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 珍しい人から電話があると緊張する。緊急の連絡ならば、まず訃報を連想する。そういう年代になってしまったということだ。
 日曜日の夕方、電話がかかってきた。女性の声で、最初は名乗られても誰だかわからなかった。MCRの、と言われてようやく、何度か歌集を送ってもらっている方の顔が思い浮かんだ。武蔵野創作研究会、英語で「Musasino Criative Research」、略してMCR。文芸の同人仲間である。そのMCRの草創期からの中心メンバーだった森下陽(たかし)さんが亡くなったという。悪い予感が的中してしまった。
 わたしが27歳のとき、結婚を機に東京の郊外にある小金井市のアパートに転居した。そのとき、二つのサークルに加入している。ひとつは将棋の愛好者が集まる小金井棋友会で、もう一つが田無市(現在の西東京市)で活動している同人誌だった。収入の乏しかったわたしは、お金のかからないサークルを探していた。近所の公民館を拠点にしている小金井棋友会は、年会費が500円(当時)で好きなだけ将棋が指せる。田無の同人誌も、自転車で通 える距離にあった。
 田無の同人誌は、MCRではない。その同人のメンバーが何人か脱退して、MCRを結成した。田無の同人誌は、わたしが参加する以前から、内部でゴタゴタがあったらしい。記憶がおぼろげになっているが、大雑把に書けば、文学志向と文芸志向の路線の対立だろうか。わかりやすく書けば、純文学を志向する人たちと、大衆文学を志向する人たちとの確執。まあ、両方共存すればいいのだが、これに人間関係が絡むとややこしくなる。吉田さんという中核の同人が追い出されたような形になって、吉田さんを慕うメンバーが集まって、MCRを結成した。吉田さんと森下さんがMCRの両輪である。吉田さんたちの飲み仲間だったわたしも、自然とMCRに参加した。
 そのときの森下さんの年齢は五十代前半、 今のわたしと同じぐらい。人生にたいぶ草臥れてしまっている今の自分に較べて、当時の森下さんの若々しいバイタリティは驚きである。誰よりも多く作品を発表して、向上心は誰よりも貪欲だった。MCRは、同人誌を発行しないということが会の方針で、目的は一重に個人の力量 の向上である。同人誌を発行する労力を、作品を書くことに集中させる。これは、同人誌に載せる作品の順番でひと悶着あった田無の文学サークルの苦い経験も影響している。
 パソコンやインターネットが普及する前のことで、アマチュアの作者が作品を発表する機会は同人誌が主体で、同人誌を発行しない文芸サークルの存在はかなり異色だったと思う。会の運営はシンプルだった。合評してもらいたい作品を持参して、次回の会合までに読んで貰う。ワープロが普及してきた頃で、活字の原稿を人数分だけコピーして読んでもらうことができた。わたしも、20万円近くするワープロ専用機を、無理して購入した記憶がある。
 わたしはもっぱら夜型で、夜半にならないとワープロに向き合うことができなかった。日中はあれこれと誘惑が多すぎて、辛抱することができないのだ。今もそうだが、わたしにとっての執筆作業は、苦行以外の何物でもない。森下さんは対極で、書くことが愉しくて仕方がないようだった。当時の森下さんは千代田区役所に勤めていて、早朝のラッシュアワーのない時間帯に出勤して、誰もいないオフィスで創作に没頭する。戦中戦後の混乱期を経験して、波瀾万丈の人生を生き抜いてきた森下さんには、書きたい題材、いや、書かねばならないことがたくさんあった。
 大の映画好きで、古今東西の名画や現在封切られている新作にも精通している。ただ、森下さんが見ないジャンルがあった。ポルノである。大学時代に、土曜日の日活ロマンポルノのオールナイト興業によく通 っていたわたしは、そのことをエッセイに書いたことがある。合評会で森下さんが言ったことを今でも鮮明に覚えている。「おれはポルノは見たいとは思わないな。見るよりも自分でやった方が楽しいもの」。あくまでも実践派、行動派の人だった。だから、森下さんの書く作品には、大地に根ざしたリアリティがあり、迫力があった。ある種ルポルタージュ的な本物の迫真力があった。
 対して、行動力もなく経験の引き出しの乏しいわたしのような者は、願望や空想、ときには妄想といったようなものを題材に書くことになる。懊悩するのは当たり前だ。森下さんの明るくて伸びやかな筆致を、羨望の思いを抱きながら読んでいた。ただし、これはあくまで読者としてのわたしの思い込みで、「おれも苦しんで書いていたんだぞ」と天国の森下さんに叱責されるかもしれない。
 MCRは、同人誌を出さないのが方針だと書いた。では、何を目標に書いていたのか? 対外試合である。合評で研鑽して、またその批評を参考にして作品を手直しして、個々人で懸賞小説にどんどん応募する。わたしよりも年少の高岡水平さんが最初に結果 を出した。1990年に、「突き進む鼻先の群れ」という短編で、中央公論の新人賞を受賞した。 リアリティを意図的に排した、夢想の世界を浮遊するような新感覚の作品だった。根底に、不可思議なユーモアが存在する。高岡さんには後年、無理なお願いをして、「文華」が主催した「トライアングル文学賞」の選考委員を務めていただいた。
 仲間の同人は、わたしも含めて二つの思いを抱いたはずだ。先を越されたという悔しさと、やればできるという手応え。作品や合評に、一段と熱が籠もった。そして一年半余りの後、森下さんが内田百間生誕百年記念で新設された「吉備の国文学賞・長編部門 」の大賞を受賞、わたしも時期を同じくして、角川書店が主催している横溝正史賞の特別 賞を受賞した。同じ文芸サークル内でのダブル受賞として新聞にも取り上げられたが、とりわけ森下さんの500万円という高額の賞金が話題になった。
 森下さんは、戦後の混乱時に浮浪児として無頼の生活を送っていた時期がある。 ここらあたり、森下さんの作品の内容と混同しているかもしれないが、浮浪児仲間と進駐軍のキャンプに盗みに入って逮捕され、「少年の丘」と呼ばれる岡山県の養護学院で暮らすことになる。受賞作の「丘の雑草(あらくさ)たち」は、そのときの体験をベースに書かれている。選考委員の選評をいくつか抜粋して、紹介しておこうか。
 阿川弘之氏『それぞれに個性のある先生たち生徒たちと、日々暮してゐるうちに、主人公の人間を見る眼、社会を見る眼が次第に開かれて行く。好きになった女生徒のために問題を起し、一度は「少年の丘」から追放されさうにもなる。主人公坂西喬は、かなりの部分作者その人らしく、細部の描写 も適確で新鮮で、迫真力があった。』
 瀬戸内寂聴氏『似たような施設が、現実に岡山にあり、どうやら作者はそこで人生の最も感じ易い何年かを送ったらしいのですが、自分の経験の重さに圧しひしがれることなく、思い出の情緒に感傷的に流されず、登場人物の一人々々の個性をしっかり見つけ、いきいきと造形しています。何よりも筆ののびやかさが作品を愉しくしていました。』
 実は、「丘の雑草たち」は、吉備の国文学賞のために書かれたものではなかった。森下さんの処女作とも言っていい作品で、ワープロで印字された分厚い原稿を読了したときは、その圧倒的な迫力に、わたしはしばらく放心状態になった。青春小説の傑作だと思った。その何年かあとに、吉備の国文学賞が創設された。森下さんの、いや、「丘の雑草たち」のための文学賞と言っても過言ではないような気分だった。
 森下さんは、募集要項に合わせて「丘の雑草たち」を改稿、かなり削っている。作品に愛着の深いわたしとしては、削られた部分も惜しい気がするのだが、規定枚数をオーバーしては元も子もない。その改稿原稿をMCRの合評会にかけることでさらに推敲、満を持しての応募だった。標的のど真ん中、正鵠を射ったとの確かな手応えを感じていたに違いない。そして狙い通 り 、選考委員の心を見事に射抜いたのである。
 受賞作は福武書店(現・ベネッセコーポレーション)から単行本で上梓、帯の推薦文を映画監督の山田洋次氏が書いている。
『すべてが規格化された、のっぺりした世の中にあって、森下君のこの作品のもつ、力強い本物の感動は、きっと多くの若者をひきつけるに違いない。』
 森下さんが勤務していた千代田区役所のエベントで、山田洋次監督を講師として招聘して以来の親交だという。山田監督の新作が封切られると、早々に映画館に足を運び、電話で忌憚のない感想を報告する。相手がどんな大御所であろうと、物怖じしないで平常の付き合いができる人だった。侠気があって、労働組合の闘士として名を馳せたこともあったという。座談の名手で、話していても年齢差を意識させない人だった。使い古された言葉だが、永遠の少年のような、という形容を、森下さんほどふさわしい人をわたしは他に知らない。
 俳優の役所広司さんとも親交があった。役所さんが俳優としてブレイクする前に勤務していたのが千代田区役所土木工事課で、それで芸名が役所広司になったという逸話がある。森下さんと役所さんは、同じ千代田区役所で働いていた時期があり、その後も付き合いは続いていた。役所さんとの電話で、わたしの話題になったことがあるらしい。わたしの受賞作である「殺人の駒音」がドラマ化されて、その主役を役所さんが演じたのだ。おれの作品の主人公も頼むよ、そんな会話があったことを愉快そうに話してくれたものだ。
 MCRは3人の受賞者を輩出したが、現実は厳しく、3人ともに職業作家になる夢は叶わなかった。高岡さんは仙台に転勤して東京を離れた。わたしは次第に、MCRの会合から足が遠のいた。定例会は合評だけではなく、音楽鑑賞や映画の話題など、フランクで楽しい集まりだったが、MCRでの目的を失っていた。わたしは気弱で小心者のヘタレな性格だが、ものを書くことに関してだけは真摯でありたいと願っている。受賞者という褪せた勲章をぶら下げて、半端な気持で合評会に参加することは、自分に対しても、同人の作品に対しても、不遜ではないかという罪悪感を覚えるようになった。商品としての作品が書けない苛立ちに、心が荒んでもいたのだろう。
 そして、森下さんであるが、難病を発症した。パーキンソン病である。思い当たることは、あった。歩き方がぎこちなくなった。歩幅が小さくなって、小刻みに足踏みをするような歩行になっていた。段差もないのに、躓くことが多くなったという。MCRの定例会で、医師からパーキンソン病を告げられたことを報告する森下さんの口調は淡々としていて、動揺は感じられない。その後も創作意欲が衰えることはなかった。ただし、病魔を題材にした暗い作品は読んだことがない。
 森下さんと最後に会ったのは、わたしが母親の介護のために東京を離れる前だった。自分勝手な理由で会を離れたわたしに対して、痼(しこ)りがあって当然だと思うのだが、森下さんと吉田さんが声をかけてくれて、送別 会を開いてもらった。久しぶりに再会した森下さんは、いつもの森下さんだった。だが、薬を飲んでいると症状はおさまっているが、薬効が切れると体が震え出すんだという話を聞いた。 病状は進行しているようだった。
 わたしが中国山地の山間にある実家に帰省してからは、年賀状だけの付き合いが続いていた。賀状に添えられる言葉が、いつからか女性の文字になった。奥さんの字なのだと思う。筆記が難しくなったのだろうか。しかし、2009年になって早々に、高岡さんからメールが届いた。北九州市が主催している「自分史文学賞」の佳作に、森下さんの作品が入選したという。佳作とはいえ、賞金は50万円だ。TBSと講談社が共催しているドラマ化を目的にしたコンテストでも1次予選を突破、当時の森下さんの年齢は75歳、こうして書いていて、あらためて凄いと思った。
 しかも、だ。森下さんは5、6年前から多発性骨髄腫を併病して、定期的に輸血をしなければならなくなっていたらしい。その輸血時も、森下さんはウォークマンでお気に入りの音楽を聴きながら体をゆすっていたという。主治医の先生も「こういう患者は手がかからなくていいね」と言っていたそうだ。
 わたしの郷里に近い山村の出身で、棋士の舛田幸三さんがいる。名人にもなった伝説の棋士だが、戦時中の過酷な兵役で体が蝕まれ、棋士として復帰してからは病苦に悩まされることが多かった。そのときの有名な言葉が「わたしは病体ではあるが、病気ではない」。高岡さんのメールを読んだとき、その言葉が思い浮かんだ。
 森下さんは1933年、東京の生まれて、享年は78歳。いつも前向きで、最後の最後まで作家であり続けた。
『文芸の同志であり、人生の師でもあったあなたの魂を受け継いで、生ある限り書き続けます。ゆっくりとお休みください』
 わたしの弔電である。通夜に参列した方の話では、会場には僧侶の読経の代わりに、森下さんの好きだったベートーベンやモーツァルトの曲が流れていたという。

≪追記≫
 追悼文の内容を確認してもらうために、森下さんの奥様にこのページをプリントして郵送したところ、ご丁寧な返信をいただきました。わたしが思っていた通 り、森下さんは最後まで書き続けておられたようです。パソコンも3台目を購入したばかりだったそうで、操作でわからないところがあるとお孫さんや友人に尋ねながら、新作に取り組んでおられたようです。「明けない夜はない」、未完に終わった最後の小説のタイトルです。森下さんらしいと思いました。

*内田百間の間は、正確には「門構えに月」、ネット上では表示できないので、内田百間とさせていただきました。
*手元の資料をもとに、できるだけ正確に書こうと努力しましたが、わたしの勘違いや思い込みで、事実と異なることを書いているかもしれません。ご指摘があれば、謹んで訂正させていただきます。
 


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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