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《 アメンボ 》

(うん?)
  河原の土手で、菓子パンの昼食を食べていたときだ。足下で何かが動いた。
(蜘蛛かな。いや、違うな)
 目を凝らしてよく見ると、それは間違いなくアメンボだった。水の表面張力を利用して、まるで滑空するように水上を自在に移動する奇妙な生き物である。しかし、どういうわけか陸地にいるのだ。わたしの視線を感じたのか、アメンボの動きが止まった。
(陸の上では、どうやって移動するのかな)
 細長い四肢を蜘蛛のようにクネクネ動かして移動する姿を想像して、そんな馬鹿なとニヤリと笑った。我慢できなくて、手を伸ばして威嚇した。アメンボがようやく動いた。四本の足で、同時に足下を蹴るようにして体を浮き上がらせる。水上と同じ要領なのだろうが、ほんの少し移動しただけだ。それでも何度かその跳躍を繰り返して、草むらに姿を隠した。
 アメンボでは、東京にいた頃にも不思議な思い出がある。雨上がりの午後だった。駅からの帰り、路地裏の舗装された道路の窪みに、小さな水たまりができていた。その水面に、一匹のアメンボがいたのだ。住宅街の中なので、近くに川や池はないはずだった。そのアメンボは、どうやってこの水たまりまで移動してきたのだろうか?
 あとでネットで検索して、アメンボには翅(はね)があり、飛べるのだということを知ってようやく納得した。しかし、あのアメンボが路上の小さな水たまりを選んだ理由がわからない。旅の途中で、ひと休みしていたのだろうか。
(アメンボの“歩く”姿を見たやつは、そんなにはいないだろうな)
 陸上のアメンボを見たわたしは、少なからず興奮した。しかし、帰省して故郷で働き始めたばかりのわたしには、その小さな大発見をしゃべれるような相手がいないのだった。
 あれから半年余りが経過している。わたしは昼休みに職場を抜け出して、河原に向かった。山里の長い冬がようやく終わって、土手沿いの桜並木が満開を迎えている。わたしは、相変わらず独りで菓子パンを囓りながら、あのアメンボのことを思った。
(まさか、あのときのアメンボが東京から……)
 そんな馬鹿なとかぶりを振った。
(あいつも、どこかで花見をしているかもしれないな)
  辺りを見渡した。
(あっ)
 視線が一点で留まった。四つ葉のクローバーを見つけたのである。


《 親子連れ 》

 公園でやっているフリーマーケットを覗いた帰りだった。昼時を過ぎていたので、園内にある小さなレストランで、昼食をすませることにした。ゴールデンウィークの最中なので、店内の椅子や、バルコニーに配備しているテーブルセットは、すべて親子連れに占拠されていた。仕方がないので、うちのかみさんとふたり、近くにある大きな切り株に腰をおろして、蕎麦を食べていた。
 ほとんど食べ終わったときに、ふと切り株の表面に視線を落とすと、裂け目のような朽ちた隙間から、小さな突起物のようなものがうごめいている。相棒のかげぼうしが切り株を覆っているので、顔を近づけて見た。
(カタツムリかな?)
 まさしくその突起は、カタツムリの伸縮自在な触覚だった。やがて、その全貌が明らかになった。
「ナメクジ!」
 かみさんが悲鳴をあげて、ドンブリを持ったままとび上がった。かげぼうしも一緒にとび上がって、五月晴れの太陽が、その殻のないカタツムリの全身を照射した。そいつは困惑したように、頭部を左右に振って周囲の様子をうかがっている。切り株の隙間からは、さらに一匹、いくぶん小ぶりのやつが姿を現した。さらにもう一匹、明らかに子供とわかる大きさだった。
 ナメクジの親子連れ(たぶん)なのだ。かみさんのかげぼうしで、曇天になったと勘違いして、散歩気分で外に出てきたのだろうか。三匹は、まるでパニックに襲われたように、それぞれ違った方向に、匍匐(ほふく)前進を開始した。もっとも、立って歩いたり、バックするナメクジを、わたしは見たことがない。
 かみさんが、驚かされた仕返しだとばかりに、お父さん(たぶん)の進行方向に、蕎麦の切れ端を落とした。なんだろうと、お父さんが障害物にのそのそと近寄った。そして、蕎麦の濡れた表面を舐め始めた。
「喉がかわいてたんだな」
 どんどん気温が上昇して、今日は真夏日になった。蕎麦に水を垂らしてやると、さらに口の移動がスムーズになった。お父さんだけではかわいそうだと、お母さん(たぶん)と子供にも、蕎麦の切れ端を与えた。二匹とも、喜んで舐め始めた。
「食べてるよ」
 かみさんが言った。
「ほら、なんだか体が白っぽくなってるもの」
 お父さんの体の半分(上半身?)が、変色していた。蕎麦の表面をよく見ると、ヤスリで削られたように薄くなっている。なんだか、大発見をしたような気がして、嬉しくなった。
「タニシに似てるよね」
 スーパーで買ったシジミのパックに紛れ込んでいたタニシを、しばらく飼っていたことがある。水草の葉の表面を舐める仕草がそっくりだった。
(かわいい……)
 不覚にも、そう思ってしまった。テレビのCMで、チワワを見つめるお父さんの気持が少しだけわかったような気がした。
 帰り道、公園で出会った幸運を、わたしは、ナメクジの親子の分まで感謝した。
もし、家の中で見つけていたら……。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


◆「小さきものへ」の感想


*「親子連れ」は「文華」の課題テーマ「かげぼうし」に参加した作品を改稿したものです。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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