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 それは突然だった。昼食を終えた父親が、お茶を飲もうとしたときに、「ゲフッ」と咳き込んで、食べたものを戻した。それが出きらないで、苦悶の表情を浮かべて湯飲みを手にしたまま悶えている。背中をさすってみたが、それ以上、吐瀉物は出てこない。今度は、汚れた口を手拭きでぬ ぐって、お茶を飲ませようとしたが、うまくいかない。そのままずるずると仰向けに横たわったので、首に枕を当てて様子を見た。目は半開きで、呼びかけても応答がない。
 こうして書いていると、すぐにも救急車を呼ぶべきだとわかるのだが、そのときは躊躇した。呼吸は荒いが、息が詰まっているという感じではない。吐瀉物を喉に詰まらせたショックで、休息しているようにも見えた。高齢で、認知症があるので、半睡状態でうつらうつらしているときもあるからだ。腕や足がけっこう動いているので、脳の障害とも思えない。救急車を呼んで、何でもなかったら申し訳ないとの気持がある。以前に、そういうことがあったのだ。
 放っておくわけにもいかず、近所にある日赤病院に電話して、状態を説明して相談した。受付から内科につないでもらって、たぶん看護師さんが応対に出たのだろうが、どうにも煮え切らない。救急車を呼ぶのは、あくまでご家族の判断ですからというスタンス。様子を見た方がいいですか、といっても、そういう判断も電話ではしかねるという感じ。逆の立場なら、その気持はよく理解できる。電話一本で、責任を負わされてはたまらないだろう。
 そのうち、父親の動いている手足が、左だけなのに気づいた。右手を掴んで持ち上げてみても、だらりと力がない。麻痺している。これは脳の障害だと、あわてて119番した。救急車で日赤病院に搬送、MRI検査で脳梗塞が判明した。そのまま入院となった。
 もともと心房細動(不規則な電気信号による小刻みな震え)が原因の不整脈があり、心臓で血栓ができやすい体質になっていた。その血栓が脳血管を詰まらすと脳梗塞になる。だから、血栓ができにくくする薬を毎日、服用していた。それでも、脳梗塞を起こしてしまった。素人考えだが、水分補給が不足して、血液がドロドロの状態になっていたのではないか。
 心臓の負担を減らすために、体内の余分な水分を輩出する利尿剤も併用していた。それで、従来の頻尿傾向がさらに促進されて、トイレに行く回数が増えた。間に合わないときは漏れてしまう。紙パンツを穿いてくれないので、ズボンまで濡れてしまう。それを嫌がって、あまり水分を摂ろうとしないのだ。悪循環である。リスクを説明しても、耳が遠いのと認知症のために、理解させるのは至難。それでも、ペットボトル のお茶を身近に置いて、少しでもいいから飲んでもらうようにしていた。
 暑い夏が終わって、わたしも父親もやれやれと思ったときに、落ちし穴があった。脳梗塞で倒れる一週間ぐらい前に、熱中症で40度近い高熱を出した。残暑の厳しいときに、中二階にある植木の世話を長時間していたらしい。連絡を受けて、職場から急遽、帰宅した。病院に連れて行きたかったが、このまま寝ている方がいいと動こうとしない。救急車も考えたが、自分でトイレに行く体力は残っている。とりあえず、水分をたさくん摂ってもらい、氷枕で首筋を冷やして様子をみることにした。農家出身なので、もともと体は頑健にできているのだろう。夜には熱も下がって、翌日は何事もなかったように動き回っている。今にして思うと、それが予兆だったのかもしれない。
 その日の午前中は、かかりつけの医院に受診して、一ヶ月分の薬をもらってきていた。食欲も旺盛で、ご飯も二膳、平らげている。それだけに、今回のことは唐突だった。しかし、冷静に対処できたと思う。父親の保険証と診察券、服用している薬をバッグに入れて、一緒に救急車に乗り込んだ。何せ、救急車を呼ぶのは、父親だけで3回目。母親も合わせると5回目になる。ただし、父親の病状は意識がない分、今回がいちばん深刻だ。覚悟はしておいた方がいいと思った。
 意識が戻らないまま、3日目の朝、病院の担当医から電話がかかってきた。病状が悪化、脈拍数が落ちて(徐脈)、無呼吸状態になることもあるという。病院に行くと、四人部屋だったのが個室に替わっている。バイタルチェックの機械が体につながれて、脈拍や心電図、血圧や呼吸数がモニターに掲示されている。脈拍数が危険水準になったり、呼吸が停止したりすると、まるでウルトラマンのカラータイマーのようにピコンピコンピコンと警告音が鳴り続ける。父親がゼハーと息を吐き出して寝息が聞こえ出すと警告音も止んで、わたしの方もホッと一息つける。この繰り返しだった。
 担当医から、頭部のCTの画像を見せられながら説明を受けた。脳に詰まった血栓を溶かす治療をしているのだが、なかなか脳の腫れが引かないのだという。その腫れが呼吸中枢を圧迫して、呼吸が乱れているらしい。生死の割合を単刀直入に訊いた。大丈夫だろうと思っていると、担当医は答えた。CTの画像を見る限り、呼吸中枢がある延髄がそれほど圧迫された状態とは考えられない。ただし、高齢なので、突然の心停止や呼吸停止のリスクはあるという。ここ二三日がヤマ、そういうことだ。
 その日の午後、墓参りに行った。9月中は個人的な要件を抱えていて、気になってはいたが、彼岸に行けなかった。 その日はもう10月に入っていた。草むしりをして、枯れた花を取り替えて、焼香した。花はわたしがお盆のときに手向けたもので、わたし以外、誰も墓参りに来ていないということになる。親類縁者も歳をとったか、あるいは鬼籍に入っている。持ってきたライターがガス切れで、線香に火を点けることができず、自宅までマッチを取りに帰った。ご先祖さまに叱られているような気がした。
 父親を連れて行くのは、もうちょっと待ってくださいとお願いした。心が疼いた。心のどこかで、このまま亡くなった方が幸せではないかという気持がある。障害(麻痺)が残ったまま、生き延びても、辛い思いをするだけではないか。死んでくれた方がいいというずるい思いもどこかに、ある。
 狷介で半ボケの老人の世話をするのは、正直、しんどい。父親が入院して、調理は格段に楽になった。蕎麦やスパゲッティ、冷凍のチャンポンや焼き肉など、今まで父親だと噛みきれないと諦めていたメニューが復活した。それから、味噌汁がありがたい。トイレが近くなるのを嫌って、父親が拒絶するようになったので、作らなくなっていた。
 それでも墓前では、「まだ早いです」と心の中で繰り返していた。 自分に言い聞かすように、繰り返していた。憎まれっ子世に憚るという言葉がある。父親は逞しい生命力で持ち直して、また四人部屋に戻ってきた。バイタルも安定して、測定機器も取り外された。意識も戻った。しゃべることはできないが、こちらがしゃべることはわかるようで、反応は鈍いが、頷いたり声を上げたりしてくれるときもある。しかし、栄養補給は鼻からのチューブと点滴で、そうした管を引き抜かないように、両手はベッドにくくりつけられたままだ。
 虚ろな目で天井を眺めている父親を見ていると、生きることの意味を考えてしまう。二年前にあっけなく逝ってしまった次兄のことを想ってしまう。大震災で亡くなった多くの方たちのことを思ってしまう。しかし、父親は生きている。それがすべてなのだと、自分に言い聞かせる。だったら、余計なことは考えないで、自分にできることを、いや、自分にしかできない役割を、全うするだけだ。
 実は、今回の件がなければ、福島に行く予定だった。例年通り、学生時代の仲間達が、テニスラケットを抱えて、いわき市に集まる予定だった。野次馬根性だとわかっていても、未だに残る大震災や津波の傷痕の光景を、心に刻みたいと願っていた。原発の後遺症で苦しんでいるいわきに泊まり、いわきで酒を飲み、いわきで遊び、いわきの友の笑顔を見たいと希っていた。何もできなかった、何もしてこなかった無力な自分の、ささやかな自己満足のためだとわかってはいても……、残念である。
 


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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