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※10年ほど前に友人のHPに書いたエッセイを改稿&再編集しました。


 

 JTBが発行している『旅』という月刊誌がある。旅行誌としては老舗の雑誌なので、大概の図書館で定期購読している。図書館に立ち寄ったときに、たまにパラパラと拾い読みするのだが、以前から気になっている企画があった。『わたしのザ・1万円旅行』というコーナーで、読者が計画した旅行プランを、自分でレポートするという企画だ。タイトルにある通 り、旅費が1万円以内でなくてはならない。旅費の1万円プラス、謝礼として1万円分の旅行券がもらえるらしい。

 小説の仕事がひと段落したので、遊び半分に応募してみることにした。題して『甲州路、温泉三昧旅行』。1万円の旅費がなくなるまで、山梨の温泉をハシゴしようという計画。大まかな金額の計算をしながら、中央線の沿線にある山梨の温泉施設の名前を書き連ねた。細かい計算は、採用されたときにすればいいと思っていた。そして、そのプランを郵送してから10日目ぐらい、『旅』の編集者から電話がかかってきた。GOサインが出た。
 しかし、あらためて旅費の計算をやり直して、愕然とした。全然、足りないじゃないの。軽く3,000円はオーバーしている。こんないいかげんなプランを、よくも採用したものだと、編集者に八つ当たり。そのとき、あることに気づいた。郵送したプランには、交通 手段を書いていない。おそらく編集者は、車を使って移動するのだと勘違いしたのではないか。仕方がないから、料金の高い施設は除外して、徹底的に費用を切り詰めた。厳しい旅になりそうだな。
 出発予定は5月30日の金曜日。日曜日に法事が入っていたために、仕方がないから会社を休んだ。しかし、季節外れの台風が接近していて、天気予報は最悪だった。でも、原稿の締め切りを考えれば、旅行を先に延ばせない。雨天決行と心に決めて、ザックに旅行用の荷物を詰めた。内心、楽観している気持もあった。晴れ男を自認していて、いつも天気には恵まれている。
 朝になって布団から起き出すと、すぐに窓を開けて空を見上げた。曇天だが雨は降っていない。日課通 りに、NHKの『あぐり』を見ながら朝食を食べた。アパートを出たのも、いつもと同じ8時50分。最寄りのJR中央線・東小金井駅まで歩いて15分、予定通 り9時11分発の大月行きの電車に乗った。下りの東京行きは相変わらずの通勤ラッシュで、ゆったりと座席に寛ぎながら、旅に出るんだという気分が次第に満ちてくる。
 八王子を過ぎてからは、乗客がまばらになった。おもむろにザックから文庫本を取り出して、表紙をめくった。持参したのはチャンドラーの短編集とリューインの私立探偵もの。文字に倦むと、ぼんやりと外の景色を眺めて目を癒した。
 終点の大月で甲府行きに乗り換え、塩山で下車。11時9分、定刻通りだ。天気予報が外れて、雲の切れ目から太陽が覗いている。滑りだしは上々、歩いて15分程で塩山温泉・宏池荘に到着した。旅館とは別 に、公衆浴場の施設がある。早朝5時半から営業しているというから、熱心な常連客がいるんだろうな。入浴料は300円、張力のあるお湯が、しっとりと肌に馴染んでくる。オードブルにはもったいない温泉だ。
 12時過ぎに宏池荘を出発、笛吹川温泉を目指して歩き出した。今回の旅行は、歩きに徹するつもりだった。そうしなければ、とても1万円には収まらない。最初は恵林寺方面 に真っすぐ向かい、途中で笛吹川の方へ左折した。地図を見た限りでは、40分も歩けば到着するはずだった。しかし、近辺に来ているはずなのに、いっこうにそれらしい建物がみつからない。地元の人に尋ねようにも、人影がまるで見当たらないのだ。
 奇妙な感覚だった。道路の周辺には、農家なのか、大きな家屋敷が並んでいる。だけど、人の気配がまったくない。平日の昼休み時だからだろうか。ときたま車が行き交うのだが、案内を請うために車を止める元気はなかった。行き過ぎかな、と思ったが、引き返すわけにもいかない。歩き続けるしかなかった。ようやく畑で農作業をしているおばさんを見つけたときは、思わず走りだしていた。
 道順を尋ねると、やっぱり行き過ぎていた。教えられた通りに少し引き返して、笛吹川沿いの細い道を反対方向に歩いた。でも、また迷ってしまった。葡萄畑の中に迷い込んで、フェンスを乗り越えて茂みの中を歩くはめになった。結局、笛吹川温泉にたどり着いたのが13時20分。迷うのも無理はないと思った。道案内の標識が何もないうえに、川辺にある工場の敷地内を通 り抜ける必要がある。結論は、歩いて行く場所ではないということだ。
 笛吹川の堤防に腰掛けて、ようやく昼食にありついた。笛吹川の川面を眺めながら、弁当の焼きおにぎりを頬張っていると、苛立った気持が徐々に癒えてくる。定期的に、ドーンという大砲のような音が山の方から響いてくる。斜面 に葡萄畑が広がっているので、カラスやスズメを追い払うためなのだろうか。
 笛吹川温泉は、清潔で近代的な施設だった。広々とした露天風呂の奥に、楽しみにしていた洞窟風呂。奥まった場所に、仏像が安置されていている。温泉だから、薬師如来だろう。仏像を前にして、洞窟内のぬ る目の湯に浸っていると、心の澱まで熔け出してくるようだ。入浴料は700円(2時間以内)。

 14時30分に笛吹川温泉を出発、笛吹川沿いに走っている国道140線を、甲府方面に向かってひたすら歩いた。相変わらずの曇天だが、雨の降る気配はなかった。走行する車の上を、黒い影が飛び交っている。ツバメだった。こんなに多くのツバメを見たのは久しぶりだ。なんだか、道路の上を選んで滑空しているようだ。
 途中、万力公園で休憩して、岩下温泉に着いたのが16時10分。甲州最古、1700年の歴史を誇るという霊泉で、今回の旅行のメインディッシュ。新館と旧館があり、旧館は外来入浴専用になっている。料金は300円。旅籠(はたご)という形容がぴったりくる旧館の格子戸を開けて中に入ると、いきなり裸の老人が、奥の廊下を横切った。廊下を挟んで、一般の浴室と半地下になっている源泉の浴槽が左右に分かれている。
 まるで建物とセットになっているような鄙びたお婆さんが、帳場を守っていた。お婆さんに、玄関先でわたしの写真を撮ってくれるように頼んだ。自分が写っている写真を1枚、必ず送って下さいと、編集者から厳命されていた。しかし、お婆さんは、はにかんだような顔をして首を横に振った。
「カメラのこのボタンを押すだけですから」
 重ねて言うと、お婆さんは寂しい笑みを浮かべ、右手を掲げて見せた。リューマチで、手のひらが開かないほどに指の関節が変形している。悪いことをしてしまった。
 廊下を歩いて浴室の脱衣場に入ると、先客が2人いた。しかし、間もなくわたし1人になった。日曜日に法事があるので、仕方なく金曜日に出発したのだが、それが正解だったようだ。笛吹川温泉でも、わたしを入れてお客は3人だけだった。
 小ぢんまりとした湯船で、癖のないお湯だった。しばらく暖まってから、ガラス戸を開けて廊下の様子をうかがった。玄関の方を見て、人影がないのを確認してから廊下を横切った。むろん、素っ裸だ。そのままコンクリートの階段を下りて行くと、半地下になっている源泉の浴槽がある。かなり大きい。まるで貯水タンクのような箱型の浴槽に、岩清水のような透明なお湯が湛えられている。浴槽の青いタイルが、お湯の透明さをさらに強調しているようだ。お湯の中に足を入れて、思わず悲鳴を上げた。
(なんだ、水じゃないか。これじゃ、霊泉じゃなくて冷泉だよ)
 グッと筋肉を硬直させて、湯船の中に体を沈めた。かなり、肌寒い。しかし、我慢してしばらく体を委ねていると、ほのかな温もりがじんわりと全身を包んでくれる。1人なので、心置きなく楽しんだ。熱い沸かし湯と源泉を、3度ばかり往復した。その都度、蛇口の源泉で渇いた喉を潤した。癖のない、やわらかな味だった。本館では、源泉をペットボトルに詰めて売っているらしい。

 17時過ぎに、岩下温泉をあとにした。歩き疲れた体に、今は精気が満ちている。やはり、霊験あらたかなお湯なのだろう。
 岩下温泉の近くに、うらぶれた神社がある。歩き疲れて、ようやく岩下温泉までたどりついたときは、とてもその石段を登る気にはなれなかった。霊泉で体を癒したあとは、その石段がやけに短く見えた。軽い足取りで石段を駆け上がると、一面に雑草が生い茂っている。廃材のような賽銭箱に10円玉を放り込んで鈴を鳴らし、両手を合わせた。

 岩下温泉から歩いて15分ほどで、中央線の春日居町駅の前に出た。意外と近いので驚いた。旅行雑誌や岩下温泉のパンフレット(本館用)には、山梨市駅から車で15分と書いてある。山梨市駅は特急『あずさ』の停車駅だからだろうが、できれば旅費の乏しい旅人のために、春日居町駅からの道程も併記してもらいたいものだ。もっとも、わたしのように、塩山から徒歩でやって来るような酔狂人はいないだろうが。
 駅から10分ほどで、春日居町福祉会館に到着。町営の温泉施設が整備されている。 ここのお風呂だけは、旅行雑誌や温泉の案内本に頼らないで、自分でみつけたものだ。町役場に電話して、温泉の公衆浴場を教えてもらった。しかし、間抜けなことに、すでに営業時間を過ぎていた。公共施設なので、利用時間は午前10時から午後5時まで。風呂といえば夜のイメージが強いので、まさかこんなに早く店じまいしてしまうとは思わなかった。
 がっかりしたのは確かだが、すぐに頭を切り替えた。これで甲州名物のほうとうが食える! 予定では、夕食の予算は600円ぐらい。これに福士会館の入浴料500円をプラスすると、ほうとうが射程内に入ってくる。
 食べ物屋の看板を探しながらぶらぶら歩いていると、いつの間にか石和の温泉街に迷い込んでいた。お堀のように水辺が整備された川を挟んで、大きなホテルが並んでいる。その豪華な外観に圧倒されて、なるべくホテルの敷地には近づかないように、川端の遊歩道を歩いた。
 裏通りに足を踏み入れると、小さな飲み屋が軒を連ねている。温泉仲間に聞いた話だが、昔の石和は歓楽街のイメージが強かったという。石和に行くと言うと、すぐに女が目当てだろうと勘ぐられたらしい。その当時の名残りか、歩いているうちにストリップ小屋を3件みかけた。温泉地のストリップ小屋がどんどんなくなっている中で、同じ通りに3件もの小屋が生き残っているのは驚くべきことだ。あの草津でも、ストリップ小屋は2件しかなかった。
 入ってみたいという気持を抑えるのに苦労した。今回は、旅行の目的が違う。また次の機会だと、自分に言い聞かせた。ストリップ小屋の魅力は、女の裸だけではない。人間くさい哀愁が満ちでいる。ペーソスやノスタルジアといったものさえ商品化されて行く中で、本物の情感を味わえる数少ない場所なのではないか。いつかは全国の温泉地を巡って、ストリップ小屋を覗いてみたいと思っている……。
 ほうとうを食べられる店を探して歩いたが、目に入るのはラーメン屋の看板ばかりだ。石和に限らず山梨は、どうしてこんなにラーメン屋が多いのか。ときたま飲み屋の軒先に、「ほうとう」という文字をみかけたが、酒なしでほうとうだけを注文する勇気はなかった。ようやく、ドライブイン風の郷土料理店でほうとうにありついたときは、すでに夜の6時半を過ぎていた。

 石和町の外れにある石和健康ランドには、7時半頃着いた。24時間営業の温泉施設で、料金が2,000円。前回、利用したときにもらった割引券を使ったので1,700円、仮眠室で一泊すると、これに深夜料金の700円が加算される。都心のサウナに似たシステムだが、違うのは女性の姿が目立つことだ。むろん、脱衣所や浴室は男女が分かれているが、娯楽室やシアタールームなどは共用になっている。家族連れや夫婦で来ているお客が何組もいた。また、若い女性だけのグループもいる。だからといって、何もするつもりもないし、またできもしないおんだが、女性が近くにいるだけでなんだか華やいだ気分になってくる。
 石和健康ランドには、15種類の風呂がある。各種のサウナ、超音波風呂、薬草風呂、漢方風呂、バイブラバス等など。わたしの一番のお気に入りは、露天の樽風呂だ。祖父母の家にあった五右衛門風呂を連想してしまう。祖父母の家での思い出がもう一つ。便所が汲み取り式で、チリ紙の代わりに新聞紙を適当な大きさに切ったものが置かれていた。倹約のためだが、昔の人はお尻の穴が丈夫だったのだろう。そういえば、まだチリ紙交換屋という職種も存在しなかった。

 温泉プールのサイドにある打たせ湯で、歩き疲れてむくんだ足を入念にマッサージしてから、2階のシアタールームのリクライニングシートに体を横たえた。零時を過ぎると映画の上映が打ち切られて仮眠室になる。大きな鼾に邪魔されて、なかなか寝付けなかったが、いつの間にか熟睡していた。
 翌31日は、朝風呂を十二分に楽しんだあとで、8時30分にチェックアウト。台風はどこに消えてしまったのか、真夏のような太陽が青空の真ん中に居坐っている。朝食は昨日、春日居町のスーパーで買っておいた菓子パンと自動販売機の缶ジュース。葡萄畑の前の空き地に腰を降ろして、遠く八ヶ岳を望みながら、特売品のチョコレートパンを頬張った。
 食後の腹ごなしに、葡萄畑や桃畑が広がる周辺をぶらぶらと散策しながら、中央線の酒折駅まで出た。次の甲府で電車を乗り換えて、竜王まで行った。将棋ファンにとっては印象深い駅名だ。
 地図を頼りに、山口温泉まで歩いた。旅行雑誌の案内では、甲府駅からバスで15分、さらに徒歩で5分と書いてある。竜王駅から歩いて、30分ほどで山口温泉に着いてしまった。入浴料は500円、ぬめり気の強いお湯は黄色味を帯びている。こんな不思議な色の温泉に入ったのは初めてだった。密かに、「マスカットの湯」と命名した。今回の旅で、一番の掘り出し物になった。

 山口温泉からさらに40分ほど歩いて、釜無川レクリエーションセンター(入浴料500円)に到着。ここまでくると、さすがに温泉に飽きてくる。しかし、かすかに硫黄臭のするお湯は、なかなかの名湯だった。

 温泉巡りはここで打ち止め。帰りの交通費や昼食の駅そば代を入れて、使ったお金の合計は9,978円。交通費が捻出できなくて、仕方なく歩き中心のハードな予定を組んだのだが、とても贅沢な時間を過ごしたという感慨が今でも残っている。
 思えば、歩きは旅の原点だ。徒歩なればこそ、その土地の景観や風物、温泉を存分に体感することができたのではないか。そうした我が儘が許される独り旅の魅力に、すっかり開眼して、いやさせられてしまった。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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