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 少し前に草刈り機を購入した。芝刈り機のような手押し車タイプのものを連想する人もいるだろうが、金属の棒の先端部分に円盤の刃が付いたもの、と説明すれば、ああなるほどと頷く人も多いのではないか。取扱説明書には「刈払機」と記してある。田舎では、一家に一台、とまではいかないが、農家であれば当たり前のように所有している。畑や田んぼの土手、畦道の草刈りに威力を発揮する必需品である。
 棒の末端部分にあるモーターに、ガソリンとアルコールを混合した専用燃料を入れて、スロットルのレバーを引いてエンジンをスタートさせる。原理的には、バイクのモーターに似ているだろうか。爆音が響いて、アイドリングが始まると、棒の中間部分に取り付けられたハンドルのグリップで、回転速度を調節できるようになっている。
 このタイプの草刈り機には、ヤバイ話をいくつか伝聞していた。畑の草刈りをしていた息子が、畑仕事をしていた老母に気づかずに両足を薙いでしまった――、草刈り機が跳ね飛ばした小石が目に当たって失明してしまった――、等々。しかし、鎌でチマチマと刈り取っていては、何日かかるかわからない。躊躇しているうちに、草はどんどん伸びてしまう。新聞の折り込み広告で、草刈り機の特売会場が設けられているのを知って、出かけて行った。
 初めてでも大丈夫ですかね、と販売員の人に尋ねると、一瞬、怪訝そうな表情が浮かんだ。
「まったくの初めてですか?」
「叔父が使うのをずっと見ていたので、やり方はわかると思うんですが……」
 2万円弱の製品を購入することになって、簡単な講習を受けた。一度に覚えるには、脳が老化してしまっている。何度も質問するには、心が老化してしまっている。結局は、取扱説明書が頼りである。


<取扱説明書のイラスト>

 我が家では、近所に空き地&貸家を保有している。土地と貸家と書けば、優雅な家賃生活を連想する人もいるだろうが、この土地がわたしの頭痛のタネである。住宅地の真ん中にあるのだが、道路が整備されていないので、軽自動車がかろうじて入ることができる路地が通 じているだけ。その路地も、途中からさらに細くなっているので、車で通り抜けできなくて、来た道を引き返さなくてはならない。
 貸家も老朽化していて、二軒長屋タイプの建物が二棟、建っていたが、一棟は一昨年の大雪で屋根が崩落して取り壊した。専門の解体業者に依頼しなくてはならないので、その費用が90万円ほどかかってしまった。もう一棟には、借家人が二人、住んでいたのだが、一人はこの夏、出て行かれた。
 風呂の故障や床の破損、襖の修繕(敷居が摩耗してすぐに襖が外れてしまう)、雑草の除去等々、入居者サイドにとっては当然の要求なのだろうが、大家としては困ってしまう。そうでなくても家賃が安いのに、老朽化した家を本格的に修繕するとなると、費用がいくらかかるかわからない。貸してはいけない物件を貸してしまっている、それがわたしの判断で、その尻拭いをさせられているというのが正直な気持である。それで、専門業者に頼むしかないことは仕方がないが、できることは自分で対処することになる。その方が退去すると聞いたときは、正直、ホッとしたものだ。
 もう一人の借家人は、昔から住んでいる方で、かなりの高齢である。おとなしい方で、あれこれと要求することもなく、ひっそりと過ごされている。しかし、今年から家賃が滞るようになった。いつも自宅まで届けていただいていたので、何かあった? 気になって、家を訪ねたいが、そうなると家賃の催促ということになる。ぐずぐずしているうちに4月になった。ひょっとして、家の中で病死……、意を決して家を訪ね、顔を拝見したときはホッとした。家賃の催促もそこそこに、辞去したものだ。わたしは、日本でいちばん気の弱い大家かもしれない。
 その貸家の前の空き地は、別棟の貸家が建っていた場所で、雑草が伸び放題になっている。以前に、ここで家庭菜園をやりたいと言ってきた人がいたが、地中が瓦礫だらけなので断念された。他の場所は、父が苦労して瓦礫を取り除いて、畑をこしらえているが、体調を崩して農作業ができなくなって久しく、これも雑草が伸び放題。農作物のために肥料をやっていたので、とりわけ草も元気がいい。
 貸家も含めると、小さな小学校の校庭ぐらいの広さがあるだろうか。この一面 の雑草を前にして、気持が挫けそうになる。なんという凶暴な生命力なのだろう。万分の一でも、自分の中に取り込めたら、と羨んだ。動物のように、雑草を食用として利用できるようになれば、世界の食糧事情はかなり改善できるのではないか、そんなことを考えたりもした。
 去年までの草刈りは、父方の叔父に依存していた。農家を営む叔父の草刈り機は縦横無尽に活躍して、灌木の枝までスパスパと切断してしまう。まさにプロの匠の技である。しかし、いつも頼ってばかりはいられない。何度刈り取っても、草はめげずに背丈を伸ばしてくる。それに、イチョウの大木を切ったあとの後始末をする必要がある(「風に吹かれて(26)」参照)。切り取った枝が畑のあちこちに散乱して、その上を雑草が生い茂っている。
 で、こわごわと草刈り機のエンジンを始動したのだが、しばらく操作しているうちに、コツが飲み込めた、ような気がした。草刈り機を支えるバンドを襷掛けに肩から掛けて、先端の回転刃で右から左に草を薙ぎ払うようにハンドルを操作するのだが、自分の足を切らないように左足を引いたスタイルを保つ必要がある。もちろん、石が跳んできたときの用心で、付属のゴーグルで目をガードする。
 最初は、腕の力だけで振り回していたので、すぐに二の腕が疲れてしまったが、肩掛けのバンドに草刈り機の重さを委ねるようにして、振り子の要領でハンドルを切ると、力を入れなくてもスムーズに動いてくれる。この草刈り機は、年輩の女性も使っているのをよく目にする。腕力がなくても、操作できるようになっている。
 心配した石や草の中の枯れ木などの障害物も、「チュイーン」といった甲高い金属音を響かせて回転刃が弾かれるだけで、刃が壊れたり、瓦礫が襲ってくることもなかった。最初は、草むらの中段辺りを刈っていたのが、根元の方をざっくりと刈り取るようになった。気分だけは、プロの農家である。それでも、何度も燃料を補充して、午前中だけの作業が3日間ぐらい続いただろうか。
 あれから2カ月近くが経過している。梅雨の水分をたっぷり吸収して、真夏の太陽の日差しを浴びて、再び雑草は強靱な生命力で生い茂っている。その畑に、最近になって父親が通 い始めた。心不全で弱っていた父親が、真夏の太陽に元気をもらったように、 畑仕事を再開しようとしている。鎌で手を切って血だらけになって帰ったり、ヤブ蚊にやられて顔ができぼこになったり、体力を使い果 たしてフラフラで坐り込んだりと、心配ではあるが、暗い部屋で一日中テレビをただ眺めているよりは、人間らしい生活をしていると思う。
 本当ならば、父親の畑仕事に付き添って、一緒に手伝ったり、見守ってあげればいいのだろうが、そんな余裕は、今のわたしにはない。せいぜい、帰りが遅いときに迎えに行くぐらいだ。無理して畑仕事に付き合えば、父親が畑に行くのを引き留めるようになるだろう。そうでなくても、父親の頑迷な言動や認知症の不条理な行為に悩まされているので、さらに疎ましく感じてしまうと思う。無責任なようだが放任、いや放置しているような状態で、もし何か事故が起きたとすれば、そのときに対処するしかないと考えている。
 しかし、草刈りは、せねばなるまい。東京の狭いアパートで、高い家賃を払っていた頃は、大家というのはなんと楽な商売なんだと羨んだものだが、そのときの窮屈な生活が、今はとても懐かしく感じてしまうのである。      


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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