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※10年ほど前に友人のHPに書いたエッセイを改稿&再編集しました。



 今年の1月の終わり頃、通信仲間がわが家に遊びに来た。その友人が持参したのが、巷で大人気の「たまごっち」。
「ほほー、これが噂の電子ゲームかいな」
 うちの奥さんと二人で、しげしげと眺めていた。とてもシンプルな絵柄だけど、ちゃんと感情が表現されている。見ているだけで、なんだか楽しい気分になってくる。やっぱり、大ヒットするだけのことはあるわいと、感心しながら見入っていた。
 それから数日後、まるでたまごっちの分身のような生物が、わが家に来訪した。 台所で夕食の支度をしていた奥さんが、悲鳴のような声を上げた。なんだと思って台所に顔を覗かせると、シジミが入ったボールを目の前に差し出した。目を凝らしてよく見ると、シジミとは違った形のものが一つ、入っている。子供の頃、田舎のたんぼでよく目にしたタニシに間違いなかった。
 奥さんの話では、そのシジミは吉祥寺伊勢丹の鮮魚売り場で買ったもので、「青森十三湖養殖」という貼り紙がしてあったそうだ。図書館の本で調べてみると、青森県の津軽半島北に位 置する十三湖は、白神山地を源流とする岩木川の真水と日本海から流入する海水が混ざり合う汽水湖で、シジミの養殖が盛んな所であることがわかった。遠路はるばる、本州の北端から来てくれたのだ。
 人間であれば、「長旅で疲れたろうから、ひと風呂浴びて……」、と言いたいところだが、水道の水で我慢してもらって、発砲スチロールの容器の中でしばらく休んでもらうことにした。シジミの方は、熱い風呂ならぬ 熱湯で煮立てられて、夕食の味噌汁として二人のお腹の中に(合掌!)。
 さて、その珍客だが、これからどうするかで奥さんと意見が対立した。
「このままだと死んじゃうから、玉川上水に放してやれよ」
 これは、わたしの主張。うちのアパートの近所に、玉川上水が流れている。
「あんな所に放したら、すぐに鯉に食べられちゃうよ」
 これは、奥さんの反論。実際、玉川上水には、でかい鯉が放流されている。鯉がタニシを食べるなんて聞いたことはないが、そんなことはないと断言できるほど、わたしは鯉の嗜好に詳しいわけでもない。結局、しばらくわが家に逗留してもらうことになった。
 水道の水は、消毒のための塩素が入っているので、金魚と同じで汲み置きした水を使うことにした。環境が落ち着くと、しっかりと蓋を閉めて警戒していたタニシが、顔を出してゆっくりと動き始める。体の色はカタツムリと同じ肌色だが、容貌はまったく違っている。やはり2本の触角があるのだが、顔がアリクイのように突き出ている。その先端に、黒っぽい口がある。一見、象アザラシの鼻のようにも見える。
 目は、触角の根元の外側にある。まるでぺん先でチョンチョンと描いたような2つの瞳が、とても愛くるしい。円形の黒い閉じ蓋は、背中にくっついている。 体をすっぽり貝の中に収納すると、自然と蓋が閉まる仕組みになっている。当然のこととはいえ、うまくできているものだ。
 仮の住まいはどうにか整ったが、問題は食事である。今までタニシを飼ったことはなく、いったい何を食べるのかさっぱりわからない。試しに、食パンを千切って与えてみた。すると、食べる食べる。水でふやけて繊維のようになった食パンを、あの象アザラシの鼻のように突き出た口で、吸い込むようにして食べている。
 調子に乗って、もう一切れ。しかし、途中からなんだか様子がおかしくなった。水面 に黒い唇を突き出して、口をパクパク。なんだか苦しそうに喘いでいるようにも見える。 パンが体質に合わないのか、それとも喉に詰まったのか。しばらくして、どうにか動作が落ち着いたが、それで懲りてしまったのか、もうパンには見向きもしなくなった。
 次に試したのがニンジンの根。根菜であるニンジンの頭の部分を切り落として、水に浸しておく。すると、葉っぱがまたニョキニョキと生えてくる。ちょっと目には、観葉植物といった雰囲気だ。うちの奥さんは、このニンジンの水栽培(というのかな?)の名人で、とうとう花まで咲かせてしまった。ニンジンの花は、小さな白い花が密集していて、小紫陽花に似た可憐な花だ。
 その水栽培のニンジン、切り口から白い髭のような根が生えてくる。その髭根の生えたニンジンの切り株を、タニシを入れた発砲スチロールの容器の水に浸しておいた。ニッタ君(タニシの名前)、歯のない婆さんのような口で、まるでしゃぶるようにしてニンジンの根を食べている。
 今度は大成功だ。しばらくすると、水の底に細長いウンチが転がっている。ちゃんとニンジンの根を消化している証拠だ。食事をして元気が出たのか、それからは俄然、活動量 が増えてきた。
 ところで、 ニッタ君の名前だが、最初は「たまごっち」にあやかって、「たにしっち」などと呼んでいた。しかし、名前としては違和感がある。
「じゃ、タニシのタニーはどう?」
 と、うちの奥さん。
「うーん、今一つ響きが悪いな」
「じゃ、逆さまにしてニッタ君にしようか」
 名前を得て、ニッタ君は食客の身から、完全にわが家の一員になった。
 こうなると、タニシのことをもっと知りたくなってくる。地元の図書館で、タニシのことを書いた本をみつけてきた。その本には、2本ある触角の長さが揃っているのが雌で、不揃いなのが雄なのだと書いてある。ニッタ君の触角は、まるで計ったように揃っている。その触角で前方を探りながら、うんこらどっこいしょ、とばかりに体を捩りながら前進するのだ。
「へえ、レディだったんだな」
 そういう目で見ると、ニッタ君の巻き貝の部分が、日本髪の高島田に似ているように思えてきた。その巻き貝の先端部分に、小さな水草のようなものがくっついている。それが水中でゆらゆらと揺れている様は、まるで簪(かんざし)のようだった。
 餌は藻や水草で、水槽の表面にこびりついた垢のような藻を食べてくれるので、観賞魚と一緒に水槽で飼われることもあると書いてある。そういえばニッタ君、発砲スチロールの底を舐めながら、ずるずると水中を移動している。
 奥さんが、近所にある園芸店から、さっそく水草を仕入れてきた。ニッタ君、大喜びで食べる食べる。水草の葉っぱを触角で抱くようにして、葉っぱの表面 をはぐはぐはぐと舐めている。もう、ニンジンの根には見向きもしない。ニンジンの根は、他に何もないから仕方なく食べていたのだと、ようやく気づいた。

 ニッタ君がわが家にやって来て、おおよそ2週間が経過した。
「これ、なんだろうね」
 奥さんが、水草の葉っぱのある一点を指さした。
「ただの空気の泡じゃないの?」
「でも、なんだか動いてるんだよ」
「うん、あれれれれ……」
 しばらく眺めていると、その水泡、葉っぱの上を移動している。あらためて、じっくりと目を凝らして見た。透明で胡麻粒ぐらいの大きさしかないが、ちゃんと巻き貝の形をしている。
「ひょっとして、ニッタ君の子供じゃないか?」
「まさか、だって、雄がいないじゃないの」
「それもそうだな」
「じゃ、こいつはいったい、なんだろうね」
 しばらく様子を見ることにした。その稚貝は猛烈な勢いで水草を食べまくって、瞬く間に米粒ぐらいの大きさに成長した。透明だった巻き貝も、徐々に黒味を帯びてきた。そして、貝から外に出ている頭部には、2本の触角が伸びている。なんだか、タニシの姿になってきている。それで、もう一度、図書館の本を調べてみた。 その本によると、タニシは卵胎生で、幼生は親と同じ形をして体外に出てくると書いてある。ということは……。
 ニッタ君は、青森にいるときに子供を宿していたことになる。はるばる東京のわが家にやって来て、発砲スチロールの水溜まりの中で、子供を生み落としたのだ。 なんだか、感動してしまった。
「ニッタ君の子供だったら、名前をつけてあげないとね」
 奥さんが提案した。
「タニシの……」
 そのとき思い浮かんだのが、トニー谷の顔。
「そうだ、トニー・タニシ!」
 先に言われてしまった。一緒に暮らしていると、発想が似てくるのかもしれない。しかし、触角の感じから、トニーもレディの可能性が高いのだが。
 ニッタ君がわが家に来訪したのが、1月の末。厳しい冬が過ぎて、桜の咲く季節になっても、ニッタ君は元気に生きていた。あれは、神宮に野球観戦に行って、アパートに帰って来た夜だった。2、3日前から、ニッタ君の活動量 が目に見えて減っていた。ほとんど餌を食べないで、水中でじっとしていることが多くなった。
 ニッタ君は、すでに死んでいた。貝から体を外に出した状態のままで、まったく動かない。体がふやけたように、白っぽく変色している。
 原因はなんだろうと、いろいろと考えてみた。しかし、寿命だと思うことにした。 生物辞典によると、タニシの雌の寿命は3年だという。ニッタ君の巻き貝は、先端部分が少し欠けて、かなり傷んでいた。わが家にやって来たときにはすでに、寿命分は生きていたのかもしれない。
 ニッタ君がまだ元気な頃、盛んに発砲スチロールの容器の外に逃げ出そうとしていた時期がある。うんしょ、こらしょと容器の縁を乗り越えて、机の上に転がり出てしまうのだ。段差があるので、落下したときのショックがかなりあると思うのだが、懲りずに脱走を繰り返す。もっと広い場所に移動したいんだなと推測して、大ぶりな花器の水盤に転居させた。
 しかし、それから一週間もたたずに、ニッタ君は死んでしまった。今、思い返すと、あの脱走は、死に場所を探していたのかもしれない。広々とした水盤に移ってからは、逃げ出そうとはしなくなった。気に入ってくれたんだと思っていたけど……。いや、やはり、気に入ってくれたんだと思う。それで安心して、寿命を全うする気になったんだと考えたいものだ。
 なんだか、少し悲しい結末になってしまったが、トニーはいまだに元気で動き回っている。巻き貝は丸みを帯びて、堂々としたタニシの体になってきた。今はやんちゃ娘だが、将来は母親のニッタ君のように、気立てのいい青森美人に育ってくれることを願っている。

Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


◆ 「タニシのニッタ君」の感想
(掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。
*タイトルバックに「 けいこのザリガニ日記 」の写真を使用させていただきました。


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