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 カブ先生こと仲里惣八が、往診に向かっているときだった。あだ名の由来になった愛機のホンダ・スーパーカブにまたがって、川沿いの道を走っていた。
「うん、あの人は……」
 橋を渡って、対岸の沿道を引き返した。路傍にバイクを停めて、ヘルメットを脱ぐと、白髪混じりの蓬髪が現れた。凝った首を大きく回してボキボキと関節を鳴らすと、犬のような咆吼を上げながら、晴れ渡った空に向かって大きく伸びをした。昨夜は急患が出て、夜間にたたき起こされて寝不足なのだ。
「狩屋さん」
 藤色のカーディガンを着た華奢な背中に声をかけた。反応がない。
「幸乃さん」
 今度は名前を呼ぶと、花崗岩の縁石に腰を下ろしている老女が振り返った。鮮やかな黄色のニット帽子をかぶっている。お世辞にも似合っているとは言えないが、これには事情がある。
「仲里です」
 は潤んだ瞳でカブ先生の顔を見るが、それだけだ。
「仲里診療所のカブですよ」
 しばらく反応を伺ったが、色白の瓜実顔に童女のような微笑が浮かんだだけだ。首から、プレートを下げている。住所と名前、携帯電話の番号が書かれた紙が入っている。迷子になったときの用心のためだ。老人性アルツハイマー病、いわゆる認知症が彼女の患っている病気だった。黄色の派手な帽子は、遠くからでも、夜間でも、目立つようにとの配慮だった。
「お父さんはいないんだね」
 幸乃さんがこくんと頷いた。 幸乃さんは、旦那である亮介のことを「お父ちゃん」と呼んでいる。カブ先生は、亮介とじっくり話がしたかった。幸乃さんが診療所に来なくなって、もう三ヶ月になる。「いくら薬を飲んでも、無駄 なんじゃろ?」、電話口の亮介の冷ややかな声が、まだ耳に残っている。
「ほう、幸乃さんは絵を描くんだね」
 彼女が手にしている小さなスケッチブックを見て、カブ先生が言った。幸乃さんがあわてて、スケッチブックを胸に抱いて、絵を隠した。
(それにしても、この木を選ぶとは……)
 目の前にある山桜を見て、カブ先生は呟いた。樹齢が二百年とも三百年とも言われる大木だ。「新田の血染め桜」、そう呼ばれている。伝聞では、江戸時代の悪代官が、一揆の農民たちに襲撃されて、この桜の木の下で血まみれになって命を落としたのだという。根元には、古い祠が祀られている。
 山桜の花は白い花弁が普通だが、この老木はソメイヨシノよりも赤みが強い花を咲かせる。しかし、まだ三月の半ばの山里は、春の訪れものんびりしている。新田の姥桜も、今はごつごつとして皺だらけの裸体を晒しているだけだ。
(うん?)
 カブ先生は、筆洗に使われている茶碗に目をとめた。欠けた縁を、金で継いである。
(まさかな)
 そう思ったものの、カブ先生は我慢ができず、幸乃さんに声をかけた。
「水がかなり汚れてますな。替えてきてあげましょうか」
 幸乃さんが曖昧に頷くのを待って、カブ先生は茶碗を大事そうに両手で取り上げた。しばし眺めたあと、川の土手を下った。水辺で茶碗を洗うと、重厚で鮮やかな色彩 が現れた。その中央に金継ぎの線が走っている。この茶碗は縁が欠けていたばかりではなく、真っ二つに割れていたのだ。しかし、丁寧に金漆で補修してあるので、傷痕ではなく格別 な景色に仕上がっている。
(古九谷の「青手」……、なのか?)
 緑と黄の二色で大胆な模様が描かれている。模様の内側は小さな花文様、外側は波文様。茶碗を裏返すと黄釉に黒で花唐草文、高台(こうだい)には角福銘が記されている。
(写しだろうな)
 カブ先生の父親が重度の骨董狂いで、とりわけ焼き物の収集に熱中した。その父親がとりわけ執着したのが古九谷だった。
 加賀の九谷地方で1650年代に生まれたとされている九谷焼きは、数十年で廃窯となる。その後に再興された九谷焼と区別 するために古九谷と呼ばれているが、その生産地が九州の肥前有田とする説もあって、謎の多い焼き物だった。そうした考古学的なロマンが、その希少性と相まって、骨董ファンを惹きつけるのだ。
(でも、今物の写しに、金継ぎなんかするだろうか?)
 門前の小僧の域を出ないカブ先生の鑑識眼では、本物かどうかを見分ける自信はない。わざわざ金継ぎを施して、本物らしく見せることもあるだろう。しかし、とカブ先生は目の前の茶碗に見入った。気品と風格を感じるのだ。骨董道楽に身上を費やした亡父の気持が、少しだけわかったような気がした。
( いやいや、筆洗に使われている欠け茶碗なんだぞ)
 苦笑を浮かべて、さぶんと川の水を茶碗ですくった。
 幸乃さんは、まるで彫像のように同じ姿勢で、山桜の老木をぼんやり眺めていた。
「お待ちどうさま」
 カブ先生が水の入った茶碗を地面に置くと、幸乃さんの目の焦点が結ばれた。
「このお茶碗は、 どうしたんですか?」
 返事を期待したわけではなかった。
「あたしが掘ったんです」
 しっかりした声に、カブ先生は驚いた。
「 掘ったって、土の中から?」
「そう、山の奥にどんどん入って行って、古い窯のあとを見つけてね」
「幸乃さん一人で?」
「ううん、うちのお父ちゃんとヤマベの爺ちゃんと三人で掘ったんだよ」
 掘り師だったのかもしれないなと、カブ先生は思った。父親から話を聞いたことがある。古墳や古窯を狙って、古い土器や陶片を掘り出して売るのである。要するに、盗掘である。カブ先生は、狩野亮介の狷介な顔を思い浮かべた。寡黙な老人で、草刈り鎌で指の骨が見えるほどの怪我をしたことがあるのだが、麻酔なしで傷口を縫っても、うめき声ひとつ漏らさなかった。
「昼間掘ったの?」
  幸乃さんがかぶりを振った。
「月がとってもきれいな夜だったよ」
 やはり掘り師だと、カブ先生は内心、頷いた。人目につかない夜こそが、盗掘の時間帯だ。
「獲物はたくさんあったの?」
 幸乃さんが大きく頷いた。
「欠片がいっぱい出てきてな」
 幸乃さんの目が輝いている。物原(ものはら)だろうと、カブ先生は推測した。割れた器や出来損ないの陶器のゴミ捨て場が、物原である。たとえ小さな欠片でも、古い物や珍しいものにはマニアがいて、それなりの値が付くらしい。絵柄がおもしろいものは、箸置きやブローチに作り替えることもあるという。
 カブ先生は、水洗に使われている茶碗を見た。中にはこんな“掘り出し物”もある宝の山だ。そのとき、カブ先生はあることに気づいた。
「場所はどこですか?」
 声が高ぶっていた。加賀藩のあった石川県だろうか。それとも、焼き物の里、有田のある佐賀県だろうか。古九谷の物原が見つかったとなれば、古九谷はどこの窯で焼かれたのかという考古学的な論争に、重要な意味を持つのではないか……。
「山の奥だよ。大きな桜の木の根元を掘ったんだよ」
「いや、そうじゃなくて、その山があったのは……」
「満開の桜でな。月夜に浮き上がるように映えて、とってもきれいだった」
  幸乃さんの目は、遠い昔を見ていた。
「大きなのを掘り出すたびに歓声を上げて、自慢するんよ。掘った、掘った、夢中で掘ったよ」
 カブ先生の目にも、そのときの光景が見えるような気がした。
「ヤマベの爺さんが倒れた!」
 いきなり、幸乃さんが立ち上がって叫んだ。スケッチブックが地面に落ちた。
「何があったんですか?」
 幸乃さんが、カブ先生の顔をにらんだ。
「大きなマムシでね。あれはきっと、あの窯を守っとったんだと思うよ」
「咬まれたんですか? それでヤマベさんは……」
 幸乃さんがかぶりを振った。
「もともと心臓が弱っていたからね」
「死んだんですか?」
 幸乃さんが頷いた。
「掘った穴に埋めてあげたよ。強欲な爺さんで、徳利を握ったまま、なかなか離してくれんで……」
 スケッチブックの山桜は、もう満開だった──。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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