T-Timeファイル亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る

 それは、人間の親指だった。関節部の下から、鋭利な刃物で切断されている。しかし、まるで白鑞のように皮膚が白く透けて、生命を宿していたという痕跡はどこにも残っていない。
「それにしても、でかいな」
 唐津はそう呟いて、自分の親指と見比べた。ホルマリンの溶液の中で浮遊している左手の親指は、太さが唐津の親指の二倍近くもあった。とくに爪のある先端部が、蛇の頭部のように丸くふくらんでいる。奇形と言ってもいいぐらいに、不格好な形をしていた。
 この親指の出現は、マスコミで大きく報じられている。発見されたのは、東京都多摩地区にある都営アパートの一室だった。小学3年生の子供が、冷蔵庫に入っていたミカンの缶詰を開けた。缶のままフォークでミカンを食べていたら、この親指が現れたのだ。
 その缶詰の製造元である食品会社に、マスコミの取材陣が殺到した。そして、記者会見が開催された。メーカーサイドの発表によると、親指入りの缶詰が製造された工場は、紀州ミカンの生産地である和歌山県にあった。しかし、どうして親指が缶詰の中に入ってしまったのかについては、まったく説明することができなかった。
 事故ではないとメーカーは主張する。機械化された製造ラインで、指が切断されるような危険な作業は皆無だという。また、製造に関わっている従業員の中に、左手の親指を失っている者はいなかった。マスコミの厳しい追及に、社長とともに記者会見に臨んでいた和歌山工場の責任者は、困惑した顔で同じ言葉を繰り返した。 「わたしにも、どうしてこんなことが起きたのか、さっぱりわからないのです」。
 警察も当然、動いていた。証拠物件として押収された親指の指紋がすぐに調べられた。警視庁の遺留指紋のデータベースに照会すると、驚くべき事実が判明した。今から10ヶ月ほど前に起きた殺人事件の遺留指紋とピタリと一致したのだ。場所は新宿歌舞伎町のラブホテルで、外国人のコールガールが扼殺(やくさつ)された事件だった。未だ犯人は捕まっていない。かくしてこの数奇な缶詰親指事件は、外人コールガール殺人事件の所轄である新宿署の案件となった。
 刑事課課長の唐津は、指紋のことはマスコミには伏せたまま、配下の刑事を和歌山に派遣した。缶詰工場の内部を徹底的に査察して、従業員に対する綿密な事情聴取を行ったが、結果は食品会社の記者会見と同じである。事故ではありえないのだ。すると、何者かが意図的に、切断した親指を缶詰に混入させたことになる。現在は、それが可能な部署にいる従業員たちの身辺調査が、和歌山県警の協力を得て行われている。今のところ、収穫は何もなかった。
「こいつがホシ(犯人)だろうか」
 唐津は、ガラス容器の中の親指を睨んだ。そして、全身像を思い描いた。プロレスラーのような大男が脳裏に浮かんだ。殺されたコールガールは、喉の骨を砕かれていた。扼殺されたというよりも、喉元を握り潰されたような状態だった。しかし、ラブホテルのフロント係は、彼女と同伴した男は小柄な体格をしていたと証言している。
(これだけ特徴のある親指をしているんだ。必ず情報提供があるに違いない)
 和歌山の捜査の結果が出るのを待って、缶詰から出てきた親指の指紋が殺人現場の遺留指紋と一致したことを、マスコミに発表する予定だった。
 唐津は、ジェシカと呼ばれていたコロンビア人の全裸の死体を思い浮かべた。深紅のベッドカバーの上に、鮮やかな金髪が散乱していた。眼球が飛び出さんばかりに大きく目を見開いて、苦悶の表情を浮かべたまま硬直している。真っ白な肌の肢体が美しいだけに、凄惨な印象がさらに深まった。
「成仏させてやるからな」
 遠い異国で殺された女に、唐津は誓った。そして、小さくかぶりを振った。彼女が住んでいたアパートの机の上に、ポケットサイズの聖書が置かれていたことを思い出したのだ。その聖書は、相当に読み古されて、赤鉛筆のラインがたくさん引かれていた。


 取調室のドアを開けて中に入ると、強ばった顔をした男の姿が目に入った。高根祐市、26歳、あの親指入り缶詰を製造した工場で、事務員として働いているという。高根は今朝、歌舞伎町にある交番に出頭して来たのだ。
 唐津は不審の面持ちで、男の体を観察した。どちらかというと痩身で、小柄な体格をしている。唐津が想像していたプロレスラーのような大男とは、正反対のタイプだった。しかし、ラブホテルのフロント係の目撃証言とは一致している。
「唐津と申します」
 名乗ってから、高根の前の椅子に腰を降ろした。
「あの缶詰から出てきた親指は、あなたのものだそうですね」
 そう言いながら、唐津の視線は、机の上で組まれている高根の手を睨んだ。すべての指がそろっている。
「ああ、これですね?」
 高根が左手を挙げて、唐津に見せた。親指の付け根のところに、傷絆創膏が巻かれている。親指は、普通のサイズだった。
「知り合いに人工ボディーの技術者がいましてね。造ってもらったんですよ」
 そう言って傷絆創膏を剥がすと、親指を右手でつまんで引っ張った。まるでマジックのように、親指がすぽりと抜けた。そのあとには、ずんぐりした指の付け根だけが残った。
「ほう、よくできているもんですな。触らせてもらってもいいですか?」
 高根に承諾を得てから、唐津はその親指の義肢を取り上げた。外見だけではなく、やわらかい感触まで本物にそっくりだ。
「シリコン製で、しわや指紋まであるんです。20万もかかりましたがね」
 誇らしそうに高根が説明した。
(こっちの方がよっぽど本物らしいじゃないか)
 あのガラス容器に入っている親指のグロテスクな姿を思い浮かべた。
「刑事さん、お願いがあるんです。これからおれが話すことを黙って聞いてもらえませんか? とても信じてはもらえないような話ですが、最後まで聞いてほしいんです」
 思い詰めた顔で、高根が訴えた。
「もちろんですよ。わたしはここにいるのは、自分がしゃべるためじゃないですからね」
 そう言って唐津は、酒焼けしたいかつい顔に、精一杯の微笑を浮かべて見せた。


「おれの左手の親指が大きくなり始めたのは、中学三年のときからなんです。夏休みの工作の宿題をやっていて、金槌で左手の親指を打ってしまったんです。爪が割れて、内出血で腫れ上がってしまって……。でも、内出血が引いて、痛みも取れたはずなのに、親指はふくらんだままでした。病院にも行ったんですが、原因はわかりませんでした。
 その後も親指は、少しずつ大きくなっていきました。とくに先端部分がふくらんで、丸いコブのように変形してしまったんです。おれはそれが恥ずかしくて、いつも握った拳の中に親指を入れて、隠すようにしていました。
 親指に対するコンプレックスがなくなったのは、大学生のときです。おれ、名古屋の大学に通ってたんですが、自転車で転んで右腕を骨折しちゃいましてね。何もすることがないから、友達に誘われて雀荘に行ったんです。右手が使えないから、左手で牌(ぱい)を握るしかない。その日はツキまくって、いつもはカモられているおれのひとり勝ちです。それからは連戦連勝でした。でも、骨折が治って右手で牌を握るようになると、まったく駄目なんですよ。試しに左手を使うと、不思議なことに勝てるんです。それからは、麻雀は左手で打つようにしました。ゲンキンなもんで、みんなの前で左手を晒して牌をツモっているうちに、親指に対するコンプレックスが徐々になくなっていったんです。
 雀荘に入り浸っているうちに、大学には行かなくなって、そのまま退学です。でも、働く必要はなかったんです。麻雀で食っていけましたからね。そのころはもう、どうして麻雀で勝てるのか、自分でも理由がわかっていました。親指です。盲牌(もうぱい)って言うんですけどね。ツモってきた牌の表面を親指でなぞるだけで、その牌が必要かどうか、あるいは危険牌かどうかがわかるんです。頭で考えていたんじゃないんです。霊感のように閃くんですよ。おれではなく、親指が麻雀をしてたんです。その証拠に、一時は止まっていた親指の成長が、麻雀をするようになってまた大きくなり始めたんです」
 そこまで話して、高根は心配そうに唐津の顔色をうかがった。唐津は小さく頷いて、話の続きをうながした。
「おれの親指、わかるのは麻雀だけじゃなかったんです。女の体もわかるんですよ。女の体をさわっていると、女の気持がビンビン伝わってくるんです。ああ、ここをさわってやると感じるんだな。ここはもっと強く、ここはもっとソフトに……、親指が勝手に動くんですよ。おれの親指にかかったら、どんな女だってイチコロでした。ソープで働いているスレッカラシのオバチャンだって、男と一度もつき合ったことのない無垢(むく)な女子高生だって、ヒイヒイよがって……」
 唐津は、内面の怒りを懸命に抑えて、高根の話を黙って聞いていた。唐津の下の娘は、今年の春、高校に入学したばかりだ。離婚した妻から、入学祝いの礼状と共に、セーラー服姿の娘の写真が送られてきた。
「だけど、あの女は、あの外人の女だけは、おれの親指でもさっぱりわからなかったんです」
 高根の声の調子が変わった。
「おれの親指がいくらさわっても、反応がありませんでした。しつこくさわっていたら、あの女、急に怒りだしやがって……」
 高根は顔を歪めて絶句した。


(そろそろだな)
 唐津が口を開いた。
「外人のコールガールのことだね」
 唐津の確認に、高根が素直に頷いた。
「彼女とは、どこで知り合ったんだ?」
「歌舞伎町の裏通りを歩いていて、女の方から声をかけられたんです」
「新宿へは遊びで来ていたのか?」
「いえ、腰を落ち着けるつもりでした。おれ、ヤクザの女に惚れられちゃって、ヤバいことになっていたんですよね。それで名古屋を引き払って、東京に出て来たんです。歌舞伎町をうろついていたのは、雀荘の下見をするためです」
「それで、彼女と一緒に『エスペランサ』に入ったんだな」
 ラブホテルの名前を告げた。高根が頷いた。
(すんなりいきそうだな)
「彼女を殺したんだね?」
 唐津が核心に踏み込んだ。高根は大きく目を見開いて、激しくかぶりを振った。
「おれじゃない! 親指がやったんです」
 唐津は、怒鳴りたくなるのをグッと抑えた。
「どうして、親指が彼女を殺したんだ?」
 自分でも、陳腐な質問だと思った。
「あの女、笑いやがったんです。おれの親指を見て、大声を出して笑いやがったんです。おれ、カッとなって、思わず女の首を絞めちまって……。でも、女が悲鳴を上げたんで、おれ、手を離そうとしたんです。でも、左手がいうことをきかないんです。まるで俺の体じゃないみたいに、勝手に女の首を絞めちまって……。親指なんです。親指がおれの左手を乗っ取ったんですよ。それで、女を絞め殺したんです」
 高根は、必死の形相で訴えた。わかった、わかった、とばかりに唐津は頷きながら、内心かぶりを振った。
(自分が殺したことを認めたくないから、こんな馬鹿げた嘘をでっち上げたんだな。その嘘を何度も自分に言い聞かせているうちに、それが本当のことだと信じてしまった……)
「どうして、自分の親指を切断したんだ?」
 唐津の問いかけに、高根は唖然とした表情を浮かべた。
「あの親指は、人殺しなんですよ。そんなもんと一緒にいられるわけ、ないじゃないですか。またいつ、体を乗っ取られるかわかりませんしね」
 当然だという口調だった。
「だったら、どうして切断した親指を、缶詰の中に入れたりしたんだ?」
「おれじゃ、ありませんよ。そんな馬鹿なことをするはずがないじゃないですか」
「じゃあ、誰がやったんだ? まさか、親指が勝手に缶詰の中に入ったというんじゃないだろうな」
 皮肉で言ったつもりが、高根が真顔で大きく頷いた。
「そうです。おれに復讐するために、親指が自分で缶詰の中に入ったんです。おれ、あのあと、姉貴の嫁ぎ先を頼って、北海道の札幌まで逃げたんです。そのとき、親指を切断しました。傷口がふさがるまで半年待って、親指の人工ボディーをつくってもらって、和歌山の実家に帰ったんです。それで、今の缶詰工場に就職したんです」
「親指はどうしたんだ?」
「捨てましたよ。ビニール袋に入れて、他のゴミと一緒にゴミの日に出しました。まあ、生ゴミの曜日じゃなかったけど……」
 高根が、力のない笑みを浮かべた。
「その親指が、北海道から海を渡って、はるばる和歌山まで旅してきたというわけか」
「でも、確かに生きていたんですよ。まな板の上で切り落としたとき、しばらく苦しそうにもがいていました。動かなくなったから、くたばったと思ったけど、あいつ、死んだフリをしてやがったんだ」
 やれやれと唐津はかぶりを振った。
(罪悪感が残っていたんだろうな。心のどこかで、罪をつぐないたいと願っていた。でも、自首する勇気はない。それで、あんな手の込んだことをしでかしたんだ。あの親指だったら、いずれは持ち主の正体がわかるだろうからな。しかし……)
 唐津は高根の顔を睨んだ。演技をしている顔ではなかった。少なくとも、高根は自分が言ったことを信じている、唐津はそう判断した。
(面倒なことになりそうだな)
 精神鑑定を覚悟した。
「だったら、調べてみようじゃないか。あの親指が生きているかどうか、調べればすぐにわかることだ」
 無駄だとは思ったが、揺さぶりをかけた。
「いえ、もう死んでいます」
 高根が断言した。
「勝手なことを言うんじゃない!」
 思わず声を荒げてしまった。
「おれにはわかるんです」
 自信たっぷりに言って、唐津の前に左手を突き出した。
「おれの新しい親指です」
 唐津は、欠けた高根の親指を睨んだ。しばらく待っても、新しい親指は出てこない。
(いや、待てよ……)
 唐津は背広の内ポケットから、老眼鏡を取り出して装着した。顔を親指の残骸に近づけて、その表面を凝視した。最初はデキモノかと思った。しかし、米粒大のものをよく観察すると、先端に爪のようなものがついている。
「これは……、確かに指だ!」
 唐津の声に応えるように、指の萌芽がブルンと身震いした。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆「萌芽」の感想

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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