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 カブ先生こと仲里惣八は、往診が一段落して、公園のベンチに腰を下ろして煙草をくゆらせていた。これで、27回目の禁煙が失敗した。そのうち3回は、ハッピィーのせいだ。往診先の飼い犬で、ご主人が吐く煙草の煙りのリングが大好きだった。
 ドーナッツ状の白いリングを、片足を引きずるような不格好な走りで懸命に追いかける。後ろ足に障害があるのだ。追いついて、かぶりと噛んだらリングは霧散する。ハッピィーはキョトンとした顔で周囲を見渡すが、やがて諦めて、ご主人が新たなリングを吐き出すのを待っている。その愛らしい仕草を眺めているうちに、カブ先生も無性に煙草が吸いたくなってくるのである。
 カブ先生は口をすぼめて、頬を指先で軽く弾いた。口から煙りが飛び出してくるが、形が歪(いびつ) で、輪っかにもなっていない。
「これじゃあ、ハッピィーに笑われるな」
 カブ先生は淋しい笑みを浮かべた。ハッピィーは二ヶ月ほど前に、車に轢かれて死んでしまった。飼い主宅から姿を消した翌日、ここから3キロほど離れた林道の砂利道で、礫死体になって発見されたのだ。
 カブ先生の前に車が止まった。スポーツタイプのBMVから、銀髪のオールバックにサングラスをかけた男が姿を現した。
「惣八、久しぶりだな」
 幼なじみの岩倉哲郎だった。
「よう、帰ってたのか」
 岩倉は、広島の繁華街で、何件かのクラブを経営している。相当に羽振りがいいようで、会う度に車が違っている。
「煙草、一本くれよ」
 そう言って岩倉は、カブ先生の隣に腰掛けた。
「あぶく銭をたんまり貯め込んでいるくせに、貧乏人にたかるなよ」
 カブ先生が笑いながら、煙草の箱を差し出した。
「禁煙中なもんでな」
 岩倉がくわえた煙草に、カブ先生が使い捨てライターで火を点けてやった。岩倉は大きく煙りを吸い込んで、久しぶりのニコチンを味わった。そして、空に向けてフーッと煙りを吐き出した。煙草を持つ左手の小指が、芋虫のように短かった。
「やっぱり、煙草は禁煙中に限るな」
 カブ先生も思わず頷いてしまった。
「今日は、叔母さんの件か?」
「いろいろと後始末があるからな」
「大変だったな」
「ああ、今でも大変だ」
 73歳になる岩倉の叔母が、二ヶ月ほど前に殺害されたのだ。この森林公園の近くで、独り暮らしをしていた。絞殺だった。のどかな山間の田舎町では、大事件だ。室内を荒らされていたことから、強盗殺人が疑われた。犯人は未だに捕まっていない。
「疲れているみたいだな」
 いつものギラギラした迫力が感じられない。岩倉は、子供の頃からどうしようもない悪ガキだった。
「サツの野郎、容疑者扱いしやがって」
 殺害された叔母と岩倉の仲が悪かったことは、周知のことだ。
「アリバイがあるんだろ?」
 そうした細かな噂話が、カブ先生の耳にも届いていた。
「いちおう、な。でも、今までかなりやばいことをしてきたからな」
「叩けば埃の出る体か」
「ああ、埃だらけだよ」
 苦笑を浮かべた岩倉が、唐突に足を振り上げた。地面を毛虫が這っていた。 この森林公園は桜の名所で、百本を越えるソメイヨシノが植えられている。今は葉桜になって、毛虫の天国だ。
「靴が汚れるか」
 毛虫の脇に、静かに足を下ろした。
「毒を持っている毛虫は、全体の2パーセントぐらいしかいないんだ。こいつはマイマイガの幼虫で、毒針は持っていない」
 カブ先生が説明した。
「見栄えが悪いからな。そういえば、この間、奥出雲に行ったときに、道路を毛虫がたくさん横断していた。右から左に横断するやつの方が圧倒的に多いんだが、何か意味があるのか?」
 岩倉の問いかけに、カブ先生は苦笑を浮かべてかぶりを振った。
「子供電話相談室にでも電話してみろよ」
「毛虫にとっては、生きるか死ぬかの大冒険なんだろうな。実際に、車に轢かれた毛虫が一杯いたよ」
 岩倉はかまわずに話を続けた。
「なんだか、やつら、自分を試しているような気がしてな」
「どういう意味だ?」
「生きる価値があるかどうか、試しているのさ。車に轢かれないで横断できれば、生きることができる……」
「哲学する毛虫か。おもしろいな」
 岩倉の横顔を見た。岩倉も、毛虫に負けずに周囲から嫌われている。
「そういえば、早苗さんの仕事、おまえが喜多見に頼んでくれたんだってな」
 カブ先生の言葉に、岩倉が短くなった煙草を路上に投げ捨てた。
「あの口軽野郎が」
 声を荒げて毒づいた。喜多見もまた幼なじみで、金魚の糞(ふん)のように、ガキ大将の岩倉のあとに従っていた。今は、家業の土産物屋を受け継いでいる。その店が入っているショッピングセンターに、来見(くるみ)早苗は受付の事務員として雇われたのだ。
「中坊のときに、世話になったからな」
 バツが悪そうに言い訳をした。カブ先生や岩倉が中学生だった頃、早苗さんは売店で働いていた。母親を早くに亡くして、弁当を持ってこれない岩倉は、いつも売店でパンを買っていた。そのとき、前の日の売れ残りをおまけしてもらっていたらしいのだ。
「そういえばおまえ、来見先生を殴って停学になったんだよな」
 早苗さんは、中学の国語教師の来見と結婚した。カブ先生が浪人していた頃、その話を同窓生から聞いて、驚いたものだ。
「おれは、あの頃から禁煙していたからな」
 トイレでの喫煙がばれて、担任の来見と揉めた……、そういうことになっている。カブ先生は、岩倉の二本目の煙草に火を点けてやった。
「早苗さん、就職が決まって喜んでいたよ」
  脳内出血の後遺症で車椅子生活を余儀なくされた来見先生に代わって、早苗さんが家計を支えてきた。それが、長らく事務員として勤めていた会社が倒産して、退職金も貰えずに失職したのだ。
「来見先生も早苗さんも、かわいがっていた犬が死んで、ひどく落ち込んでいたからな」
 岩倉の反応をうかがったが、無表情で煙草をくゆらせているだけだ。
「犬のことはよくわからんのだが、コーギーという種類なんだそうだ。3歳のときに早苗さんに引き取られて、ハッピィーという名前をつけてもらった。それまでは、名前もなかった。利殖目的だけの悪質なブリーダーに飼われていて、ろくな世話をしてもらっていなかったらしい。動物の愛護団体に保護されたときは、ガリガリに痩せて、全身が皮膚病に冒されていた。人間をひどく怖がって、体を触るとぶるぶる震えていたそうだ。里親探しの会場でも貰い手がいなくて、小屋の奥に隠れていた。股関節に骨折したあとがあって、たぶん棒で殴られたか蹴られたかしたんだろうな。その後遺症で、うまく走れなかった」
「くそ野郎だな」
 カブ先生が頷いた。
「ハッピィーが心を開いてくれるまで、時間がかかったよ。おれは、来見先生の主治医であるとともに、ハッピィーの主治医でもある。熱を出したり、おなかを壊したり、元気がないときなんかによく呼び出されたよ。その度に、怯えたハッピィーにガブリとやられた。見れば、早苗さんの手や腕も、噛み傷だらけなんだ。それでも、真心が通 じたんだろうな。往診に行く度に、ハッピィーの顔が変わって行くのがわかるんだ」
 後ろのソメイヨシノの木を振り返った。
「来見先生の家の玄関に、大きく引き延ばした写真が飾ってある。去年の春だったな。桜が満開だった。あの桜の木の前で、おれが写 真を撮った。来見先生と早苗さん、ハッピィーの家族写真だ。みんないい顔をしていた。とても幸せそうな顔をしていた」
 カメラのファインダーを覗いたときの光景がよみがえった。
「納得できないことがる。ハッピィーは、左の後ろ足を引きずるようにして歩いていた。だから、足の裏によく擦り傷ができるんだ。散歩の時はいつも、早苗さん手作りの靴下を左の後ろ足にはかせてもらっていた。ハッピィーが車に轢かれたのは、砂利道の林道だった。ゴツゴツしたかなり大きな砂利が敷き詰めてある。ハッピィーがそんな場所に自分で行くはずがないんだ。砂利の角に足の傷が当たって、痛いだろうからな」
 岩倉が、サングラスの目でカブ先生を睨んだ。
「おたくの犬が菅沼の林道で死んでいます……、ハッピィーの姿が消えた翌朝、電話がかかってきた。早苗さんが電話に出たんだが、聞いたことのない若い女の声だったそうだ」
 カブ先生は、岩倉の視線を感じたが、そのまま話を続けた。
「あのあと、何日かして、この公園の前を通りかかったんだが、このベンチのそばで、ハッピィーがはいていた靴下を見つけたよ。たぶん、ハッピィーはこの前の道路で車に轢かれたんじゃないかな。車を運転していた人物は、そのことを知られるのがまずい立場にいた。その場所にはいないはずの人物だった。だから、ハッピィーの死体を違う場所まで運んで、知り合いの女に頼んで飼い主に連絡した……」
 舌打ちする声が聞こえた。
「おまえは、昔からほら吹きだったよな。ガキの頃は、飛行機のパイロットになると言っていた。中坊のときは、宇宙飛行士だ」
「今じゃ、原付バイクのパイロットさ」
 愛車のスーパー・カブのタイヤを靴先で軽く蹴った。
「おまえの夢は、堅実だったよな」
「ああ、おれは変わらないよ。おれの夢は今でも、大金持ちになることだ」
「じゃあ、夢をかなえたわけだな」
「そうでもないんだ。店にフィリピーナを何人か入れたときに、悪い業者に引っかかってな。 揉めてるんだ。金で解決するしかないんだが、やつらのバックにやばいのがいる」
 煙草を持った左手を、さりげなく持ち上げて見せた。
「ハッピィーは、ちゃんと靴下をはいていたよ」
 驚いて岩倉の顔を見た。
「でも、どうしてここで轢かれたってわかったんだ? あの日は雨が降っていて、血痕も残っていなかったはずだがな」
 あっさり認めてしまった。
「あの木だよ」
 カブ先生は、うしろのソメイヨシノを指さした。
「記念撮影したときに写っていた桜だ。あの木だけ、今年は花をつけなかったんだ。まるで喪に服しているかのようにな。それとも、ショッキングな出来事を目撃して、花を咲かせる気が失せたか」
 岩倉が、まじまじとカブ先生の顔を見た。
「ほら吹き野郎が」
 カブ先生は反論しなかった。信じてもらえるとは思えなかった。理由はどうであれ、あのソメイヨシノが花をつけなかったことは事実なのだ。
「おれも一つ、ほらを言ってもいいか?」
 岩倉が口を開いた。
「ハッピィーは、いきなり車の前に飛び出して来た。一瞬のことで、本当のことだったのかどうか、自信がねえ」
 少し間が空いた。
「車のライトに浮かんだハッピィーは立ち止まって、しっぽを振って笑ったんだ」
 カブ先生は頷いた。早苗さんは悩んでいた。家計を支えるには再就職しなければいけないのだが、前の会社のように、自宅の近くで夕方の5時に帰れる職場を見つけるのは難しい。ハローワークで紹介されている掃除婦の仕事は、帰宅が夜の7時を過ぎてしまう。
 そうなると、ハッピィーの夕方の散歩ができなくなってしまう。神経質なハッピィーは、散歩をしないとすぐに便秘をしてしまう。誰かにハッピィーの散歩を頼もうにも、ハッピィーは飼い主夫婦以外には、誰にも心を許そうとはしなかった。カブ先生でさえ、早苗さんがハッピィーをなだめていないと吠えつかれる。ハッピィーは、そんな飼い主の……、いや、お母さんの悩みを知っていたのだろう。
「ああ、信じるよ」
 素直に答えた。岩倉は、誰にも知られずにハッピィーの死体を処理することもできたのだ。
 岩倉が、大きく煙りを吐き出した。
「しばらく別荘に行ってくるか。長いこと禁煙したあとの煙草は、最高にうめえだろうからな」
 別荘が刑務所の隠語だということは、カブ先生も知っている。
(おれと話をする前から、覚悟を決めていたんだな)
 そう思った。
「おれが煙草を差し入れしてやるよ」
 岩倉の顔が綻(ほころ)んだ。
「おまえは昔から、意地の悪いやつだったよ」
 カブ先生も笑った。
 カブ先生はもう一度、煙りのリングに挑戦した。しかし、相変わらず不格好な煙りの塊が吐き出されただけだった。そのとき、見事な煙りのリングが出現した。口をすぼめた岩倉が、頬を指でたたくこともなく、連続して煙りのドーナッツを吐き出している。
「嫌みな野郎だ」
 手のひらを口に模して、白いリングにガブリと噛みついた。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆ 「ハッピィー」の感想 (掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*タイトルバックに「犬写真館」の素材を使用させていただきました。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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