T-Timeファイル亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る


 休憩所のベンチに、先客がひとりいた。眠っているのか、穴のあいた麦藁帽子で顔を覆って、手足をだらしなく投げ出している。素足にサンダル履きだった。
 わたしは、向かい合わせのベンチに腰を下ろして、首にかけた温泉宿のタオルで汗を拭った。まだ五月だというのに、真夏のような暑さだった。肩掛けのバッグから缶ビールのカートンを取り出して、一缶むしりとると、プルトップの栓を抜いた。炭酸が爆(は)ぜる音が響いて、わたしはあわてて、ビールのシャワーを唇で覆った。そのまま、喉を鳴らして嚥下(えんか)する。体中の干からびた細胞に、冷気が滲み込んでいくようだ。
 そのとき、ベンチの先客がムクリと上体を起こした。猿顔の爺さんだった。70歳は越えているだろうか。炭酸のげっぷをしながら、わたしはあわてて黙礼した。爺さんが笑った。痩せこけた貧相な顔が一変して、人なつっこい好々爺の顔が現れた。
「ご一緒にどうですか?」
 外交辞令のつもりだった。
「いいのかい?」
 爺さんが目を輝かせた。わたしが渋々頷くと、爺さんはすぐにテーブルのビールに手を伸ばした。紙のカートンから一缶、取り出すと、頬にあててニヤリと笑った。
「よう冷えとる」
 もどかしそうに栓を抜くと、飢(かつ)えた獣のように、缶ビールの飲み口にかぶりついた。天を見上げて、ビールをグビグビと喉に流し込む。恍惚の表情が浮かんだ。ときどき息継ぎのために缶から口を離すのだが、その僅かな時間を惜しむように、すぐに缶にかぶりつく。その見事な飲みっぷりに、わたしは自分のビールを飲むのも忘れて見とれていた。爺さんは缶ビールをたちまち飲み干して、放心したように大きく息を吐き出した。
「もうひとつ、いかがですか?」
 思わず、アンコールしてしまった。
「や、これはかたじけない」
 ほんのりと上気した顔で、ニンマリ笑った。顔に精気が満ちて、10歳は若返ったようだ。わたしが思っているより、実年齢は下なのかもしれない。
 今度は一口づつ味わうように、そして、慈しむように、ゆっくり飲んだ。しかし、その至福の時間も、やがて終わりを迎えた。爺さんは缶を振って、最後の一滴を舌の上に落とすと、うらめしそうに、残りの缶ビールに視線をやった。
「さて、出発するかな」
 わざとらしくそう宣言して、わたしはカートンの残りをバッグにしまった。このままでは、重い思いをして運んできたビールを、すべて爺さんに飲まれてしまう。
「じゃあ、失礼します」
 爺さんに会釈して、バッグを担いで立ち上がった。爺さんも一緒に立ち上がった。わたしが歩き出すと、爺さんがあとをつけてくる。
(おいおい、どういうつもりだ?)
 不安を覚えて、足を速めた。しかし、爺さんは、楽々と追いかけてくる。先に息が上がったのはわたしの方だった。車ばかり使っていて、もう何年もまともに歩いていない。悠長に歩いている余裕などなかったのだ。
 全身にびっしょり汗をかいて、わたしは林道の切り株に腰を下ろした。爺さんがわたしの傍らに立った。手ぶらということもあるのだろうが、息がまったく乱れていない。
「お先にどうぞ」
 爺さんに声をかけたが、ただニコニコ笑っているだけだ。その猿顔が、なんだか妖怪じみて見えてくる。
(この爺さん、何が狙いなんだよ。ビールの残りか? それとも……)
 汗が急に冷たくなった。
(冗談じゃない。ただのくたびれた爺さんじゃないか)
 体力の回復を待って、腰を上げたわたしは、林道の端に落ちていた棒きれを拾い上げた。たぶん、ハイカーが杖として利用したものだろう。手にしたときの木肌の硬質な感触に、わたしは励まされた。
「一緒に歩きませんか?」
 爺さんに声をかけた。
(後ろから襲われたら、どうしようもないからな)
「旅は道連れ、世は情け……」
 爺さんはニンマリ笑って、浪曲のような節回しでそう呟くと、わたしと並んで歩き始めた。
 爺さんの真意をさぐるために、わたしはあれこれと話しかけた。しかし、反応は乏しかった。いつしかわたしも押し黙って、気まずい思いで歩いていた。だが、爺さんの方はまったく頓着のない様子で、ときおり暢気(のんき)な鼻唄が聞こえてくる。それがいっそうわたしをいらだたせた。
「おいおい、これを登るのか……」
 目の前に急峻な岩場が現れた。わたしは悄然として、自分の足元に視線を落とした。イタリー製の自慢の革靴が、土埃にまみれている。目的のある旅ではなかった。温泉宿のロビーに置いてあったパンフレットに、このハイキングコースのことが紹介されていた。時間をもてあましていただけなのだ。
「荷物を……」
 爺さんがそう言って、手を差し出した。
「けっこうです」
 巨岩の隙間を縫うような隘路(あいろ)を、わたしは登り始めた。岩礫(がんれき)だらけで歩きにくい。両足にできたマメがひどく痛んだ。肩に掛けたバッグがぶらついて、うっとうしい。わたしは杖を投げ捨てて、両手で岩壁をたぐるようにして足を運んだ。なまっていた膝関節が、ギシュギシュと悲鳴を上げた。いつしかその感覚さえなくなっていた。
「ヨッコラセーノ、ドッコイショ、ヨッコラセーノ、ドッコイショ……」
 背後から聞こえてくる爺さんの陽気なかけ声に合わせて、機械的に足を動かしていた。
 突然、視界が開けた。新緑の生命力に満ちた山並みが、眼下に広がっている。わたしは声もなく、素晴らしい眺望に見入っていた。薫風が心地よかった。
「あの丸みを帯びた山がな、マチコ山というんだ」
 いつの間にか、爺さんがわたしの傍らに立っていた。
「どうだい、やさしそうな姿をしてるだろ?」
 わたしは素直に頷いた。
「その隣りの、二つのコブがある山が双子山。大きい方のコブがカツタロウ岳、小さい方がナオジロウ岳というんだ」
「なんだか、マチコ山と親子のようですね」
 今度は、爺さんが頷く番だった。
「あんた、名前は?」
 唐突に訊かれて、わたしはためらった。
「名前、ないのかい?」
 催促されて、仕方なく、わたしは自分の名前を口にした。
「山本です」
「山本山……」
 そういって、爺さんは小首を傾げた。子供の頃によくからかわれたあだ名だった。
「やっぱり、山本岳だな」
 納得したように頷いた。
「あそこに、三角形の山があるだろ?」
 爺さんの指先に、山頂がピラミッドのような形をした山が確かにあった。
「あんたにあげるよ」
 思いがけない申し出に、わたしはびっくりして爺さんの顔を見た。
「わしのお気に入りの山だったんだがな。ビールのお礼に、あんたにあげるよ。あの山の名前は、今から山本岳だ」
 爺さんが誇らしそうに宣言した。
「なに、遠慮することはないんだ。他にも山はいっぱいあるからな」
 わたしは急におかしくなって、声を上げて笑った。こんなに愉快な気分になったのは、本当に久しぶりだった。
「こんな凄いプレゼントをもらったのは初めてですよ。さっそく、お祝いしましょうか」
 わたしがバッグからビールを取り出すと、爺さんが破顔した。幼児のような無邪気な笑顔だった。


Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

◆「山本岳」の感想

*この作品は、2003年2月の課題テーマ「名前」を題材にして、掲示板で発表されたものを再編集しました。
*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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