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  久しぶりに、ネズミのことを書こうか。「風に吹かれて(21)」で、ネズミ捕りにかかっていたハツカネズミを殺すことができずに、飼い始めてしまったことを書いたが、その後日譚。
 わかっているつもりだったが、ハツカネズミが野生動物だということを思い知らされた。馴れるということがない。わたしが姿を見せると、すぐに自分の巣に逃げ込んでしまう。その巣も、ハムスター用の飼育カゴに付属していたプラスチック製の家ではなく、床に敷いたオガ屑の中にもぐりこんで、隠れ家をこしらえてしまった。夜行性なので、日中はその穴倉に籠っている。
 日が暮れると、巣穴から這い出して、活発に動き出す。照明を、常夜灯の豆電球だけにして観察するのだが、かなりすぐそばまで近付いて眺めていても、ネズ公は気づかない。ネットで検索して、ハツカネズミは過度の近眼だという情報を得ていたのだが、どうやら本当のようだ。
 警戒もせずに、チョコマカと動き回る姿は愛嬌がある。とくに、大きく背伸びをして、ゲージの透明なプラスチックの壁を調べているときは、白い腹部が丸見えで、愛くるしい。もともとNHKの動物番組なんかが好きで、よく観ていたのだが、こちらはライブで、見飽きることがない。

 

 しかし、食べたり飲んだりしているとき以外は、逃走経路を懸命に探しているのがよくわかる。このゲージの中には、仲間も自由もないからだ。諦めることなく、毎夜、毎夜、動き回っている。遊びの部分がまったくない。ときどき、飼育カゴの上で立ち上がって、遠くを眺めていることがある。体から哀愁が漂っている。家族のことを想っているのだろうか。見ているこちらまで、なんだか切ない気分になってくる。
 もう一匹、捕まえて、パートナーとして同居させてやるか? 何を馬鹿なことを考えているんだ。子供が産まれたらどうする? ハツカネズミのハツカは、妊娠期間が二十日ぐらいだからという説が有力で、しかも多産だという。たちまち狭いゲージの中がネズミだらけになってしまう。もしも雄同士の組み合わせになったら、縄張り争いの死闘になるかもしれない。素人に、ハツカネズミの雌雄を見分けることは困難だ。
 プラスチック製のゲージに巣箱を換えて、もう逃げ出すことは不可能だろうと安心していたが、数日して、野生の能力を見くびっていたことに気づいた。これは、以前のエッセイにも書いたことだが、ゲージの中に入れている飼育カゴの天井の上に立って、ネズ公が精一杯、体を伸ばすと、ゲージの上蓋にかろうじて手が届く。尻尾まで使って、器用にバランスを取りながら、上蓋の裏の出っ張った梁の部分をガジガジとやり始めた。
 かなり離れていても、そのガジガジが聞こえてくる。まあ、蓋の裏側のことだから問題はないだろうと楽観していたのだが、ある朝、上蓋の通 気孔の部分に小さな穴が空いていることに気づいた。裏側から食い破ったのである。このまま放置しておいたら、穴が大きくなって逃げ出されてしまう。
 お菓子のプラスチックの容器を丸く切り抜いて、接着剤で穴を塞いだ。そして、飼育カゴを横向きにして高さを低くした。これで、飼育カゴの上に立っていくら背伸びしても、ゲージの上蓋には届かない。しばらくは、ゲージの天井をじっと見上げているネズ公の姿が目に付いた。体から哀愁が漂っている……。
 しかし、だ。夜半にガジガジという音が再び聞こえてきた。確認すると、ネズ公が上蓋の裏の角にへばりついて、ガジガジと齧っている。不安定な体勢なので、しばらくすると力尽きて転落した。オガ屑の上とはいえ、かなり大きな音がした。さすがに痛かったのか、しばらくその場に蹲っていた。懲りただろうと部屋に戻ると、またガジガジという音が聞こえてきた。飼育カゴの上から上蓋の裏にジャンプしたのだろうということは想像できた。そして、また転落する音。これでは、穴を空けるのは無理だろうと判断した。
 それから数日後、わたしの予想は見事に覆された。いつまでたってもネズ公が姿を現さないので、ゲージを調べてみたら、上蓋の角の部分にかなり大きな穴が空いている。逃走したのである。
 部屋に入られてはたまらないと、またネズミ捕りを仕掛けてみたが、今度は何も反応がない。以前に飼育カゴから逃げ出した時は、そのまま近辺をうろついていて、結局、またネズミ捕りで捕まえることができたのだが、今回は仕掛けた餌がそのまま手つかずで残っている。前回の失敗で教訓を得て、一目散に遁走したのだろうか。家族やパートナーの待っている場所に……?
 これで一件落着、ではエッセイに書く意味がない。二代目のネズ公が登場する。捕獲場所は、やはり台所。魚肉ソーセージを餌にしたネズミ捕りにかかっていた。ガリガリに痩せていて、初代のネズ公よりもかなり小さいという印象だった。まだ、子供なのかもしれない。
 こちらも教訓を得て、今回は飼育カゴを入れないことにした。これだと、ゲージの内部がシンプルすぎて、ネズ公が動き回る足場がなく、観察する楽しみが半減してしまうが、逃走を阻止するためには仕方がない。これだと、逃げ出すことは不可能だ、と思った。
 二代目のネズ公も、しばらくは家代わりに入れておいた空き缶の中に隠れていたが、数日もすると、床のオガ屑の中にもぐりこんで、自分の住処を確保した。やはり、食べているとき以外は、一生懸命、ゲージの中を調べている。ただし、初代とは雰囲気がかなり違っている。囚われの身の哀愁が、感じ取れないのである。子供だからだろうか。待っているパートナーがいない?
 悪戯で、ゲージの上蓋の空気孔から、自転車の車輪のスポークを刺し込んでみた。自転車のスポークが実家にどうしてあったのか、理由はわからない。道具箱の片隅に何本か転がっていたのを一本、失敬してきたのだが、先端の尖った長いスポークは、何かと役に立ってくれている。

 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を真似たわけではないが、その針金は、ネズ公にとっては外界への唯一の路である。はたして、細くて滑りやすい金属の支柱をネズ公が昇れるかどうかに興味があったが、まったく問題はなかった。スルスルとわけなく天辺まで到達すると、しばらく上蓋の裏の様子を探っていたが、本能に従うようにガジガジとやり始めた。そのまま穴を空けられては困るので、ガジガジに飽きたネズ公が床に降りるのを待って、スポークを引き抜いた。この遊びは、ネズ公がスポークを昇る姿がかわいいので、何度か繰り返した。
 スポークを刺し込まなければ、上蓋に到達することは不可能、と思っていた。しかし、またしても、ハツカネズミの野生の能力を見くびっていた。夜半に、またあのガジガジの音がする。まさかと思ってゲージを覗くと、まるで忍者のように、ネズ公が上蓋の裏にしがみついている。床から天井まで、優に30センチはあるのだ。どうやって天井まで到達した?
 しばらく観察していて、その秘密がわかった。力尽きたように落下したネズ公が、さほど時間をおかずにジャンプしたのである。天蓋に取り付こうとしたのだが、手がかりが得られなくて落下。しかし、何度かジャンプを繰り返して、上蓋の裏にしがみつくことに成功した。そして、ガジガジ。なんという野生の逞しさ……、と感心しているわけにはいかない。このままでは、遁走されてしまうのも時間の問題だ。
 あれこれと考えて、予防策をひねり出した。百円ショップで、洗濯用のネットを購入した。衣類が傷まないように、このネットに入れて洗濯する。それを、ゲージの上から被せて、その上に蓋をする。つまり、ジャンプしたネズ公をネットの網ではね返すのである。手がかり、足がかりがないように、網目が一番、細かいものを選んだ。
 白いネットが天井を覆っただけで、ネズ公は警戒したようだ。ジャンプすることはなく、天井を見上げている。しかし、どこかアッケラカンとしていて、初代のような哀愁は感じられない。わたしの主観もあるのだろうか。
 それから数日後、わたしは再び驚愕の朝を迎えた。白い洗濯ネットの上に、黒いゴマのようなものが点在している。すぐに、ネズミの糞だと気づいた。ネットの真ん中辺りが食い破られている。ネットの上に出れば足場があるので、あとはガジガジのやり放題。上蓋の端に、小さな穴が空いていた。しかし、遁走するにはまだ穴が小さすぎる。時間が足りなかった? 実際、ネズ公はゲージの中にいたのである。
 どうする? バーベキュー用の金網を被せることを考えたが、確かに天井は齧れないだろうが、今度はゲージの縁に穴を空けられてしまうだろう。洗濯用ネットよりも強い網で、その上に蓋を被せることができるだけの柔らかい素材……、ホームセンターで網戸用の網を安売りしているのを見つけた。これなら網目は細かいし強度もある。裁断も簡単にできる。
 今度は大丈夫だろう。ネズ公は、灰色の網に覆われた天井を見上げている。その姿が、なんだか不敵なものに見えた。虎視眈々と遁走経路を探っている?
 それから数日が過ぎた。わたしは、大学時代の学友に会うために、福島まで旅行した。そのときのことは「風に吹かれて(24)」に書いている。旅行前には、餌と水をたっぷり入れておいた。ネズミにも、好みがあるような気がする。初代は、バナナが好きだった。二代目は、食パンが好物である。ソーセージやハンバーグなどの欠片を一緒に入れておいても、食パンだけ食べている。雑食性だとはいえ、もともとは草食動物だということを、ネットで調べて知った。
 旅行で4日ほど家を空けていた。帰宅して唖然とした。ゲージの蓋の上には、消臭用の墨袋を置いている。和紙のような紙の袋に、竹墨が詰めてある。その白い紙の上に点在するネズミの糞、逃げられたのである。初代のときも、糞が散乱していた。1メートルぐらいのダンボールの上にゲージを置いているので、飛び降りるのに躊躇したのだろう。蓋の上に長時間、留まっていた証拠が、この糞なのである。
 当然のことだが、網戸の網は喰い破られていた。蓋の縁には、かなり大きな穴。やれやれだ。これ以上の予防策は思い浮かばない。このゲージで、野生のハツカネズミを飼うのは不可能だということだろう。
 仕方ないので、ゲージの掃除をすることにした。初代の時もそうだった。オガ屑を敷いてあるので目立たないが、かなりの糞尿が溜まっているはずである。
 屋上に行って、ゲージの中のオガ屑をポリ袋に入れようとしたときである。中からネズ公が飛び出してきた。逃げたのではなく、自分の巣に戻っていたのである。ネズ公も驚いたろうが、わたしもびっくりして、慌てて蓋をした。
 少し感動していた。逃げるチャンスがあったのに、ネズ公はゲージの中に戻って来た。愛着を感じてくれているのだろうか。考えてみれば、食と住処が保証されている。
 ネズ公のために、ゲージをきれいにして、住みやすくしてやろうと思った。部屋に帰って、魚採り用の網を持って来た。これも百円ショップで見つけたもので、夏場に部屋に飛び込んできた虫を捕獲するために購入した。山間にある町なので、蛾や昆虫が闖入してくることが何度かあった。ツバメが部屋の中を飛び回ったこともある。
 網でネズミを捕まえようとするのだが、ネズ公はゲージの中をチョコマカと逃げ回ってなかなか網の中に入ってくれない。そして、いきなりジャンプした。すごい跳躍力だ。一気にゲージの壁を飛び越えて、外に飛び出した。でも、広い場所に出たので網が使い易くなった。屋上の上のコンクリートを遁走するネズ公の上に、素早く網を被せて捕獲した。
「ちょっと待っていろよ。もっと住みやすくしてやるからな」
 網に絡まって暴れているネズ公を放置して、しばらくゲージの掃除に集中した。新しいオガ屑を敷き詰めて、空き缶 や水場の瓶もきれいにした。さあ、戻してやるぞと網の中のネズ公を見ると、観念したのか、蹲ったまま動かない。網を持ち上げて、ネズ公をゲージの中にそっと落とした。ネズ公は、まるでスローモーションのような緩慢な動作で、空き缶 の下に身を隠した。しかし、そのまま動かなくなった。
 ショックだったんだろうなと、ネズ公の気持を慮った。寝込みを襲われたわけである。ゲージを元の場所に戻して、ボロ布を上から被せてやった。時々、ボロ布をめくって様子を見るのたが、ネズ公は動かない。もしかして、死んだフリ? タヌキ寝入りという言葉があるが、死んだフリをして相手を油断させる? 一説には、恐怖で仮死状態になるのではないかとも言われている。
 夜になった。それでもネズ公は動かない。翌朝になっても、同じ格好のまま、しかも目を開けたまま微動だにしない。ひょっとして、本当に死んでいる? それが事実であることを確認するまでに、3日かかった。諦めるための時間でもあった。
 心臓麻痺でも起こしたのだろうか。しかし、ネズ公を網からゲージに戻した時は、確かに生きていた。あのスローモーションのような動きは、最後の力を振り絞ったのだろうか。あの逞しい野生のジャンプと、この呆気ない死に方とが、どうにも一致しないのである。
 ネズ公の亡骸は、屋上にある鉢植えの植木の根元に埋葬した。食べた梨の種を撒いておいたら、翌年に芽を出した。墓碑ならぬ 、墓木のつもり。合掌……
 さて、その後の我が家のハツカネズミたちであるが、台所で老父母の食事を作ってくれているヘルパーさんの前に出現して、大騒ぎになった。粘着式のネズミ捕りが仕掛けられ、かなりの数のハツカネズミが捕獲され、処分されている。今でも、ときどきかかっている。人間と害獣の立場に戻ってしまった。これも、浮き世の慣わしか。
 ネズ公との時間が、傲慢な人間の戯れに過ぎないことがわかっているのが、少し寂しい。これも倣岸な感傷なのだろう。    


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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