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 3月11日の東日本大震災のことを知ったのは、夜になってからだった。その日は、介護している母親がディサービスに出かけた日で、昼食を済ませた後で、隣町にある漫画喫茶に行って、くつろいだ時間を過ごしていた。その漫画喫茶には週一度のペースで通 っていて、いちばんの楽しみになっている。
 テレビのニュースで、大震災のことを知った。被害の全貌はまだ明らかになっていなくて、ニュースで発表される死者も数十人といった単位 だったが、震度や津波の大きさから、未曾有の大災害であることは明らかだった。そんなときに、のんきに漫画を読んでいた自分に後ろめたさを覚えたものだ。福島県のいわき市と宮城県の仙台市に友人がいたが、ご家族ともども無事であることがわかってホッとした。
 あれから二ヵ月余りの時間が経過している。被災地の傷痕はあまりにも惨く、大きく、未だに復興の目途は立っていない。とりわけ福島の原発事故の影響は深刻で、次々と想定外の事態が明らかになって、作業は遅々として進展してくれない。見えざる放射能は、風評という害毒をばらまいて、人々の心を汚染している。いわき市にいる大学時代の友人とは頻繁にメールのやりとりをしているのだが、地元の人たちの心労は、まさに筆舌に尽くしがたいものがある。
 東京にある「ふるさと暮らし情報センター」の来場者アンケートで、「移住したい都道府県」で福島県がダントツの1位 になったという新聞記事を読んだのは、去年の暮れだろうか。福島県には何度も行ったことがある。とくに友人のいるいわき市には再訪を重ねている。山や海の観光地、繁華街や温泉を堪能していたので、その記事を読んだときは、さもありなんと大いに納得したものだった。去年の10月にも、学生時代の遊び仲間がいわきに集まっている。今回の天災、人災を、誰が予想しただろうか。
 何かしなくてはいけないという焦燥感、そして、何もできないのだという無力感と罪悪感。わたしと同じように、日本中の人、いや、世界の多くの人たちが、鬱々とした日々を過ごしているのではないか。最初は、食い入るように見ていたテレビのニュースも、気分が落ち込むばかりで辛くなった。かといって、お笑い番組の白々しい哄笑に迎合する気分では断じてない。そして、何も書けなくなった。書くことは、無力である。書いても意味はない。そう思った。
 わたしが逃げ込んだのは、本の中だった。図書館では、好きな作家の作品はあらかた読み尽くしてしまったので、インターネットで古本を購入した。大手古本量 販店の購入サイトで検索すると、未読の作品が150円とか200円という安価な値段で紹介されている。しかも、単行本の方が文庫本よりも安いのだ。それだけ、単行本の古本の需要(人気)がなくなっているのだろう。
 樋口有介、東直巳、首藤瓜於、金庸……、届いた荷物を開けて見て驚いた。ほとんの本が美品である。まるで新品のように、帯がかかっている単行本も入っている。まだ東京で暮らしていた頃、一度だけ近所の古本量 販店に本を持ち込んだことがあるのだが、二束三文で買いたたかれて大いに憤慨した。もう二度とこんな店で売るもんかと固く誓ったものだが、買う方にとっては安価で欲しい本が手にはいるのだから、嬉しいしありがたい存在である。通 りかかると、掘り出し物はないかとつい寄り道してしまう。矛盾しているが、これが現実である。電子ブックの登場も含めて、出版業界の形体が変質、いや、たぶん進化しているのだろう。
 街角の小さな本屋や古本屋が立ちゆかなくなるわけである。寂しい気持もするが、じゃあそうした本屋で買い物をするかと自問してみると、かぶりを振ってしまう。雑誌ならコンビニに行くだろうし、新刊本ならネットで検索して注文するか、在庫の多い大きな書店に立ち寄るだろう。これは、他の小さな商店にも言えることだ。感傷だけでは長続きしないし、食って行けない。日本の街角から商店街が消えてゆくのは、自然の流れなのかもしれない。わたしの実家のある商店街も、すでに役目を終えてご臨終を待つばかり。わたしの実家の薬局も、シャッターを下ろして久しい。
 話が脱線してしまった。五十を越えて、読書にも体力が必要だとつくづく思う。二十代、三十代のときと、読み方が違ってしまった。集中力が持続しないのである。寝不足でもないのに、すぐに睡魔が襲ってくる。それに負けて、寝入ってしまうこともしばしば。読み続けていても、三十分ぐらいが限度だろうか。トイレに頻繁に行ったり、用事を思い出して、いや、無理にでも用事をつくって、読書を中断する。
 それから、記憶力が落ちているので、登場人物が多いものなどは頭が混乱して、こいつはどんなやつだったかなと、前の方を読み返したりすることも多くなった。昔は、なんでこんなものがあるのかなと不思議に思っていた登場人物の一覧を、ありがたく利用させてもらっている。
 読むスピードが落ちていることを気にしていたのだろう。速読に興味を持って、トレーニングの教則本を買ったことがある。しばらく試してみて、相当な訓練と時間と忍耐が必要であることを知って、早々に断念した。今では、速読をしたいという気持はとうに失せている。
 もったいないではないか。せっかくのご馳走を早食いしてどうするのか。速読が、単なる読み飛ばしの時間短縮法ではなくて、内容を深く早く理解するための読書法であることはわかっているつもりだ。本の内容を、濃縮ジュースのように 圧縮して脳内に取り込む、そんなイメージだろうか。同じ栄養を摂るにしても、食べ物の食感を大いに愉しみながら、時間をかけて味わいたい。本と共有する時間が、とても愛おしいものに感じられるのである。
 小説を読んでも腹はふくれないし、ましてや大災害の復興が早まるわけでもない。だけど、哀しみや苦しみに萎えた心を癒してくれる。元気にしてくれる。満たしてくれる。書くことは無力ではない、と今は思う。書いたものが無力……、これは書き手の力不足、努力不足。無力ではないものを、無意味ではないものを書きたいと、心から想った。本は、小説は、すばらしい。  


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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