亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る

前回次回

 我が家には、大きなイチョウの木がある。父親が耕作している畑の中で、野菜のために与えた肥料をたらふく喰って、すくすくと育っている。開けた場所ならば問題はないのだが、その畑が住宅地の真ん中にあるために、いくつか面 倒を起こしている。これ以上、大きくなると日差しを遮ってしまい、秋には大量 の落ち葉が発生する。イチョウの落ち葉は下に落ちるので、風で遠くまで飛ばされることはないが、それでも周囲の道路や溝を、真黄色に覆い尽くしてしまう。
 それから、大量にできる銀杏。店頭で売っている、白い殻に入った実しか知らない人にはわからないだろうが、銀杏の果 肉はとても臭いのだ。例えるならば、糞尿の臭い。オレンジ色に熟した果肉の中に、白い殻に入った種が入っている。その銀杏の実を取り出すためには、果 肉を洗い落とす作業が必要なのだが、これを家でやられると、その臭いがいつまでもこもって、肥溜めのそばで暮らしているような気分にさせられる。
 父親が元気なときは、こまめに銀杏の実を拾って来ていた。それを、親戚や知人に進呈するのだが、正直、あまり歓迎されてはいないようだった。銀杏の調理法と言えば、茶碗蒸しや煮物に入れるぐらいで、少量 あれば事足りる。大きな袋いっぱいに貰っても、使い道に困ってしまう。酒飲みならば、銀杏の実を炒って酒のツマミにするという手もあるが、父親も含めて我が家の血脈には下戸が多い。
 では、大量に余った銀杏をどうやって処理していたかというと、銀杏ご飯。豆ご飯や栗ご飯のように、お米と一緒に炊き込んでしまう。秋になると、毎日、毎日、この銀杏ご飯を食べることになる。ネットで検索すると、銀杏ご飯のレシピが出てくるので、昔からある調理法なのだろうが、たぶん、父親は銀杏ご飯のことを知らなかったのだと思う。処分に困って、「ええい、それならご飯と一緒に食べてしまえ」となったのではないか。母親が寝たきりになって、父親が炊事を担うようになってから、銀杏ご飯は登場した。
 味はそこそこ。少し苦みはあるが、淡泊なので、ご飯と一緒に食べてもさほど違和感はない。ただし、粒が大きいので、次第に飽きてくる。正直、白飯の方がありがたい。そう思うのはわたしだけではないようで、冷蔵庫に残った冷や飯は、銀杏の数が目立って多くなっている。みんな、銀杏を避けてご飯をよそっているのだろう。
 こんなにたくさん食べても大丈夫なのかという懸念もある。イチョウは中国原産で、銀杏は古くから栄養豊富な強壮剤として利用されてきた。あの独特の苦みの成分は「アルカロイド」で、強壮、強精の効果 があると言われている。ただし、多くのサイトで、食べ過ぎは良くないと書かれている。「銀杏中毒」という言葉もあるようで、ひどいときには死に至る……、まあ、これは大量 に食べたときで、銀杏ご飯ぐらいでは問題はないのだろうが、それを毎日、摂り続けた場合はどうだろう。イチョウの葉には、強心作用があると言われているが、父親が不整脈を患ったのは、銀杏の食べ過ぎが影響している?
 父親の足腰が弱って、また、認知症の症状も出てきて、なかなか畑に行くことができなくなった。それで、畑の草取りなどの作業を頼まれることが多くなったのだが、昨年の春先あたりからイチョウの木を切ってくれと言い出した。以前から、父の弟である叔父から、早めに処分しておいた方がいいと忠告されていたが、ようやくその気になったようだ。大きな木なので、専門の業者に頼む必要がある。だが、大きな問題がある。畑に入る路地が細くて、軽自動車ぐらいしか乗り入れることができないのだ。
 どうしてこんな住宅地の中に畑があるかというと、元々は貸家が何棟か建っていたのだが、老朽化して取り壊した。「モグリの業者に頼んだら、壊すだけでさっさと引き上げてしまって往生した」とは何度も聞かされた 父親の愚痴である。当時はまだ薪で風呂を焚いている家がかなり残っていて、材木だけは焚け付けに近所の人が持って行ってくれて助かったそうだが、大量 の瓦礫が放置された。それを父親が一人でコツコツと取り除いて畑にしたのだが、土地の片隅にはいまだに古瓦の山が残っている。
 叔父から、「車が入らないので手作業になるから、かなり費用がかかるよ」とおどかされていたこともあって、伐採を先延ばしにしていたら、父親に何度も催促された。 言い出したら、それを済ませないと気がすまない性格なので、しつこいのである。それでも、葉が落ちてからが作業がしやすいだろうと、晩秋になるのを待っていた。冬になると雪の問題がある。
 秋になって、叔父を通して、森林組合の人に伐採の見積もりを出してもらうことにした。相手にとっては片手間仕事なので、いつでもいいですよと期限を切らなかったせいか、なかなか連絡がこない。そうこうしているうちに、父親がまたイチョウの木のことを言い出した。認知症のせいで、なかなか言葉が出なくなっていて、とくに物の名前で苦戦する。叔父に電話しろというので、イチョウの木のことを言っているのだと理解できた。
 実は、以前から思っていたことがある。自分の手で切ることはできないだろうか。叔父に、そのことをほのめかしたことがあるのだが、危ないから止めろと即座に忠告された。もともと高所恐怖症気味で、高い場所に立つと足が竦む。でも、少しずつ切っていけば、なんとかなるのではないか。
 家にあったロープとノコギリを持って、畑に向かった。物置にあった脚立を伸ばして梯子にして、イチョウの木に立てかけた。梯子を上って、下の枝だから切り始めた。かなり時間がかかったが、どうにか枝を切り落とすことができた。こうして下から順番に枝を落としていけば、最後に棒のような幹が残る。それを上から切っていけば、大きな木でもなんとかなるのではないか。
 太い枝の根元に跨るようにして、作業を続けた。不安定な場所では、ロープで体を木に拘束するような感じで、安全と安心を確保した。ノコギリを持つ両腕がだるくなって悲鳴を上げたが、感触は上々だった。一時間ほどで、かなりの枝が落ちた。だが、問題はノコギリである。もっと大きなノコギリでないと、太い枝や幹を切断することは至難だと痛感した。
 日を改めて、刃物専門店で、折り畳み式のノコギリを購入した。店の人の説明では、木工用のノコギリは歯の目が小さ過ぎて、生木の粘り気のある木屑がへばりついて目が詰まってしまう。庭木用の歯の目の大きなコノギリを購入したが、値段が三千円弱で、思ったよりも安かった。イメージしていたのは、木こりが使うようなでかいノコギリで、業者に頼むことを思えば安いものだと、かなりの出費を覚悟していたのだが、それ以上の大きさなサイズは置いていなかった。考えてみれば、木の上の高い場所で作業するのだから、あまり大きなノコギリでは持て余してしまう。ベルトにつける鞘付きなのもありがたい。
 再度、伐採に取りかかった。やはり、庭木用のノコギリはよく切れる。同じストロークでも、切れる速度がまるで違う。順調に枝を切り落としていったのだが、それは次第に高い場所に上ることを意味している。ちょうど木の半分ぐらいの高さで作業しているときに、近所の奥さんに声をかけられた。
「大変ですね」
「ええ、まあ。これ以上、大きくなると、みなさんにご迷惑ですから」
「クレーン車が入れると楽なんでしょうがね。ちょうどうちに植木屋さんが来てるのですが、相談してみたらどうですか?」
 どうやら、傍から見ていると、わたしの行為はかなり危なっかしいらしい。無理もない。ジャージ姿の初老の男が、いかにも素人といった動作で、高い木の上で作業しているのである。
「ありがとうございます。やるだけやって、だめなようなら相談させてもらいます」
 そう言っても、心配そうに見上げている。
「落ちないようにロープで体をしばってますから。安全第一で、のんびりやりますよ」
 それでようやく、見逃してくれた。
 腕はパンパンになまっていたが、作業は順調だった。いよいよ本番、幹を切ろうと思うのだが、上にはかなりの枝が残っている。それが頭の上に落ちてきたら無事にはすまない。もっと枝を落としたいところだが、幹が細い場所での作業は足場が安定しない。
 意を決して、ノコギリの歯を幹の木肌に噛ませた。太い幹は、やはり力がいる。切り口が深くなると、万力で挟まれたように、ノコギリが動かなくなってしまう。ゴリゴリとノコギリを引っこ抜いて、歯の間に挟まった木屑を払い、少し角度を変えて切り始める。半分ぐらい刻んだところで、今度は反対から歯を当てた。苦戦しながらも、そろそろかなというところまで切り進んで、幹を手で押してみる。ビクともしない。もう少し切って、また押してみる。頭に倒れてきてはたまらないので、この作業を何度か繰り返した。
 おかしい。もう倒れてもいいはずだがな、と思って、今度は足の裏で幹を蹴り上げた。ミリミリと生木が裂ける音が響いて、目の前の幹が倒れていった。大きな地響がした。急に視界が広がって、青空が見えた。しばし休憩して、考えた。予定では、もう二回ほど幹を刻むつもりだったが、腕や肩の疲労は限界に近い。
 一気に三分の一ぐらいの高さまで降りて、ノコギリの歯を木肌に当てた。当然、幹も太くなっている。力を入れすぎると、すぐに歯が食い込んで、ノコギリが動かなくなってしまうので、小さく刻むようにノコを引いた。時間をかけて、角度を変えて、また切り口を変えて、我慢強くノコを引いた。それが延々と続いたのだが、とうとう……。
(やれば、できるもんだよなあ)
 畑の上に転がっている大きな丸太を見下ろしながら、そう思った。少し、感動していた(苦笑)。
 地面に降りて、畑に散らばった枝を片づけているときに、作務衣姿の男性に声をかけられた。年齢は、六十後半から七十前後ぐらいだろうか。
「よく切っちゃったね」
「やってみたら、意外と簡単でした」
 強がりもあるのだが、正直な気持でもあった。大変ではあったが、イメージしていた通 りに伐採できた。
 その男性は、近くで市民ギャラリーを運営している方で、切り残したイチョウの木材を所望された。二、三メートルはあるだろうか。絵の額の材料に使うのだという。切り口の木肌を見ると白くなめらかで、確かに上品な額ができそうだと思った。
「これだけの大きな木は、なかなか手に入らないんでね。でも、お金は払えないよ」
 自分で伐採して運搬することを条件に、快諾した。最初は、切ってくれるとありがたいと言われたが、そんな気力、体力は残っていない。昼食の支度をする時間も迫ってきていた。それに、根元から切り倒すとなると、今度こそチェーンソーが必要になるだろう。男性は、知り合いの業者に相談してみると言われた。
 これでようやく父が納得してくれる。意気揚々と引き上げて、父親に報告した。笑顔ではなく、顔をしかめた。
「切ってはいけんかった」
 呂律が怪しいが、確かにそう言っている。そして、明らかに怒っている。
 いつの間にか、心変わりしていたらしい。この前、イチョウの木のことを言いだしたのは、切らなくてもいいという意思表示であり、叔父に電話して伐採のキャンセルを伝えてほしいという意図であったことが、そのあとのやりとりでどうにか理解できた。心変わりの理由は、今でも不明である。
 さすがにブチ切れて、口論になった。くそジジイである。昔から少しも変わっていない。いや、変わりようがないのだろう。気持を抑えることができなかった。そして、苦い思いだけが残った。年寄りと喧嘩して、良いことは一つもない。相手に非があったとしても、いじめているようで、気分が滅入ってしまう。
 まあ、いいか。こうしてエッセイが一つ、書けたのだから。しかし、この父親ネタは、まだまだたくさんあるのである。    


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆ 「風に吹かれて(26)」の感想 (掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る