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 隣町との境に、枕枕(ちんちん)さんと呼ばれている小さな社(やしろ)がある。御神体は、枕の形をした石である。ある高名な修験者が、この石を枕に寝たところ、御神託を得て悟りを開いたという言い伝えがある。
 カブ先生こと仲里惣八は、枕枕さんの社の前に佇んでいた。父親の遺品である古びたモーニングを着込んでいる。カブ先生は、黒いネクタイの喉元に指をかけると、かきむしるようにして結び目を緩めた。形式張った格好は、昔から苦手だった。葬式の帰りなのである。
 上杉静音(かみすぎしずね)、 享年は86歳。カブ先生の長年の患者だった。腺病質で、軽い狭心症を患っていたが、これといった大病もなく老衰による安らかな死だから、大往生と言ってもいいだろう。その静音さんが、最後にカブ先生に打ち明けた話がある。
 社の苔むした瓦屋根の軒下には、ミニチュアの枕がたくさんぶら下がっている。自分で小さな枕をこしらえて、それを枕枕さんに奉納すれば、不眠が解消されるのだという。枕枕さんは、安眠の神様として信奉を集めている。
 カブ先生の患者にも、睡眠障害に悩まされている患者がたくさんいる。とくに高齢者は、眠りが浅くなりがちだ。老夫婦だけの世帯や、独り暮らしの老人は、薬の力を借りて、不安で長い夜をどうにかやり過ごしている。
 亡くなった上杉静音さんも、枕枕さんに小さな枕を奉納したことがあるという。しかし、それは安眠ではなく、他の願掛けのためだった。静音さんがまだ17歳、カブ先生が生まれるずっと前のことなのである。
 枕枕さんには、カブ先生も知らなかった伝承がある。枕の中に、自分の髪の毛を入れて奉納すれば、望んだ相手と結ばれる──、枕は男女の交わりの象徴でもある。言ってみれば、縁結びの神様なのだが、願掛けが成就したときには、その代償を支払わなければならない。自分がいちばん大切にしているものを謝礼として差し出さねば、大きな不幸に見舞われる。枕枕さんの裏の顔である。だから、恋の悩みを枕枕さんに相談してはならないという戒めも伝承されている。


「若かったんですねえ」
 まるで少女のようなはにかんだ顔をして、静音さんが言った。
「恋は盲目、ですか」
 青白い頬が、かすかに赤らんだ。妻でも、母でも、祖母でもない、女性の顔だった。
 静音さんの話では、自分の髪の毛の入った枕を奉納して願掛けした夜に、枕枕さんが枕元に立ったのだという。
「姿を見たんですか?」
 カブ先生の問いかけに、静音さんが頷いた。
「信じてもらえないと思いますが、ひょっとこのお面をかぶってらしたんですよ」
 カブ先生は、笑いをこらえた。しかし、考えてみれば、突拍子もない話ではない。ひょっとこは、竈(かまど)の火を竹筒で吹く顔を模したもので、火男が語源だとも言われている。火の神様として崇められている地方もある。八百万(やおよろず)、日本は神様が多く住む国なのだ。
(枕枕さんが、神様仲間のひょっとこに使者を頼んで……)
 自分勝手なこじつけに、カブ先生は苦笑した。
「当時のわたしは、縁談話が進んでいました。裕福な旧家のご子息で、わたしにとっては玉 の輿でした。家族もみんな喜んでいました。でも、わたしには……」
「好きな人がいたんですね」
 静音さんが小さく頷いた。昔のことを思い出しているのか、しばらく遠い視線を天井に向けていた。
「それで、枕枕さんの御利益があったわけですね」
 静音さんの疲労を気遣って、カブ先生が話を進めた、本当は、こうして長話ができるような体調ではないのだ。
「結納の前日に、婚約者が出奔したんです。自分は、こんな田舎町に埋もれるような小さな人物ではないという書き置きがあったそうです」
 それが枕枕さんの御利益なのだと、静音さんは頑なに信じているようだった。
「それで、主人と一緒になることができたのですが、今度は、枕枕さんへのお礼のことが気になってしまって。自分のいちばん大切なものは何だろうと考えたんです。それは、主人や自分の家族です。だから、いつも心配ばかりしていました。主人が兵隊に招集されたときは、いつ戦死の知らせが届くんじゃないかと、びくびくしていました。枕枕さんのところに行っては、どうか主人を助けてくださいと祈願していました。代わりにわたしの命を差し上げますと、何度も何度も祈ったものです」
「お熱いですね。ご馳走さまです」
「からかわないでくださいな。あのときは、必死だったんですよ」
 いたずらっぽい目で、カブ先生をにらんだ。
「子供が生まれてからは、今度は子供のことが心配になってきて。孫が生まれたら、今度は孫の心配です」
 静音さんは、先代の院長である伯父の患者だった。伯父の急死で診療所を引き継いだとき、なかなか心を開いてくれなくて苦労した。しかし、いったん信頼してくれると、頻繁に診療所を訪れるようになった。その多くが、家族の健康の心配である。少しでも家族の具合が悪いと、カブ先生に相談しに来る。鼻風邪を引いただけでも、肺炎になるのではないかと心配している。本当は、一緒に連れて来て診察を受けさせたいのだが、家族も静音さんの過剰な反応をうっとうしがって相手にしてくれない。
「でも、これで安心して瞑(ねむ)られます」
 カブ先生は、何か言おうとして、かぶりを振った。静音さんは、自分の死期を悟っている。医師の自分よりも正確に……。
「心残りがひとつだけあります。最後に、枕枕さんにお礼が言いたかった……」


(自分にとって、いちばん大切なものは何だろうか)
 自問してみたが、何も思い浮かばなかった。すでに両親は鬼籍に入って、独り身のカブ先生には妻子もいない。
(まあ、いいか。今さら、縁結びのお願いをするような年でもないからな)
 ある女性の面影が脳裏をよぎった。まだ傷が癒えていないことを、カブ先生は冷静に診断した。ことさらに、心の傷は厄介だ。
「カブ先生!」
 背後から声をかけられて振り向いた。上杉寛次の柔和な笑顔が見えた。
「 今日は、ありがとうございました」
 カブ先生に頭を下げた。もうすく90歳に手が届くという高齢だが、背筋が伸びて矍鑠(かくしゃく)としている。
「とてもいい葬式でしたね」
 本心だった。安らかな瞑りは、参列者の心を軽くしてくれる。驚いたのは、門田英一郎(もんでんえいいちろう)が来ていたことだ。 地元選出の代議士として、自治大臣まで務めた大物である。政界を引退してからは、気候の温暖な瀬戸内の別 荘で悠々自適の暮らしをしているという話だったが、地元で姿を見たのは久しぶりのことだった。
「カブ先生がここにいるということは、うちの婆さんからあの話を聞かされだんですね」
 老人の言葉に、カブ先生は頷いた。
「上杉さんは、奥さんに代わって、枕枕さんにお礼を言いに来たんですか?」
 カブ先生の問いかけに、好々爺の顔で笑った。
「それも、あります……」
 次の言葉が出てくるまでに、しばらく間が空いた。
「一度、謝っておきたいと思いましてね」
 その言葉で、カブ先生の疑問が氷解した。
「ひょっとこは、あなたでしたか」
 老人が頷いた。
「夜這いに行ったんですよ。彼女のことが諦められなくてね。そしたら、枕枕さんと勘違いされて、先に告白をされてしまった。神様と間違えられたら、悪さはできません」
「でも、どうして……」
 正体を明かさなかった理由がわからない。
「こんな卑劣なことをしている自分が恥ずかしくなったんですよ。実は、彼女の婚約者は、わたしの親友だったんです。 あいつも、婆さんのことが本当に好きだった。それをよく知っているだけに、あいつにこそこそ隠れて、婆さんと結ばれるのは気が引けたんです。ちゃんと話をしようと思いました」
 カブ先生は、静音さんの婚約者が、結納の前夜に失踪した理由を理解した。
「あとで婆さんには、正直にすべてを白状するつもりでしたが、その友人からきつく口止めされましてね。女にふられて家出したんじゃ、格好がつかないと言ってましたが、わたしや家内に対する思いやりなのかもしれません」
 カブ先生は頷いた。失恋の痛手を活力にして、いや、忘れるために、門田英一郎は権力を志向したのだろうか。
(静音さんは、何も心配する必要はなかったんだ。枕枕さんは、いや、上杉さんは、いちばん欲しいものを手に入れていた。大臣の地位 なんかよりもよっぽど大切なものを、すでに手に入れていたんだ)
 いやいやとカブ先生は、枕枕さんが安置されている社を見た。
(それが、御利益なのか)
 両手を合わせて、神妙に頭を下げた。老人がそれに倣った。遠くで蝉の鳴き声が聞こえた。今年初めての蝉だった。また、暑い夏がやってくる──。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆ 「枕枕さん」の感想 (掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*タイトルバックに「男衾記村-復興計画」「encore」の素材を使用させていただきました。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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