T-Timeファイル亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る

 盤上の局面は、終盤の勝負所に差しかかっていた。くたびれたコールテンのジャンバーを着た四十男が、あからさまに隣の将棋盤に視線を移した。
 その男は、仲間内で床屋と呼ばれている。賭将棋好きが高じて、家業の理髪店を女房に任せきりにして、将棋会所通いを続けている。
 隣の将棋盤には、いま床屋が指しているのとそっくり同じ局面がつくられている。それを、三人の男たちが取り囲んでいた。無言であちこちから手が伸びてきて、駒がせわしなく動かされた。次の応手を探っているのだ。
 やがて、結論が出た。無精髭を生やした山崎という男が、床屋に向けてコクリと頷いて見せた。床屋の手が盤上に伸びて、隣りの盤面通りに駒を移動させた。
「6七銀」
 口に出して、棋譜を告げた。
「う……」
 対戦相手の老人が、くぐもった声を上げた。両目が閉じられている。いや、かすかに開いた瞼 (まぶた)から、灰色に濁った瞳が覗いている。
「えろう、きつい手でおますな」
 老人はそう呟いてから、腿の上にのせていた両腕を組んで、考えに沈んだ。もう、七十の坂を、ひとつかふたつ越えているだろうか。手編みらしい、紺色のカーディガンを羽織っている。
「仕方おまへん」
 老人の手がスーッと盤上に伸びた。駒の表面を指先で撫でて駒の種類を確認する。そして、しっかりした手付きで自分の駒を動かした。それは、隣りの盤で検討されていた指し手の一つだった。床屋は満足そうに頷くと、力強い駒音を響かせて次の一手を指した。
「6八銀成らず!」
 どうだと言わんばかりに、声を張り上げた。
 老人の顔がかすかに歪んだ。しかし、水面の波紋が静まるように、すぐに元のおだやかな表情に戻った。勝負を諦めたのだ。それから十手余りの応手が続いて、老人の王将は完全に逃げ道を失った。
「いや、どうも、やっぱりあきまへんな」
 老人は自分自身を納得させるように小さく頷くと、ポロシャツのポケットから四つ折りにした千円札を取り出して、盤の上に置いた。これで五度目である。老人はいつものように、今日も五番、棒に負けた。
「どうもおおきに」
 床屋が喜々として、その千円札を取り上げた。
「惜しいなあ。ほんの一手違いや。だんさん、中盤までは坂田三吉みたいやけど、最後の詰めがなあ。床屋とこのおかんのズロースと一緒で、ゆるゆるや」
 ケイちゃんと呼ばれている小男が声をかけた。とっちゃんぼうやのような顔で、まるで年齢がわからない。
「うちのおかんのこと、なんでおまえが知っとんのや」
 床屋のわざとらしい怒声に、まわりから笑いが漏れた。
「だんさん、験(げん)なおしにもう一番、わてとどうや?」
 ケイちゃんの申し出に、老人が力なくかぶりを振った。
「また今度、お願いします」
 傍 (かたわ)らの白い杖を取り上げると、腰を上げた。
「気いつけてや」
 床屋があわてて立ち上がって、老人が座敷から土間に降りるのを手助けしてやる。この会所を根城にする“くすぼり”たちにとって、この老人は上客なのである。
 くすぼりとは、賭け将棋で食い扶持を稼いでいる者たちのことをいう。将棋会所や将棋道場の片隅で一日中くすぶっていることから、その呼び名がついたといわれている。関東の方では真剣師と呼ぶ。賭け将棋のことを、隠語で真剣というからだ。 
「だんさん、またやりまひょな」
 床屋の愛想のいい声に、老人が見えない後ろを振り返って、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
 受付にいる若者が声をかけた。二十歳(はたち)を二つ三つ出たばかりだろうか。まだ少年の面影が残っている。
「愉しませてもらいました。近いうちに、また寄せてもらいます」
 老人はそう言って、杖を頼りに会所の外に出た。
 アーケードを通り過ぎて、老人が交差点で信号待ちしているときだった。
「おじいさん……」
 背後から声をかけられて、老人の耳がピクンと動いた。
「その声は、一歩クラブの受付にいたお人ですな。わて、何か忘れ物でもしたやろか?」
「おじいさんに教えてあげたいことがありまして……」
 信号が青に変わり、二人だけが路上に取り残された。
「あいつら、イカサマしてるんです。おじいさんの目が見えないから、みんなで相談して指してるんです。だから、勝てるはずがないんです。もう、賭け将棋はやめた方がいいですよ」
 老人は若者の言葉に、静かに耳を傾けていた。そして、おもむろに口を開いた。
「あんた、東京の生まれでっか?」
 唐突な問いかけに、若者は怪訝な顔で「そうです」と答えた。
「よかったら、名前、教えてもらえませんか? わたしは早川と申します」
「榊 (さかき)、榊秋介 (しゅうすけ)です」
「榊はん……。東京のお人は冷たいと聞いとりましたが、榊はんのような親切な人もいてはるようですな」
 老人の言葉に若者は、照れて頭髪をガシガシと手荒に掻いた。
「榊はんなあ、実はわたしも、気づいてたんですわ。目が見えんと、まわりの雰囲気に敏感になる。それに、どういうわけか耳だけは、この年になってもよう聞こえるんです。隣の盤であれこれ相談しとるんが、駒の音や気配でようわかる。あいつら、ジジイだから耳も遠いんやろと安心しとるんやろうなあ」
 若者は驚いて老人の顔を見た。この早川という老人は、イカサマをやられているのがわかっていて、賭け将棋をやっているのだ。
「わし、嬉しいんだす。わしみたいな目の見えん者にも、真剣になって向かってきてくれるんが、嬉しゅうてたまらんのだす。あいつらだけですわ。わしを普通の人と同じに扱ってくれるんは。本気になって、わしの金を毟(むし)りにきよる。それが嬉しゅうて、こうやって会所に通ってるんですわ」
 若者は、何も言うことができなかった。こうしてわざわざ忠告したのは、心のどこかに、この目に見えない老人を憐れむ気持があったからだ。若者は、そのことに気づいた。
「ほな榊はん、近いうちにまた寄らせてもらいます」
 周囲の気配で、信号が青に変わったことを知った老人は、横断歩道に足を踏み出した。
 若者はひとり、路上に取り残された。

 榊秋介が大阪に来て半年余りになる。秋介が大阪に来た理由は単純だった。行きつけの将棋会所で、秋介とよく真剣を指しているサラリーマンの自慢話を聞いた。
「出張で大阪に行ったんで、腕試しに会所に寄ってみたんだ。大阪は賭け将棋の本場だと聞いていたから、どんなに強い奴がいるかと期待してたんだけど、大したことはないな。おかげで、がっぽり稼がせてもらったよ」
 そのサラリーマンは、秋介がいつもカモにしている男だった。当時の秋介は、私立の三流大学に籍を置いてはいたが、ほとんど授業に出ることもなく、パチンコや賭け将棋で小遣い銭を稼いでいた。あの男が勝てるのなら、俺なら楽勝だ。秋介は身一つで新幹線に乗り込んだ。万国博覧会を翌年に控えた、昭和四十四年の春だった。
 大阪に着いた秋介は、すぐさまその足で、坂田三吉で有名な「将棋の街」、新世界に向かった。といっても、新世界という地名があるわけではなく、昔からそう呼ばれているだけだ。伝聞では、明治末期に天王寺で万博が開かれ、その跡地が天王寺公園になり、さらに残った場所が「新世界」と呼ばれるようになったという。
 その新世界の一角に、横幅が三メートル、長さ百五十メートルの狭いアーケード街がある。天ぷら屋や串カツ屋、将棋会所、散髪屋などがひしめいている。明治大正の頃は一杯飲み屋が軒を連ね、ジャンジャンという三味線の音がいつも響いていた――。そのジャンジャン横町の中に、一歩クラブはあった。
 机と椅子が並べられた土間の奥に、五畳ほどの細長い座敷が設 (しつら)えてある。その座敷の一角で、真剣が指されていた。秋介はしばらく観戦していた。
(さすがに大阪の将棋はねちっこいな。でも、俺の力ならねじ伏せられる)
 秋介は、新宿の会所で四段格で指していた。真剣の修羅場になれば、五段格のメンバーにも勝てる自信があった。
「俺と指してもらえませんか」
 傍らに立っている男に声をかけた。地味な背広を着た五十年輩の男で、一見して秋介は、真剣師だと目星をつけた。人間味や日常空間をこそぎ落としたような、寒々とした冷気を身にまとっている。
 男がギロリと秋介を一瞥(いちべつ)した。
「わしは、遊びでは指さんのや」
 吐き捨てるように言って、盤上に視線を戻した。
「俺もそうです」
 秋介の言葉に、男が振り向いた。値踏みするように、あらためて秋介の顔を見た。その露骨な視線が、秋介の負けん気に火をつけた。
「これ以下ではやらんで」
 指を二本立てて見せた。
「三本でいいですよ」
 男がニヤリと笑って、真剣が成立した。
(ぶっつぶしてやるからな)
 振り駒で先手になった秋介が、四間に飛車を振った相手陣を、序盤から激しく攻め立てた。強引なまでの攻めが、秋介の将棋だった。押しつぶした、と思える局面があったのだが、巧みにしのがれて、最後は秋介の一手負けだった。
「もう一番!」
 相手の駒台に三枚の千円札をなげ出すと、秋介はそそくさと駒を並べ直した。
「にいちゃん、熱くなると、ますます勝てへんで」
 外野から声がかかって、あちこちから笑いが漏れた。いつの間にか、秋介たちの回りに人垣ができていた。
 駒の配置を終えた男が、おもむろに右手を盤上に伸ばした。自陣の角を取り上げると、盤の脇にあった駒箱の中に収めた。
「どういうつもりですか?」
 秋介が気色ばんだ。
「これでええやろ」
 男が平然と答えた。
「冗談じゃない。平手でも充分、戦えるんだ。さっきの将棋も、一手違いだったじゃないですか」
 男は無言で、自陣の歩をつまみあげると、飛車先を突いた。戦闘開始の意思表示だ。
「にいちゃん、せっかくチャンスをくれたんや。文句はこれに勝ってから言いや」
 外野の声に、秋介はギリリと歯を噛みしめた。
(後悔させてやるからな)
 大きな駒音を響かせて、角筋の歩を打ち下ろした。秋介は高校生の頃、地域のエベントでプロ棋士の高段者と飛車落ちで指したことがある。多面指しの指導対局とはいえ、秋介の圧勝だった。その当時より、今は大駒一枚、強くなっている自信があった。
 手合い違いを実証するつもりで、秋介は一気に攻めつぶしにかかった。しかし、首の皮一枚で残されて、あとは相手の豊富な持ち駒で、秋介の玉は即詰みに討ち取られた。
(くそ! 駒落ちで油断してたんだ)
 次の対戦では一転して、秋介は手堅く、金銀三枚で玉を囲った。今度は男の方が攻めてくる。あちこちで戦端を開いて、挑発するように細かい攻めを執拗に繰り返す。根負けしたように、秋介が小さなミスを犯した。その小さな傷口が、いつの間にか致命傷になっていた。秋介の駒台には、溢れんばかりの駒が載っている。だが、秋介の玉はと金二枚に追い立てられて、屈辱的な雪隠(せっちん)詰めをくらった。
 こんなはずでは……、焦燥感で自分の将棋を見失い、それからの三番は一方的だった。秋介の軍資金が尽きたところで、戦いは終わった。
「にいちゃん、なかなかやるやないか。ひょっとして、初段ぐらいはあるかもしれんで」
 男はそう言い残して、席を立った。
 初めての土地で、秋介は 素寒貧(すかんぴん)に毟られた。それを見かねた会所の席主(経営者)が、声をかけてくれた。それで秋介は、しばらく一歩クラブの二階に間借りして、住み込みで働くことになった。
「あんた、タガゲンに認められたのかもしれんよ」
 好々爺然とした席主が、そう言って秋介を慰めた。
 秋介が賭け将棋を挑んだ相手は、多賀谷元 (はじめ)という高名な真剣師だった。大阪のタガゲンの名前は、その「つぶし屋」という異名とともに、東京でも知られていた。
 将来、自分の強敵になりそうな相手と出会うと、まるでなぶり殺しにするように、徹底的に痛めつける。こうして恐怖感を植えつけておけば、その後の対戦のときに精神的に優位に立てる。タガゲンのためにつぶされた真剣師は数多いと噂されている。
 せっかくの席主の慰めも、秋介にとっては、よけいに惨めな思いが増すばかりだった。

「あっ、鳴海さん」
 会所に入って来た背の高い男を見て、秋介が嬉しそうな声を上げた。黒縁の眼鏡をかけたその三十前後の男は、にこやかに会釈して、秋介に五百円札を差し出した。一見して、普通のサラリーマンの容貌だが、どういうわけか左手に白い手袋を嵌めている。
 鳴海はまっすぐ、会所の奥にある座敷を目指した。その座敷の一角に、くすぼり連中がたむろしている。席手もそれを黙認している。ただし、一般客には手を出してはいけないという不文律がある。賭将棋に絡んだイサコザも御法度(ごはっと)だ。
 席主を怒らせて会所に出入りできなくなれば、たちまち飯の食い上げである。くすぼり軍団は会所のすみっこでくすぶって、獲物がかかるのを静かに待っている。
 鳴海の相手には、ケイちゃんが名乗りを上げた。ケイちゃんのケイは、時計のケイである。といっても、家業が時計屋をしているわけではなく、昔は時計専門のスリ、「ケイちゃん師」だったという噂がある。
 ケイちゃん師のカモは、革バンドの時計を女性のように内側にしている男だという。甲の部分の留め金を外して、時計が下に落ちるのを待って回収する。これは、秋介が会所のなじみ客から聞いた話だ。
 鳴海とケイちゃんでは、いくらか鳴海の方に分があるだろうか。いつの間にか鳴海の背後に、多賀谷が立っている。ケイちゃんが駒を持った手を盤上に伸ばした。駒を置く前に、チラリと多賀谷に視線を走らせた。多賀谷が鋭角な顎の下に手をやって、髭の剃り跡をつるりと撫でた。ケイちゃんの手がピタリと静止して、うーんとうなってから駒を自分の駒台に戻した。
 通しのサインなのである。何もしなければその手で大丈夫、顎を撫でればその手は駄目だ。通しのサインには、他にもいろいろと方法がある。賭け将棋を指している隣りで、仲間内で対局を始める。盤面に熱中している振りをして、真剣を戦っている仲間に次の手を通している。
 秋介は、多賀谷たちの様子を眺めながら、ニヤリと笑みを浮かべた。もし、多賀谷たちが鳴海の正体を知ったら、どんな顔をするだろうか。
 秋介が鳴海と知り合ったのは、新宿駅のそばにある小さな将棋会所だった。鳴海はいつも、きっちりした背広姿で現れた。秋介も鳴海のことを、将棋好きの普通のサラリーマンだと思っていた。ただし、左手にはめた白い手袋が異様だった。鳴海は、子供の頃にひどい火傷(やけど)をして、ケロイドが残っているからだと説明していた。
 鳴海も真剣好きで、秋介とよく小遣い銭を賭けて勝負した。最初は鳴海の方が分がよかったのだが、すぐに立場は逆転した。勝っても負けても鳴海は終始にこやかで、金払いもきれいだった。真剣師にとって鳴海は、ありがたい「お客さん」だった。
 ある日、鳴海は見知らぬ男と真剣を指していた。その男は、ひどくうらびれた格好をしていた。一見して荒(すさ)んだ生活をしているのが見てとれた。局面は形勢不明のまま、終盤の勝負所に差しかかった。そのとき、ガチャンという音が部屋の中に響いた。誰かが、ビールの入ったコップを床に落としたのだ。
 みんなの視線が、その音の方に集まった。鳴海も例外ではなかった。そして、鳴海が盤面に視線を戻したとき、相手の端歩が一つ突き出されていた。それで相手玉は俄然、懐が広くなった。
 鳴海は無表情で、しばらくその端歩を見つめていた。そして、おもむろに左手の白い手袋を外した。ケロイドの痕などなかった。ただ、小指の第二関節から先がなかった。
 それを見た男の顔色が変わった。駒を持つ手がぶるぶる震えて、指し手もメロメロになってしまった。負けを認めた瞬間、男は床に這いつくばって土下座した。テッポウ(無一文)で勝負していたのだ。
 鳴海は、背広の内ポケットから札入れを取り出すと、千円札を一枚ぬきとり、土下座している男の前に落とした。そして、くるりと踵 (きびす)を返すと、そのままスタスタと会所を出ていった。
 その後も鳴海は、相変わらず会所に顔を出していたが、周囲の鳴海を見る目が明らかに違っていた。そのうち、鳴海に殺人の前科があるという噂が広まって、鳴海との真剣を敬遠する者が多くなった。
 その中で、秋介だけが以前と同じように鳴海に接していた。小遣い銭を賭けて真剣を指し、手を抜くことなく全力でぶつかった。そのうち秋介は、鳴海に誘われて、一緒に酒を酌み交わすようになった。
 鳴海は、自分のことは多くを語ろうとはしなかった。ただ、暴力団の構成員であることは素直に認めた。子供の頃から大の将棋好きで、プロの将棋指しになりたかったのだという。しかし、父親に反対されて断念した。
「将棋指しなんか、まともな人間のやることじゃねえ、なんてぬかしやがった。まあ、俺のナマクラ将棋じゃ、頑張ってもどうせプロにはなれなかっただろうけどな」
 鳴海は、ヤクザ者とは思えない穏やかな物腰で、秋介と接してくれた。年若い自分を一人前の友人として接してくれる鳴海に、秋介は親しみ以上の感情を覚えた。しかし、秋介が大阪に来て、鳴海とのつき合いも途絶えた。それが、今からちょうど一月ほど前、鳴海が一歩クラブにやって来たのである。
「シューちゃん、こんな所でいったい、何をしてるんだ?」
 鳴海が驚いたのも無理はなかった。真剣で稼いでいるはずの秋介が、受付に立っていたのである。秋介は、今までの経緯(いきさつ)を鳴海に話した。
「そうか、シューちゃんでも歯がたたないか。やっぱり、将棋の世界も甘くはないよな」
 しみじみとした口調で、鳴海は言った。
「鳴海さんこそ、どうして大阪に?」
 秋介の問いに、鳴海はバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「こっちの支社に出向になったんだ。というわけでシューちゃん、またよろしく頼むよ」
 そう言って鳴海は、秋介にウインクして見せた。

 会所の閉店時間、午前零時が近づいてきた。 ようやく鳴海は腰を上げて、受付にいる秋介の方に歩いて来た。
「駄目だな。きれいさっぱりやられたよ。やっぱり、大阪の真剣は根性がすわってるな」
 言葉とは裏腹に、晴れやかな顔をしている。鳴海が金のやりとりに執着していないことを秋介は知っている。鳴海は、真剣を指すときの緊張感を欲しているだけなのだ。かつて、端歩をごまかした男に対して見せた怒りは、せっかくの好勝負を台無しにされたことへの怒りだったのだろう。
「シューちゃん、もう店じまいだろ。どうだい、久しぶりに一杯やならいか?」
 秋介は喜んで鳴海の誘いに乗った。
「じゃあ、せっかく大阪にいるんだから、てっちりでも喰いに行くか」
 新世界では、河豚(ふぐ)も庶民の味だ。店じまいしたあとで、ふたりは、深夜まで営業している河豚料理の店に入った。
「鳴海さん、今日の将棋……」
 鍋の河豚の白身をつつきながら、秋介が話しかけた。鳴海が頷いて見せた。
「通してたんだろ」
「やっぱり、気づいてたんですか」
「視線でわかるよ。勝負所になると、そわそわしてるからな。でも、文句を言ってもシラを切られるだけだろうし……。まあ、あの有名なタガゲンに指導してもらったと思えば、安いもんだよ」
 鳴海が笑った。だったら、多賀谷に直接、挑めば良さそうなものだが、鳴海は駒落ちを嫌っていた。真剣をやるときは、いつだってハンディなしの平手である。しかし、自分には多賀谷と平手で指す棋力はないと、鳴海は自分の力をわきまえていた。
「だけど、あの多賀谷が、あんなセコいことをして稼いでいるんだから、情けなくなりますよ」
 秋介は大げさに憤慨して見せた。多賀谷の通しで勝ったくすぼりは、あとで懸賞を多賀谷と折半するのだ。
「真剣師も、あまり強すぎると相手がいなくなるからな」
 鳴海の言葉に、秋介も仕方なく頷いた。強すぎる真剣師の悲劇だった。「つぶし屋」の異名が広まって、相手が怖がって真剣が成立しないのだ。それに、多賀谷の激しい気性も災いしている。大概の真剣師は、今後のことを考えて、得意客にはいくらか手を緩めてやるのだが、多賀谷はそんな細かい気配りができる男ではなかった。
「ところで、シューちゃんの方はどうなの? まさか、会所の受付やって、満足しているわけじゃないんだろ?」
 鳴海が秋介の顔を見た。秋介は目を伏せて、ビールの入ったコップを口に運んだ。
 真剣は、毎晩のように指していた。くすぼり軍団の中に塩崎という三十台半ばの男がいた。北陸の福井の出て、アマの全国大会の県代表になったこともある実力者だ。その塩崎が、秋介に相談を持ちかけてきた。席主には内緒で、一歩クラブの座敷でしばらく寝泊まりさせてほしいという。どうやら、家賃をためてアパートから追い出しをくったらしい。
 一泊千円の申し出に、秋介は喜んで承諾した。塩崎は、会所の座敷に座布団を敷き詰めて、毛布をかぶってごろ寝する。 毛布一枚貸してやるだけで、懐に千円の金が入ってくるのだ。しかし、うまい話には裏がある……。
 塩崎は、秋介を寝酒に誘った。どうせなら、将棋を指しながら飲もうということになって、一局三百円の懸賞を付けることになった。手合いは塩崎の香落ちで倍層払い、つまり、塩崎が負けたときは二倍の六百円を払うことになる。コップ酒を片手に、塩崎は猛烈な早指しで三番、棒に勝つと、がま口から百円玉を取り出した。
「これで、貸し借りなしだよな」
 最初から、千円など払うつもりはなかったのだ。それでも百円残したのは、今後のことを考えての気配りか。
 次の日も、塩崎は秋介を寝酒に誘った。そして、三百円の真剣が始まった。最初の数日間は、秋介はまったく勝てなかった。塩崎とは、それだけ実力差があったのだ。しかし、次第に一番、二番と入るようになった。塩崎も、勝負所では時間をかけて考えるようになった。
「これじゃあ、寝不足になっちまう」
 塩崎の方が音を上げて、倍層のハンデを取り下げた。
「『新宿の壊し屋』が、あっさりタガゲンにつぶされちまったのか?」
 挑発するように、鳴海が言った。新宿の真剣仲間は、秋介の猛烈な攻め将棋に、「壊し屋」と呼んで揶揄(やゆ)していた。
 秋介は、何も反論できなかった。秋介はこれまで、自分の将棋の才に疑いを持ったことはなかった。いくら強い相手と対戦しても、心のどこかで、いつかは勝てるという自信があった。俺に不足しているのは経験と研究だけだ。もう少し序盤を研究して場数を踏めば、プロ棋士とだって対等に戦える――。
 その天狗の鼻が、多賀谷に完膚なきまでにたたきつぶされた。将棋を指していて、恐怖を覚えたのは初めてだった。この男は怪物だ。俺がどんなに努力しようが、どんなに場数を踏んで経験を積もうが、絶対に勝てるはずがない。多賀谷と戦って、心底そう思ったのだ。
「鳴海さん、ヤクザって、おもしろいですか?」
 唐突な問いかけに、鳴海が大きく目を見開いた。
「俺には、無理ですかねえ」
 秋介がぼそりと言った。鳴海の眼鏡の奥に一瞬、猛禽のような眼光が宿った。
「この指、どうしてこんなことになったか、わかるかい?」
 白い手袋を嵌めた左手を、秋介の前に突き出した。秋介は、しばらく考えてかぶりを振った。ヤクザ映画のシーンが脳裏をよぎったが、口に出せるはずもなかった。
「犬一匹の代償だよ」
 口元に自嘲が浮かんだ。
「飼い主に似たのか、性悪な雌犬だった。あるとき、新調したスーツのズボンに噛みつかれて、思わず蹴りを入れてしまった。運悪く喉を直撃して、もう虫の息だ。こっそり始末することにしたんだが、弟分にむかし中華料理屋で働いていた奴がいてね。中国では犬の肉を食べるんだと言い出して、ついその気になってしまった。すき焼きにしてみんなで食べたんだが、肉が固くてあまりうまくはなかったな」
 ニヤリと笑った。でも、目は少しも笑っていない。
「その犬の飼い主というのが、組長の奥さんなんだ。誰がチクったのか知らないが、犬のすき焼きのことがバレちまった。あんまりギャーギャー文句を言うもんだから、小指一本くれてやって、組を飛び出したんだ。まあ、捨てる神があれば拾う神あり、でね。『犬殺しの鳴海』なんてありがたくもない名前が広まって、別の組からお呼びがかかった……」
 コップに残っていたビールを、一息で飲み干した。
「シューちゃん、悪手だということがわかっていて、その手を指したことがあるかい?」
 手酌でビールを注ぎながら、鳴海が尋ねた。
「他に手が見つからなければ……」
 鳴海が大きくかぶりを振った。
「手はあるんだ。他にもっといい手があるのに、わざわざ悪手を指すんだよ」
「そんな馬鹿な。どんな弱い奴だって、自分でいいと思った手しか指しませんよ」
「そうだよな。でも、へぼ将棋で使われる駒の気持はどうだろうな」
「駒の気持、ですか?」
「そうだ。へぼ将棋の駒だ。もっといい手があるのがわかっていて、へぼなところに進まなきゃならんのだ」
 珍しく語気を荒げた。秋介は驚いて、鳴海の顔を見た。鳴海は小さく頷くと、ビール瓶を取り上げた。
「もっといい将棋指しを選べばいいんだろうが、所詮、どこに行っても駒は駒だ。自分の思うようには動けない」
 そう言って、秋介のコップにビールを満たした。秋介はようやく、鳴海の言わんとしていることが理解でした。
(ヤクザは、へぼ将棋の駒か……)
「俺は、楽しみにしてたんだ」
 鳴海の目が笑っていた。
「あの榊秋介に、俺は勝ったことがあるんだぞって、自慢できる日がくるのを、楽しみにしてたんだ」
 秋介は無言で、コップを口に運んだ。ひどく苦い味がした。

 秋介と鳴海が河豚料理屋で飲んだ日から、三日目の夜だった。凄惨な事件が発生して、大阪の街は騒然となった。全国的な組織を誇る暴力団の組長が、射殺されたのである。愛人宅から出て来たところを襲撃されて、五発の銃弾を浴びた。病院に搬送されたが、即死の状態だったという。

 山森組組長射殺事件から、半月余りが経過していた。犯人は未だに捕まっていない。巷間(こうかん)の噂では、とっくに山森組に捕まって、コンクリート詰めにされて大阪湾に沈んでいるという話だった。鳴海はまったく、姿を見せなくなった。
 一歩クラブの奥では、あの盲目の老人が、懲りもせずにくすぼり軍団に対していた。季節は初冬に入っていた。
「いや、あきまへんな。負けました」
 老人は頭を下げると、いつものように四つ折にした千円札を盤の上に置いた。
「へい、どうもおおきに」
 ケイちゃんが喜々として、その千円札を取り上げた。
「実はわたし、東京に行くことになりましてな。息子夫婦が熱心に誘ってくれるんで、ようやくその気になったんですわ」
 老人が唐突に告げた。
「そりゃ、残念ですな」
 悄然とした声で床屋が言った。本心だろう。せっかくの上客がいなくなってしまうのだ。
「それで、大阪をたつ前に、どんと大きな懸賞を賭けた将棋を指したいと思いましてな。わたしの最後の贅沢ですわ。どやろ、どなたか受けてもらえませんか?」
 思わぬ提案に、くすぼり軍団が顔を見合わせた。
「懸賞はいくらでっか?」
 ケイちゃんが尋ねた。
「景気よく百万、と言いたいところやけど、そんな大金、わたしにはありません。そうやな、十万でどうです?」
 老人が提示した金額に、くすぼりたちの顔が強ばった。大学出の初任給が三万円台の半ばだった頃のことである。十万円は大金だった。
「一番だけの懸賞ですか?」
 山崎という髭面の男が尋ねた。寡黙でほとんどしゃべらないが、将棋の腕前は床屋やケイちゃんよりもワンランク上だった。
「そうです、一番だけです。わたしとっては、一世一代の大勝負やからね」
 山崎が、背後に立っている多賀谷の顔を見た。多賀谷はしばらく考えて、無言でかぶりを振った。
「よし、その勝負、わてが受けて立ちましょ」
 ケイちゃんが名乗りを上げた。
「いや、わての方がええやろ」
 床屋があわてて口をはさんだ。兄貴分の山崎が手を振って、二人を黙らせた。
「金の手配ができるかどうかわからないので、しばらく考えさせてもらえませんか?」
 山崎が言った。
「わかりました。また近いうちに寄らせてもらいますから、返事はそのときに」
 老人はニヤリと笑って、傍らに置いた杖を取り上げると、悠然と立ち上がった。いつもは老人が土間に降りるのを手伝ってやる床屋が、怪訝な顔で老人の動作を見守っている。
「えらい、自信満々やったな」
 老人が会所の外に出るのを待って、床屋が言った。
「仕掛けやろか?」
 誠次という坊主頭の若者が言った。年齢は秋介と同じぐらいだろうか。
「アホぬかせ。あの爺さんが今まで負けた分を全部あわせたら、もう十万近くにはなっとるはずやで。そんな割りの合わんことするかいな。まあええよ。この勝負、わしが受けたるさかい」
 ケイちゃんが宣言した。
「金は用意できるんか?」
 床屋に痛いところをつかれて、ケイちゃんが顔をしかめた。
「借金してでも用意するがな。こんなおいしい話、めったにあるもんやないで」
「でも、何かにおうな」
 山崎が口を開いた。
「大将、どう思います?」
 多賀谷に助言を求めた。みんなの視線が多賀谷に集まった。
「塩崎は、あの爺さんと指したことはあるのんか?」
 多賀谷は、みんなのやりとりを傍観していた塩崎に声をかけた。プライドの高い塩崎は、くすぼり仲間とは距離をおいてつき合っていた。床屋たちの老人への仕打ちも、快くは思っていなかった。
「角落ちで一度だけ」
 塩崎が答えた。
「どれくらい指せるんや?」
 老人の棋力を尋ねた。多賀谷は、早川という老人とは一度も指していない。多賀谷が出ばってくるような獲物ではないのだ。傍から指し手を眺めて値踏みはしていたが、相手の本当の力は、実際に対戦してみないとわからない。
「まあ、誠次といい勝負でしょう」
 塩崎が言った。
「じゃあ、床屋やケイちゃんでは危ないな」
 多賀谷の言葉に、山崎が頷いた。
「冗談やないで。あの爺さんやったら、駒落としても勝てますがな」
 ケイちゃんが抗議した。
「ほんまか? 絶対に勝つ自信があるのんか?」
 多賀谷に厳しく質(ただ)されて、ケイちゃんが口ごもった。
「あぶのうなったら、またみんなで相談すればええんや」
 床屋が助け船を出した。
「十万の勝負やで。立会人を連れて来られたらどうするんや?」
 多賀谷の指摘に、床屋が渋い顔をした。
「俺がやりますか?」
 山崎が名乗りを上げた。
「そうや、兄貴なら絶対に大丈夫や」
 ケイちゃんが賛同した。多賀谷はしばらく考えていた。
「塩崎、おまえがやれよ」
 多賀谷が告げた。
「そんな馬鹿な。あの爺さんはわしらの客ですぜ」
 ケイちゃんが声を荒げた。
「十万はわしが用意する。懸賞は、あとでみんなで分けたらええやないか」
 多賀谷にギロリと睨まれて、ケイちゃんが渋々頷いた。
「俺はかまわんですけど、俺じゃ、あの爺さん、受けてくれませんよ」
 塩崎が言った。
「角落ちでやればええやないか。それとも、駒落ちじゃ自信はないか?」
 多賀谷の挑発に、塩崎がニヤリと笑った。
「あいつに任せて、ほんまに大丈夫やろか」
 ケイちゃんがぼそりと言った。自分の取り分が減るのが不満なのだ。
「わしも立ち会うからな」
 そう言って多賀谷が、右手で顎をつるりと撫でた。

「にいちゃん、靴こうたんか。なかなかええ靴やないか。さすがに立会人ともなると、身だしなみにも気いつかわんとあかんわなぁ」
 床屋が、秋介の足元を見てからかった。
「安もんですよ」
 秋介は、机の上の灰皿を片づけながら、軽くいなした。秋介が動くたびに、コツコツという靴音が響いた。いつもはサンダル履きの秋介が、新品の革靴を履いていた。
 最後まで粘っていた一組がようやく腰を上げて、秋介は店じまいした。やがて、柱時計が鳴って、午前零時を告げた。すでにくすぼり軍団の手によって、対局場の準備は整っていた。部屋の中央の机に、いちばん新しくてきれいな盤が置かれている。その盤をはさんで、塩崎と早川が対峙していた。
「やっぱり、広々とした場所で指すのは、気持のええもんですなあ。いつもは、部屋のすみっこで指してますさかいに」
 見えない目で周囲を見渡して、老人が言った。羽織袴(はかま)の正装で、すこぶる上機嫌だ。塩崎はくわえ煙草で、退屈そうに対局が始まるのを待っている。
「それでは、対局を始める前に、双方の賭け金を確かめたいと思います」
 秋介が告げた。立会人に秋介を指名したのは早川だった。
「にいちゃん、えろう張り切っとるやないか」
 ケイちゃんが茶々を入れたが、秋介は黙殺した。
 早川が着物の懐をまさぐって、半紙にくるまれたものを取り出した。用心して奥にしまい込んでいたのか、取り出すのにしばらく時間がかかった。
 秋介が半紙を開いて、多賀谷の目の前で、入っていた一万円札を声を出して数えた。多賀谷が頷いて、背広の内ポケットから茶封筒を取り出して秋介に手渡した。秋介が中身を確認して、十万円あることを早川に報告した。
「それでは、対局を始めてください」
 秋介の合図に、早川が深々と一礼した。塩崎は面倒くさそうに頷いて、そそくさと飛車先の歩を突いた。
「2四歩」
 思い出したように、棋譜を告げた。その塩崎の声に、早川の顔がピクンと反応した。そして、両手で盤の角をまさぐって位置を確認した。老人の背筋がピンと伸びて、盤上に右手を伸ばした。躊躇なく角筋の歩をつまみ上げると、激しい駒音を響かせて盤上に打ち据えた。頭の中に、盤の升目と駒の位置が正確に記憶されていないとこうはいかない。
 自信に満ちた早川の所作に、塩崎の浅黒い顔が引き締まった。
「2五歩」
 塩崎の声に、そうだろうなと早川が微笑んだ。序盤は互いに早指しで進んだ。早川は金銀三枚でガッチリと矢倉に組み上げた。先に仕掛けたのは塩崎だった。端攻めに行くと見せかけて、飛車を5筋に振った。早川の考慮時間が長くなった。しかし、文句は言えない。時間無制限というのが、対局前の約束だった。
「にいちゃん、そんなにそわそわして、女とホテルに行く約束でもしてるんちゃうか?」
 床屋がからかった。秋介は落ち着かない様子で、対局者の周辺を頻繁に移動していた。秋介は苦笑を浮かべたが、相変わらずチョコマカと居場所を移した。
 塩崎が長考に沈んだ。早川に適切に応接されて、攻めが切れ筋に陥ったのだ。くすぼり軍団も、重苦しい顔で盤上を見守っている。
「6四銀」
 塩崎の声に、早川が首を傾げた。そして、掌で盤上の駒の配置を確認した。
「あっ、失礼、5四歩です」
 塩崎があわてて訂正した。思わぬ苦戦に、動揺しているのだ。
「これからは、榊はんに棋譜を読み上げてもらいまひょか」
 老人が冷然と言い放った。塩崎の顔がみるみる紅潮した。
「爺さん、調子に乗るんやないでー」
 ケイちゃんが怒鳴った。
「多賀谷はん、ええですな?」
 多賀谷が頷いた。早川に無視されて、ケイちゃんの顔が怒りで歪んだ。
 それから形勢は、さらに早川の方に傾いた。塩崎が勝負手を連発するのだが、老人の指し手は冷静で正確だった。
「チクショー、あのクソじじい、はめやがったな」
 会所の片隅で、くすぼり軍団が声をひそめて相談していた。多賀谷だけは、腕組みをして直立したまま、対局をじっと見守っている。
「角落ちじゃあ、手合い違いだったな」
 山崎が言った。老人の実力を認めたのだ。
「どうする? このままじゃ、やられてしまうで」
 床屋が言った。
「こうなったら、大将に出てもらうしかないがな」
 ケイちゃんがそう言って、右手で顎を撫でた。通しのサインだ。山崎が無言で頷いた。
「大将やったら、軽く逆転できますよ」
 誠次が追従(ついしょう)した。そのとき、多賀谷の怒声が部屋の中に響いた。
「にいちゃん、いいかげんにせえよ!」
 歩いていた秋介の体が硬直した。
(バレたか)
 秋介は内心、舌を出した。この勝負の黒幕は、秋介だったのである。秋介が早川をそそのかして、多賀谷たちに真剣を挑ませた。といっても、早川の力では勝てるはずはないので、二人で通しのサインを決めた。それは「靴音」だった。例えば、3二の位置を指示するには、三歩あるいてから、一呼吸おいて二歩あるく。角落ちの相手が秋介では、塩谷が苦戦するのも当然だった。
(さあて、どう出るか)
 秋介は多賀谷の様子をうかがった。通しを指摘されても、シラを切るつもりだった。証拠はないのだ。ただ歩き回っていただけだと言い張ればいい。悪くても、対局の打ち切りですむと読んでいた。
「にいちゃん、これからは椅子にすわって、おとなしゅう見ていてくれるか?」
 多賀谷がそう言って、猛禽のような目で睨んだ。
「わかりました。でも、多賀谷さんも、これはなしですからね」
 秋介が自分の顎を、つるりと撫でて見せた。

 対局が再開された。
(これだけ差が開けば、もう大丈夫だ)
 秋介は楽観していた。早川が普通に指せば、間違いなく勝てる将棋だった。
 多賀谷以外は、未だに秋介の細工には気づいていないようだった。塩崎の形勢が悪いので、多賀谷が八つ当たりしたのだと思っている。秋介が顎を撫でて見せたのも、くすぼり軍団にとってはショックだった。もう通しは使えない。暗い顔で、盤上を見据えている。
 いや、この将棋の裏を読んだ男がもう一人だけいた。塩谷である。多賀谷と秋介のやりとりで、自分の本当の相手が誰だったのかを知った。塩崎と秋介は、寝る前の毎夜の真剣で、互いの棋風を知り尽くしている。早川の指し回しが秋介の将棋であることに、はたと気づいたのだ。
 塩崎は一転して、徹底して受けに回った。まるで亀のように首をすくめて、ひたすらに耐えに耐えた。駒が入れば、惜しげもなく自陣の守備に投入した。自分と老人の棋力を計ったのだ。このまま守りに徹すれば、いつかはチャンスが回ってくるはずだと読んだ。
「4二金」
 塩崎の指し手を告げる秋介の声も、次第に余裕をなくしていった。一手指すごとに、老人の顔に疲労の色が塗り重ねられて行く。いつの間にか形勢は混沌としてきた。塩崎の唇から、血が滲んでいる。それこそ歯を食いしばって、負け将棋を勝負形に持ち込んだのだ。
(やっぱり、気持の差が出たか)
 勝負に対する執着心が違うのだ。早川は、面白い将棋が指せそうだと秋介の誘いに乗った。心のどこかに、負けても楽しめればいいという気持がある。塩崎の方は、最後の最後まで諦めない。将棋に勝たなければ、食って行けないのだ。
(多賀谷も、こうなることを読んでいたのか)
 秋介がチラリと多賀谷の顔をうかがった。相変わらず鬼のような形相で、盤面を睨んでいる。それにくらべて、他の連中は正直だった。晴れやかな表情で、対局を眺めている。
(だめか)
 いよいよ大詰めだった。すでに塩崎の一手勝ちは明らかだ。塩崎の表情にも、いつものふてぶてしさが戻っていた。煙草に火を点けて一服した。どうやって最後を締めくくるか、楽しんでいるようだった。
「4八角成り」
 秋介が塩崎の指し手を読み上げた。
(これでも勝ちか)
 一番の安全策だった。角を逃げながら駒を補充する。急がば廻れだ。
(うん?)
 秋介は、多賀谷の動きを見逃さなかった。右手が挙がって、顎を撫でようとした。そのとき秋介の視線に気づいて、あわてて腕を降ろした。
(何かあるのか?)
 盤面を注視した。多賀谷の動作は、無意識のものだ。通しのサインの癖が、つい出てしまったのだろう。
(だとすると、4八角成りが悪手なのか?)
 この煮詰まった局面で、早川に有効な手段があるとは思えない。秋介は頭を激しく振って、身を乗り出して三たび盤上を睨んだ。
(あった!)
 起死回生の逆転打があったのである。秋介は早川を見た。老人は憔悴しきった顔で、長考に沈んでいた。すでに負けを認めた顔だった。この場面での投了を考えているのだろうか。
(早川さん、頼むから気づいてくれ)
 突然、丸まっていた老人の背筋がピンと伸びた。おもむろに盤上に手を伸ばすと、表面を指先で確認してから駒を取り上げた。小気味いい駒音が響いた。
「うっ」
 多賀谷が呻き声を漏らした。塩崎が盤上に身を乗り出して、怪訝な顔で早川の指した手を眺めた。鬼手だった。歩兵の前に、どうぞ取ってくださいと言わんばかりに龍を移動したのだ。塩崎の顔がみるみる強ばった。
 その龍を取ることができないのだ。歩で取れば、その場所に桂馬を打ち込まれる。塩崎の王は挟撃される形になり、受けが効かなくなってしまう。かといって放置しておくこともできない。受け駒を投入すれば大丈夫だが、悪いことにその龍が4八の馬に当たっている。せっかく成り込んだ馬をタダ取りされては、完全な逆転だ。さらには、さっきまで早川の玉の退路をふさいでいた龍が移動できたので、玉の懐がぐんと広くなった。まさに、一挙三得の絶妙手だった。
 塩崎は三十分近く、血走った目を盤上に走らせた。やがて、血の気の失せた顔を力なく振って、守備駒を投入した。早川は悠然と、龍で馬を捕獲した。それからさらに十数手、塩崎は渾身の力を振り絞って最後まで粘ったが、もはや逆転の芽はなかった。
 早川の最後の指し手を見届けて、多賀谷が動いた。詰みだった。
「おおきに。ええ将棋でした……」
 早川の言葉に応える者はいなかった。多賀谷は押し黙ったまま、会所の外に出て行った。仲間たちがあわててそのあとを追いかけた。塩崎の足取りは、まるで夢遊病者のようにふらついていた。
「あの歩頭の龍、ええ手やったなあ」
 放心したような顔で、早川が言った。
「将棋の神様が、教えてくれはったんや」
 秋介は照れくさそうに、頭髪をガシガシと手荒に掻いた。あの手は、秋介が通したのだ。靴音の換わりに、口の中で小さな舌打ちを繰り返した。盲人の研ぎ澄まされた聴覚が、そのかすかな音に気づいてくれることを祈りながら……。
「ほんまに、ええ手やった」
 老人が繰り返した。


 路地の角を曲がろうとしたときだった。
「アッ!」
 秋介が驚きの声を上げた。多賀谷とばったり出くわしたのだ。多賀谷も一瞬、驚いた表情を浮かべたが、秋介をギロリと一瞥しただけで、傍らを通り過ぎた。もうすぐ年末だというのに、相変わらず薄っぺらい背広一枚で通している。
(あのタガゲンが、わざわざ焼香に来たんだろうか)
 多賀谷の痩せた後ろ姿を見送りながら、秋介は思った。今日は、早川という老人の告別式だった。もう何年も前に妻に死別して、ずっと一人暮らしだったという。子供はなく、義弟だという人物が喪主を務めていた。
 死因は白血病だった。医師からは入院を強く勧められていたが、頑なに自宅からの通院で押し通した。
「義兄は、プロの将棋指しになるのが子供の頃の夢だったそうですよ」
 人の良さそうな義弟が話してくれた。それが、病気で視力を失って断念した。秋介は、いくらイカサマで金を毟られようが、毎日のように会所に通って来ていた早川の気持が、はじめて理解できたような気がした。
(あの手も、早川さんが自分で見つけたんだ)
 塩崎を破った歩頭の龍、あれは自分が通したのだと思っていた。将棋の神様は自分のことなのだと、勝手にうぬぼれていた。しかし、早川は、秋介の通しのサインについては一言もふれなかった。将棋に没頭している早川に、秋介の小さな舌打ちなど聞こえるはずがないではないか。
(本当に、命を賭けた勝負手だった)
 死期を悟っていた早川の必死の思いが、塩崎の執念を完全に上回ったのだ。
(タガゲンも、それを認めたんだろうな)
 勝負師の仲間として、別れの挨拶にきた……。秋介は、苦笑を浮かべてかぶりを振った。
(そんなに甘い奴じゃない)
 そのとき、後方からクラクションが鳴った。驚いて振り返ると、一台のタクシーが徐行しながら近づいてきた。
「よお、シューちゃん、久しぶりだな」
 停車した窓から、運転手が顔を出して言った。
「その格好、どうしたんですか?」
 運転手がニヤリと笑った。
「商売替えしたんだよ。これだと、手袋をはめていてもおかしくないからな」
 鳴海が白い手袋をはめた両手を、秋介の前に突き出して見せた。
「俺はてっきり……」
 そのあとの言葉を飲み込んだ。後部座席に乗客がいることに気づいたのだ。
「落ち着いたら、また会所の方に寄らせてもらうよ」
 鳴海が車をスタートさせた。
「相変わらずへぼいな。読み違いもいいところだ」
 秋介の顔は笑っていた。秋介は、山森組の組長を射殺したのは鳴海だと思い込んでいた。そして、犯人はもう殺されているという巷間の噂を信じた。早川と組んであんな勝負を仕掛けたのも、秋介なりの弔い合戦のつもりだった。そして、多賀谷元に対する宣戦布告でもあった。
「まあ、いいか」
 秋介は歩き出した。今はもう、一歩クラブを出ている。懐には、早川からもらった十万円がまだそのまま残っている。秋介の足は、自然とジャンジャン横町に向かっていた──。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆「盲目の勝負師」の感想

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が 文華別館 に収録されています。
*榊秋介シリーズ A「子連れ狼」、B「観音菩薩」もお楽しみください。


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