亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る


1

 部屋に入る前から、なじみのある臭気が鼻先に漂ってきた。
「おー、でちょるでちょる」
 先崎が嬉しそうな声を上げた。
「やっぱ、吉川(きっかわ)さんですかね」
 わたしは無言で頷いた。三日ほど便秘が続いて、吉川さんには寝る前に下剤を飲んでもらったのだ。
「篠原さん、やります?」
 先崎が、いたずらっぽい目で問いかけた。吉川さんは、天井をまっすぐ見上げたまま瞑目している。眉間に皺を刻んだ顔は、寝ている顔ではなかった。
「先輩、お願いします」
 二十歳以上も年下の同僚に頭を下げて、わたしは吉川さんのベッドの前を通 り過ぎた。どういうわけか、吉川さんには最初から敬遠されている。もともと寡黙な患者さんなのだが、わたしが話しかけてもそっぽを向いたまま、返事をしてくれないのだ。
「正畑さん、おはようございます」
 窓際のベッドの患者さんに声をかけた。えらの張った皺だらけのおじいさん顔に、変化はない。
「サメさん……」
 耳元に口を近づけて、今度は名前を呼んだ。中国地方の山間地にあるこの地方では、昔から保存の利く鮫肉が食べられてきた。九十五年前に、わが子にサメと名づけた親は、鮫肉が好物だったのだろうか。
 もっとも、地元では鮫肉のことを「ワニ」と呼んでいる。この病院には、トラやシカやクマも入院しているが、さすがにワニはいない。風聞では、生まれた子供に動物の名前を入れて命名しなくてはならない年があるのだという。その縁起に反すると、子供が健やかに育たない……。
「サメさん!」
 もう一度、呼びかけると、正畑さんが「ガハッ」と大きく寝息を飲み込んで、ゆっくり目を開けた。どんよりした視線が焦点を結ぶまで、しばらくかかった。
「だれ?」
 わたしの顔を凝視しながら、しわがれ声でたずねた。声までおじいさんだ。
「看護助士の篠原です。下着を取り替えさせてください」
 オムツという言葉が、患者の前では口にできない。もう少し、人間の尊厳を傷つけない呼び方はないものか。そんなの、大人用紙オムツに対する偏見ですよ、と先崎はからかう。紙オムツだって、立派な医療用品なんですから。それに、患者さんは、そんなこと気にしちゃいませんよ。たぶん、わたしがまだ新米で、“医療人”になり切れていないのだろう。
 仕切りのカーテンをひいて、周囲から視界を遮断した。
「おっ、やっぱり吉川さんだ。こりゃ、すげえな。篠原さん、今日は大漁ですよ」
 先崎のはしゃいだ声が聞こえてきた。夜勤による心身の疲労と、それがもう少しで終わるという開放感がないまぜになって、気持が昂ぶっている。
(あの、スカトロ野郎が)
 わたしは、苦笑をうかべてかぶりを振った。「うんこ」に執着しているのだ。とくに摘便には自信があって、ゴールドフィンガーを自認している。摘便とは文字通 り便を摘出することで、直腸にたまった硬い便塊を指でかき出す……、仲間内では「うんこ掘り」と呼んでいる。
 カーテンの壁を突き抜けて、強烈な臭気が押し寄せてきた。薬の力で無理やり排泄させられたので、臭いもとんがっている。
「見させてもらいますよ」
 もう一度、正畑さんに断ってから、入院着のズボンを引き下ろした。オムツカバーの両端のマジックテープをバリバリと引き剥がして、内側のパットを確認した。ほんわかとしたアンモニア臭が、鼻先にただよってくる。
(おしっこだけか。量はまずまずだな。横漏れもないし、パットを交換するだけでよさそうだ)
 ラテックス製の手袋を両手に装着して、バケツのお湯に浸しているタオルを軽く絞った。
「蒸しタオルを乗せますよ」
 正畑さんが頷くのを待って、幼児のような無毛の股間をくるむように、濡れたタオルを乗せた。正畑さんの顔が弛緩して、お地蔵さんのように穏やかになった。
「気持いいですか?」
 耳元で尋ねると、正畑さんの口が微かに動いた。
「ええ……、ええよ」
 痰のからまったかすれ声だが、確かに聞こえた。
 ボトルのお湯で膣や肛門部を洗浄して、尿取りパットを交換した。オムツカバーでくるんで、寝巻きのズボンを穿かせる頃には、正畑さんの顔から表情が消えていた。
「お疲れ様でした。お尻も下着も、新品になりましたよ」
 正畑さんが、わたしの顔を凝視した。
「友子はどこ?」
 半月ほど前に急死した、長女の名前を口にした。母親の世話をするために、毎日のように、この病室に通 っていた。
「まだ、朝が早いですからね」
「ほうかね」
 あっさり納得してくれた。ボケは、悪いことばかりではない。悲しいことや辛いことも一緒に、忘れさせてくれる……。


2

「夜勤明けで疲れているのに、悪いね」
 事務長の長内に呼び出された。母方の遠縁にあたる男で、この病院に拾ってもらえたのも、このかすかな血縁のおかげだった。過疎の田舎町では、ごく一部の有資格者を除いて、就職は永遠に買い手市場だ。
「どうだい、もう夜勤にもかなり馴れたんじゃないかい?」
 笑顔を見せたつもりだろうが、眉間の皺がさらに深くなっただけだ。五十三歳という年齢以上に老けて見える。机の引き出しには、薬局で処方してもらった胃薬や精神安定剤がどっさり入っているはずだった。老人専用病院の需要や必要性は増すばかりだが、その分、医療費圧縮のしわ寄せをくって、経営の舵取りがますます難しくなっている。
「やはり、夜は緊張します」
 正直に答えた。当直のドクターや看護師が待機しているので、責任を負わなくてはならないという重圧はないのだが、夜は何が起こるかわからない。とくに、徘徊や粗暴の前科がある患者は、“男手”の担当になっている。
「そういえば、河田さんのとき、篠原君だったよね」
 わたしは、苦笑を浮かべて頷いた。河田次郎、脳裏に名前が刻まれている。定期の夜回りのとき、息をしていなかったのだ。思考がすっとんで、大声で名前を呼びながら、河田さんの体をゆすぶっていた。永遠の瞑りについたのだ。いくら激しくゆすぶっても、目醒めるはずもなかった。
「あの人にも、苦労させられたな」
 長内が、しみじみした口調で言った。頑迷狷介、リュウマチと心筋梗塞という病苦が、その厄介な性格を増幅していた。しかし、どういうわけかわたしにだけは、気さくな表情を見せてくれた。波長があったというのだろうか。それとも、親子ほども年下の看護師に、叱責されながらこき使われている新米の中年男に、同情してくれたのだろうか。いつの間にかわたしは、河田さんの担当ということになっていた。
 あれは、河田さんが亡くなる前日の夕刻だった。年の離れた奥さんが帰宅して、河田さんは狭い個室のベッドに腰掛けて、窓の外を眺めていた。少し開けた窓から、雨の冷気が入り込んでいる。五月には珍しい小糠雨が、朝から続いていた。
「違うねん」
 ぼそりと呟いた。
「何が違うんですか?」
 声をかけると、河田さんが驚いて振り向いた。少し耳が遠いので、わたしが部屋に入ったことに気づかなかったのだろう。
「もうしばらく、窓を開けておいた方がいいですよ」
 わたしが煙草を吸う真似をすると、不良老人が少年のような笑顔を見せた。煙草のにおいが、かすかにただよっていた。
「いやな雨やな。わし、雨が嫌いやねん」
 河田さんは、寂しそうな顔で言った。それでも、しばらく窓の外を眺めていた。そして、小さくかぶりを振った。
「わしの名前、違うねん」
 そう言って、指の関節が無残に変形した右手を上げて見せた。手首に名札のリングがはめられている。投薬や処置のときに、本人であることを確認するためのものだ。認知症の患者の中には、自分の名前を忘れてしまった人もいる。ときには、迷子になった患者が、他人のベッドにもぐりこんでいることもある。
「婿養子に入ったんですよね」
 患者に限らず、院内の個人情報にはめっぽう詳しい看護師長から聞いた話だ。河田さんは、奈良の生まれだという。どういう事情か知らないが、三十半ばのときにこの土地に流れ着いて、高原にあるリンゴ園で働くようになった。そして、当時はまだ高校生だったりんご園のひとり娘と恋仲になって……。
「ヤマナカジロウ……、結婚する前の名前や。平凡な名前やでー。でも、それも違うねん。サンノウリュウジ……、わしの本当の名前や」
 わたしは、その意味するところを考えた。養子に行ったのだろうか。しかし、苗字を変えても、名前まで変えるだろうか。何かのトラブルに巻き込まれて、名前を捨てた? 借金、それも暴力団絡みの闇金融……。事件に巻き込まれた……、あるいは自分が事件を引き起こした……、逃走犯……、妄想が拡がって行く。わたしは、その答えを待った。
「ええのんかな。このまま死んで、ええのんかな」
 呪文のように繰り返した。いつもの睨みつけるような眼光が消えて、弱々しい目の色をしていた。河田さんはそのまま沈黙した。
「名前なんか、どうでもいいじゃないですか」
 疑問を質したい気持を抑えて、声をかけた。そう言ってほしいような気がしたのだ。
「名前が違っても、その人の中身が変わるわけじゃない。今までの思い出や人生が変わるわけじゃないですよ。家族にとってもね」
 嘘だった。本当のことを明らかにすれば、少なくとも今後の人生は大きく変わってくるだろう。そう、家族にとっても。河田さんの思いつめた表情を見て、そう思った。
「そやな。その通りや」
 ひとつ、小さく頷いて、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 
 河田さんは秘密を抱いたまま、広大なリンゴ園が見渡せる墓地で瞑っている。墓碑には「河田次郎」と刻まれている。それでよかったのだと、今でも思う。


3

「実は、吉川さんのことなんだがね」
 事務長の長内が、本題に入った。
「やっぱり、『楢山さん』かもしれないね」
 この病院内の隠語だった。「楢山節考」という小説がある。深沢七郎が書いた小説で、信州の姥捨て伝説が題材になっている。小説を読んでいない人でも、映画を観た人は多いだろう。小説では、年老いた老人を山に捨てていたが、今では病院に捨て去る輩がいる。
  吉川さんが入院して四ヶ月になるが、入院費が一度も支払われていなかった。身寄りのない方がまだ対処の仕様がある。生活保護を申請するなりして、回収の方法もあるのだが、吉川さんには同居している息子がいた。何度も催促しているのだが、のらりくらりと引き延ばされて、今では携帯電話も通じなくなってしまった。噂では、輝児というその息子は、もう一年以上も働いていなくて、母親のわずかな年金で食いつないでいるという。
 ホテルやアパートだったら、宿泊費や家賃を滞納すれば出て行ってもらえばいいのだが、病院はそうはいかない。病状が悪化するとわかっていて、病人を放り出すことは道義的にできない。病院への信頼が地に堕ちる。
「あの病院に入ると死ぬ」と言われて、もともと評判は良くないのだ。老衰や病のために、日常生活を送れなくなった最晩年の老人が入院してくるのだから、病院で死を看取るのは当たり前のことなのだが。入院費はきちんと払っていても、家族がほとんど見舞いに来ない合法的な「楢山さん」も少なくない。
「さっき、吉川さんの近所の人から電話があってね。吉川さんの息子さんが帰っているらしい。顔見知りの人に、連絡してくれるように、頼んでおいたんだよ。わたしが行ければいいんだが、午前中はいろいろあって、身動きがとれなくてね。悪いんだが、帰る途中に吉川さんの家に寄ってくれないかな。様子を見るだけでいいんだ」
 吉川さんの家は、わたしの帰り道の途中にあった。その不運に内心、嘆息した。
「わかりました。息子さんに会えたら、どうすればいいですか?」
 単刀直入に尋ねた。子供の使いではないのだから、挨拶をかわしただけで帰るわけにはいかない。
「一度、病院に顔を出してくれるように伝えてくれないか。お母さんも心配しているから、とね」
「断られたら?」
 その可能性が大だった。長内がしばらく考えた。
「君に任せるよ」
 わたしは、余計な質問をしたことを後悔した。


4

 車のクーラーを入れた。二日前に梅雨明けしたばかりだが、まだ九時を少し回ったところだというのに、気温は三十度近くまで上がっている。中国山地のすり鉢状の盆地にあるこの土地は、夏は熱気がこもって蒸し暑く、冬は雪が多くて冷え込みが厳しい。
 無意識に頭皮をがりがり掻いていた。染髪剤にかぶれたのだ。病院の面接を受けたときに、少しでも若く見せようと、目立ち始めた白髪を初めて染めた。鏡を見て、五歳は若返ったような気がした。
 悪あがきだった。最初に染めたときに、異常がなかったので安心していたのだが、三回目のときから痒みを覚えた。回を重ねるごとに、頭皮の炎症がひどくなっている。止めようと思うのだが、白髪が目立ち始めると、周囲の視線が気になってしまう。染髪剤を使っていたことがバレるのも嫌だった。
(しかし、どこかで会っているはずなんだが)
 吉川さんのことを思った。最初に顔を見たとき、見覚えがあるような気がした。でも、どこで会ったのか、どうしても思い出せない。顔見知りに似ているのかとも思ったが、いくら考えても、当てはまる人物がいないのだ。
 それとなく、昔のことを話題にしたこともあるのだが、返事をしてもらえなかった。ひょっとしたら、わたしがまだ子供の頃に、彼女にひどい悪戯でもしたのかもしれない。年寄りは、意外と昔のことは鮮明に覚えていたりするものだ。病室にいるときに、吉川さんの視線を感じることがある。
 吉川さんの家が近づいてきた。気が滅入った。昔から、借金の催促ができない性格だった。貸した金は、最初から進呈したものとして諦めている。その方が、気が楽だった。
 国道から路地に入った。古びた平屋建ての公営住宅が並んでいる。最初は同じ外観だったのだろうが、時代の波に洗われて、居住者の個性が浮き出ている。いちばん奥の突き当りが、吉川さんの家だった。ささやかな庭に、紫陽花が生い茂っている。茶褐色に変色した無数の花弁が、無残な姿をさらしている。
 表札を確認して、ささくれが目立つ合板のドアをノックした。
「開いてるよ」
 残念なことに、返事があった。ドアを開けて、玄関に入った。進入を拒むように、廊下にダンボール箱が積み上げられている。その奥の甚平を着た男が、あれ、という顔でわたしを見た。
「なんだ、宅急便屋じゃないのか」
 吐き捨てるように言った。
「吉川輝児(きっかわてるじ)さんですよね」
 いちおう、確認した。病院で一度だけ会っている。えらの張った倣岸そうな顔、頭髪がM字型に後退している。身長は、百八十センチを超えているだろうか。横幅もあるので、威圧感がある。あの小柄な吉川さんからこんな大男が産まれたとは、信じられない。
「何の用だ」
 恫喝するように言って、わたしを見下ろした。
「上野原病院の篠原と言います」
 吉川輝児が、わたしの顔をにらんだ。そして、小さく頷いた。
「ああ、病院にいたヘルパーさんか」
 ようやく思い出してくれたようだ。白い作業着を脱ぐと、印象が変わってしまうのだろう。吉川輝児は、同じ中学校の一年先輩に当たるのだが、記憶はまったく残っていない。今と違って、目立たない生徒だったのだろう……、そう、お互いに。
「悪いけど、金ならないよ」
 先手を打たれた。
「払いたいとは思っているけど、ないものはどうしようもないからな」
 冷笑を浮かべた。
「一度、病院の方に来ていただけませんか。お母さんも、寂しい思いをしておられます」
 母親のことを出されて、さすがにバツの悪そうな顔をした。
「わかったよ。近いうちに顔を出すと、事務長さんに伝えてくれ」
 おざなりの気持を隠そうともしていない。
「引っ越し……、されるんですか?」
 輝児の顔が強張った。余計なことを言ったと後悔した。ダンボール箱に貼られた配達伝票のあて先は滋賀県で、女性の名前が書かれている。
「出稼ぎだよ。こんな片田舎じゃ、オフクロの入院費も稼げないからな」
 開き直った。
「じゃあ、引越しをされる前に、お母さんの顔を見に来てあげてください」
 それだけ言って、引き上げようとした。
「あんた、母親の看病のために、帰って来たんだって」
 呼び止められた。
「なんでも、東京にある大きな出版社の重役で、編集長だったそうじゃないか。給料もたくさん貰ってたんだろ? それが、今じゃこんなド田舎のジジババ病院で、しょんべんくせえ看護婦にこき使われている。後悔してんだろ?」
「よく知ってるんですね」
 わたしは苦笑を浮かべた。
「でも、少し違っています。そんなに大きな出版社ではなかったですし、重役でもない。わたしが作っていた本も、広告がメインのリクルート雑誌で、スタッフもわたしを含めて五人しかいませんでした。確かに給料は、今よりは多かったですが、東京は家賃や物価が高いですからね」
 仕事も家庭も、袋小路に陥っていた。創業者のワンマン社長の気まぐれで、新しいリクルート雑誌を創刊することになり、その責任者に任命された。それまでは、出版部に身を置いて、単行本の企画編集を担当していた。ヒット作に恵まれたこともあって、比較的自由に動き回れていた。売れる本をつくっていれば、誰も文句は言わない、いや、言わせない。
 雑誌の編集は嫌いではなかったが、わずか五人の小所帯とはいえ、編集スタッフを束ねる責任者という立場は荷が重かった。団体行動が苦手なタイプだと自認していた。スタッフも寄せ集めで、編集の素人が二人いた。ひとりは経理にいた二十歳の女の子で、結婚前の腰掛けという態度が見え見えだった。もうひとりは営業部から転属した三十半ばの男で、うつ病で半年間、休職したという前科があった。
 営業部ともよく衝突した。広告主の顔色しか見ていない営業サイドと、少しでも一般 購読者の数を増やしたい編集サイドでは、根本的な考え方が違っている。もともと、創業者の社長が恫喝まがいの手を使って、企業から広告料をふんだくって大きくした会社だけに、営業部の力が強かった。売上も低迷して、廃刊の噂が絶えなかった。いつしかわたしは、慢性の胃痛と不眠に悩まされるようになっていた。
「かみさんは、連れて帰らなかったのかい?」
 輝児が尋ねた。
「息子が、高校に入ったばかりですからね」
 いつもの言い訳を口にした。本当は、すでに離婚が成立していた。かなり前から、もう夫婦ではなかったのだ。別 れるエネルギーがなかったから同居していただけで、母親のことはキッカケにすぎない。
「ひとりで面倒を看ているわけか……」
 くも膜下出血で倒れた母親の容態は深刻だった。喪服の用意をして帰るかどうか迷った。ベッドに寝ている母親は昏睡状態で、呼びかけても反応はなかった。七十五歳という高齢もあって、手術ができるかどうかも危うかった。枯れ木のようにやせ細って、心臓も衰弱していた。宗教心などなかったわたしが、胸中で合掌して、神仏に祈った。
 執刀医にさんざん脅かされたが、どうにか手術は成功して、集中治療室で母親と再会した。そう、再会だった。わたしのことがわかったのだ。驚いたような顔が、すぐに満開の笑みに変わった。
 あれは……、菩薩の笑みだった。後光がさしていた。慙愧の思いや悔恨の念、心の中で渦巻いている言い訳の言葉が一瞬にして消失した。ささくれた全身が、ふんわりしてあったかな感情に包まれた。涙が溢れてきた。周囲の視線がなければ、わたしは床に平伏して、子供のように泣きじゃくっていたかもしれない。
「あんた、友達、できないだろ?」
 そう言って輝児が、ニヤリと笑った。
「母親の看病をするために、仕事も家庭も捨てて故郷に帰って来た孝行息子……、そんな美談は、誰も喜ばねえ。ここじゃあ、劣等感を覚えるような相手と友達付き合いするようなお人よしはいねえのさ」
 苦笑を浮かべるしかなかった。仕事からも家庭からも、逃げ出したというのが本音なのだ。
「その点、おれは人気者さ。いい年こいて、働きもしないで母親のわずかな年金を食いつぶしている。一家団欒で、あいつはどうしようもない親不孝もんだと、みんなで嬉しそうにべしゃるのさ。そうやってうちのオフクロに同情して、自分のちっぽけな幸せを噛みしめるんだ」
 吐き捨てるように言った。
「確かに人気者かもしれないですが……、あなたも、友達いそうにないですね」
 つい、口がすべった。ギロリとにらまれたが、すぐに表情がゆるんだ。
「それもそうだな」
 意外と愛嬌のある笑顔だった。
「オフクロが一時期、姓名判断に凝ってよー。自分ばかりじゃなくて、おれの名前まで『輝児』なんてご大層なもんに変えてくれたけど、効果 があったのはこの頭だけさ」
 広い額を撫で上げた。
「あんた、どうして病院勤めを選んだんだ?」
 唐突に尋ねられた。
「わたしがつくっていた月刊誌で、『体験レポート最前線』という企画がありましてね。その記事を書くために、二級ヘルパーの資格を取ったんですよ。あのときは、ヘルパーの資格が役立つとは想像もできませんでしたがね」
 ヘルパー養成学校の広告を取るために、営業部が持ち込んだ企画だった。
「仕事、やってて楽しいかい?」
「考えたこともなかったですね。仕事って、楽しいもんじゃないでしょ?」
 輝児が頷いた。
「でも、みんなは続けてるんだよな」
「お金をもらってますからね」
「ああ、そうなんだよな」
 嘆息するように言った。
「おれも、入るときはいつも思うんだ。ここで骨をうずめる覚悟で働こう、てな。でも、一ヶ月もするとうんざりしちまう。なんでおれ、こんなところにいるんだろう、てな」
 気持はよくわかる。
「陰気くせえ暗い部屋で、目が痛くなるような数字とにらめっこしているときに、窓の外に青空が見えたりすると、もういけねえ。無性に外に出たくなって仕方がない。なんでおれ、こんなことをしてるんだろうと考えちまう」
 病院の屋上にあがって、ひとりで仕出し弁当を食べている自分の姿を思い浮かべた。
「こんな職場で我慢している同僚や上司が、みんなくだらない人間に思えてくるんでしょ? おれは、こいつらとは違う。おれは、こんなところにいる人間じゃない…… 」
 輝児が目をむいてにらんだが、やがて渋々頷いた。描きたかったのはこんな絵じゃない、おれはもっとうまく描けるはずなんだと、何度も描き直しているうちに、キャンパスがくすんでくる。やがては、下描きもできなくなるほど汚れてしまう。
「みんな同じですよ。あなたが馬鹿にしているちっぽけな幸せを守るために、みんな、我慢してるんです」
 自分の言葉に、嫌悪感を覚えた。自分自身に言い聞かせているような気がした。
「あんた、よく似てるよ」
 輝児の口元に、冷笑が浮かんだ。心の中を見透かされているような気がした。
「おれがまだ餓鬼のころ、大嫌いだったやつにな」


5

「孝行息子か」
 そうつぶやいて、自嘲した。輝児とやりあったときの興奮が、まだ体の奥でくすぶっている。
(確かにあんたは、どうしようもないどら息子だが、吉川さんが入院するまでは、ずっと母親のそばにいてあげたんだからな。おれは……、最後の最後になって、帳尻を合わせようとしているだけだ)
 缶コーヒーの残りを飲み干した。わたしがまだ幼い頃に、夫を交通事故で失った母親は、衣類の行商をしながら、女手一つでわたしを育ててくれた。その母親を、わたしは一度、捨てたのだ。
 昔は、この土地が大嫌いだった。早く外の世界に出たいと願っていた。思春期特有の心のアレルギー、あの頃のことを思い返して、そう自己診断していた。しかし、東京からユーターンした今も、やはり馴染めていない。今は、その理由がわかるような気がする。小心で、狭量 で、頑固者……、自分に似た人間ばかりじゃないか。
 空缶が風で倒されて、地面を転がり始めた。ここはいつだって、風が吹いている。山間を穿ったコンクリートの道が、遠くから風を運んでくる。
 ベンチから立ち上がって、缶を追いかけた。靴底で踏み潰してから、拾い上げた。
(さて、帰るか)
 空缶をゴミ箱に投げ捨てて、頭をガシガシ掻きながら、サービスエリアの裏口から駐車場に出た。高速道路に乗らなくても、サービスエリアの売店や食堂が利用できるようになっている。数少ないお気に入りの場所だった。
 山路を下って、国道に出た。いつものように、コンビニのある交差点を左折しようとしたときだった。道路標識の異変に気づいた。直進すれば島根の松江に出るが、その「松江」の下に、「雨領」という文字が読み取れた。衝動的に直進していた。
「うりょうと読むのか」
 ローマ字名や43という数字が記してある。珍しい地名に、興味を覚えた。
(四十三キロ、車で一時間もかからないな)
 このまま家に帰っても、眠れそうになかった。母親は、朝から上野原病院が経営しているディサービスの施設に行っている。わたしが夜勤明けの日は、そのまま一泊させてもらえることになっていた。
(雨の領地か。梅雨明けする前だったら、ぴったりなんだけどな)
 助手席に投げてある造花に視線をやった。青色の花弁の紫陽花だった。輝児から、オフクロに渡してくれと強引に押し付けられた。
(そういえば、庭に紫陽花があったよな)
 合点した。吉川さんは、自分が丹精こめて世話している紫陽花の花を、輝児にねだったのだろう。今はもう、紫陽花の時期を過ぎている。代用品の造花は、贖罪のつもりか。だとしたら、輝児にも病院を訪問する気持があったということか。
 後ろからクラクションを鳴らされて、ウインカーを点滅させたままだということに気づいた。そのまま路肩に寄せて、トラックを先行させた。
(しかし、あの標識、いつ変えたんだ?)
 一昨日の夕方、帰宅したときは、「雨領」の文字はなかったはずだ。
 カーステレオのスイッチを入れた。入れっぱなしのチャーリー・パーカーが、軽快なリズムを刻み始めた。久しぶりのドライブに、自然と肩がスウィングしている。


6

 314号線を北上して、ぐるぐるとどぐろを巻いた巨大なループ橋を下ると、そこはもう奥出雲の土地だった。しばらく車を走らせると、標識が見えた。三叉路を右折すると雨領だ。距離が表示されていないので、すでに近くまで来ているのだろう。
 トンネルに入った。道幅がさして広くないトンネルなので、すぐに抜けられるだろうと思っていたら、なかなか出口が見えてこない。天井の照明が頼りないので、ヘッドライトを点灯した。ところどころ岩肌が露出している古いトンネルだった。天井から水滴が落ちてきて、フロントガラスに当たって弾けた。
「おいおい、大丈夫かよ」
 配線が老朽化しているのか、黄色味を帯びた照明が点滅し始めた。車のライトがあるので平気だが、トンネルの強度が気になった。こころなしか、道幅も天井の高さも、狭まったような気がする。今、地震でも起きたら……。出口の陽光が見えたときはホッとした。
「雨は……、降っているわけないか」
 川端康成の「雪国」を連想して、苦笑した。トンネルを抜けても、夏の青空が広がっていた。景色も、わたしが住んでいる土地と大差はない。市街地を少し離れれば、長閑(のどか)な山村の生活があるばかりだ。道路脇の畑一面 に、大きな葉のサトイモが植えられていて、朝露の珠がきらきら輝いている。
「すいません、ちょっとお訊きしたいのですが」
 車を停めて、路傍の畦道を歩いている婆さんに声をかけた。姉さん被りの手拭いにモンペ姿、腰がひどく曲がっている。皺だらけの顔が、不安そうにわたしを凝視した。
「雨領はまだ先ですか?」
 落ち窪んだ小さな瞳が、微かにゆるんだ。
「トンネルのこっち側はもう雨領ですが、どちらに行きなさるね」
 返答に困った。雨領を目差して来たものの、具体的な目的があるわけではなかった。
「りゅうじん祭りに来なさったね」
 思わず、そうですと答えた。婆さんが笑顔を見せた。
「りゅうじんさんへは、わしらはあのトンネルの前の道を通って行くんじゃが、はて、車で行くにはどうしたらいいかの。車に乗せてもろうたことはあるんじゃが、自分の足で歩かんと、道も覚えんしな」
 申し訳なさそうに婆さんが言った。
「じゃあ、わたしも歩きますよ。お昼を食べられるような店はありますか?」
 空腹を覚えていた。見渡す限り、コンビニはおろか、自販機の姿もなかった。さして期待していなかったのだが、婆さんが大きく頷いた。
「何件かある。トラコンという茶店(ちゃみせ)がお勧めじゃ。わしは、あそこのカレーご飯が大好物での」
 前歯が全部抜けているので、破顔すると両端の歯が牙のように見える。
(観光客も、けっこう来るのかもしれないな)
 せっかくここまで来たのだから、りゅうじん祭りとやらを見物してみようと思った。
「わたしもカレーは好きですよ」
 婆さんに礼を言って、車をUターンさせた。トンネルの手前の空き地に車を停めて、「りゅうじんさん」への野道に立った。
「ずっとまっすぐ行って、橋を渡ったら、りゅうじんさんだよ」
 婆さんが、精一杯の声を張り上げた。
「ありがとうございます」
 わたしは大げさに手を振って、森の中へと続く道を歩き出した。


7

 鎮守の森なのだろうか。自然林だった。わたしの在所の山林は、ほとんどが植林されている。補助金をばらまいて、檜葉の人工林にしてしまったのだが、木材価格の低迷や過疎化の後継者難で、手入れができずに荒れ放題だ。間引きをせずに、ひ弱な“材木”が密集した森は、昼間でも寒々としている。
 蝉が鳴いていた。油蝉とミンミン蝉のコーラスだ。時雨にはまだほど遠い。夏になったばかりなのだ。
 ゆるやかな下り坂の向こうに、朱色に塗られた欄干が見えた。橋の袂(たもと)に立つと、意外と大きな湖だった。湖面 まではかなりの距離がある。橋の長さも相当なものだ。
(龍人さん、だったんだな)
 欄干の両端に、「龍人祭り」と染め抜かれた幟が結わえ付けられている。龍神だとばかり思っていた。
 橋の中ほどに、黄色い野球帽を被った少年が、欄干から身を乗り出すようにして、碧色の湖面 を眺めている。小学校の三四年生ぐらいか。
「泳ぐには、まだちょっと早いな」
 話しかけた。思いつめたような表情が気になっていた。
「龍人湖じゃ、誰も泳がないよ。夏でも水が冷たいし、バチ当たりだって神主さんに怒られるもの」
 振り返りもせずに言った。
「じゃあ、身投げか?」
 さすがに驚いて、くりくりした目でわたしの顔を見た。
「身投げって、自殺のこと?」
「スゴイ! 子供のくせに、そんな言葉、よく知ってたな」
 大げさに驚いて見せた。
「おじさん、頭、おかしいんじゃない」
 ようやく笑顔を見せてくれた。
「ほんとはちょっぴり、飛び込もうかと思ったんだ」
「父ちゃんと母ちゃんが悲しむぞ」
「父ちゃんはいない!」
 声を荒げた。
「それにぼく、泳げるから、溺れやしないよ」
「神主さんに怒られるんだろ?」
「だけど、走るよりはマシさ」
「走る?」
「うん、龍人駅伝、地区対抗で走るんだ。子供から六十過ぎの爺ちゃんまで、六人の代表を選んでね。ぼくは、商店街チームのメンバーで、子供の部の代表なんだ」
 なるほどと頷いた。神聖なる龍人湖を汚したバチ当たりな子供を、龍人祭りの行事に参加させるわけにはいなかいだろうという計算なのだろう。
「しかし、この暑い時期に駅伝かい?」
「龍人さんは、水の神様なんだ。詳しいことはわかんないけど、雨乞いのお祭りなんだって。以前は水の乏しい土地だったんだけど、日照りのときに龍人さんにお願いしたら大雨が降って、龍人湖ができたらしいよ」
 たぶん時期的に、空梅雨の旱魃があったときなのだろう。
「走るの、苦手なのか?」
 少年がコクンと頷いた。
「お母さんは、毎日少しずつ走る練習をしておきなさいって言うんだけど、長続きしないんだ」
「なんでこんな苦しいことしなくちゃいけないんだと、馬鹿馬鹿しくなるんだよな」
 そうそうと少年が相槌を打った。
「去年は走らなかったの?」
「走ったけど、まだ五年生だったからね。相手も同級生や六年生が多かったら、負けても仕方がないと思ってたけど……」
「下級生に負けたら、恥ずかしいよな」
 少年が下を向いた。六年生にしては、華奢で小柄だった。
「好きな女の子がいるんだろ?」
 図星だったようだ。少年の顔が真っ赤になった。こっちの理由の方が本命か。駅伝の競争相手の中に、恋のライバルがいるのかもしれない。
「君の替わりはいるのかい?」
「乾物屋のショータ……、だけどまだ三年生なんだ。商店街は、人が少ないから」
「じゃあ、自分で走るしかないな」
「そうなんだ……」
 消え入りそうな声だった。
「気持はわかるよ。おじさんも、走るの遅かったからね。運動会がいちばん、嫌だった」
「ビリだったの?」
「いや、ビリから二番目だ。ひとり、どんくさい子がいてね。その子がいつもダントツのビリ。だから、運動会の日は心配で仕方がなかった。その子が学校に来ているのを見ると、ホッとしたよ」
「その子、一度も休まなかったの?」
「ああ、一度もない。体育のときも、ちゃんと出ていた」
「強い子だったんだね」
「そうだな」
 わたしの方は、体育の体力測定のときに一度だけ、仮病を使って休んだことがある。罪悪感に苛まれて、あとでひどく後悔した。
「友達だったの?」
「いや、ほとんど話をしたことはなかったな」
「どうして? その子が嫌いだったの?」
 非難するような目でわたしを見た。
「たぶん、おじさんの方に負い目があったんだな。そんなことを考えている自分が嫌だった。だから、そばに近づけなかったんだと思う」
 納得した顔ではなかった。しばらく、お互い黙っていた。
「よし、おじさんが、早く走れる方法を教えてやるよ」
 唐突に宣言した。
「えー、だっておじさんも、走るの苦手だったんでしょ?」
「それは、小学生のときの話さ。高校のときは陸上部だったんだ。大会でも、優勝したことがあるんだぜ」
 陸上といっても、やっていたのは投擲競技の槍投げだ。競技人口が少ない方が有利だと思った。優勝した大会も、新人の地方大会で、参加者が三人だけだった。
「ほんとに早く走れるの?」
 声も顔も半信半疑だ。
「まあ、騙されたと思って試してみるさ。身投げするよりは、マシだろ?」
 少年が渋々、頷いた。


8

 少年の名前は、サトシと言った。サトシと一緒に、橋を渡って潅木の林を抜けると、龍人神社の裏手に出た。サトシと別 れて、参詣した。お水場で、青銅の龍の口から流れ出る水で手を清めた。ひんやりして気持よかったので、竹の柄杓で口に運んだ。甘露だった。
 小銭入れを開けると、キラキラと輝いている硬貨が目に付いた。平成18年、今年の五円硬貨だ。賽銭箱に投げ入れて、ガラガラと鈴を鳴らした。
(欲張りすぎだな)
 自分の母親や入院患者の快復祈願、サトシの駅伝のことまで頼んでやった。社にかけてある巨大なしめ縄は、両端が細工されていて、龍の頭と尻尾になっている。
(しかし、どうかしている……)
 サトシとのやりとりを思い返した。どちらかというと人見知りの性格で、初対面 のサトシと、あれだけ打ち解けて話した自分が信じられない。夜勤明けのハイテンションが、まだ続いているのだろうか。眠気はまるで覚えない。
 息子の健一のことを思った。いつから、話をしなくなったのだろう。サトシの体形や面 影が、小学生のときの健一と、どこか似ていた。あの頃はまだ、近所の公園でよくキャッチボールをしていた。
 境内は、夜店の屋台が並んで、かなり賑やかだった。丸の中に「龍」という文字が入った半纏が目に付く。豆絞りの生地が、雨領らしい。まさしく、水玉 模様だ。浴衣姿の女性も多かった。
 参道の石段を下ると、両サイドの土手に紫陽花が植えられている。わたしの背丈を越える木に育っていて、群生しているといった迫力だった。しかも、不思議なことに、花が枯れていない。まるで、輝児から預かった造花のように、青々とした花を咲かせている。特別 種だろうか。ひとつ切り取って、吉川さんのお土産にしたいという誘惑に駆られたか、そんなバチ当たりことをしたら、せっかくの参拝が台無しになる。
 ご大層な朱色の大鳥居をくぐると、小ぢんまりとした商店街の通りに出た。歴史を感じさせる古風な建物が連なっている。軒先に吊るした祭提灯が、よく似合っていた。
(純喫茶「ドラゴン」、たぶんここだな)
 しかし、準備中の札が、ドアにぶら下げされている。
(少し待ってみるか)
 店の前の花壇に、紫陽花の花が咲いていた。参道の紫陽花よりも一段と青の強い、寒々とした花弁だ。
「かなしみは、かたまり易し濃紫陽花……」
 自然と、知っている句が、口をついて出た。
「きれいな句ですね」
 振り返ると、豆絞りの半纏を着た女性が立っていた。長い髪を藤色のスカーフで、ポニーテールに束ねている。裾の広がったパンタロンタイプのジーンズを穿いている。年齢は三十代の半ばぐらいか。
「でも、ちょっと寂しい響きですね。あなたの句ですか?」
「とんでもない! わたしがそんな風流人に見えますか? 作者は、岡田日郎という俳人です」
 大きな瞳に、いたずらっぽい輝きが宿った。
「十分に見えますよ。文学青年に」
 わたしは苦笑を浮かべた。文学青年などというゆかしい言葉を、久しぶりに耳にした。
「この紫陽花は、どうしてこんなに花が長持ちしているんですか? 特別な種類なんでしょうね」
「詳しいことは知らないけど、たぶん違うと思います。ここの紫陽花を珍しがって、他の土地に植えた人がいるんですが、やはり梅雨時しか花がもたなかったそうです。雨領の気候や土地が関係しているんでしょうね。夏でも涼しいし、地下水や湧水が豊富だから、土地が乾燥しないんです」
 彼女が紫陽花に視線をやった。
「でも、この紫陽花も、もう終わりです。しばらく前は、ピンク色の花だったんですよ。それが紫になって、段々と青が強くなる」
 わたしの顔を見た。
「なんだか、かわいそうになってきました。悲しみをいっぱい溜め込んで枯れて行くようで」
「あなたの方が、よっぽど文学少女だ」
 互いに笑った。
「コージ君、だよね?」
 いきなり名前を呼ばれて驚いた。確かにわたしは、篠原浩司だ。怪訝な顔で頷いた。
「やっぱりそうだ。小学校のときに一緒だったんだけど、覚えてないかな?」
 マジマジと彼女の顔を見た。確かに、どこかで見たような気がする。しかし、小学校の頃の記憶は、かなり風化してしまっている。
「名前は?」
「ミカゲサヨ、今は、イエナガサヨだけどね」
 ミカゲサヨ、ミカゲサヨ、ミカゲサヨ……、頭の中で何度も復唱したが、何も浮かんでこない。
「ごめん、思い出せない。でも、あなたがわたしと同い年には見えないけど」
「童顔だから、いつも年より下に見られるの。コージ君だって、そうなんじゃない?」
 その通りだ。若い頃は、それがコンプレックスだった。
「でも、ちょっと残念。あたし、コージ君のこと、憧れてたんだよ」
 いたずらっぽい瞳でわたしを見た。すっかり彼女のペースに乗せられている。ひょっとして、からかわれてる?
「ところで、ドラゴンに何か用かしら?」
 彼女はそう言って、ドアの掛札をひっくり返して、「営業中」にした。
「君の店なの?」
「そう、あたしと家族のね」
 やんわりと訂正した。
「ある人から、トラコンという茶店のカレーご飯がおいしいと勧められてね」
「ああ、歯っ欠けのオヨネ婆ちゃんね」
 八重歯とエクボが現れた。


9

 鏡の中の顔を睨んだ。最近は、鏡やガラスに映る自分の姿を見るのが辛くなっている。今日の顔は、悪くない。どういうわけか、白髪染めでかぶれた頭皮の痒みも治まっている。
 テーブルに戻ると、カレーライスの皿が置いてあった。カレーの香ばしい匂いに、空腹を自覚した。夜中の三時に、夜食のカップラーメンを食べたきりだった。
(うん、うまい!)
 懐かしい味がした。インスタントのルーではなくて、カレー粉を使った母さんの具沢山カレー……、もちろん、味はずっと洗練されている。
 あらためて、店内を見渡した。簡素なつくりだが、古い家屋の重厚さをうまく活かしている。年代もののジュークボックスや白黒テレビは、今はやりの昭和レトロのコンセプトか。壁には、昔のアイドル歌手のポスターが貼られている。店内の雰囲気になじんでいて、あざとは感じない。
 サイフォンで淹れた食後のコーヒーを味わっているときに、豆絞りの水玉半纏を着た一団が、どやどやと入って来た。
「ごめんなさい、コージ君、相席でもいいかしら」
 サヨさんに頼まれた。わたしの前に坐ったのは、イガグリ頭の、体のがっちりした男だった。年齢は四十前後か。髭剃りあとが青々としていて、あちこちに剃刀負けの傷跡が残っている。日焼けなのか酒焼けなのか、顔色が赤黒い。
 ジュークボックスから、ゆるやかな曲が流れ始めた。聞いたことのあるメロディだと思っていたら、ザ・タイガースの「花の首飾り」だ。
「今日は、観光ですか?」
 話しかけられた。。
「駅伝を見ようと思いましてね」
 サトシの走りを見届けるつもりだった。
「おサヨさんと……、知り合いのようですね」
 友好的な視線ではなかった。
「小学校のときの同級生……、らしいです」
「覚えていないんですか?」
「残念ながら」
「おサヨさんに会いに来たんじゃないんですか?」
 まるで尋問だ。
「偶然ですよ。昼飯を食べに寄ったんですが、サヨさんに小学校の同級生だと言われて驚きました」
 男の表情がようやくゆるんだ。
「サヨさん! サヨさん!」
 店の奥の方から、怒鳴るような声が聞こえた。サヨさんが大声で返事をして、急いで濡れた手をタオルで拭った。
「少し待ってくださいね」
 客にひと声をかけてから、カウンターの奥にある暖簾の向こうに姿を消した。
「あの意地悪婆さん、おサヨさんのことを、女中かなんかだと勘違いしてやがる」
 目の前の男が憤(いきどお)った。
「姑さんですか?」
 男が頷いた。
「心臓の病気を患っていてね。足が萎えて、寝たきりなんだ。ああしていつも怒鳴ってばかりで、おサヨさんもよく我慢してるよ」
「旦那さんは、何も言わないんですか?」
 しばらく間が空いた。
「亡くなったんだよ。女ができて、駆け落ちしてね。大阪の方で暮らしていたようだが、仕事先の工事現場から転落したらしい。ヒロキさん、酒に弱い人だったから、昼間から飲んでいたんじゃないかな」
 わたしがコーヒーを飲み終えた頃に、サヨさんがカウンターに戻って来た。
「カンジさん、あたしのこと、コージ君に告げ口してるんじゃないでしょうね」
 カレーライスを運んで来たサヨさんが、男の顔をにらんだ。でも、瞳は笑っている。
「おれの口は、そんなに軽くないですよ」
「だといいんだけど」
 彼女が離れてから、男が顔を近づけて囁いた。アルコールの熟した臭いがした。
「ここの婆さん、自分の息子が駆け落ちしたのは、嫁のせいだと思っているんだ。サヨさん、ヒロキさんの体を心配して、家では酒を飲ませないようにしてたからね」
 男が、あわててカレーを食べ始めた。サヨさんが頬をふくらませて、メッとばかりに、にらんでいた。
 ザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」が流れているときだった。見事なヤギ髭をたくわえた爺さんが、勢いよく店内に入って来た。
「おサヨちゃん、大変だ。電気屋のサンノウ君が入院した」
 慌てた口調で報告した。
「どうして? 昨日まではピンピンしてたじゃない」
「急性の盲腸炎らしい」
「しょうがないなあ。靴屋のヤマサキさんは、まだ無理なのかな?」
「去年の駅伝で腰を痛めて、まだコルセットをはめてるからね。去年も、奥さんにえらい剣幕で怒られたから、とても頼めないよ」
「じゃあ、壮年部で走る人がいないじゃない」
 サヨさんが嘆息した。
「こりゃ、今年の商店街チームは、棄権だな」
「それとも、おサヨちゃんが走るかい?」
 客の中から、茶々が入った。
「あたしが走れるんだったら、とっくに走ってるわよ。だいだい、今の男女同権の世の中で、女が参加できないっていう方がおかしいわよ」
 店内を見渡して、声を張り上げた。そのとき、サヨさんとわたしの視線が交錯した。
「そうだ、コージ君、高校のときは陸上部だったわよね」
 わたしは、怪訝な顔で頷いた。
「走ってくれないかな。コージ君が出てくれたら、商店街チームも参加できるの。お願い!」
 両手を合わせて頼まれた。
「おいおい、部外者に助っ人を頼むのは、規則違反だぜ」
 くわえ煙草の客の非難に、その通りだとわたしは頷いた。
「部外者なんかじゃないわよ。コージ君は、あたしの婚約者なんだから」
 エッとばかりにサヨさんの顔を見た。いたずらっぽい瞳でウインクされた。カンジという男が、剣呑な顔でわたしをにらんでいる。
「コージ君は速いわよ。国体に出たこともあるんだから」
 話がどんどん膨らんでいる。
「サヨさん、ちょっと待って……」
 抗議しようと思ったときに、ドアが開いた。黄色い野球帽を被った少年が入って来た。
「母さん、ただいま。あれ、おじさん、どうしてここにいるの?」
 サトシの顔を見た途端、何も言えなくなってしまった。


10

「なんで、こんな格好をしなきゃならんのだ」
 自問がつぶやきになった。白い小袖に紅袴、足には白い足袋をはいて、巫女さんの格好をさせられている。
「だから、走るのがいやだと言ったんだよ。こんな格好で走って、ビリになっちゃ、本当に格好悪いでしょ?」
 小柄で華奢なサトシは、巫女さん姿がけっこうサマになっている。
「女が参加できないのに、男が女装しなくちゃいけないなんて、間違ってないか?」
「ぼくもわからないよ。歌舞伎と同じようなもんだって、神主さんが言ってけど……」
 妙に納得してしまった。
(そういえば、うちの田舎の神楽も、男ばかりでやってたな)
「以前は、カツラを被って白粉(おしろい)まで塗ってたんだから、まだマシだよ。みんな嫌がって、参加するチームが少なくなったから、強制じゃなくなったんだ」
 古式を遵守して、顔に白粉を塗っているチームもいるようだ。部屋には巫女さんが溢れている。駅伝の参加者全員が、神社の拝殿の間に集合していた。
「君のお母さんは、どうしてあんなに駅伝に熱心なんだろう」
 少し間が空いた。
「よくわからないよ……」
 鬱屈のある声だった。
 さすがのサヨさんも、宮司の前では婚約者などという戯言(ざれごと)は言えなくて、ドラゴンのアルバイト店員ということでわたしの参戦を認めてもらった。それで、ドラゴンでの食事代はすべて、無料になった。
 サヨさんの話では、他のチームもメンバーが足りないときは、親類縁者を騙って助っ人を呼んでいるのだという。神社も黙認している。過疎化が進んで、そうしなければ人が集まらなくなってしまったのだろう。
「ところで、この石、本当に効果があるの?」
 サトシが、両手に握った石を見せた。わたしが境内で見つけた石だった。
「大丈夫だよ」
 たぶん、と心の中で付け加えた。
 テレビで、足が速くなる方法というのを見たことがある。ゴルフボールを一個ずつ握って走ると、腕がよく振れて遠心力が生まれ、足の上下動に力が入るのだという。それにひと工夫くわえて、角ばって歪(いびつ)な形の石を選んだ。その鋭い角が、掌に集まっているツボを刺激して、精神を興奮させ疲れを取り去ってくれる……、そんなことを考えた。さらに、だ。神社のお水場で石を清めたので、龍人さんの加護がある、かもしれない。
 ひとつ気にかかることがあるとすれば、その方法が運動会の徒競走用だということだ。まあ、走ることに違いはない。これは神事なのだから、争いではなく参加することに意義がある、そう自分に言い聞かせた。
 肩を軽く叩かれた。振り返ると、白髪頭の巫女さんが笑っていた。
「洗濯屋のミヤチです。あんた、国体で優勝したんだってね。おチヨちゃんも、凄い助っ人を連れて来たもんだ。こりゃ、久しぶりに優勝も狙えますな。大いに期待してますよ」
 話がどんどん大きくなっている。龍人橋から身投げしたくなってきた。
 盛装した宮司が、祝詞(のりと)を上げ始めた。


11

「あんた、おサヨさんの婚約者だっていうのは、真っ赤な嘘なんだってな」
 白塗りの巫女さんに話しかけられた。真っ赤な唇をした顔は、足抜けに失敗して折檻死した女郎の怨霊、といった不気味さだ。赤い襷(たすき)をかけている。わたしは青い襷だ。チームごとに色の違う襷を使っている。そうでもしなければ、チームが見分けられない。
「失礼ですが、どなたですか?」
「キッカワだよ。キッカワカンジ、ドラゴンで一緒にカレーを食っただろ?」
 口調が荒いのは、お神酒(みき)が入っているせいか。
「みんな、サヨさんにからかわれたんですよ。まさか、本気にしたんじゃないでしょうね」
 カンジが言葉に詰まった。
「好きなんですね。サヨさんのことが」
「ああ、そうだよ。悪いか」
 開き直った。
「告白したんですか?」
「ああ、もう三回、プロポーズしてるよ」
「結果は……、聞くまでもないか」
「あんたはどうなんだよ。好きじゃないのか?」
 カンジの言葉を自問してみた。
「わからないな。今日、会ったばかりですからね。でも、とても魅力的な人ですね」
「小学校の同級生なんだろ?」
「残念ながら、サヨさんの勘違いだと思います」
 そのとき、自転車に乗った小さな巫女さんの姿が目に入った。大人用の自転車で、サドルに腰掛けることができないで、中腰のままペダルを漕いでいる。
「おじさん、やったやった、五位だったよ」
 サトシが大喜びで報告した。九チーム参加しているから、ちょうど真ん中だ。
「この石、凄いね。ありがとう」
 小袖の胸の合わせから、二つの石を大事そうに取り出して、わたしの前に差し出した。
「じゃあ、借りておくか。あとで返すからね」
 サトシが頷いて、自転車に乗って帰って行った。
「この野郎、卑怯だぞ」
 カンジが声を張り上げた。目が充血して、まさに怒れる怨霊だ。
「ただの石ですよ。気休めのようなもんです」
「そんなことじゃあねえ。子供を手なずけるなんて、卑怯じゃねえか」
「ああ、そういうことですか」
 将を射んと欲すればまず馬を射よ、そう思われたのだ。
「でも、サトシと知り合ったのは、サヨさんに会う前なんですよ」
「うるせえ。勝負しようじゃないか。おサヨさんを懸けて、この駅伝で勝負だ」
「彼女の許可も得ないで?」
「そんなことあ、どうでもいいんだ。これは、あんたとおれの勝負だ。男と男の勝負なんだよ」
「なんだか、一方的な気がするなあ」
「この野郎、逃げるのか?」
 カンジの剣幕に気圧されて、曖昧に承諾してしまった。
(勝負と言ったって、やりようがないじゃないか)
 タイムを計るような正式な駅伝ではない。スタートから走る子供の部と違って、カンジのチームと商店街のチームが同時に中継点に飛び込んで来ない限り、タイマン勝負にはなりえない。
(それとも、後ろから追い上げて、おれを抜き去るつもりか)
 それも、杞憂だった。老年部のランナーの姿が見えてきた。白粉を塗って、赤い襷をかけた「雨領山越」チームがトップを走っている。
「壮年部のランナーは、そろそろ準備してください」
 世話役が声をかけた。中継点のスタートラインに、巫女さんたちが集まって来た。
「雨領山越、準備いいですか?」
 世話役の声に、カンジが手を挙げて応えた。
 やがて、化粧が剥げて壮絶な顔になった皺だらけの巫女さんが、中継点に走り込んで来た。
「カンジ、あとは頼んだ」
 勢いに任せて、肩をドンと叩いた。体が接触することで、リレーは成立する。物品ではなく本当の赤心を、世代を越えて永久(とわ)に受け継ごうという深遠な意味があるらしい。しかし、カンジは走らない。突っ立ったままだ。
「カンジ、どうした? はよう走らんかい!」
 荒い息で、山越の老人が怒鳴った。
「もうちょっと待ってくれや。今、精神統一しとるから」
「冗談ぬかすなよ。わしがせっかく先頭でつないだのに」
「すまん、おれの一生がかかってるんだ。絶対にトップでゴールするから、おれのワガママを許してくれや」
 リレーしたランナーが、次々とカンジとわたしを置き去りにして行く。
「無茶をするなあ」
「ああ、大馬鹿だよ」
 互いに、顔を見合わせて笑った。
 洗濯屋の巫女さんが、ヨロヨロと歩くような足取りで中継点に入って来た。七番手まで落ちている。いちばん距離が短いとはいえ、老人には辛い競技だ。中継ラインを越えると、その場にへたれ込んだ。その肩を、ご苦労さんと軽く叩いて、わたしは走り出した。
「よし、勝負だ。死に者狂いで、付いて来いやー!」
 カンジが咆哮して、猛然とダッシュした。
(あんな走りで、最後まで持つはずがない)
 そう思いながらも、赤い襷の背中を懸命に追いかけていた。すぐに息が上がった。袴が足に絡み付いて走り辛い。全身から汗が噴き出した。脇腹も痛くなってきた。もう何年も、ろくな運動はしていないのだ。
(無茶はおれだ。四十六歳だぞ。このまま走り続けたら、死ぬな)
 夜勤明けで一睡もしていないということを、今さらのように思い出した。
(駄目だ、息ができない……)
 足を止めようとしたときに、カンジが振り向いてニヤリと笑った。この日のために、おそらく袴をはいて、トレーニングしてきたのだろう。サヨさんにいいところを見せるために……。先行するランナーをどんどん追い抜いて行く。少しぐらい遅れても、逆転する自信があったに違いない。
(大馬鹿野郎は、このおれだ)
 はめられたという悔しさで、拳を握り締めた。石の角が皮膚に食い込んで、その痛みで一瞬、息苦しさを忘れた。こいつには負けられないという闘志が湧き上がった。
(リズムだ。大きく手を振って、リズムを刻むんだ)
 神経を拳に集中した。拳を大きく、そして速く振ることだけを考えた。
「やるじゃねえか」
 いつの間にか、カンジと並走していた。
「これからが本番よ」
 カンジがカツラを投げ捨てた。ギア・チェンジして、スピードがアップした。坊主頭の巫女さんの背中がジリジリと離れて行く。
(ここまでか)
 視界がぼやけてきた。足の感覚がなくなっている。限界をはるかに超えていた。
「コージ君!」
 サヨさんの声だ。ハッとして目を見開くと、頭上から大量の水が降ってきた。駅伝コースの両端に陣取った氏子たちが、用意した桶の水をランナーにぶちまける。龍人湖の水で心身を清める「流水汚清の儀」だ。
「龍の力水よ」
 サヨさんが差し出した竹柄杓の水を、飲み干した。冷気が、いや、霊気が満身に染み渡った。ガス欠で気息奄奄だった心身に、新鮮なパワーが満ちた。
(走れる!)
 猛然とスパートした。自分の体ではないような気がした。ロートルの軽自動車が、ハイオクを燃やして走るスポーツカーに変身したようなものだ。坊主頭がどんどん近づいてくる。一気に抜き去った。
「冗談じゃねえぞ」
 カンジが懸命に追いついて、顔を歪めて並走する。
「おれは一年前から、この日のために準備してきたんだ」
 涙声になっている。
「なんでだよー!」
 絶叫した。
「神様に訊いてくれよ」
 カンジの罵声を背中に浴びながら、さらに加速した。龍人橋を渡ると歓声が聞こえた。万雷の拍手を浴びながら、参道の石段を一気に駆け上がる。登りきったところが駅伝の終点だ。
(やった!)
 両手を突き上げた。体の中に風を感じた。何かが、去って行った。全身の力が萎んだ。その場にへたれ込んで、大の字に転がった。どこまでも青い空が続いている――。


12

 笛や太鼓のお囃子に、体が自然と反応している。
(ジャズとセッションしたら、おもしろいステージになるかもしれないな)
 神社の裏手が神楽殿になっていて、地元の神楽団が舞台に上がっていた。両端の二対のかがり火が、満天の星を焦がすように、パチパチと炎を爆ぜながら燃え盛っている。客席は、地べたにゴザを敷いただけだが、空きはほとんどなくて、熱気に包まれている。客席の背景の湖水は、満月の明かりを吸収して、たおやかに輝いていた。
 舞台の演目は、雨領地方だけに伝わる「龍神夜叉」、神社が配布しているパンフレットによると、雨領という地名も、雨龍が語源になっている。
 地方の豪族の姫君だった紅葉姫(もみじひめ)は、嫁ぎ先の城主の裏切りにあって、山中深く落ち延びる。政争の道具に利用され、自分の夫に生家の一族郎党が滅ぼされたのだ。修験の山に篭り、妖術を身につけた紅葉姫は、山越峠に住み着いて、旅人を襲って喰らう鬼女に成り果 てていた。その血塗られたような顔面(かおおもて)から、村人は紅夜叉(べにやしゃ)姫と呼んで恐れた。
 ある日、山越峠に見目麗しい若者が通りかかった。紅夜叉姫は、若者を言葉巧みに酒宴に誘い、毒を盛って殺そうとするが、その若者は龍神の化身だった。鬼女の本性を現した紅夜叉姫と、龍の姿に変身した若者が、壮絶な戦いを繰り広げる。やがて、敗北を認めた紅夜叉姫は、今までの殺生を悔いて命乞いをする。本性を善也と認めた龍神は、一夜の契りを与えてこの地を去る。それまでが「龍神夜叉」の物語である。
 龍神の子を身ごもった紅夜叉姫は、三日三晩苦しみぬいて、龍神と人間の血を受けた「龍人」を産み落とす。そのときの苦吟の涙が池になったという。精魂尽き果 てた紅夜叉姫は、落命した。村人は、池の辺(ほとり)に祠を建てて、紅夜叉姫を供養して、龍人を大切に育てた。しかし、時代が経つにつれて、「龍神夜叉」伝説は忘れ去られ、紅夜叉姫の祠も供養する人もなく朽ち果 てた。龍人の子孫も四散して、行方知らずになっていた。
 龍人の子孫を名乗る山伏が姿を現したのは、この地方が未曾有の大旱魃に襲われたときだった。空梅雨で一滴の雨も降らず、河川は枯れ、田畑は荒れ果 てた。山伏は、かつて紅夜叉姫の祠のあった場所で、三日三晩、不眠不休で祈祷した。雨雲が空を覆い隠し、豪雨が三日三晩ふり続いた。そのときにできたのが龍人湖である。山伏は入水(じゅすい)して自らを人柱とすることで、この土地の守り神となった。龍人神社の起源である。

(あれは……、本当のことだったんだろうか)
 サヨさんの横顔をそっと眺めた。
 駅伝が終わったあとで、ドラゴンの奥の住居で五右衛門風呂に入り、仮眠を取らせてもらった。
 二時間も寝ていただろうか。目が醒めたとき、視線を感じた。すぐ近くにサヨさんの顔があった。添い寝するようにして、わたしの顔を眺めている。ポニーテールの髪を解いて、浴衣を着ていた。
「おはよう」
 サヨさんがささやくように言った。
「カンジさんと、懸けをしたんだってね」
 大きな瞳に、いたずらっぽい輝きが宿った。
「賞品を、まだ受け取っていないわよ」
 石鹸の香りが、鼻腔を満たした。

 両手に、いや、全身に、サヨさんの体を抱いたときの感触が残っている。しかし、なぜかあの至福の時間が、遠い昔の出来事のように思えて仕方がない。寝ぼけていたのだろうか。今ここで、手を伸ばしてサヨさんを抱き寄せたいと思った。サヨさんの心と体を確認したい……。
 神楽囃子のリズムが激しくなった。いよいよ、クライマックスを迎える。朱に染まった鬼女面 の紅夜叉姫と、龍神との戦闘シーンである。龍神の頭は、ヤマタノオロチの頭部とよく似ている。流用しているのかもしれない。いわば、悪役の大スター同士が対決するという豪華版なのだ。鬼と龍の乱舞は、紅夜叉姫の華麗な衣装もあいまって、優美で迫力があった。
 龍神の胴体に締め上げられた紅夜叉姫が、ガクリと頭(こうべ)を垂れた瞬間、早変わりで可憐な娘へと変貌する。
 サヨさんがかぶりを振って、わたしを見た。
「昔も今も、女は変わらない……。男次第で、夜叉にも天女にもなるんだから」
 別れた妻の顔が脳裏をよぎった。何も答えることができなかった。


13

「サヨさん! サヨさん!」
 叱責するような声が、家の中に響いた。最初は放っておいたのだが、サヨさんの名前を呼ぶ声は、苛立ちを増すばかりだ。
(何かあったのかもしれないな)
 仕方なく、廊下を渡って奥の部屋に向かった。建物は相当な旧家だ。
「すいません、中に入ってもいいですか?」
 襖の向こうに声をかけた。しばらく間があって、「どなたですか?」という怪訝な声が聞こえた。
「篠原と申します。サヨさんのご好意で、今晩、泊めていただくことになりました」
「ああ、小学校のときに同級生だった方ね」
 バツの悪い思いをした。サヨさんの年齢が三十九歳だということを、サトシに訊いて知っていた。七歳も年が違う者が、同級生だったはずはない。何か騙していたようで、サヨさんには言い出せないでいる。
「失礼します」
 襖を開けて中に入った。八畳間の中央に、布団が敷かれて老女が横になっている。促されるままに、布団の傍らに座布団を敷いて正座した。
「サヨさんは、商店街の寄り合いに行ってます。サトシ君は、子供会の行事が長引いているようですね」
 老女が頷いた。癇の強い意地悪そうな顔を想像していたが、上品で穏やかな顔をしている。年齢は六十代の半ばくらいか。まだ十分に、女性としての魅力があった。
「あなたは留守番ですか?」
「サヨさんに誘われたんですが、賑やかな場所は苦手でしてね」
「みなさん、残念がるでしょうね。今日の駅伝では、大変な活躍をなさったそうですね」
 気さくでやさしい物言いだった。駅伝の話題で、しばらく談笑した。商店街のチームが参戦したのは、五年ほど前なのだという。その世話役としてチームの中心になったのが、この老女の息子、つまりサヨさんの旦那だった。
「仕事よりも、道楽の方が熱心でしてね」
「喫茶店は、いつからやられているんですか?」
「もう六年になりますか。うちは昔から、味噌の商いをしていたんですよ。でも、あの子は子供のころから味噌の匂いが嫌いでしてね。父親が死んであとを継いだら、さっさと商売替えしてしまいました。一人息子だから、甘やかせて育ててしまったのかもしれません」
 話し相手に飢えているのか、他人だから気軽に話せるのか、会話が弾んだ。
「篠原さんは、どんな仕事をしているんですか?」
「病院で働いています。お年寄りの専門病院でしてね。入院している方のお世話をさせていただいています」
「まあ、立派な仕事をされているんですね」
「実は、自宅でも母親の介護をしていましてね」
 言うべきではないとわかっていた。
「失礼ですが……、もしよろしければ……、下着を取り替えさせていただけませんか?」
 言ってしまった。老女の顔が強張って、色白の頬が赤く染まった。現実を締め出すように、眼と口を固く閉ざした。
「臭いますか?」
 消え入るような声だった。
「すいません。余計なことを言いました。職業病ですね。サヨさんが帰ったら、すぐにこちらに来るように伝えます」
 立ち上がって、部屋を出て行こうとした。
「バケツは、お風呂場にあります。お風呂の場所、わかりますか?」
「あ、わかります。すぐにお湯を持ってきます」
 わたしは小走りに、風呂場に向かった。


14

 必要なものは、箪笥の引き出しに、きちんと整頓されて収納されていた。ただ、古新聞だけが見当たらなくて、老女の許可をもらって、今日の新聞を使わせてもらうことにした。
 老女は、使い捨ての紙オムツではなくて、防水性のオムツカバーを着用していた。質素倹約の躾が、体に染み付いているのだろう。
(きれいな肌だな)
 汗疹(あせも)や湿疹などの肌のトラブルは見当たらない。こまめにオムツ交換や、肌の洗浄をしてもらっているからだろう。肌の状態を見れば、家庭での介護の様子がわかるような気がする。
「とてもいいウンチが出てますよ」
 言った瞬間、しまったと思った。つい職場の癖が出てしまった。
「そんなにいい形をしていますか」
 明るい声に救われた。
「便秘で苦しむ患者さんが多いんですよ。運動不足だったり、いきんで便を出す力が弱くなると、どうしても便が詰まってしまいます。仕方がないので、薬を飲んだり坐薬を入れたりして無理やり出すんですが、患者さんも辛いですからね」
 さすがに、指を入れてほじくり出すこともあるとは言えなかった。
「ですから、便のにおいがしたときは、ホッとすることがあります。いいウンチが出たときは、患者さんも我々も、大喜びです」
 少し誇張して話した。
  固形の便なので、処理も簡単だった。ちり紙で拭って、お湯を絞ったタオルで丁寧に拭いて、乾いたタオルで空拭きした。オムツカバーも吸収パッドも、新しいものに取り替えた。
「終わりましたよ。お疲れ様でした」
「ありがとうございました。少し、自信が持てました」
「自信、ですか?」
「わたし、施設に入ろうかと思っているんですよ。わたしは雨領で生まれ育ったので、知らない土地に行くのが不安でしたが、職員の方はみなさん、篠原さんのような専門家の方ばかりなんですよね。安心して、お世話になることができます」
 驚いた。
「サヨさんは知っているんですか?」
「反対しています」
「だったら……」
「これ以上、サヨさんのお荷物になりたくないのです」
 気持は、よくわかる。
「ポックリ死ねたら、いちばん良いんですけどね」
 寂しい笑みを浮かべた。
「うちの母親も、よく言ってました。ポックリ死にたいって。でも、世の中、そんなに都合よくはいかないですよね。うちの母親も、今は寝たきりです」
 つとめて明るく言った。
「でも、わたしは救われました。親不孝ばかりしてきましたから」
 母親にとって、今の情況が幸せなのかどうかは自信がない。死んでいた方がよかったと思っているのかもしれない。しかし、病院で患者さんたちと日々、接しているうちに、そんな感傷的な思いは霧散した。まだ寿命が尽きていない――、ただそれだけの理由で、人間は生きられる、いや、生きねばならない。たとえ消える寸前の微かな灯火(ともしび)であろうと、最後まで自分の生を全うするだけで、凄いことだ、尊いことだと思えてくる。
「それはやっぱり……、本当の親子ですから……」
「母親が入院している頃は、頭がぼんやりして、ろくに会話もできませんでした。ほとんど笑ったこともありません。それが、自分の家に戻ってからは、徐々に昔のことを思い出して、ぽつりぽつりとですが、話をしてくれるようになりました。今では、よく笑ってくれます。やっぱり、慣れ親しんだものに囲まれて暮らすと、安心できるんでしょうね。わたしが働いている病院にいる患者さんも、みんな、家に帰りたい人ばかりです。たとえ、家で待ってくれる人が誰もいなくても」
 かなり誇張した。何にでも、例外はあるものだ。
「サヨさんが嫌いなんですか?」
「そんなことはありません」
 即座に否定した。
「サヨさんはよくやってくれています。うちのろくでもない馬鹿息子には、もったいないぐらいの過ぎた嫁です」
「だったら……」
「だから余計に、この家長の家にしばりたくはないのです。息子のことで、サヨさんにはずいぶんと辛い思いをさせました。その上、わたしがこんな体になってしまって……。サヨさんはまだ若いのだから、これから人生をやり直すことができます」
(それで、意地悪婆さんを演じていたわけか)
「篠原さんのところでは、ご家族でお母様の世話をされているんでしょうね」
「一緒に暮らしているのは、わたしだけです。わたしが仕事で家を空けているときは、叔母やヘルパーさんに来てもらっています。最初は不安でしたが、なんとかなるもんですね」
「失礼ですが、ご結婚は?」
「息子が一人いますが、失敗しました。夫としても父親としても、わたしは失格者です」
 素直にしゃべることができた。しばしの間が空いた。
「サヨさんを、連れて行ってもらえませんか。この家から、この雨領から、外の世界に出してあげたいのです」
 耳を疑った。
「でも、それでは……」
「わたしは大丈夫です。親戚の者に頼んで、養老院の資料を集めてもらっています」
「サトシ君のことを忘れてますよ」
 笑いながら言った。
「近江で、サトシの本当の母親が暮らしています」
 エッと思わず声を上げた。
「サトシがまだ赤ん坊のときのことで、本人は何も覚えていないはずです。いま思うと、むごいことをしました……」
 その続きを待ったが、彼女は口を閉ざしたままだ。あまりにも辛い記憶なのだろう。
「わかりました。サヨさんを説得してみます」
 老女の顔が一瞬、強張ったのを、見逃さなかった。
「一つ、条件があります。それでも、サヨさんがこの家を選んだときは、優しくしてあげてください。ご自分の気持に、素直になってください」
 笑顔で頷いてくれた。
 さて、後片付けをしようと、汚物をくるんだ新聞紙を取り上げたときだった。あることに気づいた。新聞を用意したときは、便の処理のことに気が急いで、紙面 を気にかける余裕はなかった。
(これは……、本当なのか?)
 愕然として、目の前の文字をにらんだ――。


15

 新聞を読みながら、モーニングコーヒーの香りを堪能していると、カンジが店の中に入って来た。
「おサヨさん、コーヒーにトースト、お願いしまーす」
 愛想よく言って、ジュークボックスにコインを落とした。ピンキーとキラーズの「恋の季節」だ。
 仏頂面で、わたしの前の席に坐った。
「昨日は、まんまといっぱい食わされた。あんたが、あれだけ走れるとは思わなかったよ」
「わたしも、あんなに走れるとは思いませんでした」
「この野郎、すっとぼけやがって」
 顔を近づけた。
「いいか、おれはな、おサヨさんのことを諦めるつもりはないからな」
 声をひそめて言った。
「軽蔑したっていいんだぜ。おれにとってはな、下らん男の誇りやチンケな約束よりも、おサヨさんに対する愛の方が、よっぽど大きくて大切なんだよ」
 そう言って、わたしの顔をにらんだ。
「わたしが女だったら」
 カンジの耳元で囁いた。
「カンジさんのような男に惚れますよ」
 世辞ばかりではなかった。男も女も、一途な愛情には弱いのだ。
 カンジが身を引いて、疑わしそうな顔でわたしを見た。すぐに、口元がゆるんだ。
「わかってるじゃねえか」
 満面の笑みに変わった。
「二人でコソコソと、何を相談してるのよ」
 サヨさんが、コーヒーとトーストを運んで来た。
「お互いに、昨日の健闘を称えあっていたんですよ。ふたりはもう、無二の親友です」
 カンジが、あらたまった口調で報告した。
「ホントなの?」
 サヨさんの視線に、わたしは苦笑をうかべて頷いた。
「カンジさんにお願いがあるんだけど、ウチサトの診療所まで、車で送ってもらえないかな。盲腸で入院しているサンノウ君のお見舞いに行きたいの」
「もちろん、大丈夫ですよ。今すぐ行きますか?」
「支度があるので、ゆっくり食べてちょうだい。コージ君も一緒に来てくれるわよね。サンノウ君が、どうしてもコージ君に会って、お礼が言いたいんだって」
 カンジが不満そうにわたしの顔をにらんだ。親友の視線ではなかった。


16

 病室の表札には「山王龍司」と書かれていた。龍人の里だけあって、龍という文字を持つ名前が多いのかもしれない。
 ベッドで横になっていた山王は、まだ二十代と言っても通用するほどの若々しい容貌をしていた。気さくな人柄で、すぐに話が弾んだ。
「去年までは、青年部で走ってたんですよ」」
 四捨五入して四十、つまり三十五歳からが壮年部になるらしい。
「壮年部のホープだったのに。でも、もう盲腸もなくなったし、来年からは大丈夫だわね」
 サヨさんが、花瓶に活けた紫陽花を枕頭台の上に置いた。店の花壇から摘んできたもので、鮮やかなピンク色の花弁をつけている。
「ぼくが走ったら、優勝なんて絶対にできまへんよ」
「当たり前田のクラッカーだぜ。おれがいるんだからな」
 カンジが胸を張った。
「だったら、来年も入院して、代走でコージさんに出てもらわなきゃ、あかんわなあ」
「情けねえやつだなあ。今度は、キンタマ、取ってもらえよ」
「カンジさん、笑わさんでくださいよ。傷口が開いちゃう」
 山王が笑いながら顔を顰めた。
「関西にいたことがあるんですか?」
 気になっていたことを尋ねた。
「奈良の大学で、考古学を専攻してたんですよ。卒業してからも、研究室に残って古墳掘りなんかやってたもんで、すっかり関西弁になってしまいました。帰って来てからも、直らんのです」
「本当に古墳を掘ってたのか? 飛鳥美人といちゃついてたんと違うか? こいつ、奈良から、すごい美人の奥さんを発掘してきやがってよ。あれ、そういや奥さん、いないみたいだな」
「店番してますよ」
「そりゃ、残念。おまえよりも奥さんの方に会いたかったな」
 山王が笑った。しかし、どこかぎこちない笑みだった。
「さあ、もう帰ろうか。本当は、面会謝絶なんだからね。カンジさんとしゃべっていると、今度は山王君の腸が捩れちゃう」
 サヨさんが椅子から立ち上がった。
「じゃあ龍司、いい屁こけよ」
 カンジも立ち上がった。そのとき、かわいたオナラの音が響いた。
「あら」
 サヨさんが、山王の顔を見た。山王があわててかぶりを振る。
「あっ、おれです。手本を見せようと思って」
 カンジの告白でオチがついた。
 わたしも会釈して、病室を出て行こうとした。扉のところで振り返った。どうしても、訊いておきたいことがあった。
「山王さん、リンゴは好きですか?」
 戸惑いの表情が浮かんだ。
「ええ、好きやけど……」
「それはよかった」
 本当にそう思った。


17

 サヨさんが、龍人橋まで見送りに来てくれた。
「じゃあ、ここで」
 橋の中央で立ち止まった。
「この橋の上で別れたら、必ず再会できるという言い伝えがあるの」
 わたしは信じた。
「お義母さんのこと、ありがとう。嬉しかったみたいね。コージ君のこと、とても褒めてたわよ」
 援護射撃をしてくれたらしい。
「また来てちょうだいね。黄葉の頃の龍人湖も、とてもきれいよ。今度は、ゆっくり歩いて、湖畔を案内してあげる」
 わたしはかぶりを振った。
「もう、来れないと思う」
「どうして?」
 泣きそうな顔になった。
「ぼくは、ここの世界の人間じゃないから。もう二度と、雨領に来ることはできないと思う」
「何いってるのよ。変な言い訳しないでよ。あたしのことが嫌いだったら、はっきりそう言えばいいじゃない」
 彼女の腕を掴んで抱き寄せた。
「一緒に来てくれないか」
 そう言って、彼女を抱きしめた。
「お義母さんを捨てることはできないわ」
「お義母さんに頼まれたんだ。君を一緒に連れて行ってほしいとね」
 彼女の体が震え出した。
「サトシには、まだ母親が必要よ」
「君じゃなくてもいいはずだ。サトシ君には、もうひとり母親がいる」
 震えが激しくなった。
「あなたが、ここに留まることはできないの?」
「また、母さんを捨てることはできない」
「勝手ね」
「ああ、勝手だ」
 震えが止まった。そのとき、橋の近くで水音が響いた。橋の袂に、サトシが立っていた。わたしの顔をにらんでいる。
「おまえなんか大っきらいだ。早く帰れよ」
 残っている石を、水面に投げ込んだ。
「サトシ!」
 サヨさんが、走り去ったサトシを追いかけようとした。その腕を掴んだ。
「ぼくと一緒に行こう。サトシはいずれ、君のことを……」
 サヨさんが胸に飛び込んで来た。背伸びをするようにして、唇を重ねた。それは一瞬……、だけど永遠だった。
「許して」
 濡れた瞳が哀願している。手を離した。彼女の姿が見えなくなるまで見送っていた。一度も振り返らなかった。
「やっぱり、フラれたか」
 こうなることは、昨夜からわかっていた。
 あれだけ晴れていた空から、ポツリポツリと雨が降ってきた。雨音が先に聞こえてきて、ひどい土砂降りになった。
 龍人橋を渡って、林の中に駆け込んだ。夕暮れ時のような暗さだった。ヒグラシまで鳴いている。
 鎮守の森を抜けると、トンネルが見えた。空き地に停めたはずの車の姿が見あたらない。同じ場所に、違う車が停められていた。丸みを帯びたレトロな外観に、記憶があった。スズキフロンテ360、小学校の担任教師が乗っていた軽自動車だ。ナンバープレートを見て驚いた。わたしのワゴンRと同じではないか。
 車のキイを取り出して、オートロックを解除しようとした。ボタンを押しても反応しない。ドアの取っ手を引くと、開いた。鍵をかけるのを忘れていたらしい。
 運転席に乗り込んで、祈るような気持でキイを差し込んだ。一発でかかった。空冷エンジンの騒々しい音が車体を震わせた。
(母さん、ゴメン)
 一瞬、落胆した自分を恥じた。
 クラッチ板を踏んで、シフトレバーを操作してギアをローに入れる。マニュアルの車を運転するのは久しぶりだった。すぐに感覚を取り戻した。スピードを上げて、トンネルに突入した。
(どういうことだ?)
 トンネル内に入っても、激しい雨がフロントガラスを叩いている。土砂混じりの汚れた雨だ。まるで、トンネルの天井が溶け出しているような雨だった。ワイパーを作動させて、ヘッドライトを点灯した。
(冗談じゃないぞ!)
 トンネルの壁が、蜃気楼のように揺らめいている――。


18

 ドアのガラスをノックする音で目が醒めた。実直そうな初老の警官が、心配そうにわたしを見つめている。ドアを開けて、外に出た。よく晴れている。
「大丈夫ですか?」
 警官が訊いた。
「いつの間にか、寝入ってしまったようです。夜勤明けなもんですから」
「居眠り運転するよりは、マシですな。それにしても、ひどく汚れてますね。田んぼの中でも走りましたか」
 路傍に停めてあるワゴンRは、泥だらけだった。
「空から土砂が降ってきましてね」
「ハハハ、本当の土砂降りというわけですな」
 大笑いした。
「ここら辺りに、雨領という土地はありませんか?」
 尋ねてみた。警官が首を傾げた。
「わたしは、ここの駐在所に十年以上いますが、聞いたことのない名前ですな」
 わたしは礼を言って、再び車に乗り込んだ。腕時計で時間を確認した。のんびりしている余裕はなかった。母親を迎えに行かなくてはならない。オートマチックのギアを、ドライブに入れた。
 猛烈な痒みを覚えて、頭皮を掻き毟った。


19

(あの野郎、いったい何をしてるんだ?)
 リダイヤルのスイッチを押した。さっきから何度も、同じ操作を繰り返している。つながらないのだ。携帯電話の電源を落としているのか、圏外の場所にいるのか。
(チクショー、千回でも万回でも、後悔しやがれ!)
 集中治療室の中に入った。中央のベッドに、酸素吸入器のマスクを装着した吉川さんが横たわっている。昏睡状態が続いていた。強心剤で無理やり心拍数を維持しているが、それも限界が近づいていた。あとは、「そのとき」がくるのを待つしかない。
 事務長の長内が、目線で問い掛けてきた。わたしはかぶりを振って、それに答えた。
(このままでいいのか?)
 自問した。
(確かめたくないのか?)
 叱咤した。
 吉川さんのそばに近づいた。耳元に口を寄せて、名前を呼んだ。
「サヨさん、サヨさん」
 目許が微かに動いた。
「サヨさん、サヨさん……」
 少し、声を大きくした。やがて、ゆっくりと目蓋が開いた。
「先生を呼んできます」
 興奮した看護師が、隣室に走った。
「おはよう」
 エクボが浮かんだ。
「コージです、わかりますか?」
 コクンと頷いた。そして、右手を持ち上げた。昏睡状態に陥っても、固く握り締めたままの拳だった。わたしの目の前で、その拳を開いた。穴空きの五円玉が一枚、入っていた。平成十八年、今年の五円玉だ。しかし、四十年近くの歳月を経て、黒ずんでいる。
「よく、頑張りましたね」
 大きな瞳がうるんだ。雨領にいたときのサエさんの瞳だ。
 吸入器を外した。
「君、いったい何をするんだ!」
 ドクターの声を無視して、唇を重ねた。龍人橋で口付けしたときの感触が甦った。
 サヨさんは、これから旅立つのだ。行き先は、あの昭和四十三年の雨領だろうか。河田さんが電器屋の山王龍司だった頃の雨領、カンジの怒鳴り声が聞こえてくるようだ。サトシはまだ、素直でかわいかった……。
 そして、紫陽花が咲いている。ドラゴンの前の花壇や、龍人神社の参道脇の紫陽花が、鮮やかなピンク色の花を咲かせている。
「おやすみなさい」
 安心したように、サヨさんが静かに目蓋を閉じた。


20

「母さん、今日はとても素敵なことがあったんだよ」
 車椅子に乗っている母親に話しかけた。
「四十年近くも前に知り合った女性と、再会したんだ」
 サヨさんにとっては、そういうことなのだ。
「まったく変わっていなかったよ。優しくて、かわいらしくて、とてもきれいなんだ」
 涙があふれ出てきた。
「だから、思わずキスしちゃったよ。だって、とても魅力的な女性なんだもの」
 母親はテレビを見ているが、視線は焦点を結んでいない。
「母さんは覚えているかい? 父さんとキスしたときのことを」
 かすかに微笑んだような気がした。
 母さんは今、母さんの雨領に出かけているのだろう。どんな花が咲いているのだろうか。そこにはきっと、父さんがいる。あの黄ばんだ白黒写真のように、顔をくしゃくしゃにして笑っているはずだ。母さんはきっと美しいに違いない。だって、今でも十分にきれいなんだから。
 母さんの頬に、そっと口づけした。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦


◆「レイニー・ドラゴン」の感想
(感想掲示板)
合い言葉は「ゆうやけ」



*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。
*タイトルバックに、「
姫御殿」の素材を使用させていただきました。


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