亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る


(チェッ、またあの女か。迷惑なんだよなあ)
 明美は、カウンターの少し離れた場所に坐っている女を、腹立たしい思いで睨んだ。同性の明美の目から見ても、とびきりのいい女だった。年齢は20代の後半だろうか。黒のパンツスーツにつつまれた肢体は、モデルのようにスレンダーでしなやかだ。レースを使ったシースルーの上着が艶めかしい。
 その女の隣のストゥールに腰掛けて、40年輩の男がにやけた笑みを浮かべて話しかけている。ゴルフ焼けした精悍な顔に、チェック柄の派手なスーツがよく似合っている。明美の基準では、十分に“当確”だった。
(ああ、もったいない……)
 女にまったく相手にしてもらえず、男は憮然とした面もちで席をたった。そのとき、あの女と視線がぶつかって、明美はあわてて顔をそらした。
(馬鹿にしてるの?)
 明美は、女の彫りの深い顔に微笑が浮かんだのを見逃さなかった。気を鎮めるように、グラスを口に運んだ。
(化粧、濃すぎたかな)
 はじめて飲むカンパリソーダは、ルージュの味がした。アルコールの入った飲み物を口にするのは、本当に久しぶりだった。今日の高校の同窓会でも、ウーロン茶しか飲まなかった。
(馬鹿みたい。何を期待してたんだろう……)
 絹の下着のひんやりした感触を意識した。美容院で髪の毛をセットしてもらって、この日のために購入したブランド品のスーツを着て行った。会いたい人がいたのだ。水島光洋、みつひろと読むのだが、クラスの人気者で、みんなからは「コーヨー」と呼ばれていた。幹事役の同窓生から、コーヨーも出席するという話を聞いていたのだが、結局は姿を見せなかった。
「オンナはつまらん」
 つぶやきが、唇からこぼれた。同窓会で女がする話は、子供自慢と家庭の愚痴ばかりだ。
 サッチャーこと山田佐知子の化粧気のない顔を思い浮かべた。勝ち気な性格で、学級委員としてクラスを束ねていた。Aランクの国立大学に、現役で合格した。卒業後は、外資系の商社で働いているという話を、風の便りに聞いたことがある。しかし、高校卒業以来、17年ぶりにあったサッチャーは、3人の子持ちになっていた。男の子ばかりで、おまけに介護の必要な姑を抱えているという。おしゃれなんかする余裕もないわよ、と笑う顔は、見事なまでに普通のおばさんだった。それでも、充実した顔をしているのが腹立たしい……。
(ちょっと遊んでみるか)
 ハンドバッグから、ポケットティッシュと携帯電話を取り出した。ティッシュの袋の中に入っているチラシの番号をプッシュすると、すぐにつながった。
「もしもし……」
 明美はギクリとして、ケータイを耳から離した。
 おれ、おまえのことが好きだったんだよな、同窓会の席で、そう告白された。名前も思い出せないぐらい、目立たない生徒だった。でっぷり太って、昔の面影はなかった。実家の運送会社を継いでいるという。仕事の苦労話や悩みをあれこれ話していたが、その口調は自信に満ちていて、貫禄さえ感じられた。これから二人で飲みに行こうよ、会場の居酒屋を出るときに、耳元でささやかれた。ほんのちょっぴり、心が動いた。
「もしもし……」
 似ているが、明らかに別人の声だった。明美が返事をすると、なれなれしい口調で話しかけてきた。にやけた顔が目に浮かぶようだ。
「彼女、何歳なの?」
「27歳、あなたは?」
「やあ、奇遇だね。おれも27歳なんだ。相性はバッチ・グーだよ」
 調子のいい男だ。
「どんな下着、はいてんの?」
 すぐに下ネタだ。雄の臭気が、ケータイの通話孔からただよってくるようだ。
「スケスケのTバック」
「なんだ、おれとおんなじだよ。ますます相性いいね」
「本当なの?」
「じゃあ、確かめてみる? 今、どこにいるの?」
「シカゴ」
 嘘ではなかった。渋谷の「シカゴ」という店にいた。
「あんた、サクラだろ?」
 男の口調が変わった。
「どういうこと?」
「店から金もらって、電話してんだろ?」
「ふむふむ、なるほどね」
「なんだよ」
「今までいっぱい女にだまされて、くらーい人生を送ってきたんだ」
「なんだとー」
「そんなにやりたいんなら、手っ取り早くソープにでも行ったら? あっ、そんなお金、持っていそうにもないわね」
「おまえの方こそ、男がほしくって……」
 通話を切って、ざまあみろと罵った。爽快感は一瞬で、ざらざらとした嫌悪感だけが心に残った。
「オトコはくだらん」
 吐き捨てるように言ったが、明美は再び同じ番号に電話した。
「もしもし……」
 おずおずとした声だった。かなり若い。
「あんた、何歳?」
 高飛車にきいた。
「23歳です。でも、明日には4になります」
「じゃあ、年男ね」
 わたしも年女なのよ、と明美は、心の中で呟いた。
「あの……、あなたは何歳ですか?」
「あのね、女性に年齢をきくのは失礼なのよ」
「あっ、すいません。こういうところに来るの、はじめてなんです」
 声が萎縮した。
「まあ、いいわ。あなたよりも3つ上よ」
 声は若いとよく言われる。娘の知子にかかってきた電話で、お姉さんですかと尋ねらたことが何度かあった。
「よかった。ボク、年上の人が好きなんです」
「恋人、いないの?」
「この前、ふられちゃって……」
 その理由がわかるような気がした。
「おねえさん、誰に似てますか?」
 定番の質問だった。
「小泉今日子……」
 昔は、似ていると言われたのだ。あの頃は、アイドルのイミテーションになったような気がして、そう言われるのがとてもいやだった。
「ああ、キョンキョンですね。ボク、大好きですよ」
「あなたは誰に似ているの?」
「神野恭平、ですかね」
 誇らしそうな声だった。
「へえ、ジンノに似てるんだ」
 人気が出てきた若手俳優だった。ハーフっぽい彫りの深い顔立ちが、高校時代の水島光洋にどこか似ていた。
「母親によく言われます」
(マザコンのジンノか……)
 イメージできなかった。神野恭平は、学園ドラマのワル役で売り出したのだ。サングラスに鼻ピアス、モヒカン刈りという格好だった。そのときのポスターが、娘の知子の部屋には未だに飾ってある。
「あなたの誕生日、一緒にお祝いしてあげようか?」
 自分の言葉に驚いた。
「会ってくれるんですか?」
 声が上ずっている。
「わたしも渋谷にいるんだけど、どこで待ち合わせする?」
 本気なの? 明美は自問した。自分でもわからない……。
「ハチ公前でどうですか?」
「人が多すぎるわよ」
「ボク、傘を持ってますから、それをさして待ってます。赤い傘ですから、すぐにわかると思います」
 今日は、降水確率ゼロの秋晴れだった。ハチ公前の雑踏で、赤い傘をさして立っている神野恭平の姿を思い浮かべた。
「わかったわ。10分もあれば行けると思う」
「はい、よろしくお願いします。ボク、信じて待ってますから。いつまでも待ってますから」
 明美は苦笑を浮かべて、ケータイの通話をオフにした。ハンドバッグからコンパクトを取り出して、パフで何度も目尻の皺をはたいた。
「うん、大丈夫、27歳の小泉今日子だ」
 自分に言い聞かせるように呟いた。
 支払いをすませて、階段を上がって通りに出た。ヒールの高い靴を履いてきたので、なんだか足下が不安定だ。夜の九時を過ぎているというのに、制服姿の女子高生たちの姿が目に付く。いつの間にか渋谷は、子供たちの街になってしまった。そう思って明美は、自分が年をとったのだと自嘲した。
(あの制服……)
 娘の知子が通う高校の制服によく似ていた。そのとき、肩口に衝撃を受けた。バランスを崩して踏ん張った右足が、カクンと折れた。足首に激痛を覚えて、明美はその場に蹲(うずくま)った。見上げると、金髪にピアスをした少年が、ケータイを耳に当てたまま睨んでいた。
「あっ、ワリイ、ワリイ、ババアがぶつかってきやがってよ」
 電話の相手に謝って、そのまま行ってしまった。
「クソガキ!」
 痛みを我慢して立ち上がると、体が傾いている。ハイヒールの踵が根本からもげていた。
(騙された!)
 公園のフリーマーケットで、イタリアのブランド品だと言われて買ったのだ。
「大丈夫ですか?」
 声をかけられた方を振り向くと、あの女が立っていた。「シカゴ」のカウンターで一緒だった女だ。
「大丈夫じゃないわよ」
 ツッケンドンに言って、靴を脱いで裸足になった。歩き出そうとして、足首の痛みでまた蹲った。
「野口さんでしょ?」
 旧姓を呼ばれて、驚いて女の顔を見た。しげしげと見た。どこかで会っているような気がした。でも、思い出せない。
「誰なの?」
 女の顔に、微笑が浮かんだ。
「うららかな春の日差しが窓からさしています。わたしは今、庭に咲いたミモザの黄色い花を見ながら、この手紙を書いています……」
「エッ? どうしてあなたが……、まさか……」
 そばに寄って、彼女の顔を覗き込んだ。しばらく眺めて、ようやく化粧した顔の奥にある素顔をさがしだした。
「コーヨー君?」
 彼女は、いや、彼は照れくさそうにうなずいて、右手を差し出した。
「おひさしぶり」
 あたたかくて、やわらかな手だった。


「よし、これで大丈夫」
 捻挫した足首を湿布して、その上に厚手の靴下を穿いてサポートした。
「ありがとう、コーヨー……、いや、ヨーコさんだったわね」
 水島光洋は、今はヨーコ・ミズシマという名前で、「ヒップ・チックス」というヘア&メイクスタジオを経営している。南青山にあるこのマンションの一階に、「ヒップ・チックス」はあった。
「でも、すごい部屋だわね」
 あらためて、部屋の中を見渡した。広いリビングだった。北欧調のどっしりした家具で統一している。壁際には、小さなカウンターを備えたホームバーまで設(しつら)えてある。
「従業員を集めて、ここでよくホームパーティを開くからね」
 この部屋は、「ヒップ・チックス」のあるマンションの最上階にあった。窓から見える夜景は、まるでイルミネーションのようだ。
「でも、驚いたな。同窓会には出るつもりだったの?」
 明美の問いかけに、ヨーコは頷いた。
「最初は男の格好で行くつもりだったのよ。でも、急な仕事が入っちゃってね。着替える暇もなくて、会場には行ったんだけど、さすがに中には入れなくて。どうしようかと迷っているうちに、みんなが外に出て来たから……」
「それで、わたしのあとをつけたのね。もっと早く声をかけてくれたらよかったのに……」
 恥ずかしかった。「シカゴ」で、男の誘いを待っていた姿を見られていたのだ。
「ゴメンゴメン、野口さんの方で気づいてくれるんじゃないかと思って、ドキドキしてたのよ」
「わかるはずないじゃない。昔、ラブレターを出した男が突然、女になって現れるなんて、そんなこと、考えもしないわよ」
 口調がきつくなってしまった。
「本当にそうだわね」
 ヨーコが愉快そうに笑った。
「いつからなの?」
 明美が尋ねた。
「いつから、女になろうと思ったの?」
 ヨーコは微笑を浮かべたまま、しばらく考えていた。
「子供の頃に、ディズニーの『シンデレラ』を見てからかな。魔法使いのお婆さんの魔法で変身したシンデレラの姿を見て、羨ましいと感じたの。あんなにきれいになりたいと思った。いつか、わたしの前に魔法使いのお婆さんが現れて、わたしをシンデレラに変身させてくれるんじゃないかと夢見ていた……」
 ニヤリと笑った。
「結局、魔法使いのお婆さんは現れてくれなくて、仕方がないから自分で魔法使いになったのよ」
「魔法使い?」
 ヨーコが頷いた。
「わたしの魔法は、杖の代わりにカットバサミやチークブラシを使うの。どんなくたびれたシンデレラでも、いかした女に変身させてあげられるわ」
 明美は納得した。目の前に、その魔法の成果を存分に見せつけられているのだから。
「でも、ちょっと安心したな」
 明美がぽつりと呟いた。
「ラブレターの返事がもらえなかったから、わたし、傷ついたのよ。わたしには魅力がないから、フラれたんだと思った。でも、コーヨー君は、女だったのよね。だったら、女のわたしからラブレターもらっても、返事のしようがないもの」
 ヨーコがかぶりを振った。
「わたしは、女になりたかったんじゃないの。美しくなりたかったのよ」
「どう違うの?」
 怪訝な顔で明美が尋ねた。
「確かに、自分は本当は女だと思っている人もいるわよ。性同一性障害と呼ばれている人たちね。性転換をしてまで、本当の自分に戻ろうとする。でも、わたしは違うの。女性の格好をして、美しく着飾るのが楽しいのよ」
「それって、自分が男だとわかっていて、女の格好をしているってこと?」
「ある意味では、そういう言い方もできるわね。でも、わたしの中では、男だとか女だとかは、もうこだわりはなくなっているんだけどな」
 頭が混乱してきた。
「じゃあ、恋愛の対象は?」
「バイ・セクシャル、でもどっちかというと、女性の方が好みかな」
「だったら、やっぱりわたしはフラれたんだ」
 ヨーコが大きくかぶりを振った。
「違うわよ。あの頃は、自分でも、自分のことがわからなかった。どうしていいのかわからなかったのよ。でも、手紙をもらったときは、とても嬉しかった。わたしも野口さんのこと、好きだったから」
「本当なの?」
 ヨーコの顔を睨んだ。
「じゃあ、証明してあげようか?」
 ヨーコがソファから立ち上がった。明美の手を取って、立ち上がらせる。そして、明美の目を見つめた。ヨーコの顔から微笑が消えていた。
「なんだか変な感じ……」
 おどけた口調で話しかけた。ヨーコの美しく化粧した顔は、どう見ても女にしか見えないのだ。高校を卒業して、看護学校に通っていたときのことが脳裏をよぎった。一学年上にレズの先輩がいて、強引にキスされたことがある。そのときは、嫌悪感だけが残った。
 ヨーコが赤く濡れた唇に人差し指を当てて、明美を黙らせた。大きな瞳が妖しく潤んでいる。見つめられると、全身の神経が麻痺したように、力が抜けた。ヨーコの顔が近づいてきた。明美は観念して、目を瞑(つむ)った。鼻孔に、薔薇の芳香が拡がった。
 唇に、やわらかいものが触れた。最初は、やさしく愛撫されているようだったが、次第に強く吸引された。舌先が、甘えるように唇の間をなぞった。明美が唇をゆるめると、一気に進入してきた。傍若無人に翻弄する。怒ったように、明美も反撃した。互いの舌がからみあって、唇を激しく貪った。
 ヨーコが、明美の体をさらにきつく抱き寄せたときだった。明美が悲鳴を上げて、蹲った。足首を捻挫している右足に、体重を乗せてしまったのだ。
「大丈夫?」
 心配そうに声をかけたヨーコの顔を見て、明美が笑い出した。唇のまわりに口紅が広がって、まるでミートソースを食べたあとの子供の顔だった。
「あんただって、同じような顔をしてるのよ」
 そう言ってヨーコは、舌を出してペロリと自分の唇の回りをなめた。
「カ○×ウのエッセンシャルピュアルージュ、色はRD-134、3,000円也」
「すごーい、ピッタシカンカン!」
「あんたも古いわね」
 顔を見合わせて、ふたりで声を上げて笑った。


「あの花、なんていう名前?」
 緊張をほぐすように、明美が話しかけた。ミラーの前の棚に、小さな鉢植えが置かれていた。光沢のある葉の中に、一輪だけ可憐な白い花が咲いていた。オシロイバナに少し似ている。
「ランティアよ。お客さんからもらったの。夏の花だから、この一輪が最後かもしれないわね」
 そう言って、ヨーコは明美の長い髪をヘアブラシで丹念に梳(と)かした。
「じゃあ、切るわよ」
 ミラーの中のヨーコが、髪の毛を束ねて、ハサミを入れた。金属が髪の毛を裁断する音が耳に響いた。
「そんなに悲しそうな顔しないでよ。明美には絶対、ショートカットの方が似合うんだから」
 明美は微笑を浮かべて頷いた。半ば強引に、マンションの一階にあるヨーコの店に連れて来られたのだ。
 ショートカットにするのは、高校生のとき以来だった。髪の毛を伸ばし始めたきっかけは、水島光洋だった。ラブレターの返事がもらえなくて、自分のぽっちゃりした丸顔が嫌いになった。顔の輪郭を隠すように、髪の毛を伸ばしてパーマをかけた。
 オーナーのヨーコ専用だという6畳ほどの個室には、接客用の椅子がひとつしかなかった。この豪華な個室で、ヨーコのヘア&メイクの特別コースを受けるための代金は7万円、明美が使う1ヶ月の食費とほぼ同額だった。それでも、予約は3ヶ月先まで埋まっているという。リズミカルなハサミの音は、自信に満ちている。
 明美は、自分のことを思った。看護師だった母親の勧めで看護学校に進んだものの、看護師になりたいと思っていたわけではなかった。講義を受けているうちに、その責任の重さに息苦しさを覚えた。医療過誤で看護師のミスが新聞に載るたびに、心臓がドキドキした。自分には向いていないと悩んだ。できちゃった結婚で、看護学校をやめるときは、心底ほっとした。これで、自分らしく生きることができると思った……。
「ランティアはね、アラビアンナイトに出てくる娘の名前なのよ」
 髪の毛をカットしながら、ヨーコが話しかけた。
「ランティアは、貧しい羊飼いの娘だった。親兄弟もなく、砂漠の縁のあばら屋で、ひとりで暮らしていた。ある日、行き倒れになっている若者を発見した。とても美しい若者だった。すでに虫の息で、水を与えても、自分で飲むこともできないほどに衰弱していた。ランティアは、自分の口に羊の乳を含んで、口移しで少しづつ、若者の口に注ぎ込んだ。ランティアの懸命の介抱で、若者は元気を取り戻した。いつしかふたりは、羊の乳よりも甘い口づけを交わすようになっていた」
 ヨーコがハサミを休めて、鏡に映った明美の髪型を確認した。背中まであった髪は、高校時代のようなおかっぱ頭になっていた。ヨーコが頷いて、再びハサミを使い始めた。
「ふたりはとても幸せだった。でも、若者が旅立つ日がやってきた。ランティアは泣きながら、このまま一緒にここで暮らして欲しいと頼んだ。でも、若者は、必ず迎えに来ると約束して、駱駝に乗って砂漠の中に消えてしまった。若者は、砂漠の向こうにある国の王子だった。国に帰ると、隣国の王家の姫君との婚礼が待っていた。結婚前の儀式として、その国の王子は、独力で砂漠を横断しなければならないという掟があった。それで道に迷って、行き倒れになってしまったの」
「だったら、ランティアはどうなるのよ」
 明美が抗議した。
「王子も悩んだわ」
 ヨーコの口調がやさしくなった。
「強大な軍事力を持っている隣国から妻を迎えることは、その国にとってはとても大切なことだったの。婚約を破棄すれば、戦争になるかもしれない。王子が悩みをうち明けられるのは、子供の頃からそばにいる年老いた召使いしかいなかった。いよいよ、婚礼の前日になった。王子は、どうしてもランティアのことを忘れることができず、ひとり王宮を抜け出した。国よりも、愛する女性の方を選んだの。しかし、ランティアの家で王子が見たものは、ベッドの上に横たわる彼女の姿だった。いくら名前を呼んでも、ランティアは目を覚まさない。実は、王子の苦悩を知った召使いが、その悩みを解決するために、ランティアのもとを訪れていたのよ。ランティアは、王子が自分のところに帰って来ることを知っていた。自分がいては、王子を苦しめるだけだ。それで、毒を飲んで死んでしまったの」
 ヨーコがハサミを止めて、明美の顔を覗き込んだ。
「明美、あんた、泣いてるの?」
 マスカラが溶けて、黒い涙を流していた。
「あんたのカットがひどいからよ」
 実際、鏡に映る明美の髪は、まるでハリネズミのようなひどい有様になっていた。
「失礼ね。これから仕上げに入るんだから」
 そう言いながらヨーコは、ティッシュボックスから2、3枚、ティッシュをつかむと、明美の涙を拭おうとした。
「あっ、気をつけてね。わたし、コンタクト、入れてるから」
「はいはい、わかりました、ご主人さま」
 ヨーコがやさしく、ティッシュで頬の汚れを拭ってくれた。
「で、その物語は、それでおしまいなの?」
 明美が話の続きを促した。
「ちゃんと続きがあるわよ。これで終わりじゃ、かわいそうすぎるもの」
 ヨーコのハサミが再び、リズミカルな音を刻み始めた。
「王子は、ふたりが出会った砂漠に縁に、ランティアを葬ってあげたの。やがて、その場所から、植物の芽が顔を出した。成長して葉を茂らし、そして、白くて清楚な花をつけた。人々は、その花を見て、ランティアの生まれ変わりだと信じたの。ランティアの花はね、花の形を保ったままで、落花するの。まるで、若くて美しいまま死んだランティアのようにね」
 鏡に写ったヨーコの目が、鉢植えの花を見た。
「わたしも、落花したランティアの花を見て、不思議な感じがしたわ。植物学的には、アジサイのように、この白い花は花弁ではなくて、萼(がく)なのかもしれないわね」
 ヨーコの説明に、明美もあらためて、棚の上の鉢植えに視線をやった。その小さな白い花が、とても神秘的に見えてくる。
「ランティアの花には、不思議な言い伝えがあるの。花が落ちたあとには、露のような蜜が残っていてね。まるで涙のようだから、ランティアの涙と呼ばれているの。それをこっそり好きな男に飲ませると、恋の虜にすることができると信じられている。魔法の媚薬というわけね。貧しい羊飼いの娘が王子さまのハートを射止めたんだから、ランティアの涙には神秘の力が宿っている……」
「試してみたの?」
 からかうように明美が尋ねた。
「わたしには、そんなもの、必要ないもの。その気になれば、男でも女でもよりどりみどり……」
 そう言っておどけてみせた。
「まあ、試してみようにも無理なのよ。ランティアの涙は、花が落ちたあとの蜜じゃないと効果はないの。でも、ランティアはね、決して人前では花を落とさないと言われているの。ひとりで毒を飲んで死んでいったランティアのようにね。うちのランティアもいくつか花をつけたけど、わたしは一度も、花が落ちるところを見たことがないのよ」
 ハサミの音が止まった。
「さあ、終わったわよ」
 ヨーコが宣言した。鏡の中に、ボーイッシュな髪型をした自分の姿が映っている。懐かしい気がした。本当の自分に、ひさしぶりに再会できたような気がした。
「明美はね、とても女らしいフェイス・ラインをしているの。それを髪の毛で隠すなんて、宝の持ち腐れもいいところよ」
 明美も素直に頷いた。
「これでもっと若ければね」
 つい本音が出てしまう。
「よし、わかった。トコトン、若くしてやろうじゃないさ」
 そう言って、鏡の中のヨーコがニヤリと笑った。


(本当に、ヨーコは魔法使いなのかもしれない)
 明美は、鏡に映った自分の顔を、うっとりと見入っていた。自分の顔の中に、こんな美人がひそんでいたなんて、信じられなかった。ヨーコのメイクに比べれば、今まで自分がやっていた化粧は、子供の塗り絵だと思った。
 ヨーコは今、着替えのために、このマンションの最上階にある自宅に戻っていた。これから、友人のホームパーティに出かけるのだという。
「眉がまっすぐ平坦だと、目元の表情まで乏しく見えるの。こうやって余分な眉をカットして、ペンシルで描き加える。短い直線を何度も重ねて、最後はサッと払うような感じで描くと、自然に仕上がるわ。最後にブラウンのアイシャドウを筆で軽くのせて、できあがり。どう、これだけで目元の表情が豊かになったでしょ?」
 ヨーコの声が耳に残っている。自分ひとりでもできるようにと、丁寧に説明しながらメイクしてくれたのだ。
「ファンデーションの色はね、首の色を目安に調整するの。違う色を使うと不自然で、厚化粧しているように見えてしまう。あんた、便秘症でしょ? もっと繊維質やヨーグルト、食べなきゃだめよ。肌の色がくすんでくるからね。顔色が冴えないときは、黄色のファンデを多めに使うと元気が出てくるわ。塗り方は、こうして血流に沿ってね。頬は高いところから斜め下に、鼻は下から上の額まで。目尻は、空いている方の手で引っ張るように押さえて、目尻、目の下、目頭、目の上、目尻と円を描くように一気にね。額は、中心部から左右へ軽くスッスッと掃いて、髪の生え際まで塗ってちょうだい」
「アイシャドウはね、使い方が難しいの。その人の顔にあった色を選ばないと、そこだけが目立ってしまう。明美の顔は、どちらかというと平板だから、ブラウンがいいわね。でも、入れるのはアイホールだけ。目尻まで伸ばすと、顔が下がって老け顔になっちゃう。ビューラーは持ってるの? だめだめ、それぐらいは買っておかなきゃ。こうしてビューラーでまつ毛をカールさせるだけで、目に入る光の量が増えて、瞳が輝いてくるの。マスカラで仕上げをすると、どう、目の表情に元気が出たでしょ?」
「チークもね、血行に沿って下から上に、こうして影のラインに重なるようにね。よし、最後の締めは口紅だ。これが失敗すると、5歳は老けちゃうからね。色は血色のいいピンクで、ちゃんと筆で輪郭を描く。あとは平筆でたっぷりと塗り込む。口元まで筆を差し込んで、こうして回転させるように塗り込むべし!」
 自分にはとても無理だと明美は思った。そして、こんなに美しく変身できるのなら、一ヶ月の食費をつぎ込んでも惜しくないと思った。
(うん?)
 視界のすみで、何かが動いた。はっとして目をやると、小さな白い花が落下する瞬間だった。まるでスローモーションのように、空中の花の動きがはっきり見えた。そばに寄ると、糸のような芯が一本、残っていて、球状に盛り上がった根元の部分に、透明な液体が付着している。ランティアの涙は、花が落ちたあとの蜜じゃないと効果はないの──、ヨーコの言葉が脳裏をよぎった。
(急がなきゃ)
 周囲を見渡して、ランティアの涙を採取するための容器を探した。
(そうだ、あれがあった)
 明美は、ワゴンの上に置いてあるハンドバッグの中から、ドライアイ用の目薬を取りだした。中身を洗髪用のシンクに捨てて、何度か水洗いした。そして、スポイド状になっている先端で、慎重にランティアの涙を吸い上げた。
(魔法の媚薬か)
 小さな容器を電灯に翳してみた。ほんのわずかな液体だが、宝石のように輝いていた。
「お待たせ」
 盛装したヨーコが姿を現した。ラメ糸で編んだレースベストに、ソフトオーガンシーのロングスカートという格好だった。その上に、まるで羽衣のような薄いブラウスジャケットを羽織っている。色調はシックなシルバーグレイで統一していた。
「どうして男のあんたが、こんなにきれいになっちゃうのよ!」
 思わず抗議の声を上げた。
「それが、楽しいんじゃない」
 ヨーコが微笑を浮かべた。女の明美の目から見ても、ゾクリとするような妖艶な笑みだった。
「じゃあ、車で送って行くわ。悪いけど、駅まででいいでしょ?」
 ヨーコが行った。
「あたしも一緒に行ったら、ダメかな?」
 甘えるように、明美が切り出した。
「家に帰らなくてもいいの? たぶん、朝までやってるから、帰れなくなるわよ」
「大丈夫。娘は高校の修学旅行だし、旦那は出張中だもの」
 半分は嘘だった。夫の和男が愛人宅にいることを、明美は知っていた。パソコンのメールを内緒で読んだのだ。
「自宅でやるホームパーティだけど、わたしにとっては、人脈を広げるチャンスなの。ビジネスのようなもんだから、あなたの相手している暇はないわよ」
「大丈夫よ。あたしは自分で相手を見つけて楽しむから」
 手の中にあるランティアの涙が自信を与えてくれた。今夜は不思議な夜だ。もっとすごい、何かが起こる予感がした。
 ヨーコはしばらく迷っていたが、仕方がないといった感じで頷いた。
「オッケイ、じゃあ一緒に上に行って、シンデレラのドレスを選びましょ」
 明美が破顔して、ヨーコの体に抱きついた。


 明美は、バルコニーにある椅子に腰掛けて、窓の向こうの華やいだ光景をぼんやり眺めていた。ヨーコについて来たことを後悔していた。
「なんだか寂しそうですね」
 四十年輩の男が話しかけてきた。 ダークグレイの上品なスーツに、上品な微笑を浮かべている。口髭がとてもよく似合っている。どこかで見たような気がするのだが、思い出せそうにもなかった。
「隣に坐ってもいいですか?」
 明美は顔を赤らめて頷いた。水割りのグラスを手にした男の左手に視線をやって、薬指に指輪がないのを確かめた。
 何を期待してるの? あんただって、指輪をはめてないじゃない。どこかで自分の声が聞こえた。
「こういうところに来るのは初めてなので、とまどっているんです」
 正直に答えた。隣に坐った男が、大きく目を見開いた。
「そうなんですか? おきれいなので、てっきり女優さんだと思いましたが」
 見え透いたお世辞だが、心に甘く響いた。
「じゃあ、ふたりの出会いに乾杯!」
 男が自分のグラスを、明美のシャンパングラスに合わせた。
「女優さんじゃなかったら、何をされているんです?」
 男がたずねた。
「あの……、ミズシマ先生の『ヒップ・チックス』で……」
 さすがに後ろめたくて、語尾をにごした。
「ああ、ヨーコさんのところのスタッフの方だったんですね。どうりで……」
 今度は、男が語尾をにごした。
「化粧がうまい」
 明美が替わりに言った。
「どうせ、メイク美人です」
 上目使いに男の顔を睨んだ。
「いやいや、見栄えがいいのは、キャンバスが高級だからですよ」
 明美は内心、かぶりを振った。
(ルノアールやダ・ビンチだったら、板きれに描いたって名画になる)
「それにしても、ヨーコさんというのは、実に魅力的な方ですね」
 そう言ってから、男があわてて顔の前で手を振った。
「誤解しないでくださいよ。魅力的だと言ったのは、彼女の、いや、彼かな……、その自由な生き方です」
 明美が微笑を浮かべて頷いた。
「よくわかります。わたしだって、憧れます」
 心にざらりとした感触を覚えた。正体はわかっている。嫉妬なのだ。ヨーコは、あたしのほしいものをすべて持っている。それに比べて……。嫉妬をくるりと裏返すと、自己嫌悪だ。
(仕方がないじゃない。あたしは、ずっと家を守ってきたんだもの)
 知子が高校に入ったときに、一度だけ、近所のスーパーで働こうとしたことがある。募集のチラシには、時給は780円だと記載されていた。しかし、試用期間の3ヶ月は500円で働いてもらうと言われて憤慨した。結局、2日で辞めてしまった。その2日間の給金も、恥ずかしくてもらいに行けなかった。
 夫の浮気を知ったとき、スーパーでのことが脳裏をよぎった。レジの研修では、自分より10歳以上も年下の女子社員に何度も怒鳴られた。離婚すれば、外に出て働かなくてはならない。考えるだけで、胃が痛くなるような緊張感を覚えた。
「本当は、わたしも男なんですよ」
 明美は、自分の言葉に驚いた。
「そんな馬鹿な、あなたはどう見ても……」
 男の視線が一瞬、明美の胸に落ちた。
「試してみますか?」
 あたしは、本物の女の体を持っている……。
「ボクを、からかってますね」
 男の微笑に、明美がいたずらっぽい笑みで応えた。今夜は、シンデレラ・ナイトだ。あたしには魔法がかかっている……。
「実は、メイクアップ・アーティストの世界を題材にしたホンを書きたいと思ってましてね」
 男の顔から笑みが消えて、生真面目な素顔が現れた。
「作家の方だったんですか?」
 男が苦笑を浮かべてかぶりを振った。
「本当の本じゃありません。ドラマの脚本です」
(長山亮二だ!)
 明美は、心の中で叫んだ。 売れっ子の脚本家だった。何年か前に女優の川辺美由紀と離婚して、テレビのワイドショーや女性週刊誌で話題になったことがある。本人は大のマスコミ嫌いで、インタビューなどには登場したことがないが、レポーターに追いかけられる姿を何度か、ワイドショーで見たことがある。
(やっぱり、独身だったんだ)
 何を期待してるの? また、自分の声が聞こえた。
「おもしろそうですね。きっと、いいドラマになりますよ」
「あなたもそう思いますか? 現場にいる方に太鼓判を押してもらったんだから、心強いな」
「 じゃあ、ドラマの大ヒットを祝って」
 明美が掲げたシャンパングラスに、 長山が破願して自分のグラスを合わせた。
「あなたも気が早いな。あっ、飲み物がなくなりましたね。ボクが持ってきましょう。同じものでいいですか?」
「いえ、自分で持ってきます。ちょっと化粧室に……」
 長山が納得して頷いた。明美が差し出した手に、ほとんど氷だけになった自分のグラスを手渡した。
 明美はまっすぐ、トイレに向かった。大手広告代理店のオーナー宅だけあって、トイレも男女別になっている。化粧室も、小なりとはいえ高級ホテル並みの豪華さだった。カウンターバーを備えた広大なリビングルームも含めて、ホームパーティができるように設計されているのだろう。
「うん、大丈夫、27歳のキョンキョンだ」
 鏡に映った自分に向かって、エールを送った。
「ちょっぴり、目がうさぎさんになってるけどね」
 ドライアイの目薬の容器には、別のものが入っている。その目薬の容器をハンドバッグから取り出して、魔法の雫をグラスの氷の上に垂らした。
 あんな少女マンガのようなお伽話、本気で信じてるの? 嘲るような声が聞こえたが、笑みを浮かべて黙殺した。カウンターバーで、水割りをこしらえた。マドラーで攪拌すると、琥珀色の液体の中で、氷がきらきらと輝きながら回転した。
(恋の秘薬のできあがり)
 満足そうに頷いて、バルコニーに向かった。揚々とした明美の足が止まった。窓からふたりの姿が見えた。自分の場所だったはずの椅子に、よく見知った顔の女性が腰掛けている。
(どうして……)
 長山の元妻、川辺美由紀だった。かつての人気女優も、三十代の半ばを過ぎてからは脇役での出番が増えていたが……、きれいだった。オーラのような輝きを、全身から発散している。その圧倒的な存在感の前では、ヨーコさえもくすんで見えてしまう。自分のような一般人とは人種が違うのだと思い知らされた。明美の高揚した気持は、ぺしゃんこになった。
(あのふたりはもう別れてるのよ。遠慮することなんかないんだ)
 足を踏み出して悲鳴を上げた。右の足首を捻挫していることを忘れていた。
(あたし、なんて格好で立ってるんだろう)
 ハンドバックを右手の肘にかけて、右手に水割りのグラス、左手にシャンパングラスを持ったまま、左足一本で立っている。案山子(かかし)になったような気がした。長山が、楽しそうに笑った。
(チクショー、足がいてえし目もいてえ……)
 涙を懸命にこらえた。泣いたら、ヨーコのメイクが台無しになってしまう。泣いたら、もっと惨めになってしまう。
 

「何してんの?」
 見上げると、背の高い男が立っていた。ジーパンにトレーナーというラフな格好だった。顔はぼんやりしてよく見えないが、坊主頭だということはわかった。目が痛むので、コンタクトレンズを外していた。
「人生をね、考えてちゃってるわけ」
 投げやりに答えた。裏庭にベンチを見つけて、ひとりで坐っていた。長山と顔を合わすのが怖かった。これ以上、話をすれば、ヨーコの「ヒップ・チックス」で働いているというウソがバレてしまう。自分が、なんの取り柄もない主婦だということがバレてしまう。魔法から醒めた明美は、ようやくそのことに気づいたのだ。
「ふーん、それで、楽しいの?」
 坊主頭が、明美の隣にどっかと腰を下ろした。
「楽しいわけないじゃない」
「じゃ、やめれば? 人生なんて、なるようにしかならないんだから」
 坊主頭が、テーブルに置いてあったグラスを取り上げた。
「アッ!」
「何?」
「それはダメ、特別なお酒なの。それにあんた、まだ未成年でしょ?」
 坊主頭は、しばらく明美の顔を見ていた。照明が暗いので表情はわからない。
「おれ、20歳と3ヶ月、よろしく!」
 グラスの水割りをゴクゴクと飲み干した。氷まで口に含んで、バリバリと噛み砕いた。
(ま、いっか。夢の時間はもう終わったんだもの)
 明美は嘆息した。
「毒でも入ってた?」
 坊主頭が尋ねた。
「女の涙が一滴、でも、男にとっては猛毒なのよ」
「なんだよ、それ」
「まだガキね。何もわかっちゃいない」
「ふーん、で、おねえさんは何歳?」
「27」
 そう言ってから、テレクラに電話したことを思い出した。マザコンのジンノのことをすっかり忘れていた。赤い傘をさして、ハチ公の前で待っていると言っていた……。
「へえ、大人なんだ」
「そうよ、あたしは大人なの。あんたが思っているよりも、ずっとずっと大人なんだから」
「ムキになるなよ」
 坊主頭が笑った。
「で、大人になるって、楽しい?」
「何言ってるのよ。誰だって、時間が経てば、大人になるのよ」
「ならなきゃいいじゃん。ずっと子供のままでもいいんじゃない?」
「ホント、ガキね」
「ガキでけっこう。だって、おねえさん、なんだかつらそうだよ」
 思わず、坊主頭の方を見た。
(ひょっとして、この子、あたしのことを心配してくれて……)
 グダグダ思い悩んでいるのが、馬鹿らしくなった。
「あんた、ガキのくせに、すっげえナマイキ。バツとして、お酒、持ってきなさいよ」
 無性に飲みたい気分だった。
「何、それ」
「いいから、持ってきなさいよ。お姉さんがね、大人のお酒の飲み方をレクチャーしてあげるから。お酒はね、そんなコーヒー牛乳のような飲み方をするもんじゃないの」
 そう言って、坊主頭の肩をバシンとたたいた。
(大丈夫、やばいと思ったら、そこでやめればいいんだから……)
 自分に言い訳をした。
 キッチンドランカーで、しばらく病院の精神科に通っていたことがある。断酒会の集会を見学したとき、体験談を語った女性に衝撃を受けた。話の内容よりも、その女性の容貌がショックだった。まだ四十代の半ばだというのに、七十近くの婆さんに見えた。アルコール依存症になれば、あたしもあんなに老けてしまうのかと思ったら、身震いするほどの恐怖を覚えた。
「オレはホテルのボーイかよ」
 渋々立ち上がった坊主頭の背中に、声をかけた。
「あたしはシャンペンだからね。あっ、つまみもお願い。キャビアかなんかいいわね。高級そうなやつをみつくろってね」
 坊主頭が立ち止まったが、仕方ないなとかぶりを振って、親指を立てた右手を掲げた。
  
 
「あんた、恋人は?」
 明美が尋ねた。タクシーに乗っている。
「愛人なら少々」
 坊主頭が答えた。
「何それ? あんたまだ独身でしょ?」
「あたりまえじゃん」
「じゃあ、なんで愛人なのよ」
「やるのが目的なのが愛人。やらなくても楽しいのが恋人」
 単純明快な答えが返ってきた。
「呆れたわね。それで、あんたの相手は満足なの?」
「お互い、楽しんでるんだからいいんじゃない。それに、愛人から恋人になることもあるんだし。まあ、その逆もあるけどね」
 明美は、自分たち夫婦の関係は何だろうと思った。恋人だった時期もあるのだ。和男と一緒にいるだけで楽しかった。それが、今では愛人ですらなくなっている……。
「あんた、ガキのくせに、すっげえナマイキ。バツとして、ハゲオヤジの刑」
 プラスチックでできたハゲ頭のカツラを、坊主頭にかぶせた。深夜も営業しているスーパーに立ち寄ったときに見つけて、衝動買いしたのだ。
「ひでえなあ」
 声が笑っている。ふたりとも、相当に酔っている。
「あんた、若いのにそんなにヒネててどうすんのよ。そんなんじゃ、本当の恋はできないわよ」
「本当の恋? どんな恋だよ」
「そうねえ、胸がドキドキして、会っているだけで気持がふわふわして……」
「おねえさん、けっこう純情なんだね」
「てやんでえ。純情でけっこう。世の中、くだらねえことばかりなんだ。 せめて恋ぐらい、夢みたっていいじゃねえか。ねえ、運転手さん、そう思うでしょ?」
 初老の運転手が、仕方がないなと相槌をうった。
「ふーん、それでおねえさんは大人だから、モノホンの恋というやつを何回も経験してるんだ?」
「わかってないわねえ。そんなに簡単にできるもんじゃないのよ。一生のうち、運命の相手と出会えるのは一度あるかどうか……」
(そう、あたしはまだ、その相手と出会っていないんだ)
 心の中で叫んだ。
「それって、もしかして、赤い糸がどうとかこうとかってやつ? うわあ、おばんくさ」
「あったまきた。あんたねえ、年上の人はもっと敬うものなのよ。バツとして、鼻メガネの刑」
 おもちゃのメガネをかけさせた。鼻毛が出た団子鼻に、ちょび髭までついている。
「ははは、すっごく似合ってるわよ、このすけべおやじ。あんた、その格好で女の子と会いなさいよ。 どうせ、エッチなことしか考えてないんだからさあ」
「ふーん、そうやって大人の女は、年下の男を弄ぶんだ」
 声が笑っている。
「お客さん、そろそろ駅につきますよ」
 運転手の声に、明美はようやく、目的を思い出した。
「ハチ公の方に回ってちょうだい。ちょっと確認するだけだから。えっ、ウソでしょ、本当に待ってたんだ」
 コンタクトレンズを外したぼやけた視界でも、赤い傘を差した人影がかろうじてわかった。
「運転手さん、その先で止めてちょうだい」
 腕時計を見ながら、指示を出した。ドアが開くのを待って、勢いよく飛び出したつもりが、千鳥足でなかなか前に進まない。手にしたスーパーの買い物袋の中で、ガチャガチャとガラスのぶつかる音がした。
「ちょっとねえさん、タクシーはどうすんだよ?」
 背中で坊主頭の声が聞こえた。
「いらない」
「金はどうすんだよ?」
「任せる」
 悪態を聞き流した。
「ごめんごめん、待たせちゃったようだわね」
 赤い傘をさした男が、不安そうな顔で明美の顔を見やった。
「あなた、ジンノ君でしょ?」
 男の気弱そうな顔が輝いた。
「じゃあ、あなたが小泉今日子さん……、本当に似てますね」
「あなたもジンノにそっくりよ」
 本当は、よく見えないのだ。
「盛り上がっちゃってるようだけど、おねえさん、誰か忘れてない?」
 ハゲ頭に鼻メガネの男が闖入した。
「わかってるわよ。こちらはジンノ君で、あんたは……」
 三人とも、互いの名前を知らないのだ。
「初めまして、エロおやじです」
 怯んだ男の右手を両手でつかんで、強引に握手した。
「あっ、もう時間がないんだ」
 明美は、スーパーの買い物袋からクラッカーをふたつ取り出すと、そのひとつを坊主頭に手渡した。
「十、九、八、七……」
 腕時計を顔に近づけて、カウントダウンした。
「三、二、一、ゼロ」
 クラッカーの爆ぜる音がダブルで響いた。
「ハッピィ・バースディ! ミスター・ジンノ」
 坊主頭が嬌声を張り上げた。
「24歳の誕生日、おめでと……」
 明美がその場にへたれこんだ。タクシーを降りてから急に動いたので、酔いが回ったのだ。
「大丈夫ですか?」
 腰をかがめた男の腕を引っ張って、無理やり地べたに坐らせた。
「じゃ、乾杯しよっか。ボーイさん、お願い」
 明美が差し出したビニール袋を、坊主頭が恭しく受け取った。シャンパングラスを取りだして、それぞれに手渡した。シャンパンのボトルのコルクが、仲秋の満月に向かって噴射した。今夜出会ったばかりの、名前も知らない三人の、深夜の誕生パーティが始まった──。

 
 夕食のあとで、歯を磨きながら、鏡を睨んだ。食後の歯磨きは、どんなことがあっても欠かしたことはなかった。虫歯が一本もないのが自慢だった。唯一の自慢だった。
 ひどい顔だった。まだ二日酔いで、顔がむくんでいる。化粧したまま寝てしまったので、肌荒れがひどい。寝癖をかくすために、一日中、ナイトキャップをかぶったままだった。おまけに、目がゴロゴロして痛むので、ダサダサのザーマスメガネをかけている。
(二度と酒なんか飲むもんか!)
 鏡の中の自分に誓った。そう、誓うことはいつでもできるのだ。
 昨夜の記憶は、断片しか残っていない。渋谷駅のハチ公の前で、酒盛りを始めたのだ。そのときのお土産が、ハンドバッグの中に入っていた。繊細な切り子細工を施したシャンパングラスだ。恥ずかしくて、まともに見ることができなかった。
 タクシーに乗ったのは覚えている。家に帰るつもりだった。それが、目が覚めたときはラブホテルの部屋だった。素っ裸で、ダブルベッドに寝ていた。いや、ヨーコから借りた靴下だけはしっかり穿いていた。すぐそばで、青々とした坊主頭がピンクの布団からのぞいていた。
 こっそり布団から抜け出して、サイドテーブルの上に脱ぎ散らかしてあった衣類を急いで身につけた。パンプスを履いて、ハンドバッグを持って部屋を出た。ヨーコから借りた靴なので、ブカブカで歩きにくい。厚手の靴下を穿くことでごまかしたのだが、そのせいで、衣装はパンツスーツにするしかなかった。
「ちょっと、お姉さん!」
 後ろから呼び止められた。明美は振り返らずに廊下を走りだした。捻挫した右足がひどく痛んだが、かまわなかった。骨折していても、立ち止まらなかったと思う。途中で、左足の靴が脱げてしまった。湿布をしていない分、右足よりもゆるいのだ。うっちゃって、エレベーターに駆け込んだ。扉が閉まると、急に吐き気を覚えて蹲った。
(あたし、何やってんだろう)
 両手で顔を覆って、ゴシゴシと乱暴にこすった。


「お母さん、ジンノが出てるよ」
 居間に戻ると、娘の知子が手招きした。修学旅行から帰って来たのだ。夫の和男は、今日も“出張”だった。
「ジンノ、今度の映画のために、髪の毛を切っちゃったんだって」
 知子に言われて画面を見ると、長髪だったジンノが、坊主頭になっている。
「へえ、けっこう似合ってるじゃない」
「そうかなあ……」
 神野恭平は、はじめての主演映画について話していた。
『ところで、昨日はひどい目にあったんだって?』
 司会役のお笑いタレントが、話題を変えた。
『そうそう、おれ、そのことが話したくて仕方がないんですよ』
『女の話だって聞いたけど、大丈夫なの?』
『平気平気、おれは、すべてにオープンだから』
『で、何があったの?』
『ある人のホームパーティで、一緒に飲んだ女がいるんですよ。めちゃんこ酒が強くてね。もう、ガバガバ飲んじゃって』
『どんな女なの?』
『けっこういい女でしたよ。27歳だと言ってたかな』
 ドキリとした。
(まさか……)
『へえ、年上やないか』
『おれ、ワガママだから、けっこう年上好きなんです。でも、彼女はおれ以上にワガママでね。おれに酒を持ってこさせるぐらいだから』
『おいおい、天下のジンノをウエイター扱いかいな』
『気分よく飲んでいたかと思うと、突然、家に帰るからタクシー呼んでくれと騒ぎ出して……』
『それで、送り狼になったんか?』
『勝手に話を作らないでよ』
『なんだ、それでオシマイかいな』
『いや、それがね、彼女が運ちゃんに告げた行き先が、渋谷駅なんすよ』
『電車で帰ったの?』
『それが、ハチ公の前で、赤い傘をさした男が彼女を待っていた』
「何、それ」
 知子が、声を上げて笑った。
『おいおい、ここしばらく、雨なんか降ってへんぞ。あんたこそ、話、作ってない?』
『いや、本当なんだってば。その男、今日が誕生日なもんで、ハチ公の前でいきなり誕生パーティを始めちゃって』
『ホンマかいな。 で、そのあとどうなった?』
『タクシーでラブホテルに行きました』
 知子が悲鳴のような声を上げた。
『エッ、赤い傘の男と?』
『違いますよ、彼女とですよ。彼女の方が誘ってきたんです。もうこうなったら、やるしかないじゃないですか』
『あんた、これ、生放送なんよ。わかってる?』
『もちろん』
『で、どうだった?』
『それが、もう最悪。部屋に入るなり、いきなり歯を磨き出してね。その上、おれがシャワーを浴びているうちに、鼾(いびき)をかいて寝てるんだもん。しかも、裸なのに靴下だけは穿いてる。それも、まだ九月なのに、冬用の厚いやつなんだよ』
『冷え性なんやね』
『おれ、彼女の体を抱こうとしたんです。そしたら、湿布の匂いがきつくて……』
『うわ、オバンくさ』
『それで気持が萎えちゃって、そのまま何もしないで寝ちゃいましたよ。朝になったら、彼女の姿が消えていた……』
『ウソやろ?』
『全部、本当ですよ』
『ひどい女やなあ。最低やないか』
『それが……、 彼女の寝顔がね、とてもかわいかったんすよ。おれ、マジでホレました。真剣です』
「ウソでしょ?」
 知子が声を張り上げた。
『爆弾発言やね。彼女の名前は?』
『わかりません』
『手がかりは何もないの?』
『パーティに出ていた人に電話してみたんですがね。誰も、彼女のこと、知らないんです。でも、証拠品を残していきました』
『まるで犯人やな』
 ジンノが紙袋の中から、パープルのパンプスを取り出した。ヨーコの靴に間違いなかった。
『大きな靴やな。えーとサイズは、25センチかいな。でかいなー、わしの足と同じやないか』
「違う!」
 明美が思わず否定した。知子が驚いて、明美の顔を見た。
「お母さん、どうしたの? 顔が真っ赤になってるわよ」
「間違ってるわよね。こんなこと、テレビでしゃべるなんて……」
 あわててごまかした。こんなこと、娘に話せるわけがない。話しても、信じてもらえるはずはなかった。
『で、どうしたいの?』
『マジで、結婚してもいいと思ってます』
(ホント、ガキね)
 明美は立ち上がった。心臓が高鳴っている。タンスの上の携帯電話を取り上げると、トイレに向かった。しっかり鍵をかけてから、番号をプッシュした。
「ヨーコ、あたしよ、明美」
『ああ、明美なの。足の具合はどう?』
 ヨーコには、家に帰ってから一度、連絡を入れていた。もちろん、ラブホテルのことは話していない。親切な人に、家まで送ってもらったと嘘をついた。
「もう痛まないわ。あの……」
 言葉が出てこない。何をしゃべっていいのかわからないのだ。
『わかった。わたしとレズりたくなったんでしょ?』
 そう言って、愉快そう笑った。
「ヨーコは昨日、ランティアの話をしてくれたわよね」
『ああ、セイロン・ランティアね』
「エッ、ただのランティアじゃないの?」
『正式名は、セイロン・ランティアよ』
「でも、アラビアンナイトに出てくるって言ったじゃない。ほら、王子様のために自殺したランティアの話。アラビアの砂漠に咲く花じゃなかったの?」
『ゴメンゴメン、あの話はわたしの創作なの。同じような話を、何かの本で読んだことがあるのよ。わたしは、お客さんと接しているときのインスピレーションをとても大切にしているの。コミュニケーションがうまくいかなければ、満足してもらえる髪型には仕上がらない。あのときの明美、なんだか緊張しているようだったから、気持をほぐそうとして……』
「じゃあ、ランティアの涙の言い伝えも嘘なの? 好きな人に飲ませると効果があるという話……」
『本当の話だったら、わたしが真っ先に試してるわよ。まさか、あんた、あんな少女漫画のような話、本気で信じてたんじゃないでしょうね』
 明美は唖然として、言葉を失った。
『明美、どうしたの……、もうすぐ予約の時間なの。悪いけど、のんびり話している時間は……』
「あたしたち、友達だわよね」
 なつかしい言葉の響きだった。
『もちろん。でも、恋人でもかまわないわよ』
「茶化さないでよ。あたしは真剣なんだから」
『何もわたしは……』
「ヨーコにお願いがあるの。一生のお願い」
『なんだか怖いわね。で、何なの?』
「あたしを、ヨーコの店で働かせてほしいの」
 返事がなかった。
「あたし、なんでもやるから。掃除や洗濯、料理だって、つくってあげるわ。お給料もいらない。あなたの下で、メイクやカットの勉強がしたいのよ。お願い、一生のお願い」
 何度も頭を下げていた。
『明日、9時にお店に来てちょうだい。夜じゃないわよ、朝の9時だからね』
 ヨーコが告げた。
「じゃあ、働かせてくれるの?」
『しばらく様子を見させてもらうわ。言っとくけど、わたしは厳しいわよ。ビジネスの世界では、友達も恋人も関係ないから。それだけは、覚悟しておいてね』
 口調が一変していた。
「うん、わかってる。いや、わかっています、ミズシマ先生」
 ヨーコが笑いながら電話を切った。
(本当の大人になるんだ)
 明美は、心の中で誓った。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆「ランティアの涙」の感想

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。
*ランティアの花を描写するにあたり、友人の Quasar さんがサイト上で公開されていた日記を参照させていただきました。ご本人の許可を得て、タイトルも流用させていただきましたが、ストーリーはすべてわたしの創作です。
*タイトルバックに、CoCo* の素材を使用させていただきました。


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