T-Timeファイル亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る


(俺はいったい、こんなところで何をやってるんだ?)
 榊秋介(さかきしゅうすけ)は、何度目かの自問を繰り返した。ドンドンとドアをたたく音が響いた。
「入ってます」
 声を出した途端に、強烈なアンモニア臭が鼻腔から侵入した。秋介はあわてて鼻をつまんで、口だけで深呼吸を繰り返した。ローカル列車のトイレの中に籠もっていた。
 しばらくして、ドアがまたノックされた。
「はひってまふ」
 鼻をつまんだままなので、ひどく間の抜けた声になった。
「兄(にい)ちゃん、わいや」
 大阪弁の呼びかけに、秋介はホッとして、ドアのロックを解除した。扉を開けると、とっちゃんぼうやのような顔をした小柄な男が立っていた。仲間内で、ケイちゃんと呼ばれている。
「どや、特別室の居心地は?」
 ケイちゃんが、にこやかな顔で話しかけた。
「雪隠(せっちん)詰めになった気分ですよ」
 秋介が憮然として答えた。ケイちゃんが声を出して笑った。
「切符は?」
 秋介に言われて、ケイちゃんは思いだしたように、派手な柄物シャツの胸ポケットから、列車の切符を取り出した。それをひったくるように取り上げると、秋介は客車に向かった。誰もいないボックス席を選んで、窓際の席にどっかと腰を下ろした。
 窓の外は、田園風景が続いている。夕陽を浴びて、豊饒に実った稲穂が黄金(こがね)色に輝いている。すでに稲刈りの終わった田圃(たんぼ)もあって、一望すると巨大なパッチワークのように見えた。東京の下町で生まれ育った秋介は、まるで異国のような里山の景観に、すっかり魅入られていた。
「お客さん」
 声をかけられて、秋介は振り返った。でっぷりと太った車掌が立っていた。
「切符を拝見できますか」
 秋介はジーパンのポケットをまさぐって、ケイちゃんから受け取った切符を車掌に手渡した。心臓がドキドキと高鳴っている。車掌が切符に見入った。検札済みのスタンプが押されているのだ。そして、不審そうな視線を秋介に向けた。
「何か問題でも?」
 内面の動揺を隠して、秋介が車掌の顔を睨んだ。勝負の世界に身をおいている人間の射るような眼光に、車掌の顔が強ばった。
「いや、あの……、ありがとうございました」
 切符を秋介に返すと、あたふたとその場を離れた。
(やれやれ、この俺がイカサマをやるとはな)
 秋介は嘆息した。客車の向こうの方から、ケイちゃんの甲高い笑い声が聞こえてきた。
「へえ、あんた、孫がおるんね。信じられんのう。わしゃ、まだ結婚前の娘さんじゃとばかり思うとったけん」
 流暢(りゅうちょう)な広島弁だ。婆ちゃんの陽気な笑い声が響いた。
(あいつはいったい、何者なんだ?)
 秋介は、広島の薬研堀にある将棋会所でのことを思い浮かべた。ケイちゃんと会所の席主(経営者)は、古くからの顔なじみのようだった。驚いたことにケイちゃんは、いつものコテコテの大阪弁とは違って、広島訛りで楽しそうにしゃべっていた。まるで近所の常連客が、ぶらりと立ち寄ったかのような感じだった。
「毛利という名前だったんですねえ。知りませんでした」
 秋介が話しかけると、ケイちゃんは手を振って否定した。
「ちゃうちゃう」
「でも、あの席主が、あなたのことをそう呼んでましたよ」
「そりゃあ、広島いうたらやっぱり、毛利やろ」
 ケイちゃんは、ケロリとした顔で言ったものだ。
 広島行きを持ちかけてきたのは、ケイちゃんだった。
「片懸賞のぼろい話があるんやけどな」
 大阪は新世界にあるうどん屋で、ケイちゃんが用件を切り出した。賭け将棋の賭け金のことを、隠語で懸賞という。片懸賞とは、片方だけが懸賞を賭けるという意味だ。勝ったら賭け金がもらえるし、負けても何も払う必要がない。くすぼりにとっては、温泉気分で将棋が指せる、夢のような条件だった。
 ちなみにくすぼりとは、賭け将棋で食い扶持を稼いでいる者たちのことをいう。将棋会所や将棋道場の片隅で、一日中くすぶっていることからその名がついたといわれている。別名、真剣師とも呼ぶ。賭け将棋のことを、隠語で真剣というからだ。
「広島の山の中にある小さな町なんやが、昔から将棋がえろう盛んな土地でな。そこに住んどる知り合いが、プロの将棋指しに指導対局に来てもらいたいというのや」
「プロの将棋指し?」
 ケイちゃんがニヤリと笑った。
「わいらは将棋でオマンマを食うとるんやで。立派なプロやがな」
「でも、なんで俺に声をかけたんですか? 多賀谷さんの方が俺よりも貫禄があるし、ずっと強いじゃないですか」
 大阪の新世界には、多賀谷元(はじめ)という真剣師の怪物がいた。
「大将はアカン、乗り物に弱いのや。自転車でも酔うてしまうわ。広島なんか連れて行ったら、自分の吐いたゲロの中で溺れてしまうで」
 そんな馬鹿なと笑いながら、そういえば、と秋介は思った。多賀谷はどこに行くのも徒歩だった。五十の坂をとっくに越えているのに、まるで競歩のような早足で、人混みの中を飄然と縫って歩いた。
(しかし、あのタガゲンが乗り物に弱いとはな)
 つぶし屋のタガゲンという異名で畏(おそ)れられている多賀谷の意外な弱点を知って、秋介は笑いを噛み殺した。
「取り分はきっちり三等分や」
「三等分?」
「わいと兄ちゃん、それに段取りをしてくれる広島の知り合いとで、きっちり三等分。どや、平等やろ?」
 それで秋介にも事情が飲み込めた。どちらから話が出たのかは知らないが、ケイちゃんとその広島の知り合いとで、ひと儲けを企んだのだろう。将棋のプロ棋士を名乗って田舎町に乗り込んで、がっぽりと稼ごうという魂胆なのだ。多賀谷に声をかけない本当の理由もわかった。多賀谷を担ぎ出せば、三等分ではすまなくなる。
「俺は、将棋だけ指せばいいんですね」
 秋介の確認に、ケイちゃんがニッコリ笑って頷いた。
「その通りや」
 それで決まりだった。

 芸備線の鈍行列車は、川沿いの路線を走っていた。秋介の腹の虫が、情けない声で鳴いた。今朝、広島行きの新幹線の中で、駅弁を食べたきりだった。
(俺がドジっちまったからな)
 夕焼けに染まった川面を見ながら、秋介は自分に悪態をついた。ケイちゃんに同行した薬研堀の将棋会所で、秋介は真剣を挑まれた。野球帽を被った五十年輩の男だった。一局、千円でどうだという。秋介は喜んで、その申し出を受けた。大阪の新世界では、秋介の強さが知れ渡っていて、なかなか声がかからないのだ。
(どうせ旅先だ。しっかり稼がせてもらうか)
 その男とは、大駒一枚の力の差があった。秋介は途中で手を緩めて、最後は一手違いで勝負をつけた。狙い通り、すぐに再戦が始まった。その男は熱くなったのか、持ち駒を手の中でギュッと握りしめている。
「駒台が用意してありますよ」
 秋介がさりげなく注意したら、目をむいて怒鳴られた。
「これは真剣じゃけん。敵に手の内を見せられっか!」
 秋介は苦笑を浮かべて、指し手を進めた。秋介の力であれば、頭の中だけで将棋を指すことができた。持ち駒を隠されても、間違えるはずはなかった。
 それから二番、秋介が予定通り僅差の勝利をおさめた。
「いけんのう。あんちゃん、験(げん)なおしに駒を変えてもええか?」
 秋介は了解した。負け将棋を駒のせいにしていたら、いつまでたっても強くはなれない。
 男は、ジャケットの内ポケットから、駒袋を取り出した。相当に使い込んだ古い駒で、手油で黒光りしている。しかし、彫りのしっかりした良質の駒だった。
(うん?)
 秋介は桂馬を取り上げて、しばし眺めた。普通の駒よりも、いくらか大きめに作られている。それは、香車も同じだった。
「あんちゃん、なにモタモタしとるんじゃ。はよう並べんかい」
 男に催促されて、秋介は駒を並べ始めた。
「あんちゃん、わしはこまかい金では力が出せんのよ。もっと大きく賭けようじゃねえか」
 駒を並べ終えてから、おもむろに男が提案した。秋介は、男の顔を睨んだ。
(はったりか、それとも、今までネコをかぶっていたのか……、いや、違うな)
 実際に対戦してみた感触で、男が本当の力を隠しているのではないという確信があった。
「いいですよ。で、いくらですか?」
「ほうじゃな。五万ほどいってみっか」
 思わぬ大金の提示に、さすがに秋介も動揺した。
「五万、ですか……」
 片懸賞の温泉将棋で稼がせてもらうためにやって来たのだ。秋介の所持金は、二万もなかった。そのとき、肩をポンとたたかれた。振り返ると、ケイちゃんが立っていた。
「わしが乗るで」
 そう言って、秋介に頷いて見せた。
「わかりました。やりましょうか」
 一局五万円の大勝負が始まった。序盤は互いに慎重に、駒組みを進めた。秋介は、相手の隠し技を警戒していた。ここ一番のときに繰り出してくる、とっておきの戦法である。しかし、男の指し手は平凡だった。秋介は先に仕掛けた。しばらく揉み合っているうちに、男が応対を間違えた。秋介は猛然と攻め込んだ。手を緩める必要はないのだ。たちまち局面は終盤を迎えて、秋介の圧勝が明らかになった。
 やったな、とばかりに、ケイちゃんが秋介の背中を軽くたたいた。秋介は会釈して、それに応えた。
(うん? なんだ、その角打ちは……)
 男が自陣に角を打ってきたのだ。まったく受けになっていない。その角は、遠く秋介の王将を睨んでいるが、男の固く握りしめた拳の中には、桂馬と歩しか入っていないはずだった。念のために、盤上の駒の数を確認した。
(やっぱり、へぼ将棋だ)
 秋介は悠然と成銀を敵玉に近づけて、「詰めろ」をかけた。これで受けはなくなった。どうだとばかりに、相手の顔を見た。そして、投了の意思表示を待った。
「あんちゃん、あめえよ」
 男が拳の中から駒を取り出すと、秋介の玉頭に打ち込んだ。
「エッ!」
 驚きの声を上げて、秋介はその駒を見た。
「そんな馬鹿な」
 顔をさらに近づけて、その駒を睨んだ。何度見ても銀だった。

(この俺が、あんなイカサマに引っかかるとはな)
 秋介は我慢できずに、煙草を取り出して火を付けた。最後の一本だった。大きく煙りを吸い込んで、しばらく肺を燻(いぶ)してから、嘆息とともに車窓の外に吐き出した。
 カラクリは簡単だった。男が持ち駒の桂馬を、秋介の成銀とすり替えたのだ。最初からそれが目的で、桂馬や香車が大きめに作られていた。さらに手の込んだことに、駒の側面にかすかな傾斜をつけて、表よりも裏の方が大きくなっている。裏面は銀と同じで「金」という文字が彫られているだけなので、成って裏返れば区別がつかないのだ。
 すぐにイカサマに気付いた秋介は、猛然と抗議した。
「あんちゃん、証拠はあるんじゃろうのう。誰か、わしが駒をすり替えたところを見とるか?」
 周りで観戦していた連中に声をかけた。おそらく、その男の仲間なのだろう。その連中は即座に否定した。
「あんたはどうじゃ?」
 男がケイちゃんの顔を見た。ケイちゃんはしばらく考えていたが、力なくかぶりを振った。それで、勝負がついた。ここは敵地なのだ。さらにゴネると、金以上のものを失うことになる。
「まあええがな。どうせ片懸賞でがっぽり稼がせてもらうんやから」
 いつもは金にうるさいケイちゃんが、そう言って慰めてくれたのがせめてもの救いだった。しかし、二人の残りの所持金を合わせても一人分の切符しか買えないため、入場券で改札を通った秋介が、列車のトイレに隠れるはめになってしまった。
(しかし、あの野球帽の男、いつ駒をすり替えたんだろうな)
 今でもそれが謎だった。秋介は一度も席を外していない。金額が大きい真剣なので、盤上に集中していた。駒を勝手に移動されるのを警戒していたのだ。秋介の記憶にある限り、あの男は秋介の成銀には一度も触れていない。
(やるとしたら、あのときしかないんだよな)
 勝ちを確信したときに、ケイちゃんに肩をたたかれた。そのとき一瞬、秋介は後ろを振り返った……。しかし、そのとき細工したのであれば、ケイちゃんが見ていたはずである。あとで秋介が確認すると、ケイちゃんは、そんなことはなかったと即座に否定した。
(まさか、あいつ……)
 とっちゃんぼうやのような顔を思い浮かべて、かぶりを振った。煮ても焼いても食えない男だが、仲間を裏切るような人間ではなかった。
(もっとも、俺のことを仲間だとは思っていないだろうがな)
 大阪は新世界のジャンジャン横町にある一歩クラブが、多賀谷を親分格とするくすぼり軍団の根城だった。秋介も一歩クラブで稼いではいたが、多賀谷の子分になったつもりはなかった。秋介の狙いは、多賀谷の首なのだ。多賀谷を、いや、多賀谷の将棋をたたき潰すのが、秋介の目標だった。
「次は山中島、山中島。お出口は進行方向にむかって、右側になります。お忘れ物のないようにご注意ください」
 停車駅を告げるアナウンスが響いた。
「やれやれ、ようやく着いたか」
 始発の広島駅をたって、三時間近くも鈍行列車に揺られていた。大きく伸びをしながら立ち上がると、ケイちゃんと視線がぶつかった。ケイちゃんが頷いたので、秋介は先に席を立って、出口に向かった。
 ホームに降り立つと、ひんやりした冷気が秋介の全身をつつんだ。綿の長袖シャツにジーパンという軽装の秋介は、ブルッと体を震わせた。それでも、空気は澄んでいて新鮮だった。秋介は、体の中の澱んだ空気を入れ換えるように、深呼吸を繰り返しながら改札に向かった。
(おいおい、話が違うじゃないか)
 ケイちゃんの話では、この山中島駅は無人駅のはずだった。だから、キセルができると踏んだのだ。しかし、改札には駅員が立って、降車客から切符を回収している。
(俺のせいじゃ、ないからな)
 秋介は正規の切符を駅員に手渡して、改札を通り抜けた。そして、少し離れた場所で、ケイちゃんが姿を現すのを待った。ケイちゃんは、車内で一緒だった婆さんと一緒だった。駅員に切符を要求されて、体中のポケットをまさぐった。あるはずはない。すでに秋介が使っているのだから。
「どうしなさった?」
 モンペ姿の婆さんが、心配して尋ねた。
「いや、切符がないんよね」
「ほいじゃけど、汽車の中では、車掌さんにはちゃんと見せとったじゃろ?」
「それが、どこにもないんよね」
 人の良さそうな婆さんは、今度は駅員に事情を説明した。
「そう言われても、わしも切符をもらわんとなあ」
 駅員は、困惑した顔でケイちゃんを見た。
「仕方がない。広島からここまでなんぼですか?」
 駅員が金額を告げると、ケイちゃんはその場にうずくまった。しばらく靴下の中をまさぐっていたが、立ち上がったときは小さく折りたたんだ一万円札を手にしていた。
(あの野郎、あんなところに隠してやがったのか)
 怒鳴りつけたい衝動を、秋介はかろうじて抑えた。
 精算をすませたケイちゃんが、ようやく改札から出て来た。婆さんが、ケイちゃんに別れを告げて駅舎から出て行くと、待合室に二人だけが取り残された。
「あの金、どういうことですか?」
 憮然とした顔で秋介が尋ねた。
「あれは、母親の形見でな。わいが親父とケンカして家を出たときに、こっそり手渡してくれたんや。あの金ばっかしは、使いとうはなかったんやが……」
 しんみりした口調でそう言われて、秋介はあとの言葉を失った。
「あの、失礼じゃが、全日本将棋連合会の徳川会長ではないですか?」
 秋介が振り向くと、四十年輩の男が立っていた。背は低いが、がっしりした体格で、着ている紺色の背広がパンパンに膨らんでいる。
「あなたが山村さんですか?」
 ケイちゃんが問い返すと、男が柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「どうも、はじめまして、徳川です」
 ケイちゃんが名乗って、山村という男と握手した。
「ほいじゃあ、こちらの若い方が……」
 山村が、まぶしそうな目で秋介の顔を見た。
「そうです。榊名人です」
 ケイちゃんが、もったいぶった声で告げた。
「そうですか。こんな山の中に、よう来てくださったのう」
 山村が、秋介の右手を両手でつかんで、かたく握りしめた。
(俺が、榊名人……)
 秋介は、苦笑を浮かべるしかなかった。

「わが全日本将棋連合会は、まだ歴史が浅い組織ではありますが、その目的とするところは、アマプロ問わず、真の実力者を決定するということであります。世の中には、未知なる強豪がたくさんひそんでいます。その人たちに、等しく平等に機会を与えるのが、わが連合会の使命だと考えております。幸いにも、プロで活躍されている方々の中にもご賛同をいただいて、前途は洋々たるものがあります。いずれは世界に組織を広げて、全世界将棋連盟として、真の将棋の世界一を決めたいと思っています」
 ケイちゃんの朗々たる声が、旅館の大広間に響き渡った。山村が用意していた燕尾服にネクタイを着用したケイちゃんは、その堂々たる話しぶりもあって、ひとかどの人物に見えた。
(あいつ、いったい何者なんだ?)
 秋介は、控え室での会話を思い浮かべた。
「ここでは、徳川という名前を使ってるんですか?」
「東京いうたら、やっぱり徳川やろ」
「全日本将棋連合会というのは?」
「新しく作った団体やがな。あんたが東日本代表でわいが西日本代表、ちゃんと全日本になっとるやろ? それで、兄ちゃんの方がわてよりも少し強いから、名人位を譲ったわけや。どや、ちゃんと筋が通ってるやないけ」
 ケイちゃんの強弁に、秋介は内心、やれやれと嘆息した。ケイちゃんの「ケイ」は時計の「ケイ」で、昔は時計専門のスリ、ケイちゃん師だったと仲間内で噂されていた。
(奸計のケイだよな)
 心の中で呟いた。前歴は詐欺師だったに違いないと秋介は思った。いや、今でも現役か。その奸計の中に、自分も引っ張り込まれてしまった……。
「みなさん、ご静聴、ありがとうございました」
 ケイちゃんの長広舌の熱弁が終わると、盛大な拍手が起こった。
「それでは、全日本将棋連合会名人、榊秋介先生に、お言葉を頂戴したいと思います」
 司会役の山村が、秋介の方を見て言った。
(おいおい、冗談じゃないぞ)
 秋介は、しゃべるのが大の苦手だった。まして、大勢の人の前で話をした経験など一度もなかった。
「さあさあ、榊名人の出番やで」
 隣りのケイちゃんが、秋介の耳元で囃(はや)したてた。秋介は仕方なく、立ち上がった。衣擦(きぬず)れの音が聞こえた。秋介は、羽織、袴の正装に着替えていた。こんな格好をしたのは、七五三の記念撮影をしたとき以来だ。
「俺、いや、わたしは……」
 そこで口ごもってしまった。温かい拍手が起こった。
「わたしは、みなさんと将棋を指すために来ました。話はもう、さっきの徳川会長で充分でしょう。早く対局を始めませんか?」
 やけくそで本音をしゃべった。しかし、秋介の提案は、ケイちゃんのときを上回る大きな拍手で歓迎された。
「なかなかうまいやないか」
 ケイちゃんが感心した顔で、秋介にささやいた。
「それでは、榊先生のお言葉通り、これより指導対局を始めたいと思います。指導料は一局、三千円です。ただし、徳川会長の特別なご配慮で、先生方に勝った人は指導料が免除になります。実力が認められると、徳川会長からスカウトされるかもしれんけえ、みんな、がんばりんさいね」
 山村の最後の激励で、会場がどっとわいた。
 対局が開始された。対戦相手は三十人だった。秋介が二十人、残りの十人をケイちゃんが受け持った。秋介を取り囲むようにコの字形に長机が配置され、将棋盤がびっしりと並べられている。手合いは角落ちから飛角金銀の六枚落ちまで、各自の棋力に応じていた。
 秋介は中腰のまま、ほとんど考慮時間なしで指しては、次々と盤を移動する。ある対局者前で、秋介の動きが止まった。
「あなたは……」
 藤色の和服を着た女性だった。年齢は三十代の半ばぐらいか。美人だった。まるで女優のような艶やかな雰囲気を見にまとっている。
「和服、とてもお似合いですよ」
 彼女がそう言って微笑んだ。秋介は顔を赤らめて、頭髪をガシガシと乱暴に指で掻いた。秋介の着替えを手伝ってくれたのが、この女性だったのだ。
 手合いは角落ちだった。対戦相手の中で、女性は彼女ひとりだけだ。女性が将棋を指すのは珍しい。しかも、角落ちで挑んでくる自信に、秋介は内心、驚いた。
 秋介は黙礼して、飛車先の歩を進めた。鼻先に、ほのかな香水のかおりがただよってきた。どこかで嗅いだことのある匂いだった。着替えを手伝ってもらっているときも、秋介はそう思ったのだ。でも、思い出すことはできなかった。
 記憶がよみがえったのは、それからしばらく経ってからだった。
(あの女の匂いだ……)
 父親の愛人だった。秋介がまだ幼かった頃、父親に連れられて、何度かその女性の部屋を訪れたことがある。秋介は、母親の目をごまかすためのカモフラージュに使われていたのだ。当時の秋介は、そんな複雑な男女関係のことは何もわからなかった。ただ、彼女の部屋を訪問するたびに父親から、「このことは誰にもしゃべるんじゃないぞ」と口止めされて、子供心に後ろめたい鬱屈を抱えていた。
 しかし、秋介は、彼女のことが好きだった。秋介の好物のお菓子を、いつも用意していてくれた。秋介に対して、細やかな気遣いをしてくれたのだ。彼女のそばによると、石鹸の香りを濃厚にしたようなとても良い匂いがした。父親が家業の八百屋を捨ててその女性と出奔したとき、秋介は怒りよりも寂しさを覚えた。どうして自分も一緒に連れて行ってくれなかったのか……。
(まさかな。第一、年齢が合っていない)
 もう二十年余りも前の話で、秋介は彼女の顔さえ忘れていた。
 一時間もすると、秋介の対戦相手は半分に減っていた。十戦全勝、秋介の指し手に容赦はなかった。残った相手も、時間の経過とともに、続々と投了していった。真剣の修羅場に身をおいてきた秋介にとって、枝に成った果実をもぎるような将棋だった。
 秋介が全勝のまま、対戦相手はひとりを残すだけとなった。この将棋が一番、苦戦していた。秋介は座布団の上に正座して、盤面に集中した。
「おサヨさん、頑張れ!」
 外野から声援がとんだ。和服姿の女性が、にっこり笑ってそれに応えた。
(やるもんだな)
 秋介は驚いていた。序盤で何度か揺さぶりをかけたのだが、落ち着いて応接されて困った。間違いをしてくれなければ、上手(うわて)は勝負形に持ち込めない。この女性が最も手強い相手であることを、秋介は序盤で確信した。
(これならどうだ?)
 心の中で呟きながら、龍で金を捕獲した。「エッ」という声がどこからともなく聞こえた。相手の持ち駒には角がある。王手龍取りが目に見えている。しかし、それが秋介の狙いだった。わざと角で王手をさせて自陣を補強する。龍を取られるのは痛いが、まだまだ粘れると判断した。それに、角を手放してくれるのもありがたい。秋介の陣形は、飛車よりも角に弱いのだ。
 彼女が秋介の顔を見た。口元に笑みが浮かんだ。まるで、そんな手には乗りませんよ、と語りかけているようだった。彼女の右手が駒台の歩を取り上げると、白くて華奢な手がしなった。乾いた音を響かせて、駒が打ち込まれた。思わず見とれるほどの、鮮やかな指さばきだった。
(やっぱり駄目か。手合い違いだったな)
 秋介は負けを覚悟した。その歩打ちがいちばん確実なのだ。それで、秋介の一手負けが明らかになった。それでも秋介は粘った。勝負は下駄を履くまでわからない。相手が反則手を指すかもしれないではないか。ひょっとしたら、心臓麻痺でポックリと……。最後まで諦めないど根性が、大阪のくすぼりの真価だった。
(うん?)
 仕上げの段階で、彼女に初めて暖手が出た。角を切って一気に決めるべきところを、角を成って逃げたのだ。秋介は思わず彼女の顔を見た。口元に冷笑が浮かんでいる。
(これでも充分だと思っているのか。甘いな)
 秋介は自陣に龍を引いて、成ったばかりの馬に当てた。これで唯一の攻めの手がかりを放棄してしまったが、受けるにはこの手しかない。彼女が歩で飛車の横利きをさえぎった。秋介が金を打ち込んで、相手のと金と刺し違えた。大きな駒損だが、と金が盤上から消えてみると、相手の攻めの迫力は半減する。それでも、彼女は沈着冷静に攻めを続けた。秋介は、なりふりかまわず受けに徹した。周囲の者がうんざりするほどの執拗な攻防が続いて、いつの間にか秋介の王将は、金銀三枚の堅城に守られていた。
(これでようやく五分に戻ったか)
 手応えを感じていた。彼女の方をチラリと見やると、さすがに頬が紅潮して険しい表情をしている。彼女は小さく頷くと、唐突に口を開いた。
「負けました」
 そう言って頭を下げた。周囲から驚きの声が上がった。
「サヨコさん、まだまだやれるがな」
「ほうじゃほうじゃ。これからの将棋じゃけえ」
 彼女は笑っているだけだ。しかし、いちばん驚いたのは秋介だった。
(やっぱり、女のやることはようわからん)
 秋介は、憮然として席を立った。

 宴会はまだ続いているようだった。しゃべるのが苦手な秋介は、次々と差し出されるお銚子の酒を黙々と受けているうちに、すっかり酔いつぶれてしまった。早々に自分の部屋に引き上げて、布団の中にもぐり込んだ。アルコールで四肢は痺れているのだが、頭の芯の部分が醒めていて、なかなか眠りに就(つ)けない。勝負のあとはいつもこうなのだ。
(あの女、どうして途中で投げたんだろう?)
 秋介は、あの和服の美人との将棋を思い浮かべていた。実際に対戦してみて、彼女の実力がよくわかった。遊びの将棋ではなかった。実利に徹したがめつい将棋だった。勝負師の鋭敏な嗅覚が、彼女は強敵だと警告していた。
(それにしても、あの角成りは、なんだったんだろうな)
 それまでの指し手からして、終盤であんなヌルい手を指すような相手ではないのである。まるで、勝負をわざと長引かせるような手だった。
(俺のことを試したのか?)
 秋介はすぐに否定した。そんなことをする理由がないではないか。
(うん?)
 そのとき、部屋の扉をノックする音が聞こえた。秋介は応えなかった。今日一日、大勢の人と会ってうんざりしていた。これ以上、相手をするのはごめんだった。
 扉の格子戸を開けて、誰かが部屋の中に入って来る気配がした。秋介は目を閉じて、狸寝入りを決め込んだ。畳の歩くかすかな音で、その人物が近づいて来るのがわかった。
(誰なんだ?)
 視線を強く感じた。秋介は、目を開けて相手を確かめたいという衝動を、かろうじて抑えた。
(この匂いは……)
 枕元に佇(たたず)んでいた人物が離れて行く気配に、秋介は我慢できずに薄目を開けた。行燈を模したスタンドの淡い明かりで、藤色の和服を着た女性の後ろ姿が見えた。
 彼女が立ち止まると、衣(きぬ)擦れの音が聞こえてきた。帯を外しているのだ。やがて、藤色の着物が畳の上に落ちると、薄紅色の長襦袢が現れた。
(この女、部屋を間違えたんじゃないだろうな)
 声をかけるべきだと思った。でも、喉が詰まったようで声が出てこない。秋介は、魅入られたようにその光景を凝視していた。
(あれは……)
 長襦袢の下には、派手な模様の入った下着を身につけていた。いや、模様ではなかった。絵柄が入っている。宝冠に薄衣(うすぎぬ)を身につけたふくやかな女性が、正面を向いて合掌している。どこかで見たことのある絵だった。
(観音菩薩だ!)
 実家の床の間に飾ってあった掛け軸を思い出した。
(違う、下着なんかじゃない……。俺は夢でも見てるのか?)
 女はすでに全裸になっている。観音菩薩の絵は、女の肌に直接、描かれていた。秋介は半身を起こして、その見事な刺青(いれずみ)に見入った。そのとき、女がくるりと振り向いた。
「やっぱり、起きてらしたのね」
 口元に、妖艶な笑みが浮かんでいた。

 翌朝、秋介はひとりで、遅い朝食をとっていた。ケイちゃんは、早朝から出掛けているようだった。十時までには帰って来るという伝言が、秋介に言付けられていた。今日は日曜日で、十時からまた旅館の大広間で、指導対局が予定されていた。
 温泉で軽く汗を流して、着替えに備えた。しかし、着付けの手伝いをするために部屋に入って来たのは、六十年輩の旅館の女将だった。
「あの……、昨日、着替えを手伝ってくれた人は……」
「ああ、猿田さんとこの奥さんじゃね。今日はやっぱり、ここへは来れんじゃろ。こんなことになってしもうたから」
 秋介は顔を赤らめた。昨夜のことを言われたのだと思ったのだ。秋介の全身に、彼女のやわらかな感触がまだ残っている。
(奥さんだったのか。まずいことになったな。でも、どうして俺なんかと……)
 昨夜は何も訊かなかった。いや、訊けなかった。あまりに唐突な事の成り行きに、思考力が麻痺していた。一匹の飢えた雄になって、熟れた雌の体を貪るだけだった。
「よし、これで出来上がり」
 羽織の紐を結び終えて、女将が満足そうな顔で秋介の全身を眺めた。
「先生、今日はがんばってくださいね。あたしは、先生が勝つ方に賭けとるんじゃけえ」
 女将はそう言って、秋介を部屋から送り出した。
(俺に賭ける?)
 意味がわからなかったが、聞き流した。着替えに手間取って、すでに十時を過ぎていた。
 秋介が大広間に姿を見せると、盛大な拍手が起こった。
「先生、お待ちしていました」
 山村が満面の笑みで、秋介を出迎えた。そして、床の間の方に案内した。
(なんだ、これは……)
 秋介の足が止まった。龍虎の絵が対になった二幅(ふく)の掛け軸の前に、対局場が設(しつら)えてある。壁には墨の色も鮮やかに「全日本将棋連合会名人戦 榊秋介名人対猿田彦市」と書かれた白木の看板が掲げられていた。
(猿田彦市……)
 どこかで耳にした名前だった。秋介は、山村からもらった名刺のことを思い出した。住所に「比婆郡」という文字が入っていた。
(比婆の大猿だ!)
 秋介がくすぶっている将棋会所の席主が話好きで、よく昔話を聞かされた。秋介は、大阪に来たときに真剣で持ち金すべてを毟られて、その一歩クラブに住み込みで働いていたことがある。その席主の話の中に、比婆の大猿こと猿田彦市の名前が何度も出てきた。
 猿田彦市は、かつてはアマ名人戦の常連だった。広島県代表として毎年のように顔を出していた。しかし、成績の方は芳(かんば)しくなく、いつもトーナメントの初戦か二回戦で敗退していた。猿田の目的は、アマ名人という肩書きではなく、全国の強豪と真剣を指すことだった。昔はそれを楽しみに、札束で財布をふくらませてやって来る猛者たちが大勢いたのである。
 猿田は、そうした裏の棋戦の横綱格だった。大金がかかった一番には、独自の戦法を繰り出してくる。そのときはきまって、観戦者を部屋の外に閉めだした。自分の得意戦法が衆目に触れて、研究されるのを警戒したのだ。
 そんな猿田が、棋譜の残る“公式戦”で得意戦法を使うはずもなく、それ上、夜を徹して命を削るような真剣を指しているだ。表の棋戦で勝てないのも、無理はなかった。
「あの猿田は、プロとも五分に渡りおうてたな」
 席主の話では、猿田は真剣の相手を求めて、大阪にもちょくちょく顔を出していたという。プロ棋士との真剣も、ハンデなしで受けていた。さすがに勝率では少し分が悪いが、ここぞという大勝負でしぶとく勝ちを拾うので、最後に金をつかんで帰るのは猿田の方だった。
「その猿田と多賀谷さん、どちらが強かったんですか」
 秋介が尋ねた。秋介が金を毟られた相手は、多賀谷だった。角落ちでもまったく歯がたたなかった。
「格が違うから、相手にもしてもらえまへんがな。多賀谷さんは晩学やからね」
 多賀谷が本格的に将棋をやり始めたのは、二十歳を過ぎてからだという。
「じゃあ、今の多賀谷さんなら勝てますか」
 老人はしばらく考えていた。
「まあ、ええ勝負やろ」
 そう言って、好々爺の顔で笑った。
 大きな拍手で、秋介の感慨は破られた。振り返ると大広間の入り口に、くたびれた作務衣を着た男が立っている。年齢は六十代の半ばだろうか。年齢の割には、大柄でがっしりした体をしている。真っ白な蓬髪の下に、ゴリラを連想させる皺だらけのゴツい顔があった。
(間違いない、比婆の大猿だ)
 その男の右腕を見て、秋介は確信した。作務衣の袖がだらりと垂れ下がっている。戦争で右腕を失ったのだ。隻腕の棋士、それが席主の話に出てくる猿田彦市の特徴だった。
 猿田の後ろには、地味な色合いの和服に身をつつんだ女性が控えている。視線を伏せた控えめな態度に、昨夜の熟れた雌の面影は微塵も残っていない。
(そういうことだったのか)
 秋介はようやく、着替えのときに女将が言ったことの意味を理解した。彼女は猿田の奥さんだったのだ。
「あんたがわしの相手か?」
 猿田の銅鑼声が響いた。明らかに秋介を見下している。秋介は無言で、猿田の顔を睨んだ。

「あっ、榊先生、手洗いはこちらですよ」
 背後から山村に声をかけられて、秋介はギクリと立ち止まった。
(このまま走って逃げるか)
 いや、駄目だなと内心、かぶりを振った。こんな格好ではまともに走れないし、目立ちすぎる。とても逃げ切れないと観念した。
 秋介は素知らぬ顔で踵(きびす)を返すと、トイレに向かった。まるで監視するかのように、山村が秋介の傍(かたわ)らに付き添った。
「山村さんは、どちらに賭けているんですか」
 秋介が尋ねると、山村はバツの悪そうな顔で頭を掻いた。
「猿田先生は、地元の名士ですけえ」
 山村の言葉に、秋介は小さく頷いた。
(やっぱり、そういうことか)
 すべてはケイちゃんが仕組んだのである。実体のない名人戦をでっち上げて、口八丁手八丁で賭け金を集めるだけ集めてドロン。もう、この旅館に帰って来ることはないだろう。そういえば、昨日の片懸賞で稼いだ金もすべてケイちゃんが握っている。
(さて、これからどうするか)
 トイレの個室に籠もって考えた。すべてを白状して、土下座して謝るか……。あの猿田の奥さんのことが脳裏をよぎった。あれこれと言い訳している自分の姿を想像して、秋介はうんざりした。
 やるしかないと思った。猿田との試合には、地元の商工会議所から五万円の賞金が出されている。足りるかどうかはわからないが、猿田に勝ってその金で賭け金を精算するしかない。やるべきことが決まると、胆(きも)がすわった。
 トイレから出ると、山村の姿はなく、猿田夫人が立っていた。
「どうぞ」
 濡れたおしぼりを差し出した。秋介は無言で受け取って、両手を拭った。
「わたしは、あなたに賭けているんですよ」
 彼女の顔を見ると、まるで少女のような悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
(何を考えているんだ?)
 口には出さないで、おしぼりを彼女に返した。
「向(むかい)飛車には、気をつけてくださいね」
 唐突に、彼女が告げた。
「向飛車? いったいあんたは……」
「榊先生!」
 廊下の向こうから、山村に呼びかけられた。とたんに彼女の顔から表情が消えた。よそよそしい態度で一礼すると、秋介のそばから離れて行った。あの芳香だけが残った。
「あの女性は、この土地の人ですか」
 山村に尋ねた。
「ああ、サヨコさんですね。五年ぐらい前に突然、猿田先生とこに嫁いできたんですよ。あんな美人がいきなり現れたもんだから、みんなもう驚いてしもうて。でも、今じゃみんなのアイドルですわ。地元の将棋クラブの指導も、猿田先生に代わってサヨコさんがしとるんですよ」
(あいつと同じで、いくつも違う顔を持っているようだな)
 ケイちゃんの顔を思い浮かべた。
「浴衣を用意してもらえませんか」
 秋介が山村に頼んだ。
「浴衣、ですか? お客さん用のもんなら、すぐに用意できますが」
「お願いします」
 秋介は大広間に戻ると、周囲の視線に頓着せずに、着ているものを脱ぎ始めた。最後に足袋を脱いでパンツ一丁の姿になると、山村の用意した浴衣をはおって帯を締めた。それから、大きく伸びをして体をほぐした。
(演技はもうやめだ)
 床の間の前の対局場では、猿田が盤の前に座して、秋介が来るのを待っていた。秋介は、自分のために用意された分厚い座布団を脇に退(の)けると、大きく股を割って畳の上にどっかと胡座(あぐら)をかいた。
「せっかくだから、いくらか賭けませんか?」
 秋介が提案した。
「あんた、真剣師か?」
 猿田が尋ねた。秋介のふてぶてしい態度や鋭い眼光に、その正体を見抜いたのだ。秋介は答えず、猿田の顔を睨んだ。
「おもしろいじゃないか」
 猿田がニヤリと笑みを浮かべた。
「金は当たり前すぎてつまらん。もっと大事なものを賭けようじゃないか。あんたの大事なもんはなんだ?」
 秋介はしばらく考えた。
「命、ですかね」
 猿田の顔が強ばった。
「命を賭けようというのか?」
 秋介は黙っていた。
「よし、わかった。将棋指しの命を賭けようじゃないか。負けた方は将棋を捨てるというのはどうじゃ?」
 秋介は、やれやれとかぶりを振った。
(年を取って、頭がいかれちまったんだな。こいつはもう、真剣師なんかじゃない)
 勝っても益のないものを賭けるつもりはなかった。
「それでは不足のようだな。だったら、オマケをつけようかの。サヨコ! こっちに来い!」
 大声で名前を呼ばれて、猿田夫人がおずおずと前に進み出た。
「勝ったらこいつをおまえにくれてやるぞ。どうだ、上等なオマケだろ?」
 あまりの暴言に、会場の空気が凍り付いた。
(こいつ、自分の嫁さんと俺が寝たことを知ってやがる……)
 秋介が口を開いた。
「ナマモノは、賭けないことにしてるんですよ。もらっても、処分に困りますからね」
 猿田は一瞬、意表を突かれた顔をしたが、破顔して豪快な哄笑を響かせた。

 結局、この一番に十万円の懸賞を賭けることになった。秋介に払う金などないが、勝てばいいんだと秋介は腹をくくった。勝てばすべてうまくいく。負けたときのことを心配しても仕方がない。そんなことを考えていては、戦う前から気持で負けている。
 山村が秋介の歩兵を五枚取り上げて、白い敷布の上に放り投げた。表が二枚に裏が三枚、猿田の先手番が決まった。
 猿田が角道の歩を取り上げると、激しい駒音を響かせて盤上に打ち込んだ。さらに駒を、グイと腕に力をこめて押し付ける。まるで、気合いを駒の中に吹き込んでいるかのようだった。対する秋介は、しばらく盤上を睨んでいたが、小首を傾げて飛車先の歩を静かに突いた。
 振飛車模様の出だしから、猿田は飛車を8筋に振った。向飛車だった。サヨコという女が警告した通りの展開になった。猿田のことを話してくれた席主も、猿田の得意戦法が向飛車だと言っていた。
 秋介は、対局が始まる前までは、振飛車で行こうと決めていた。先に飛車を振れば、相手の得意戦法を回避することができる。しかし、伝説となった隻腕の棋士を眼前にして、気が変わった。幾多の強豪を倒したという幻の戦法を見てみたいという欲求を、抑えることができなかった。将棋指しの業だろうか。
 猿田は居玉のままで、角頭の7六の歩を突いた。秋介の脳裏に、多賀谷と東京の真剣師、反町との将棋が浮かんだ。香車を落としている多賀谷は、7六に銀が上がることで、駒落ちのハンデを補ったのだ。それは、香落ちの定跡でもあった。
(これは平手だからな)
 秋介は自玉を左サイドに移動させて、危険地帯から遠ざけた。戦機が熟したら、猿田が飛先の歩を突いて仕掛けてくるのは明らかだった。しかし、猿田はいきなり仕掛けてきた。激しい駒音を響かせて、飛先の歩をぶつけた。取る一手だ。猿田が歩を取り返して、早くも互いの飛車が真正面から激突した。
(おいおい、まだ居玉だぞ)
 秋介は、浴衣の両袖を肩までたくし上げて、上体を沈めて盤を睨んだ。飛車を取って交換するか、歩を打って自重するか。飛車交換になれば、相手の居玉が活きてくる。相手陣には、飛車を打ち込む隙がない。その点、秋介の陣形は、王将を左サイドに移動させている分、右サイドに大きな穴がある。
 歩を打って自重すると、7六に銀が上がってくるのは必然だった。完全に8筋を制圧されて、秋介が序盤に飛先を突いた手がマイナスになってしまう。
(さすがだな)
 無謀に思えた早仕掛けだが、手順を深く読めば読むほど、陣形、タイミングともに理に叶っている。
(やっぱ、まずかったか)
 秋介は、猿田に向飛車を許したことを後悔した。猿田はこの戦法で、何十、いや、何百という対戦経験があるに違いない。あらゆる手順が研究尽くされている。
「気合いでいくしかないか」
 敢然と飛車交換に応じた。してやったりと、猿田が得意そうな笑みを浮かべた。秋介は、手に入れたばかりの飛車を、自陣の8二に打って手放した。これで、猿田に飛車を打ち込まれる傷はなくなった。予想通りとばかりに、猿田は歩を打って自分の角を守った。
 それからは、互いに自陣の整備に手数を費やした。猿田は金銀をどんどん盛り上げていく。まるで、上手が飛車落ちの将棋を指しているような感覚だった。しかし、猿田の駒台には飛車が載っている。秋介は常に飛車打ちを警戒しながら指し手を進めなければならない。攻めればその反動が大きくなる。猿田は駒台の飛車一枚で、秋介の攻め手をすべて封じてしまったのである。
 満を持して、9筋から猿田が攻めてきた。強引にこじ開けた場所に飛車を打って、待望の龍をつくった。明らかに秋介の劣勢である。しかし、秋介の顔に焦りはなかった。この局面は、飛車交換したときにすでに覚悟していたのである。予定通りとばかりに、秋介は2八に香車を打って、猿田の桂香を捕獲にかかった。しかし、猿田の王将からは遠く離れている。
 猿田の猛攻が始まった。秋介の駒は撤退するしかなかった。飛車は猿田の龍に追い立てられて、王将のそばの窮屈な場所に縮こまっている。飛車角と王将が同居する惨めな陣形だった。手も足も出ないとはこのことだ。猿田の王将は安全なので、攻めに徹するだけでいい。猿田はと金を作って安全勝ちを狙った。その間、秋介は唯一の攻め駒である成香で、歩を補充するしか手はなかった。
 猿田は、これでおしまいだと言わんばかりに、駒音も高くと金を銀にぶつけてきた。誰もが逃げる一手だと思った。しかし、秋介は構わず、王将を3三に上がった。なんだとばかりに、猿田が身を乗り出してその王将を睨んだ。そして、猿田の顔から余裕の笑みが消えた。秋介の狙いに気付いたのだ。
 猿田がと金で銀を補充した。秋介はすぐに2四玉、これで誰の目にも入玉(にゅうぎょく)狙いが明らかになった。秋介の王将が猿田の陣地に侵入してしまえば、もう捕らえることは不可能になる。猿田は当然、入玉を阻止にかかった。壮絶な玉頭戦が始まった。
 しかし、攻めているのは秋介の方だった。猿田は攻めの拠点を確保しようとするのだが、その拠点の駒を秋介が攻めるのだ。いつの間にかその攻撃に、秋介の飛車角が参加している。
 やがて、猿田の懸命の防御が突破された。猿田の陣地では秋介の成香が頑張っている。もはや猿田には、秋介の入玉を阻止する手段はなかった。反面、秋介にも猿田の王将を追い詰める余力は残っていない。猿田の王将は、楽々と入玉することができる。
 互いに攻め手がないとなると、将棋のルールで、王将を除く自分の駒の点数で優劣を決めることになる。飛車角の大駒が5点であとの駒はすべて1点と勘定する。歩兵でも裏返れば金になるので、価値は金と同じだという理屈である。
「持(じ)将棋ですね」
 すでに駒の点数を確認していた秋介が、猿田に告げた。互いの駒の点数が25点以上になると、持将棋、つまり引き分けになる。
「いつから入玉を狙っとったんじゃ?」
 猿田が尋ねた。
「飛車交換したときですかね」
 秋介の答えに、猿田が力なくかぶりを振った。
「じゃあ、始めますか」
 秋介が、新たに駒を並べ始めた。再試合の催促だった。
「年寄りには、連戦はきついのう」
 猿田が駒台の駒を鷲づかみにすると、パラパラと盤上に落とした。
「わしの負けじゃ」
 そう言って立ち上がった。

 秋介が大阪に帰って来たのは、猿田との対戦から一ヶ月近くも経っていた。あのあと秋介は山陰まで出て、真剣の相手を求めて日本海沿いの街を流したのだ。
「よお、榊名人、ひさしぶりやな」
 ジャンジャン横町の一歩クラブで、秋介を愛想良く迎えたのはケイちゃんだった。
(こいつ、帰ってたのか)
 秋介は驚いた。あれだけの詐欺を働いたのだ。姿をくらませたまま、もう新世界には戻って来ないのだと思っていた。
「あんた、いったい……」
 秋介が険しい顔で詰め寄ると、ケイちゃんが茶封筒を目の前に差し出した。
「兄ちゃんの取り分や。わいは、約束はきっちり守る男やからな」
 秋介が茶封筒の中を調べると、一万円札がぎっしり詰まっている。
「事情は、わたしから説明させていただきます」
 ケイちゃんの傍らにいた女性が口を開いた。真っ赤なスーツ姿のすごい美人だった。
「あなたは、ひょっとして……」
 髪型や服装が違っているので、最初は誰だか気付かなかった。あのときは、長い髪を丸髷に結って、和服を着ていた……。
「あらためて紹介しとこか。こちらは、観音菩薩のサヨコ姐(ねえ)さんや」
 芝居じみた口調で、ケイちゃんが告げた。
(そういうことだったのか)
 秋介は諒解した。今回のことは、ケイちゃんと彼女が二人で仕組んだのだ。地元の名士である猿田の奥さんが口添えしたから、ケイちゃんの大ボラにみんなが騙されたのだ
「今回のことは、猿田と別れるために、わたしが前田さんに頼んで計画してもらったんです」
「前田さん?」
「わてのことや。サヨコ姐さんとは、金沢で知りおうたからな」
 ケイちゃんの説明に、秋介はうんざりしてかぶりを振った。
「わたしと猿田はもう……」
 話を続けようとする彼女を、秋介は手のひらを広げてさえぎった。
「俺にはもう関係ないことです。それより、俺と指しませんか? 軍資金はたっぷりありますから」
 そう言って秋介は、札束で膨れた茶封筒を振って見せた。
「ナマモノには興味がなかったんだわね」
 彼女の口元に、妖艶な笑みが浮かんだ。秋介の鼻先に、香水が匂った。あのときの香水ではなかった。もっと濃厚で甘い匂いだ。
「手合いは?」
 彼女が尋ねた。
「香香角でどうですか?」
 香落ち、香落ち、角落ちの三番を一組として、それを繰り返すのだ。
「後悔するわよ」
 彼女の双眸に、勝負師の輝きが宿った──。
 
【参考文献】
「現代真剣師物語」岸本王晴 著 東京書店
「公望流メリケン向飛車戦法」横山公望 著 三一書房


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆「観音菩薩」の感想

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。
*榊秋介シリーズ@「盲目の勝負師」、A「子連れ狼」もお楽しみください。


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