亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る


 カブ先生こと仲里惣八は、愛車のスーパーカブに跨って、田んぼの畦道を走っていた。往診先の家への近道なのだ。他の者がこんなことをすれば、大声で怒鳴られるだろうが、カブ先生のバイクだけは天下御免、誰もが頭を下げて「ご苦労様です」と笑顔で声をかけてくれる。五月の夕日を浴びた青田から、カエルの合掌が聞こえてくる。
 往診を終えたカブ先生が外に出たときには、日はすっかり暮れていた。ボウボウというバリトンの声が響いている。ウシガエルの鳴き声だ。食用ガエルとも呼ばれる夜行性の巨大なカエルで、カブ先生の子供の頃は、遊び半分につかまえてよく食べたものだ。鶏のササミに似た淡泊な味だった。足や背中のおいしい部分は人間様がいただいて、残りの部分は飼い犬のご馳走になる。
 今の子供にそんな話をしたら、キモチワルイと顔をしかめられるのがオチだが、ウシガエルはもともと食用目的でアメリカから移入、養殖していた。その餌として移入されたのがアメリカザリガニで、今ではどちらも野生化して、すっかり日本の風土になじんでしまっている。
(もう始まっているな)
 腕時計に視線をやったカブ先生は、急いでバイクをスタートさせた。川沿いの間道を走って、公民館の裏手に出た。演歌調の派手な音楽と笑い声や歓声が漏れてくる。
 バイクを降りて、玄関の方に廻ろうとしたカブ先生の足が止まった。古びた祠の前にいる人影に気づいたのだ。公民館の外灯が、その異様な姿をぼんやりと浮かび上がらせている。文金高島田に艶やかな緋色の着物を着た人物が、祠に安置されているお地蔵さんの両方の耳に触りながら、何やらしきりに呟いている。
 カブ先生の視線に気づいたように、その人物が振り返った。カブ先生の背中にゾクッと、冷気が走った。白粉(おしろい)を塗った芸者が、片田舎の古びた祠の前に立っている。その光景はとても、コノヨノモノトハオモエナイ……。
 白い顔が微笑んだ。軽く会釈して、風のようにカブ先生の傍らを通り過ぎた。後ろ姿を見送りながら、カブ先生は、その芸者が思いのほか小柄で華奢な体をしていることに気づいた。
(おれは、化かされたのかな?)
 祠のお地蔵さんに話しかけた。地元の人間は、身代わり地蔵と呼んでいる。 祈願した人の身代わりになって、傷病苦を背負ってくれるのだという言い伝えがある。そのせいなのか、花崗岩で出来た地蔵菩薩は、全身が傷だらけだった。
 カブ先生が会場の中に入ると、パイプ椅子が並べられた客席は八分方、埋まっていた。舞台では、浪人風の侍が 二人、対峙している。衣装や貫禄、顔のメイクで、どちらが二枚目の主役でどちらが敵役かは一目瞭然だ。気合いの入ったかけ声と共に両者が抜刀した。次の瞬間、観客がどよめいた。大げさな悲鳴を上げて倒れたのは、二枚目役の方だったのである。吹雪嵐之介(ふぶきらんのすけ)、劇団「花吹雪座」の座長である。
「なんでおれが切られるんだよ」
 立ち上がった嵐之介が、敵役の若い役者に猛然と食ってかかった。
「おれは主人公だぞ。主人公がやられちまったら、それで芝居が終わっちまうだろうが」
 客席がどっと笑った。
「だって、切られたら痛そうだもの」
「それで給料もらってんだろうがよ。ちゃんと死なないと、減給だからな」
 敵役が渋々頷いた。古典的なギャクだが、客席は爆笑の連続だ。
「大変、お見苦しいところをお見せしました。ウォーミングアップが終了いたしましたので、これより本番に入らせていただきます」
 嵐之介が神妙に頭を下げると、会場から笑いと共に拍手が起きた。
 両者が再び対峙した。抜刀して、白刃が二度、三度と交錯したあとに悲鳴を上げたのは、またしても嵐之介の方だった。
「おい、何やってんだよ」
「だって、酔っぱらいのアル中なんかに負けたくないもの」
「仕方ないだろうが。下戸(げこ)の平手造酒(みき)なんて、おかしいだろ?」
「みなさん、聞いてくださいよ。このおやじは、昼間っから酒をかっくらっていて、いつも酒臭いんですよ」
「おいおい、個人情報を暴露すんじゃねえよ」
 客席がどっと笑った。カブ先生も笑っていた。嵐之介は大の酒好きで、昼夜を問わず酒を飲んでいるということを知っているからだ。
「いいか、今度しくじったら、夏のボーナスカットだかんな」
 そう言い捨てて、嵐之介が客席に向かって再び頭を下げた。
「大変、長らくお待たせしました。リハーサルが終了いたしましたので、これよりが、本当の本番でございます」
 客席から野次が飛んだが、待ってましたとばかりに嵐之介が軽妙に切り返す。しばらくは、観客相手に笑いを取る。当意即妙、舞台の上で人生を過ごしてきた役者の本領発揮である。
 舞台の二人が対峙した。今度ばかりは表情が違っている。裂帛の気合いを込めて、両者が切り結んだ。火花が散らんばかりの激しい殺陣だった。キンキンという白刃がぶつかり合う音が聞こえてくる。いつしか舞台は、大きな拍手に包まれていた。
 最後は、敵役の胴を水平切りした嵐之介が、真っ向上段からトドメの一撃を放って決着がついた。肩で息する嵐之介がよろめきながら、転がっている徳利を拾い上げてグビグビと片手飲みする。そして、手にした刀にブッと霧を吐き付けると、サッと一振りして露を払った。次の瞬間、刀は見事な弧 を描いて鞘の中に収まっていた。
「よっ、大統領!」
 声をかけたのはカブ先生だった。


 舞台は第二部の歌謡演舞ショーに入っていた。
「次に登場するのは、当劇団が誇る超新星、花房鈴太郎(りんたろう)でございます。まだ若干12歳、大衆演劇界のハンカチ王子と呼ばれています」
「天城越え」のイントロと共に登場した役者を見て、カブ先生は思わずアッと声を上げた。身代わり地蔵の前で出会った芸者がそこにいた。唖然としたのは、カブ先生だけではなかった。花房鈴太郎の艶やかな美しさに、客席が圧倒されていた。
  石川さゆりの歌声に合わせて、鈴太郎が踊り始める。お世辞にも上手とは言えない踊りで、まだぎこちなさが残っているが、それさえも初々しい魅力に変えてしまうだけの華が全身に満ちている。小道具に使っている豆絞りの手拭いを、小さくたたんで顔の汗を拭う動作をすると、客席の雰囲気もようやくほぐれた。
 おヒネリが投げ入れられた。それを合図に、あちこちで客が立ち上がって、祝儀の品を持って舞台に近づいた。ジャガイモやネギなどの野菜が入ったかごや、地酒の一升瓶などの心付けを、鈴太郎が受け取って握手をする。おヒネリの方は、小坊主姿の幼い子供が、愛嬌を振りまきながら拾い集める。カブ先生は、自分が何も用意して来なかったことを後悔した。
 ご祝儀の時間が一段落して、踊りが再開された。石川さゆりの歌声がサビの部分にさしかかり、手拭いの端を口に銜えた鈴太郎が、妖艶な流し目を客席に向けたときだった。突然、照明が消えて、場内が暗闇に包まれた。
「おーい、懐中電灯!」
「ブレーカーはどこだ?」
 場内のざわつきの中で、嵐之介の怒鳴り声が聞こえてきた。5分も停電していただろうか。再び照明が点灯したときには、安堵の声が広がった。しかし、再び、場内がざわめいた。舞台の中央で、花房鈴太郎が倒れていたのである。ピクリとも動かない。カブ先生が舞台に突進した──。


 カブ先生は、部屋の中を見渡した。いつもは、地域の集会場に使われている平屋建ての古びた建物だった。六畳間が二間で、小さな台所がついている。公民館のそばにあって、今は花吹雪座のための宿舎に提供されていた。いつもはガランとした部屋だが、壁際には所狭しと劇団の荷物が置かれている。
(そういえば、ネズミが出るとか言ってたな)
 集会所の掃除をしている近所の婆さんが、診療所に受診に来たときにこぼしていた。押入にしまってある座布団が、ネズミにかじられて何枚か駄 目になったらしい。家に住み着いているネズミも、寒さが和らいで春になると野に出て行くので、今の時期にネズミの被害に遭うのは珍しい。だから、余計に記憶に残っていた。
「すいません、ご迷惑をかけてしまって……」
 浴衣姿の少年が、布団から体を起こした。素顔の花房鈴太郎は、まだ幼さの残る小学六年生の子供だった。しかし、瓜実顔の整った顔立ちは、思春期を迎える前の中性的な雰囲気を漂わせていて、視線を合わすとカブ先生は、なんだか落ち着かない気分になった。他の劇団員は舞台を続けていて、集会場にはカブ先生と少年の二人だけだった。
「触診だけだからはっきりしたことは言えないが、とくに体に異常はないようだ。でも、ひどく疲れているようだね。ちゃんと眠れているかい?」
 カブ先生の問いかけに、少年が視線を伏せた。建物の裏手に溜め池があるので、ボウボウというウシガエルの鳴き声がうるさいほどに聞こえてくる。
「何か、心配事でもあるのかい?」
 少年は黙したままだ。
「やっぱり、何かあるようだね。わたしに話してみないかい。力になれるかどうかはわからないが、それで少しは気持が楽になるはずだ」
 少年は力なくかぶりを振った。
「座長のセリフじゃないけど、これでも医者のはしくれだからね。個人情報は、誰にも漏らさない」
 少年の口元に笑みが浮かんだ。
「変な音でも聞こえるのかい?」
 少年がびっくりした顔でカブ先生を見た。
「どうやら、図星だったようだね。君が、身代わり地蔵の耳を一生懸命に撫でているところを見たものでね」
 最初は、聴覚を患っているのではないかと疑っていた。しかし、舞台での花房鈴太郎は、観客の声援や祝儀の受け渡しに、しっかり応対していた。とても、聴覚障害者とは思えない。だから、カマをかけてみたのだ。
「鈴なんです」
 ぼそりと言った。鈴太郎に鈴……、カブ先生は口元に浮かんだ笑みを、顔をしかめてこらえた。
「夜になると、鈴の音が聞こえてくるんです。それで眠れなくなってまって……」
 少年の顔は真剣だった。
(幻聴だろうな)
 カブ先生はそう判断した。
「君は、この部屋で寝ているんだね」
 少年が頷いた。
「一人で寝てるの?」
「いえ、三人で寝ています」
「他の二人は、鈴の音を聞いていないんだね?」
 少年が頷いた。
「ぼくは、呪われているんです」
 少年が唐突にしゃべり始めた。少年の話によると、花吹雪座には、かつて絶大な人気を誇った花房鈴乃丞という女形(おやま)の役者がいたのだという。それが、顔の神経が麻痺する難病にかかった。舞台に上がれなくなった鈴乃丞は自殺した。鈴乃丞の十八番(おはこ)だった藤娘の衣装を着込んで、舞台の梁にかけた腰紐で首を吊ったのだ。劇団員が発見したときは、ぶら下がった体が痙攣して、簪(かんざし)に付いている鈴が激しく鳴っていた……。
「誰に、そんな話を聞いたんだい?」
「最近までうちの劇団にいた先輩です。急にやめるというんで、理由を訊いたら、その話をしてくれました。女形で人気が出ると、鈴乃丞の霊が嫉妬 して、ちょっかいを出してくるんだそうです。その先輩も、夜中に鈴の音が聞こえるんだと言っていました。でも、そのときは、一緒の部屋に寝ていたぼくには何も聞こえませんでした」
「どうして座長に相談しないの?」
 少年が激しくかぶりを振った。
「できないんです。他の人にしゃべったら、鈴乃丞の霊が怒って大変なことになるって……」
「でも、その先輩は、君にだけはしゃべったんだよね」
「ぼくがしつこく訊いたから……。それに、心配してくれたんだと思います。何かあったら、役者をやめて一座を出るように忠告してくれました。ぼくのことを、とてもかわいがってくれましたから」
 腑に落ちなかった。
「その先輩は、今は何をしているんだろう?」
 できれば、その先輩に直接、話を訊きたかった。
「それが……」
 少年の色白の顔が、さらに蒼白になった。
「交通事故に遭って入院しているんです。意識不明の重体で……。ぼくのせいです。ぼくが、無理を言って先輩に話をさせたから、鈴乃丞の霊が怒って……」
 堰が切れたように、少年が泣きじゃくった。


 カブ先生は、扉の外に出て、五月の陽光に痩せた裸身を晒した。露天風呂には一人、先客がいた。カブ先生は笑顔で会釈して、湯船に体を沈めた。
「昨日は、ありがとうございました。おかげさまで、うちの鈴太郎もだいぶ元気が出たようです」
 まだ二十歳そこそこだというのに、しっかりした物言いだった。吹雪桜次郎(おうじろう)、吹雪嵐之介の息子である。素顔の桜次郎は、ちょっと不良っぽい茶髪の普通 の若者だった。とても、平手造酒の敵役を演じていた役者と同一人物だとは思えない。
「けなげだよねえ。恩義のある座長の役に立とうと、まだ子供なのに、一生懸命に頑張ってるんだもの」
 カブ先生の言葉に、桜次郎が神妙に頷いた。
 鈴太郎の両親は、かつては花吹雪座の役者だった。それが、駆け落ち同然に劇団から飛び出して一緒になった。しかし、鈴太郎が生まれてすぐに両親は離婚、母親は女手ひとつで鈴太郎を育てていたが、無理がたたったのか、肝臓を患って亡くなった。寄る辺のない身になった鈴太郎を不憫に思い、嵐之介が座員として引き取った──、これが鈴太郎から聞いた身の上だった。
「あなたは、鈴の音を聞いていないんですね」
 カブ先生が唐突に尋ねた。
「鈴の音、ですか?」
「宿舎で、夜中に鈴の音が鳴るようなことはありませんでしたか?」
 桜次郎は、合点がいったとばかりに頷いた。
「そういえば、鈴太郎がそんなことを言ってたような気がしますね。あたしは寝付きがいいもんで、横になったらバタンキューで、少々の物音がしても目が覚めないんですよ。あたしよりも、松ドンに訊いてもらった方がいいですよ」
 松ドンこと松村は、花吹雪座が所属しているプロダクションから派遣されている社員で、もっぱら照明や音響などの雑用をこなしていた。二十台半ばの鈍重そうな 青年で、鈴太郎や桜次郎と一緒の部屋で寝起きしていた。
「松村さん、なんでもウシガエルの鳴き声が気になって眠れないので、いつも耳栓をして眠っていたそうです」
「ああ、あの部屋は池に面しているから、とくに鳴き声がうるさいんですよ。それに、ここのところかなり蒸したから、窓を開けて寝ていましたからね」
「あなたは気にならないんですか?」
「全然、なんせ、バタンキューですから」
「だったら、鈴の音も気にならないか……」
 カブ先生は、独り言のように呟くと、立ち上がって露天風呂の縁石に腰掛けた。
「ところで、蘭乃丞 さんの容体はどうですか?」
 カブ先生の問いかけに、桜次郎の顔が強ばった。
「交通事故に遭って、意識不明の重体だというじゃないですか。あなたが、鈴太郎さんに教えてあげたんでしょ?」
「ええ、まあ、そうですけど。あたしも人から聞いたので、詳しいことは知らないんです」
「お見舞いに行ってあげないんですか? ずいぶん薄情ですねえ。劇団員は家族も同然だと、嵐之介さんがよく言ってましたが」
「用事があって、見舞いに行く時間がなかったんです。ここでの芝居がはねてから、ゆっくり見舞いに行こうと……」
 歯切れが悪い。
「意識不明の重体で、今にも死にそうだというのに? ずいぶん悠長に構えてますね。今日もこうして、のんびり温泉に浸かってるし」
 カブ先生の皮肉に、桜次郎が押し黙った。
「あなたが蘭乃丞さんに頼んだんでしょ? 首吊りした女形の怨霊の話を鈴太郎さんにするように」
 ずばりと切り込んだ。
「何を言ってるんですか。だったら、鈴の音も、あたしの細工だと言うんですか?」
「そういうことになりますね」
 桜次郎の口元に冷笑が浮かんだ。
「あたしが用事があって出かけた日は、広島に泊まってるんです。あたしがいない夜も、鈴太郎は鈴の音を聞いたんでしょ?」
「よく知ってますね。 鈴太郎さんから聞いたんですか?」
 桜次郎が表情を歪めた。
「まあいいです。確かに鈴の音は、あなたが鳴らしていたんじゃない。でも、うまく考えましたね。ネズミに鈴を鳴らさせるとは」
 唖然とした表情で、桜太郎はカブ先生の顔を睨んだ。
「クッキーの食べ滓が、荷物の後ろにたくさん落ちてましたよ」
 桜次郎が、力なくかぶりを振った。
 トリックは簡単だ。紐の片方の端に鈴、もう一方の端にクッキーを結んでおいて、壁際の荷物の裏に隠しておく。ネズミがやってきてクッキーを囓れば、鈴が鳴るという仕掛けだ。やってくるネズミは、おそらく野生のハツカネズミだろう。夜行性で警戒心が強いので、消灯して静かになった部屋にしか現れない。
「昨夜の停電騒ぎもあなたの仕業ですね。暗闇の中で、鈴太郎さんのそばに近づいて、耳元で鈴を鳴らした。怨霊話で心身が消耗していた鈴太郎さんは、ショックで気を失った……」
 桜次郎の顔を見れば、白状したも同然だった。
「ひとつ、わからないことがあります。蘭乃丞さんは、鈴太郎さんを弟のように可愛がっていたというじゃないですか。どうしてあなたに協力したんですか?」
「あいつ、堅気になるとか言って退団しましたが、本当は他の一座に引き抜かれたんですよ。まあ、札束でほっぺたでもひっぱたかれたんでしょうがね。しばらく間を空けて、ごまかすつもりだったようだが、この世界は、仁義を欠いては生きていけない。あたしが座長にばらすと言うと、あの野郎、土下座して謝りましたよ」
 吐き捨てるように言った。
「鈴太郎さんを追い出したかったんですか?」
 桜次郎が頷いた。
「嫉妬ですか?」
 今度はしばらく間をおいて、自分に言い聞かせるように頷いた。
「そうかもしれません。鈴太郎には、持って産まれた華があります。こればかりは、いくら演技の稽古をしたって、いくら経験を積んでも、手に入れることができません」
 門外漢のカブ先生にも、いや、門外漢のただの観客だからこそ、桜次郎が言っていることがよくわかった。
 桜次郎が、両手でざぶりと湯をすくって、顔をごしごしと洗った。
「怖かったんですよ、また親父を盗られるんじゃないかと思って」
 さばさばした口調だった。
「鈴太郎は、親父の本当の子供なんです」
 今度はカブ先生が唖然とする番だった。
「親父は、あたしや母親や劇団を捨てて、座員だった加代さんと駆け落ちしたんです。しかし、根っからの役者馬鹿の親父が、堅気の仕事ができるわけがない。何年かして、座長を引き継いでいたあたしの母親に土下座して一座に戻って来た。でも、加代さん母子を捨てたわけじゃないようです。ある日突然、乳飲み子だった鈴太郎を連れて加代さんが姿を消した。加代さんは役者としての吹雪嵐之介を尊敬していましたから、親父を舞台に戻してあげたかったんでしょうね」
 カブ先生が相槌を打った。
「女形姿の鈴太郎は、驚くほど加代さんに似てるんです。親父も不憫に思って、鈴太郎を大事にする。そんな親父の気持がわかるだけに、また親父を盗られるんじゃないかと思って、不安になるんです。逆恨みだということはわかってます。鈴太郎には何も責任がない。いや、一番の被害者です。でも、あたしは、自分の浅ましい気持をどうすることもできなかった……」
 カブ先生は、傍らに転がっていた湯桶を取り上げる、温泉を満たして頭からかぶった。そして、まるで犬のように、頭を振って蓬髪から水滴をはねとばした。
「あなたは、すばらしい役者になれる。昨夜の舞台を見て、そう思いました。吹雪嵐之介の名前を継ぐのは、あなたしかいない」
 カブ先生は、本心から、そう思っていた。
「凛々しい若武者姿の二代目嵐之介の横には、美しい女形の鈴太郎くんが寄り添っている。そんな光景が目に浮かぶようです。兄弟で舞台に上がれるなんて、最高じゃないですか」
 桜次郎の双眸から、涙が溢れた。桜次郎は、カブ先生にならって湯桶に温泉を汲むと、まるで水行のように頭からお湯をかぶった。そして、オールバックにきれいに頭髪を撫でつけると、湯船から上がって、カブ先生に向かって正座した。
「参りました。この吹雪桜次郎、脳天から一刀両断されたような気分です。これからは性根を入れ替えて、弟の鈴太郎と共に、役者道に精進するつもりです」
 そう言って、額が床に触れんばかりに頭を下げた。
(大げさな芝居は、嵐之介そっくりだ)
 カブ先生は苦笑を浮かべて、心の中で話しかけた。
(ただし、だ。酒癖と女癖が悪いのだけは、真似しないようにな)


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆ 「身代わり地蔵」の感想 (掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」

*タイトルバックに「男衾記村-復興計画」の素材を使用させていただきました。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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