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「漫画が大好きで、少年ジャンプは毎週欠かさず購入しています」
 五十を目前とする年齢になっても、堂々と公言している。
「冬の日だまり」では、お気に入りの場所を2つ上げたが、もう一つ、付け加える必要があるかもしれない。隣町にある漫画喫茶である。うらぶれた古い建物の中で、明らかに素人の手作りだとわかる稚拙な工作で個人スペースが仕切られている。最近流行の都会型の洗練された漫画喫茶が近辺にできれば、すぐに客が取られてしまうだろう。でも、漫画が読めれば十分、かえって薄汚れていた方が、貸本屋時代を知っている我々世代には落ち着ける。
 わたしが子供の頃は、貸本屋と駄菓子屋を合体させたお好み焼き屋は、わが田舎町では、子供たちのアミューズメントパークだった。夏にはかき氷の暖簾が下がる。値段のいちばん安い野菜だけのお好み焼きを頬張りながら、貸本の漫画を一心不乱に読んだものだ。食べている間は、貸本がタダで読める。何杯も水をお代わりして、一冊の本を読み終えるまで粘った。
 小遣いに余裕があれば、五円拾円で買える駄菓子がデザートになる。サイコロキャラメルやチロルチョコレートがわたしの好物だった。派手な原色の色をした氷菓子やラムネ菓子も懐かしい。当時は砂糖の代用で、チクロという人工甘味料がふんだんに添加されていたが、のちに発ガン性が問題になって使用禁止になってしまった。あの駄 菓子の強烈な甘さは、チクロの味なのだろう。癌になるほど駄菓子を食べられる身分ではなかったので、発ガン性うんぬ んもさして気にはならなかった。
 さて、隣町の漫画喫茶だが、わたしは木曜日の午後に行くことが多い。 今の職場は土曜日が半ドンで、その替わりに平日の午後からを、スタッフのメンバーに割り振って休みにしている。わたしは、木曜日が半ドンになっている。ちなみに半ドンのドンはオランダ語のドンタク(zondag:日曜日)からきている。日曜日の半分の休みだから半ドン。
 平日の昼下がり、さして客はいないだろうとわたしも思っていたのだが、さにあらず。わたしと同年輩か、さらに年上の先輩方が、幸せそうな顔をして漫画を読みあさっている。仕事は大丈夫なのかとツッコミたくなるが、わたしもそのお仲間なのだ。
 昔の漫画は、現代ほどの地位を得ていなかった。低級・低俗のレッテルを貼られ、勉強の妨げになると虐げられた。それでも漫画が大好きで、親に隠れてこっそりと読んでいた世代が、今の世界に冠たる日本の漫画文化の礎を支えてきた、とも言える?(苦笑)
 漫画の魅力を訊ねられたら、「おもしろいから」としか答えられない。おもしろいから没頭できる。至福の時間を得ることができる。わたしにとっては、小説や映画と同列である。ドフトエフスキーやバタイユ、川端康成や谷崎潤一郎も、読んでいておもしろいから大好きである。かなり自分勝手な価値判断だと自覚しているが、読者、あるいは観客は、我が儘でいいのだと思っている。漫画にも、つげ義春のような純文学タイプもいる。そして、つげ義春の作品は、最高におもしろいのである。
 さて、井上雄彦の「バガボンド」を棚からごっそり取り出して、自分の陣地に引き上げる。フリードリンクコーナーから持ってきたコーヒーを飲みながら、読み始める。バガボンド(vagabond)とは、英語で「放浪者」「無宿者」を指す。原作は吉川英治の「宮本武蔵」。あまりに有名な小説なので、読む気にはなれなかった。結末のわかっている物語は魅力が半減する。しかし、単行本は売れに売れている。おもしろいんだろうな、という消極的な思いで読み始めたら、すっかりハマってしまった。主人公の宮本武蔵はもちろん、登場人物の存在感や魅力が圧倒的なのである。
 今回は12巻から。佐々木小次郎の成長がメインに描かれている。そう、武蔵に匹敵するほどの労力とスペースをさいて、小次郎をじっくりと成長させている。24巻まで読んだが、残念ながら単行本で出ているのはここまで、あとは続編が刊行されるのを待つしかない。ここまで書いて、あえて我が儘を言えば、少年ジャンプで連載していた「スラムダンク」の続編が読みたい。結末が限定されている武蔵よりも、無限の可能性を秘めている桜木花道が、NBA(北米のプロバスケリーグ)で活躍する姿を見てみたい……。
 時間が余ったので、コーンポタージュスープを飲みながら、冨樫義博の「幽★遊★白書」を読み始める。少年ジャンプで連載中に一度、読んでいるのだが、やっぱりおもしろい。再読をほとんどしないわたしがその気になったのだから、凄い(かな?)。冨樫義博は、井上雄彦に勝るとも劣らない天才である。「ハンター×ハンター」は、鳥山明の「ドラゴンボール」以上の壮大なスケールに発展していたのだが、週刊というプレッシャーに押しつぶされたのか、休載になってしまったのは残念だ。
 こうして漫画家の名前を挙げていると、やはり少年ジャンプに愛着があるのだと実感する。少年ジャンプを買い始めたのは、高校のときからだろうか。先発している少年サンデーや少年マガジンの方が老舗で、内容も充実していた。創刊当時のジャンプは隔週刊で、まだまだマイナーな存在だった。永井豪の「ハレンチ学園」や本宮ひろしの「男一匹ガキ大将」などの大ヒット作が生まれて、ようやくメジャーの仲間入りをした。
 以来、いくどか中断はあったものの、毎週月曜日になると、いそいそとジャンプを買いに行く。この月曜日というのが嬉しいのだ。生来の怠け者で、学校や勤務がスタートする月曜日になると、気分がどっと落ち込む。その暗鬱な気分を慰めてくれたのが、少年ジャンプだった。それは五十歳を目前にした今でも継続している。
 ジャンプの魅力は、その充実した連載作品のおもしろさに尽きるが、それを生み出しているのが読者による人気投票である。人気のない作品は、いくら名前の売れた大御所であろうが、ストーリーの進行が中途半端であろうが、容赦なく打ち切られる。なかには、どうしてあの作品が、という意外な結果 になることもあるが、それはわたしがもはや“少年”ではなく中年、いや老年にさしかかっているからだろう。人気が落ちなければ、そして作者に意欲があれば、秋本治の「こちら亀有公園前派出所」のように、30年以上も連載が続いている作品もある。
 少年ジャンプを愛読していると言うと、冷ややかな反応を示す人もいる。そういうときに使っていた科白(せりふ)がある。
「少年ジャンプは、小説のリサーチにとても便利なんです。どんなことが流行っているか、どんなストーリー展開が読者に受け入れられるのかが推測できるので、小説を書くときの参考になります」
 半分は本気だが、あとの半分は体裁を繕った言い訳である。同じようなニュアンスで、わたしが職業作家として挫折した理由を「作品を世間の嗜好に合わせることができなかった」という言い訳をしていた時期がある。自分の嗜好や志向を捨ててまで、時代や大衆におもねることができなかったという未練が込められている。大馬鹿である。時代や大衆におもねって、自分がおもしろいと思わないものを無理して書いても、良い作品が産まれるわけがない。自分の嗜好や志向を読者に受け入れられるように表現するのが、才能でありプロなのだから。ジャンプで生き残っている漫画家は、過酷なスケジュールに追われながらも、自分の漫画を楽しんでいる。そうでなければ、読者がこんなに楽しめるわけがないではないか。
 屁理屈を書いてしまった。漫画はおもしろいから大好きである。わたしも、おもしろい小説が書きたいと願っている。自分にとっても、読者にとっても。しかし、これが一番、むずかしい……。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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