亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る

(いったい、どこからわいてくるんだ)
 カブ先生こと仲里惣八は、人酔いによる頭痛に顔をしかめながら、不遜な悪態を吐き出した。新宿駅の構内は、年末の休日ということもあって、人波で溢れている。みんなせかせかと先を急いでいて、カブ先生が障害物でもあるかのように、邪険に追い越して行く。埼京線のホームにたどりつくまでに、たっぷり10分はかかってしまった。
 大宮行きの電車は空いていた。扉のそばの座席に腰を降ろして、カブ先生はほっと一息ついた。そして、トレンチコートのポケットから、すでに失効している運転免許証を取り出すと、あらためて見入った。山東和馬(さんとうかずま)、子供の頃によく遊んだ幼なじみだった。互いに独りっ子だったせいか、まるで兄弟のようにいつもつるんで行動していた。
 だが、免許証のよく日に焼けた顔に、泣き虫だった弟分の面影はなかった。顎髭と口髭をたくわえて、茶色に染めた長い髪をポニーテールに束ねている。淡いグレイのサングラスは、免許の条件等の欄に「眼鏡等」と記載されているので、度が入っているのだろう。長年の都会暮らしで、視力をやられたか。子供の頃は目が良いのが自慢で、アケビやキノコを見つけるのが得意だった。
(いい年をして、ヤンキーの真似事か?)
 不機嫌そうな和馬の写真に話しかけた。右の小鼻には、星形のシルバーの鼻ピアスが光っている。
(生きていたら、今はちょうど50か……)
 免許証の交付年月日は、5年前になっている。そして、この免許証の持ち主は、2年余り前の交通 事故で亡くなっているはず……、だった。中国山地の山間(やまあい)にある故郷には、和馬の墓も建てられている。
 カブ先生が、自分の患者である山東籐助(とうすけ)から相談を受けたのは、一ヶ月ほど前のことだ。持病のリウマチが進行して、歩行が困難になった籐馬は、独り暮らしということもあって、正月明けから地元の老人養護施設へ入所することが決まっていた。無口な老人は、カブ先生の前に一通 の手紙を差し出した。
「これは……」
 手紙を読んだカブ先生は絶句した。籐助の一人息子、和馬の手紙だった。手紙の内容によると、和馬はまだ生きている。
「いつ届いたんですか?」
「あいつの葬式を出して、10日ぐらいたってからかな。中に10万、入っとったよ」
(だったら、死んだのはいったい誰なんだ?)
 手紙には、その答えは書かれていない。別の人物が交通事故に遭い、間違って和馬の遺体として処理されたという説明があるだけだ。中央高速のトンネルで玉 突き事故に巻き込まれた和馬の遺体は損傷がひどく、病院の霊安室で対面した籐馬は、その肉塊が自分の息子だとは信じられなかったという話を、カブ先生は聞いていた。
「この手紙、本物ですか?」
 籐助が頷いた。
「和馬の字に間違いない。こんな下手くそな字、誰にも真似はできねえさ」
 今度は、カブ先生が頷いた。不格好で微妙に右に傾いた文字には、確かに見覚えがあった。
「手紙はこれだけですか?」
 籐助が、無言で茶封筒を差し出した。全部で、6通の手紙が入っている。内容を確認したが、いずれも籐助の体を案じる文面 で、自分は元気でやっているから心配しないでくれという言葉で締めくくられていた。消印を確認したが、同じものはないものの、いずれも東京都内から投函したものだということがわかった。
「わしが東京に行けばいいんだが、こんな体になってしまって……」
 籐助が口ごもった。
「わかりました。わたしが行きましょう。和馬が生きているのなら、わたしも会ってみたい……」
 本音だった。しかし、それが簡単ではないことを、カブ先生も籐助もよくわかっている。
「恩にきります。でも、無理はしないでくだせえ」
 カブ先生の身を案じての言葉だけではなかった。あるトラブルでその筋の人間から追われているので、このまま死んだことにしてほしい──、そうした意味のことが、和馬の手紙に書かれていた。まるで念を押すように、和馬の手紙には毎回、そのことが書き添えられていた。だからこそ父親の藤助は、赤の他人かもしれない遺骨を埋葬して、墓まで建てたのだ。藤助の「無理はしないでくだせい」という言葉には、和馬がまだ生きていることがバレないようにしてくれという願いが込められている。
「もし、和馬に会えたら、何か伝えておくことはありますか」
 藤助が口をへの字に結んで、押し黙った。
「わしのことは心配するな……」
 絞り出すように、それだけ言った。次の言葉を待ったが、藤助は沈黙したままだ。そして、思いを断ち切るように、老いた父親は小さく頷いて見せた。


 カブ先生は、板橋駅で降車した。免許証に記載してある住所が板橋なのだ。その免許証は、和馬が身につけていた遺品だった。もし、交通 事故死した人物が和馬でないとしたら、どうしてその人物は和馬の免許証を持っていたのだろうか。
(それが何かの偽装だとしたら……)
 あの高速道路の事故では、和馬も含めて、いや、和馬だとされた人物も含めて、3人が命を落としている。あの事故が意図されたものだとしたら、それは殺人ではないか。素人探偵の出る幕ではない。早々に警察に届け出るべきではないか、その思いがずっと燻っている。
 商店街のだらだらした坂を登ったところで、八百屋のおかみさんに道を尋ねた。薄暗い路地の突き当たりに、そのアパートはあった。予想通 りの、ひどくうらぶれたアパートだった。木造モルタルの 二階建てで、上と下にそれぞれ3部屋ずつの計6部屋。和馬は、一階のいちばん奥の部屋に住んでいたはずだった。
 その部屋の前に立った。古い年賀状が、表札代わりに貼り付けてある。プリンターで印字された名前を一瞥しただけで、引き返した。和馬のあとから入居した人物に話を訊いても仕方がない。
 真ん中のドアには、表札らしきものは何もなかった。 ドアに嵌め込まれた郵便の差込口の上にマジックで、「ユミ」とだけ無造作に書かれている。チラシが乱暴に押し込まれていた。ドアをノックした。しばらく待ったが、反応はなかった。それを三度ばかり繰り返して、断念した。
(幸先が悪いな)
 隣のドアに移動して、ノックした。名刺大の表札が、貼り付けてあった。凝った飾り文字で、おそらくパソコンを使って自作したのだろう。真新しいのが気になった。
「どなたですか?」
 警戒する声が聞こえた。
「山東と申します。このアパートに住んでいた山東和馬の兄ですが、ちょっとお訊きしたいことがありまして……」
 用意しておいた言葉を告げた。ガチャリとロックが外れる音がして、ドアが開いた。 青白い顔をした若い男が顔を覗かせた。パジャマの上に女物のちゃんちゃんこを羽織っている。
「さんとうかずまさん……、ですか? 聞いたことない名前ですね」
「失礼ですが、あなたがこのアパートに入居したのはいつ頃ですか?」
「今年の3月です」
「じゃあ、和馬のことは知らなくて当然です。彼がこのアパートを出て、2年になりますから」
 会釈してドアを閉めようとする男を、カブ先生はあわてて呼び止めた。
「隣の人は、どうでしょう? 以前からここにいる人ですか?」
 男が頷いた。
「僕よりも古いことは確かですね。でも、あの人、一昨日(おとつい)、引っ越しましたよ。このアパートに残っているのは僕だけです。来月、取り壊しになるんですよ。立体式の駐車場を建てるみたいですね」
 落胆した。さして期待していたわけではないが、和馬がどういう生活をしていたのか、些細な手がかりでもいいから欲しかった。
「引っ越し先は、わからないでしょうね」
 駄目もとで訊いたが、やはり駄目だった。
「ほとんど顔を合わすこともなかったですからね。それに、ちょっと変わった人でしたから。もともと、このアパートで暮らしていたわけでもなかったし……」
 男の顔に、冷笑が浮かんでいる。その変わった隣人のことが気にはなったが、それ以上の詮索は控えた。時間は限られている。寄り道している余裕はない。
 念のために、アパートの大家の連絡先を教えてもらった。しかし、住所が埼玉 県の蕨市で、アパートに顔を出すこともほとんどなかったという。和馬のことを覚えているかどうかもあやしいものだ。田舎から持参した饅頭を強引に手渡して、男の前を辞した。
 アパートから少し離れた場所で、後ろを振り返った。来月には、このアパートは消滅する。それで、和馬の生活の痕跡も消滅する。すべては過去のことなのだと、言い聞かされているような気がした。
 もうひとつ、不可解なことがある。和馬が故郷を出奔してからは、ずっと音信不通 が続いていた。和馬がどこで暮らしているのかさえ、父親の藤助は知らなかった。それが、和馬が死んでから、いや、死んだことにされてから、定期的に手紙が届くようになった。馬鹿は死ななきゃなおらない……、一度死んで、孝行息子に生まれ変わったか。
「親のことを心配しない子供はいませんよ」
 カブ先生は、ある患者の家族の言葉を思い出した。過疎の進む山里では、独り暮らしの老人が多い。元気なうちはまだいいが、病気や老衰で生活が困難になると、その扶養をどうするかが問題になってくる。
「お母さんは、孝行息子を持って幸せですね」
 往診先で、看護師の山村さんが、患者の息子に声をかけた。50年輩のその男は、勤めていた会社の早期定年退職制度に応募して、老母の世話をするために故郷に戻って来たのだ。ただし、家族の同意を得ることはできずに、独りだけの帰郷だった。家族には、家族の生活がある。そうした介護の“単身赴任”は、もはや珍しいことではなかった。
「向こうで、お袋のことを心配して暮らすよりも、ここで世話をしている方が、気分的に楽ですからね」
 そう言って、疲れた顔に自嘲を浮かべた。痴呆の症状が出ている老人の介護は、気の休まる暇がないだろう。帰るも地獄、帰らなくても地獄……。
「いろいろと問題はありましたが、帰って来れただけ、わたしは幸せです。帰りたくても帰れない人もいるわけですから」
 自分に言い聞かせているようだった。
「親のことを心配しない子供はいませんよ」
 深い諦観がこもっていた。使命感や愛情だけでは持ちこたえることはできない。認知症の老親を抱えて、長い長い坂道を転がり落ちるには、石のような諦観が必要になる。
(おまえも、親父さんのことは、ずっと心配していたんだろうな)
 和馬に向かって、話しかけた。
「ごめんなさいよ」
 野太い声が聞こえた。振り返ると、ポップアートのような厚化粧の顔があった。濃厚な香水の匂いが鼻腔に押し入ってくる。カブ先生は、反射的に道を空けた。
「ありがとう」
 赤い唇に笑みが浮かんで、カブ先生の傍らを通り過ぎた。真冬だというのに、相当なミニスカートだ。カブ先生の視線を意識してか、豹柄のタイトスカートに包まれたお尻を大きく揺らして歩いている。
「待ってください」
 アパートに向かう人物の背中に声をかけた。


 駅前の喫茶店に入って、ユミさんと話していた。ユミさんの本当の名前は克彦で、都内の私立高校で国語を教えている。赤羽のマンションで、妻子と暮らしているのだが、週に何度かこうして女装して、新宿に遊びに行くのだという。周囲にはカミング・アウト(公表)していて、こうした女装ライフをインターネットのブログで公開している。ユミさんの口振りでは、この世界では相当な有名人、らしい。
 板橋のアパートは、衣装部屋として借りていた。すべてにオープンなユミさんも、さすがに妻子の前で化粧をする勇気はないらしい。今は、近くに別 のアパートを確保している。今日は、忘れ物を取りに来たのだ。
 ユミさんが小首を傾げた。アイシャドーに縁取られた視線の先に、和馬の免許証があった。
「なんだか雰囲気が違うような気がするけど、免許証の写真は構えるから、変な顔になっちゃうのよね」
 そう言って、免許証をカブ先生に返した。
「で、どうして弟さんのことを調べているの? 確か、2年ぐらい前に交通事故で亡くなったんじゃないかしら」
 カブ先生が頷いた。
「今度、わたしや弟が卒業した小学校が廃校になることになりましてね。みんなの想い出を遺すために、文集を作ることになったんです。せっかくだから、弟のことも載せてやりたい。それで、生前の弟のことを、少し調べてみる気になったんです。東京に出てからは、音信不通 の状態が続いてましたから、こちらでどんな暮らしをしていたのか、わたしたち家族はまったく知らないんです」
 用意しておいた言い訳を使った。
「そんなことを言われても、顔を合わしたときに挨拶するぐらいだからね」
「どんなことでもいいんです。和馬……、弟は、あのアパートでどれぐらい暮らしていたんですか?」
 ユミさんがコーヒーを口に運んで、少し考えた。
「5年……、いや、6年かな」
「最初から、こんな格好をしていましたか?」
「格好?」
「髪型や髭のことです」
 免許証の写真を指さすと、ユミさんが頷いた。
「アパートに入居したときから長髪で、髭も生やしていたように思うけど」
「鼻のピアスも?」
 ユミさんが再び頷いた。
「それはよーく覚えているわ。インパクトがあったもの」
(ヤンキースタイルは、かなり年期が入っていたわけか)
「友達はどうですか? 弟の部屋に遊びに来るような友達はいませんでしたか?」
「見たことないわね。でも、話し声は聞いたことがある。あの通りのボロアパート だから、隣の話し声がよーく聞こえるの」
「男ですか? それとも女?」
「男の声だったけど、わからないわよ。あたしのような声の低い女もいるからさ」
 豪快に笑った。
(確かにそうだな。恋人は、女とは限らない)
 カブ先生はあらためて、顔写真の鼻のピアスを見た。
「弟の印象はどうでした?」
 ユミさんがしばらく沈黙した。
「どこか人を避けているような気がしたな。視線を合わせようとはしないし、なんだかオドオドしたような感じ……」
 それは、相手があなただからではないですか、とツッコミを入れたくなるのを、カブ先生は我慢した。ユミさんは、一目で男だとバレる体型をしている。身長はさほどでもないが、肩幅が広くて筋肉質だ。
「何か、秘密を抱えているんじゃないかと思って、一度、あとをつけたことがあるのよ」
「尾行、ですか?」
 ユミさんが頷いた。
「どうせ、暇だったから」
 それが本音だろうと思った。
「バレませんでしたか?」
 当然の疑問を口にした。ユミさんと一緒にいると、周囲の視線を意識せざるを得ないのだ。
「男モードのときだったから、大丈夫。頭の禿げた地味なオッサンなんて、誰も気にかけやしないもの」
 納得した。
「それで、弟はどこに行ったんですか?」
 ユミさんが、顔の前で手を振った。
「それが、まったくの期待外れでね。池袋にある普通のファミリーレストランなの」
「食事に寄ったんじゃないんですか?」
「従業員用のドアから入ったから、バイトでもしてたんじゃない」
「何時頃ですか?」
「夜の9時前だわね。その店、24時間営業だから」
(どういうことだ? 和馬は、運送会社で働いていたはずだが)
 カブ先生は、考え込んでしまった。


 その運送会社は、中野にあった。最初、営業部長の肩書きを持つ60年輩の男が応対してくれたが、カブ先生の希望で、和馬の同僚だった従業員を呼んでくれた。30そこそこで、実直そうな好青年だった。わたしは用事があるのでと、営業部長が早々に席を立って、宮原という男と会議室で二人だけになった。
「本当は、わたしも山東さんと一緒にあの車に乗っているはずでした。それが、急に呼吸が苦しくなって病院で診てもらったら、肺気腫が破裂して大きな穴が空いていました。即入院で、手術を受けたんです」
 カブ先生は小さく頷いた。医師という自分の職業は、すでに告げてある。医者に対して、仮病は使わないだろう。また、調べればすぐにわかることだ。
「どんなものを運んでいたんですか?」
 二日酔いの頭痛に顔をしかめながら、カブ先生が尋ねた。昨夜は遅くまで、ユミさんと新宿二丁目で飲んでいた。それが、和馬が働いていたという池袋のファミレスに連れて行ってもらう条件だった。カブ先生は、二十数年ぶりに禁酒の誓いを破った。どうせ急患が出ても、東京から駆けつけるわけにはいかないのだ。
「美術作品です。名古屋で開催されるコンクールに出品される予定でした」
「高価なものですか?」
 宮原が苦笑を浮かべてかぶりを振った。
「アマチュアの美術展ですから、値段なんてありませんよ。もっとも、本人は芸術家気取りで、自分の作品は凄い価値があると思い込んいるかもしれませんがね。わたしには、壊れたテレビを積み上げただけのガラクタにしか見えませんでした」
「じゃあ、あの事故で、その作品も駄目になったわけですね。作者からクレームがきたんじゃないですか?」
 宮原の顔が強ばった。
「それが……、作品の返還を強硬に主張されましてね。結局、事故で焼け焦げたテレビを会場に陳列したそうです。それが迫力を生んだのか、何かの賞をもらったという話を聞きました。まったく、あの事故では何人も死んでいるというのに……」
 カブ先生は、その作者の名前を教えてもらった。結果的にだが、あの事故で利益を得た者がいたということになる。
「美術作品はよく運ぶんですか?」
 宮原が頷いた。
「梱包が面倒でそれなりの技術がいるから、高い料金が設定できるんです。美術品や骨董品などの運搬は、会社がとくに力を入れている分野ですね」
 どこの業界も競争が激しいのだなと、カブ先生は合点(がてん)した。
「弟とは、いつも組んで仕事をしていたそうですね。仕事ぶりはどうでした?」
 宮原が笑顔を見せた。
「真面目でしたよ。あんな格好をしているから、いいかげんな人なんじゃないかと最初は心配したけど、人当たりは良いし、仕事も丁寧でした。パートナーとしては申し分なかったですね」
「弟がこの会社に勤めていたのは、5年余りでしたよね?」
 宮原はしばらく頭の中で計算していたが、同意した。
「その前は、何をやっていたか聞いていないですか?」
  宮原がかぶりを振った。
「プライベートなことは、まったく話さない人でした。下戸なので、飲み会に付き合うこともなかっし。もっとも、わたしもアルコールをまったく受け付けない体質なので、その方がありがたかったですね」
 カブ先生は小首を傾げた。和馬の父親は、かなり酒がいける口なのだ。
「金使いはどうでしたか? 金に困っている様子はなかったですか?」
 今度は、宮原が小首を傾げた。
「問題はなかったですね。たしかに、節約はしているようでした。一緒に食堂に入っても、安いものを選んで食べていたし、着るものにもお金をかけていませんでした。もっとも、会社の外でのことは知りませんが……」
「髭や鼻のピアスについては、何か言ってましたか?」
「とくにないですね。でも、外見には相当なこだわりがあるようでした。冬場でもよく日に焼けているから、サーフィンでも行ってるんですかと尋ねたら、バツの悪そうな顔で、日焼けサロンに通 っているんだと言ってました。 若い恋人でもいたんじゃないですか」
 そこでクスリと笑った。
「左手にぐるぐると包帯を巻いてきたことがあるんです。大丈夫ですかと尋ねたら、料理を作っていて火傷したんだと言っていました。その包帯が、荷物を運んでいるときに外れてしまったんですが、火傷のあとなんかありませんでした。鼻のピアスや眼鏡と一緒で、ファッションだったんじゃないですかね」
(自分の外見にこだわる理由があったのか……)
 カブ先生は、独り言を呟いた。
「体調はどうでしょう? 疲れているとか、睡眠不足の様子はなかったですか?」
 ファミレスの仕事もしていたのだとしたら、相当に無理をしていたはずである。
「そんなことはなかったですよ。美術品の運搬なんか、けっこう神経を使う仕事ですからね。睡眠不足だったらとても勤まりません。運転にも支障が出ますから、注意していたはずです」
 カブ先生は、考え込んでしまった。

 
「弟の仕事ぶりはどうでしたか?」
 カブ先生の問いかけに、田塚という四十年輩の店長が、微笑を浮かべて口を開いた。
「よく働いてもらいましたよ。最初は洗い場を担当してもらったのですが、本人の希望もあって、調理場の方にまわってもらいました。とても真面目な方で、怠けたり手を抜くようなことはなかったですね」
 グリースで髪をオールバックに撫でつけて、濃紺の制服にネクタイを締めているが、どこか崩れた感じのする男だった。
「疲れているような様子はなかったですか?」
 運送会社のときと同じ質問を繰り返した。和馬はこのファミリーレストランで、夜の9時から明け方の5時まで勤務していたという。運送会社とファミレス、本当に二足の草鞋(わらじ)を履いていたのだろうか。通勤時間を差し引くと、ほとんど眠る時間はなかった計算になる。
「元気でしたよ。体力には自信を持っているようで、深夜の勤務でも、眠そうな素振りを見せたことがなったですね」
 カブ先生が、納得したように頷いた。その隣で、ユミさんが真っ赤な唇で煙草をくゆらせている。客として入った方が話を聞き出しやすいだろうというユミさんの忠告を受け入れて、二人はこの店で軽い夕食を済ませていた。
「火傷をしたことはなかったでしょうか?」
 記憶を確認するように、田塚はしばらく考えていた。
「焼けたステーキの鉄板が床に落ちるのを素手でつかんで、ひどい火傷をしたことがあります。咄嗟に手が出てしまったようです。食べ物を粗末にするのが厭なようで、お客の食べ残しが多いときは、もったいないことをすると本気で怒っていましたからね」
 やはり、本当に火傷をしていたのだ。
「この店で、外国の人は働いていなかったでしょうか? たぶん、東南アジアの方だと思うのですが、……」
 田塚の顔から微笑が消えた。
「弟さんのことと、何か関係があるんですか?」
 憮然とした口調だった。
(ビンゴ!)
  カブ先生は内心、歓声を上げた。ひょっとしたらと思って尋ねたのだが、それなりの根拠はあった。
「まだ、ここにいるんですね。その人と、話をさせてもらえませんか。弟のことを何か知っているかもしれない」
 田塚が、眉間に皺を寄せてかぶりを振った。
「仕事中ですので、もう勘弁してください。どうしてもというのなら、会社の方にちゃんと話を通してもらえませんか」
 田塚が立ち上がろうとした。
「会社に話を持っていったら、困るのはおたくの方じゃないの?」
 ユミさんが口を挟んだ。
「どういう意味ですか?」
 気色ばんだ田塚に、ユミさんが凄みのある笑みを浮かべた。
「どうせ、不法就労かなんかで、外国人を安くこき使っているんでしょ? 公にしたら、店の方が困るんじゃない?」
 しばらくユミさんの顔を睨んでいた田塚が、急に表情を緩めた。
「姐さんにはかなわないな。わかりました。でも、余計な詮索はなしですからね」
 席を立った田塚が連れて来たのは、浅黒い肌をした中肉中背の男だった。
「ラオス人のカップラムさんです」
 田塚の紹介に、異国の男が合掌して頭を下げた。


 地下鉄で浅草まで行き、カップラム氏に描いてもらった地図を頼りに隅田川に向かった。堤防の下の遊歩道に、段ボールハウスが並んでいる。廃材やビニールシートを巧みに使った“住宅”から、明かりが漏れている。川面 を渡ってくる寒風に、カブ先生はコートの襟を立てた。
「仲里さんですか?」
 背後から声をかけられた。振り向くと、カブ先生と同じ背格好の人影が立っている。
「シンピンさん?」
 カブ先生の問いかけに、人影がコクンと頷いた。カップラム氏が、携帯電話で連絡を入れておいてくれたのだ。
「サンサクワット・シンピンです」
「仲里惣八です」
 フルネームを名乗りあって、握手した。
「汚いところですが、わたしの小屋に入りましょうか。外よりは、マシですから」
 流暢(りゅうちょう)な日本語だった。外国人訛りは、まったく感じられない。
 段ボールハウスの一つに、招き入れられた。天井から灯油のランタンが吊るされている。照明と共に、じんわりとした温もりを与えてくれる。勧められるままに、カブ先生は胡座(あぐら)をかいた。床にはマットレスが敷かれていた。
 あらためて、部屋の中を見渡した。さすがに窮屈だが、よく整頓された空間は、とても居心地が良さそうだった。カブ先生は、子供のときに和馬と一緒に遊んだ秘密基地のことを思い出した。お寺の床下に、いろんなものを持ち込んで秘密基地をつくった。ロウソクの灯りで、駄菓子を食べたりトランプや挟み将棋をして過ごした。住職に見つかって、こっぴどく叱られて秘密基地は消滅した。
 シンピンが、カセットコンロでお湯を沸かして、インスタントのコーヒーを入れてくれた。ふうふう言いながらすすると、体の中にも灯火が点った。
「どこで、和馬と知り合ったのですか?」
 対座したシンピンに、カブ先生が尋ねた。肌が浅黒くて彫りの深い顔は、やはり東南アジア系の風貌だが、日本人だと言っても十分に通 用しそうだった。カップラム氏の話では、華僑の中国人の血が四分の一ほど混じっているらしい。
「タコ部屋です。わたしは、ラオスから観光ビザで日本にやって来たのですが、悪質な業者に引っかかって、東北の山奥で、ダム建設の作業をさせられました。休日もなしで、奴隷のように働かされました。親方にパスポートを取り上げられているので、逃げることもできません。和馬さんも、そこで働いていました。ギャンブルで借金が嵩んで、暴力団の闇金に手を出してしまったようです。わたしと和馬さんは、同じ組で働いていましたから、自然と話をするようになりました。わたしは、和馬さんから日本語を教わっていました」
 よどみない口調を聞いていると、シンピンの顔がますます日本人に見えてくる。
「和馬さんが風邪をこじらせて、高熱を出して倒れたことがあるんですよ。親方に頼んでも、病院はおろか薬もくれない。わたしは、国からいろんな漢方薬を持って来ていたので、それを煎じて飲ませました。幸い、薬が効いてくれたようで、和馬さんはまた働けるようになりました。それ以来、二人の仲は親密さを増しました。わたしは、和馬さんに相談しました。わたしは、大変な借金をして日本に来ました。わたしは、日本でお金を稼いで、国にいる家族に仕送りしなければならないのです。そうしなければ、両親も弟や妹も、餓えてしまう」
「それで、二人で山東和馬という戸籍を共有することにしたんですね」
 シンピンが頷いた。
「和馬さんは、一年ほどで借金を返済して、奴隷生活から解放されました。わたしは計画通 り、和馬さんがいなくなってから一ヶ月後に、タコ部屋を脱走しました。和馬さんは、板橋に新しいアパートを借りて、わたしを待っていてくれました。わたしと和馬さんは背格好が似ています。髭や眼鏡、髪型を一緒にすることで、わたしはもう一人の山東和馬になったのです。身分証明がなければ、まともなところで働くことはできませんから。それに、病気や怪我をしても病院にも行けません」
 鼻ピアスもポニーテールの長髪も、二人を同一人物に見せるためのカモフラージュだったのだ。お互いに、相手の姿に近づけようとした。そのために和馬は、日焼けサロンにまで通っている。
 シンピンの顔を、あらためて見た。山東和馬の面影はきれいさっぱり消えていた。今のシンピンは坊主頭で、髭も剃っている。鼻のピアスの痕も、注意して見なければわからない。ジーパンに格子柄のタートルネックのセーターという格好もこざっぱりとしていて、とてもホームレスには見えなかった。
 カブ先生が、コートのポケットから運転免許証を取りだした。それを見たシンピンが、背後にあるザックから免許証を取り出した。山東和馬の免許証が二枚、並んでいる。おそらく片方は、遺失届を提出して再発行してもらったものだろう。
「眼鏡は?」
 シンピンが苦笑を浮かべてかぶりを振った。
「両目とも、2.0です」
 カブ先生が破顔した。免許証の視力検査でわざと間違えて、すっとぼけている和馬の姿を思い浮かべた。
「お父さんに手紙を書いたのも、あなたですね」
 シンピンが頷いた。山東和馬になり切るために、筆跡を懸命に覚えたのだろう。実の父親の目を欺くほどに、その模倣は完成されていた。
「和馬に頼まれていたのですか?」
 シンピンさんがかぶりを振った。
「では、どうして?」
 口調に非難が含まれている。厚意からしたことでも、結果的には老父の心情を弄んだことになる。
「和馬さんは、わたしの家族への仕送りを、援助してくれました。わたしは、和馬さんの家族のことが気になって、そのことを尋ねたことがあります。故郷の実家で、お父さんが独りで暮らしているそうですね。わたしは、他人の家族のことよりも、自分の家族を大切にしてくださいと、和馬さんに頼みました」
 声が途切れた。顔を見やると、双眸に涙が溢れている。
「他人じゃない、兄弟のように思っているから……、和馬さんはそう言ってくれました」
 てのひらで涙を拭った。
「日本には『逆縁』という言葉があるそうですね。親よりも子供が先に死ぬことを逆縁と言って、一番の親不孝になる。おれは、死にそうなところをシンピンに助けてもらったから、逆縁にならずにすんだ。生きていれば、いつかは親孝行をすることができる。今は、弟の親孝行に協力してやるさ。シンピンがラオスに帰ることができたら、おれも親父の待っている故郷に帰るよ。和馬さんはそう言ってくれました」
 シンピンは、死んだ和馬に代わって、親孝行をするつもりだったのだ。
「お金は、どうしているのですか?」
「いろいろです。空き缶や雑誌を拾って売ったり、ときにはホームレス仲間の紹介で、日雇いの仕事にありつけることもあります。和馬さんのおかげで、わたしは日本人として通 用します。疑われたときは、ラオス人と日本人のハーフだと言っています」
 カブ先生の視界がぼやけた。シンピンは、苦労して得た僅かな金を蓄えて、和馬の父親に送金していたのだ。
(老いぼれて、涙腺が弱くなったか)
 照れ隠しに自らを罵って、拳で涙を拭った。
「心配しないでください。ここでの暮らしは悪くありません。近くのコンビニで、賞味期限切れの弁当をもらっているので、餓えることはありません。水道やトイレも、公園のものが使えます。わたしの国での生活に比べたら、天国のようなものですよ」
 故国での暮らしがいかに悲惨なものであったか、カブ先生は理解した。
「わたしと一緒に、和馬の故郷に行ってくれませんか。和馬の墓参りをしてください。そして、和馬の父親に会って、あいつのことを話してやってください」
 シンピンが沈黙した。
「和馬の父親の生活は、心配しなくても大丈夫です。田畑を整理して老人ホームに入居したので、安心して老後が送れます。もう、お金は必要ないんです」
「でも……」
「あなたの気持は嬉しい。しかし、和馬はもう死んだんです。ホトケになったんです。安らかに、瞑らせてあげてください」
 シンピンは、しばらくカブ先生の顔を睨んでいたが、諦めたように小さく頷いた。そして、合掌して頭を下げた。
「あなたは、わたしが思っていた通りの人でした」
 カブ先生は驚いた。
「わたしのことを?」
「和馬さんが、あなたのことをよく話してくれました。そして、自慢していました。おれには、立派な兄貴がいると」
 カブ先生は内心、かぶりを振った。
(弟をほったらかしにしていた不肖の兄貴だ)
 だけどな、とカブ先生は思った。
(おまえの弟のことは、おれに任せておけよ)
 免許証のふてくされたような顔が、ニヤリと笑ったような気がした。  


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

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合い言葉は「ゆうやけ」

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別 館に収録されています。


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