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 年末年始の休みは、自分的にはかなり充実していた。以前から読みたいと思っていた長編小説を読了できたのだ。中国の武侠小説の大家、金庸の「秘曲 笑傲江湖」、分厚い文庫本が全七巻。金庸の作品は、地元の図書館の棚を“読みつぶし”しているのだが、この作品は置いてなくて、勤務先の近くにある本屋さんに取り寄せてもらった。
 長い作品を読み始めるのは勇気がいる。面白い本に出会うと、夢中になってしまうので、ついつい寝不足になってしまう。明日の仕事のことを考えると、これぐらいにしようと思うのだが、布団に入っても話の続きが気になって寝付けない。東京にいる頃は、仕事がディスクワークだったので、少々の寝不足でも大丈夫だったのだが、今は調剤薬局の薬剤師なので、寝ぼけ頭でミスをすれば大変なことになってしまう。
 金庸ワールドの最大の魅力は、例えるならば香港のカンフー映画のような圧倒的な活力だ。実際、金庸のかなりの作品が香港映画の原作に使われているようなのだが、観たことはない。いや、わたしはかなりの香港映画好きなので(とくにカンフーもの)、観ているのかもしれないのだが、金庸の小説を読み始めたのがここ5年ぐらいのことなので、気づかなかっただけかもしれない。
 色の濃いキャラに、中国武術の“秘奥義”や“絶技”が次々と飛び出してくる。その発想の芳醇さや荒唐無稽さは、山田風太郎の忍者小説にも匹敵する。そうした強敵や様々な困難に遭遇して、主人公が 成長していくのだが、まさしく少年漫画の王道の世界だ。ただし、金庸のストーリーは一筋縄では行かなくて、相当に拗くれ絡まっている。油断していると、アッという裏切りが用意されていて、嘘だろ、とショックを受けることになる。
 年末年始は金庸ワールドに熱中してしまい、予想通りに夜更かしを続けたのだが、介護の現場は年中無休、朝はいつも通 りに起床して、寝たきりの老母の世話をすることになる。寝不足だが、休みの日だと昼寝を貪ることができる。東京で気ままに暮らしていた頃は、仕事が休みの日の前夜は、たいがいが明け方まで起きていて昼近くまで寝ていたものだが、仕方がないこととはいえ、よく規則正しい生活に修正できたと思う。子供の頃からこの夜更かし癖は、ずっと直らなかったのだ。
 帰省する前は、日曜日の夜によく徹マン、徹夜麻雀をした。 メンバーは地元の将棋サークルの仲間なのだが、週末の例会に顔を出すと、そのメンバーがいるかどうか、確認する。顔が見えないと、少しホッとする。これで、静かな週末を過ごすことが出来る……。メンバーのメンツが揃ったときは、覚悟をする。途中で止められればいいが、そこは麻雀の魔力で、ずるずると朝まで続けることになってしまう。勝っているときは、どんどん良い牌が入ってくるような気がするし、負けているときは、このままでは終われないという負けん気で頭がカッカしている。
 そのときのことを書いたエッセイがあるので、紹介させてください。 

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幸運の女神

 一ヶ月ぶりに、地元の将棋サークルの例会に出席した。二ヶ月単位 でリーグ戦を開催していて、このままではAクラスを陥落してしまう。挨拶もそこそこに対局開始、対戦予約の声があちこちからかかってくる。これが個人的な人気ならば嬉しいのだが、カモネギの獲物だと思われているのかもしれない。
 激闘のさなかに、ふと部屋の中を見渡すと、“メンバー”が揃っているではないか。大腿骨の骨折で長らく入院していた建築屋のTさんが、半年ぶりに顔を出している。それに、元公務員のMさん、新しい仕事を始めてしばらく例会を休んでいたNさんの姿も見えるではないか。わたしを入れてちょうど4人。これで、今夜の予定が決まった。
 駅前の雀荘は、2軒とも休みだった。うち一軒は、賭け麻雀が警察に摘発されて、営業停止処分を受けていた。じゃあ、解散しよう、ということには絶対にならない。Mさんの小型車に無理やり全員乗り込んで、Tさんの自宅に向かった。一階部分が倉庫のようになっていて、全自動の麻雀卓が無造作に置かれている。そそくさとルールの確認をして、ゲームを開始した。
 麻雀の魅力は、人それぞれに違うのだろうが、わたしは自分の運気が形となって現れることだと思っている。将棋では、まず強い人が勝つ。しかし、麻雀は実力だけではない部分がある。もちろん、トータルでは強い人が勝つのだが、その日の運気によっては、ダークホースが大暴れすることも多いのだ。その運気、目の前にずらりと並んだ牌(ぱい)で一目瞭然、牌をつもってくるたびに、運気の趨勢を思い知ることになる。
 さて、その日のわたしの運気は最低、どん底に沈んでいた。反対に、Tさんは絶好調、幸運の女神も、Tさんの退院を祝しているのだろうか。夜はどんどん更けてゆく。誰もこれでやめようとは言わない。わたし自身、やめたくても家まで帰る足がない。いや、へこんだままでは終わりたくないのだ。前回も同じメンバーで、阿佐田哲也(朝だ、徹夜)になってしまった。
 窓の外が明るくなってきた頃、ようやく風向きがわたしの方に吹いてきた。こうなると、あまり考えなくても欲しい牌がどんどん流れ込んでくる。親で三本ほど場を積んで、手なりでテンパって即リーチ、下家(しもちゃ)のTさんが顔をしかめて考え込んだ。手の中が煮詰まっているようだ。気合いをこめて切り出した牌に、わたしは自分の牌をパタリと倒した。メンタンピン一発の親満、のはずだった。そのとき、対面 (といめん)のMさんから声がかかった。
「それ、テンパってないんじゃない?」
 唖然として自分の牌を調べた。六索だったはずの牌が、いつの間にか四索に化けている。目をこすって見直しても、再び六索に変化(へんげ)してはくれない。幸運の女神がわたしを見捨てて、おとなりのTさんに寄り添った瞬間だった。あとはもうメロメロ、最後は逆にTさんに一発を振り込んで、その半荘(はんちゃん)が終わった。
 予想していたとはいえ、今回も阿佐田哲也になってしまった。太陽が黄色く輝いている。惨憺たる“月曜日”の朝である。学生ならいざしらず、馬鹿なことをしているとつくづく思う。しかし、この惨めな自己嫌悪、心のどこかで喜悦を覚えている。マゾヒズムではない……、と思う。たとえれば、プールの底に軽く足がついた感じ。勢いよく浮上する元気もなく、さりとてどっぷりと奈落の底に沈む勇気もなく、中途半端にただよっている日常の中で、ひとときだけでも底に足がついたという感覚を与えてくれるのだ。
「こんなことをしてちゃ、あかんよな」
 何故か関西弁になって、自分自身を叱咤する。そうすると、プールの底を軽く蹴り上げたかのような浮揚感が生まれる。この感覚が、小市民の凡夫であるわたしには、とてもいとおしいものに感じられるのだ。
 なんだか読者の疑問の声が聞こえてくるようだ。これは負け惜しみでも言い訳でもない……、と思います、たぶん。

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 これは、以前に「文華」で募集していた課題エッセイに参加した作品で、そのときの課題テーマは「となり」だった。もう6年も前のことである。この中に登場する雀友のMさんの訃報が、昨年末に届いた。68歳だった。
 Mさんはもともと、わたしが参加している将棋サークル(棋友会という)が会場に利用している公民館の館長だった。将棋の腕もなかなかなもので、棋友会の会員になってくれた。当時、棋友会の雑務を手伝っていたわたしは、Mさんにはよく便宜をはかってもらったものだ。大会のあとには、大量 の酒肴を持ち込んで懇親会となるのだが、公民館でどんちゃん騒ぎをやらかすのには問題があったのではないかと、今にして思う。他の利用者から、M館長の元に苦情が寄せられていたのではないか。
 公務員とは思えないヤンチャな人で、酒好き、カラオケ好き、そして、ギャンブル好き。女性にもよくモテていたらしい。公務員は仮の姿で、夜の方が本性なのだと思ったものだ。不良中年、敬愛を込めてそう呼んでいた。年を重ねて、不良中年が不良熟年になっても、アクの強さは相変わらずで、それがたまらなく魅力的だった。
 その性格通りに、麻雀は攻めっ気が強くて、降りることが大嫌い。リーチをかけられても、ポンチーでどんどん攻めてくる。最後は裸単騎で勝負という場面 を何度も目にしている。勝負勘が良いのだろう、その無理を強引に押し通してツモってしまう。あるいは、その一牌だけを切り替えながら、なんとか凌いでしまう。
 メンバーの中でも、無類の麻雀好きだった。メンツが一人足りないときは、よくMさんの自宅にお邪魔した。そのときは、夫婦で卓を囲んだ。奥さんもまた、麻雀好きなのだ。いや、旦那さんに合わせていたのかもしれない。ヘビースモーカーで、Mさんの灰皿はいつの間にか煙草の吸い殻でいっぱいになっている。酒もガンガン飲んでいる。
 母親の介護のために、わたしが広島の山間にある実家に帰省することになって、最後の麻雀になった。Mさんは狭心症を患っていて、心臓の血管のバルーン手術を受けるために近日中に入院する予定だった。Mさんは朝まで続行したかったようだが、さすがにMさんの体調を慮って、珍しく翌日に跨らずにお開きにした。帰省した後日、他のメンバーにMさんの容体を尋ねたのだが、心臓の血管がボロボロになっていてカテーテルを入れることができずに、手術ができなかったことを知った。
 Mさんから一度、実家に電話がかかってきたことがある。広島に来ているから出てこないか、あるいは、広島に行く用事があるから会えないか、記憶が定かではないが、そういう会話だったと思う。時間や気持に余裕がなく、そのときは断ったのだが、それが最後の会話になった。
 死因は心臓ではなく、肺ガンだったそうだ。細く長く生きるタイプの人ではなかった。今思い返しても、ヤンチャな不良中年、不良熟年の姿しか浮かんでこない。非情なようだが、Mさんの病床の窶れた姿を見ていなくてよかったと思う。クリスマスイブに昇天、最後までダンディで洒脱な人だった。サンタクロースやトナカイたちと卓を囲んで、九蓮宝燈(天衣無縫ともいう)でも上がる夢を見ながら旅だったのかもしれない。
 Mさんの訃報の翌朝に見た太陽は、いまだに鮮明に覚えている。“それ”は、高速道路を走っているときの空に貼り付いていた。最初は、月だと思った。丸い空洞のような、大きな白円が見えた。しばらく車を走らせて、それが太陽だとようやく気づいた。今にも雪が降り出しそうな空で、太陽も凍てつくことがあるのだろう。

 女手のない正月も、今年で5回目、どうにか雑煮をこしらえて、形だけでも正月らしくなった。最初の頃は、雑煮の味付けに苦労した。なかなか母親の味が再現できない。隠し味にスルメを使い、ブリを煮込んで出汁をだすことで、どうにかこうにか、それなりの味になった。今年も餅は父親が5個で、いちばん多い。西日本の餅は丸い形をしている。それを煮込んで、雑煮の中に入れる。ブリやハマグリの入った豪華版だ。
 正月らしいことをしたのは雑煮だけで、未だに初詣にも行っていない。そういえば、年末の大掃除も面 倒で先送りした。気持に余裕がないのだろうか、そうした行事や慣例に無頓着になった。もともと男とはそうしたものなのかもしれない。1月の半ば、いつの間にか、いつもの日常が戻っている。ジタバタ、アタフタとしながらも、生者の、世俗の世界の日々は、いつの間にか過ぎて行く――。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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