が疑問に思っても、ほじくり返すと面 倒なことになると放置している。お役所仕事の典型だが、当人にとっては慣例に従っただけのことで、わたしが担当者だったとしてもそうするだろう。大きな組織の慣習に逆らうには、それこそ大いなる覚悟が必要だ。ただし、年金の不正受給が絡んでいるとなると犯罪で、税金が騙し取られるわけだから、面 倒くさいではすまされない。
 じゃあ、行政の怠慢や記録ミスではなく、年金狙いの詐欺でもない不明老人はどこに消えたのか? 都会を歩いていると、ご本人たち、あるいはその予備軍に出会えるではないか。ホームレスの人たちである。何らかの事情で、故郷や家庭を捨てた人が、たくさんいる。そういう人が死ねば、「行旅死亡人」となる可能性が大きい。行旅死亡人(ぎょうりょしぼうにん)とは、氏名や住所、本籍地などが判明せず、遺体の引き取り手もいない死者のことだ。NHKの調べでは、年間3万2000人にのぼるという。
 家族がいなくなっても、捜索もせずに放置していた。だから、現在は家族の絆がなくなって、家庭が崩壊している――、とマスコミや評論家は短略的に結論づける。一所懸命探した家族もたくさんいるだろう。それでも見つからなくて、帰って来るのをずっと待っていた家族もいるはずだ。本人の意思を尊重して、あえて探さなかった家族もいるだろう。あるいは、本人がトラブルを起こして出奔したケースなどは、怨恨が残ってしまい、一緒に暮らしたいなどとは思わない家族もいるだろう。それこそ、“お家の事情”は千差万別 である。
 最初の事件があまりに猟奇的でセンセーショナルに報道されたので、すべての行方不明老人が同じようなイメージを持たれてしまったようだが、足立区の事件は特殊ケースであり犯罪である。そもそも、遺体の放置は30年以上も前から始まっているのだから、家庭崩壊うんぬ んで言えば、30年以上も前にすでに家庭は崩壊していたことになる。
 時代は変わってしまっている。もはや、サザエさんのような温かい家庭は希(まれ)であり、幻想になってしまった。同じ家に住み、同じ食卓を囲む。それが当たり前であり、そうするしかなかった時代には、誰も文句を言わなかった。いや、言えなかった。今は、自分だけの部屋を持ち、自分の好きなものを食べられる時代になった。何かを得れば、何かを失う。便利さや贅沢、自由さを得た代償に、家族の絆が薄まってしまったのは必然のことなのだと思う。
 NHKで放映された「消えた高齢者“無縁社会”の闇」という番組が話題になっている。消えた高齢者を個別 に追求して、その多くの人が地縁や血縁など社会とのつながりを失ったまま“無縁化”しているという実体を明らかにしている。丹念に取材した労作で、このまま無縁化した高齢者を放置していてもいいのかという視点で、現状の取り組みや今後の問題点を詳細にレポートしている。
 無縁化した老人の悲惨な末路に、不安や恐怖を覚えた人も多いのではないか。しかし、冷静になって考えてみると……、独りで暮らすことが、そんなに辛いことだろうかと反発心も芽生えてくる。人生経験を重ねているうちに、独り暮らしの気ままさや自由さを、積極的に、あるいはそれが消去法だったとしても、自らの意志で選択した人も多いはずである。その代償として、老後の不安や孤独のリスクを背負うのは、ある程度、仕方がないではないか。歳を取れば、心身は老朽し、友人も少なくなって社会性は退化してくる。これは、独り暮らしの老人に限ったことではないだろう。老いるということは、いかに言葉を取り繕ってみたところで、哀しいことなのだから。
 わたしが高齢者になって、独り暮らしをしていると仮定する。茶飲み友達ぐらいは欲しいと思うが、積極的に交友範囲を拡げたり、過去の親交を無理に継続したいとは思わない。不得手な対人関係に煩わされることなく、興味のあること、楽しいことに、残り少ない時間を費やしたい。わたしには子供がいないので、自分の介護のことで子供たちに迷惑をかける心配や気遣い、負い目も存在しない。
 たぶん、その頃には近親者もいなくなって、独りで死んで行くのだろうが、その後始末のための葬儀代ぐらいは遺しておきたいと願うが、経済的に困窮してすべて食いつぶしているかもしれない。そうなると、世間に迷惑をかけることになるが、幸いなことに本人はすでに旅だったあとのことだ。自分がどんな葬られ方をしようが、興味はない。そして、そんな終末を迎えたとしても、世間の人がどう感じるかは別 にして、自分が惨めだとは思わないのである。
 中村雅俊の往年のヒット曲に「ふれあい」という歌がある。その歌詞に「ひとはみな一人では生きてゆけないものだから」というフレーズがある。時代は変わってしまった。一人でも生きてゆける、一人でも生きてゆかなくてはならない、そんな時代になってしまっている。それを正当化するつもりも、肯定するつもりもないが、それが現実なのだとわたしは思う。
 なんだか批判的なことを書いてしまったが、NHKの「無縁社会」を見ていて、身につまされる場面 があった。両親の介護のために、会社を辞めざるを得なくなった中年男性の“犯罪”である。母親が癌にかかって、高額の医療費で貯蓄が底をつき、やがて母親は亡くなってしまう。それを追うように妹が病死。取り残されたその男性と父親は、家のローンを抱えながら、父親の年金だけを頼りに細々と食いつないでいる。
 経済的に苦しくても、認知症の出た父親を一人にして、外に働きに出ることはできない。そして、父親が急死。唯一の収入源である父親の年金を打ち切られては、家のローンを払うことも食べてゆくこともできない。かくしてその男性は、父親の遺体を二階に安置したまま、年金を受け取り続けた。数カ月後、父親の姿が見えないことを不審に思った近所の人が警察に通 報、男性は年金の不正受給で逮捕された。
 母親の介護のために仕事を辞めて帰省したわたしと、家庭環境がよく似ている。今はわたしの父親も、認知症を患っている。幸いなことに、我が家には家のローンはなく、今のところ、経済的に困窮しているわけではない。しかし、自分のことも含めて、この先、どんなことが起きるかわからない。明日は我が身、介護される老人だけではなく、介護している家族に対しても、何らかのセーフティネットを整備してほしいものだ。
 今の制度では、介護されている人が亡くなれば、介護している者は何の援助もなく社会に放り出されることになる。介護生活で疲弊して、自分の将来のことなど考える余裕もない人もいるだろう。そうでなくても、中高年者の再就職は困難だ。たかが金、されど金である。金ごときで潰されるのは、やるせない。放蕩や怠慢のツケならば自業自得で仕方がないが、一生懸命、両親を看取った結果 がこれでは救われないではないか。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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