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 わたしの手元に、青色の小さな手帳がある。広島の実家に帰省したときに、地元の本屋でもらった薄っぺらいスケジュール手帳だ。日付と曜日、それから大安、仏滅等の陰陽日が記してある。しかし、日付以外は意味を成さない。もう何年も前の手帳だからだ。
 この手帳に、自分と関わりのあった物故者の名前と享年を書き込むようになって、3年ぐらい経つだろうか。きっかけは、中学時代の恩師の急逝だった。まだ50代で、郷里の同窓生から連絡を受けたときは愕然とした。まるで学園ドラマの主人公のような熱血教師だった。元気で明るい笑顔しか記憶に残っていない。
 結局、葬儀には出席できなかった。無理をすれば帰れたという思いが、今も残っている。墓参も、いまだに果 たしていない。その贖罪の意識があったのだと思う。恩師の命日には正座して、極楽浄土があるという西方に向かって合掌するようになった。その日だけは、努めて故人の面 影を思い浮かべるようにした。今は恩師の命日だけではなく、縁あって生前につき合いのあった故人の命日に、合掌するようにしている。
 いや、面識のない故人もいる。わたしの叔父や祖母に当たる人だ。叔父は、22歳の若さで戦病死している。東京の浅草に嫁いでいた伯母から、この叔父の話を聞いたことがある。上京して、作家を志していたという。ある日、伯母が叔父の書いている原稿用紙を覗き見すると、「母帰る」のタイトル。文豪、菊池寛の代表作「父帰る」を意識していたのだろうが、どうも独創性には欠けていたようだ。この叔父のことを母に聞くと、いい顔をしない。生活力のなかった人のようで、周囲に面 倒をかけていたらしい。この叔父の話をしてくれた浅草の伯母も、今は彼女の夫と共に、わたしの青い手帳に名前が記載されている。
 祖母だった人は、30歳で病死している。命日に両手を合わせていると、どうにも不可思議な気分だ。今はわたしの方が、叔父や祖母の享年をはるかに越えてしまっている。それでも黙祷していると、「まあ、頑張りんさい」という広島弁の声が、どこからか聞こえてくるような気がする。
 手帳のメンバーには、自分よりも年下の友人が幾人かいる。年若くして亡くなった友人との思い出を振り返っていると、存外に生というものが、危うい均衡の上に成り立っているように思えてくる。自分のすぐ背後にも、死の影が忍び寄っているのではないか──。
 実際、2年ほど前に、死の影に“死ぬほど”脅えたことがある。ちょうど、わたしがかつて勤めていた職場の後輩の訃報を受け取った時期と重なっている。進行性の胃癌だったという。わたしも、長らく胃の不調に悩まされていた。大の病院嫌いで、市販の胃腸薬をのんでごまかしていた。健康診断も、もう15年以上も受けていない。
 病院の診察を受けたときは、手遅れにしてしまったか、という悔恨の思いがあった。自分の予測では、有罪率90パーセント以上。レントゲンで異常が見つかり、胃カメラをのんだ。もうだめだと覚悟した。そして結果 は……、ただの胃炎だった。俗に言う癌ノイローゼで、診断が出たあとで、胃のさまざまな症状が短期間のうちに軽快した。
 心配性の早合点で、傍から見ている分には笑い話だが、人一倍臆病な本人にとっては、九死に一生を得た大事件だった。以来、わたしの年輩者を見る目が一変した。爺ちゃん婆ちゃんの皺だらけの顔が、歴戦の勇士の顔に見えてくる。人生は、思い通 りにならないことの方が多い。生き長らえるだけでも大変だ。今は、自分の誕生日がくる度に、一つ年齢を重ねることができたことを、素直に感謝している。
 こんなことを書いていると、わたしがさも信心深い人間のように思われるかもしれないが、実物はさにあらず。無神論者とまではいわないが、宗教心とは縁遠い暮らしをしている。大切な人の命日を忘れてしまい、一週間ぐらい経ってからあわてて合掌することもある。ときには、故人との思い出を偲ぶはずが、まるで神社仏閣におねだりするように、棚ぼた式の幸運を祈願していたり……。
 とまれ、青い手帳の名前は、確実に数を増やしている。わたしが死を迎えるときには、どれくらいの名前が書き込まれているだろうか。大勢の友人知人が待っていると思えば、死の恐怖も半減される……、臆病なわたしは、こんなことも考えている。そんな打算的な人間にも、故人はやさしく語りかけてくれる。
「せっかく生きてるんだから、思う存分、好きなことをやればいいさ」
 これも、自分勝手な自己暗示か。まあいい。故人たちの抗議は、あの世に行ってから、弱い酒でも酌み交わしながら、ゆっくりと聞かせてもらうとしよう。

<追記>

 このエッセイを書いてから6年以上の歳月が経過している。残念ながら、青色の死者の手帳は紛失してしまって、今はシステム手帳が二代目の死者の手帳になっている。あれから、確実に名前の数は増えている。
 わたしの生活環境も激変した。3年ほど前に老母がくも膜下出血で倒れて危篤状態になった。幸い、命を取り留めて、今は自宅で介護している。そのために、わたしも広島の実家に帰省、一緒に生活している。
 母親の死線からの生還は、家族にとっては僥倖だったが、果たして本人にとって幸運だったのかどうかは甚だ自信がない。 「楽に死ねる薬があったら、全財産をはたいてもいい」、寝たきりになった母親の口癖である。「思い通 りにならないのが人生だよ」、わたしは笑いながらそう言ってやるのである。母親も、笑いながら頷いてくれる。母親は今年の4月で81歳になった。母親の父親の年齢を超えて、母方の家系では最高齢の記録を更新している。
 死者の手帳は、勇者の記録である、いや、そうであって欲しいと願っている。最後の最後まで、自分の人生を生き抜いた勇者たちの記録。母親は十二分に有資格者だが、今しばらく現世に踏みとどまって、土産話をたくさんつくって欲しい。
 5月末には、また恩師の命日がやってくる……。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆ 「死者の手帳」の感想 (掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*この作品は、トージン名義で「ライター登録・リレーエッセイ」(2001.2月号)で発表したものを再編集しました。
*タイトルバックに「GALLERY DORA 」の素材を使用させていただきました。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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