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 日曜日。
 忙しくてしばらく見かけなかった友人の工藤を、いつものフィットネスジムで見かけた。
「おぉ・・・、久しぶりだな・・・」
『あぁ、仕事がひと段落ついたから・・・』
 もっと何か話そうか・・・とも思ったが、どうにも声を出せない、話しずらい心境だった。

 電機通信メーカーに勤務して、営業をしている田中と、製薬会社で研究開発をしている工藤は、中学、高校、そして奇跡的に大学も同じだという長年からの親友である。
 といっても、中学は、工藤が転校して来たので途中からで、大学は学科が違ったので、その4年間はずっと一緒という訳ではなく、顔を合わせるのは時々であった。しかし、大学でも会えばいつもつるんで行動を共にし、中学の時、転校して来たてでシャイな工藤を引っ張って、仲間に入れて遊んでいたのは田中だった。

『大学に来て良かったょ。高校の時、何となく虚ろに思っていただけだった、細胞や血液の事を深く知る事が出来る環境がそれなりに用意されて、色々勉強出来るんだから・・・。』
「しかし面白い奴だよな。子供の頃の怪我で、輸血してもらって、それで血の事とか細胞に興味が湧いたっつうんだから・・・。普通、中学生くらいで、手術したからってそういう事に興味が行くかぃ?」
『いや・・・、そりゃぁ、まさか大袈裟な事にはならないだろ・・・と思ったけど、僕はたまたまそれで興味を持ったから・・・。』
「ふ〜ん。でもそれで仕事にしようっていうんだからなぁ〜。」

 当時、こんな事を話していた二人だったが、もう一つ、工藤が手に入れたものがある。
 大学入学すると同時に、同じ授業を取っていた洋子である。そう、今、工藤の奥さんになっている女性である。
 明るく快活で、人当たりも良く、交流も広い洋子だったが、真面目で実直な工藤の人柄に惹かれて二人は付き合い始めたらしい。
 でも、そんな二人を、ほんのちょっとだけ危惧しながら見ていたのが、勘の良い田中だった。
 端から見ていて、特に気に入らない、信用出来ないところがある訳ではない洋子だったが、田中には、どうも腑に落ちなかった。
 田中は、質実剛健と言えば良いのか、高校時代はラグビーをやっており、気丈で、行動的で、そしてどちらかと言えば、少しくらいは遊べる方であった。
 しかし、勘が良く、友達を非常に大事にする性格の持ち主である。

 就職して二年くらい経った頃であろうか・・・。
 営業先からのクレームで遅くなり、もう帰るのが面倒臭いからと、一人住まいの工藤のアパートに泊まりに来た田中と一緒にビールを飲んでいた。
 田中が泊まりに来るのは珍しくない。一ヶ月か二ヶ月に一度、工藤のアパートをホテル代わりにする。
 きちんと家に帰ったって、一時間程度だろうと言うのに、「終電終わっちゃったもん・・・」という台詞(せりふ)を、いちいち調べても仕方ないことだが。
 工藤のアパートのシャワーを借りて、上がった田中は、「でも、徹夜が無いだけいいかな・・・」とも言っていた。

「何時ごろ寝るの? もう寝る?」
『いや、まだ大丈夫だよ。』
 そう言うと、またビールを飲みながら、深夜のTVを視ていた。
 画面が映しているのは、夜の繁華街。新宿、渋谷、池袋・・・・。
 夜の街を危なげに行き交う少年少女達を、カメラが追う特集は、深夜番組ではお馴染みの事。
 顔にボカシを入れられて、ボイスチェンジャーで声を変えられて、カラオケ屋や居酒屋に取り敢えず入り、あるいは、直接ホテルに入って行く姿を次々と追う。
 かん高い声に細工されたその奔放な様子からは、無知で無防備だけど、世間の怖さを嘗め切っている姿も同時に窺(うかが)える。
『ふ〜・・・。あぁあ、やだね。汚ったない格好して・・・。自尊心無いのかなぁ・・・。』
「う〜ん、まぁ、お前は潔癖症だからな。我慢出来ねえだろうな、こういうの見ると。」
『自分の彼女がこういうんじゃなかっただけ良かったと思うけど・・・。将来自分の子供も、結局影響されて、こういう風になって行くのかなぁ・・・・。』
 その光景に、失望もしている様な目つきで画面を見入っていた工藤だったが、そんな工藤を冷静に見ている田中に向かって、工藤は続けて言った。
『週刊誌で、素人のヘアヌードが載ってるじゃん? あれって、不特定多数の人の目に触れる訳でしょ。でも、じゃぁ街中を素っ裸で歩けるかって言うと、歩ける奴はいないだろ? って思うんだけど、でも、写真は撮っても平気なんだなぁ・・・・。』
「そりゃぁ、喩(たと)えが極端だけど、歩いてる女はいねえだろ?」
『うん。でも、一般人のヘアヌード写真が載ってるんだから。もしそれが自分の彼女だったら絶対許せないね。だって、自分の彼女の裸を不特定の大勢が見て知ってるんだから、嫌に決まってるだろ?』
「ハハハ、まぁな。でも、今の時代って、そういう価値観も無くなりかかってるんじゃねえのかなぁ・・・。割りと勝手だぜ・・・。」
 そう言いながら、TVを視続けていると、今度はカメラが風俗店、出張サービス、ファッションマッサージを撮らえていった。
 中には、主婦の風俗嬢を看板にしている店も増えている。
 ケタケタと、いかにも楽しいそうに笑う、バスタオル姿やほとんど下着姿の女性は、世間の景気の悪さとはとても対照的な開放感を帯びている。
 お金、ブランド、海外旅行、マンション、ホストクラブ、愛人・・・。
 欲を出せばきりが無い衝動は、どこへ向かって行こうとしているのか。
 その開放感と裏腹に、TVカメラに向かって、落ち着いた口調で平然と旦那の悪口を幾らでも口に出来る無神経さ。
『まったく、ふざけんなよな。許せるか、こんなの? 許せないだろ?』
「あぁ、ま、許せはしねぇけどな。本気で愛してはいねえんじゃねえの・・・? 本人が居ないところで何気なく誉め言葉を言えるのが、愛情から来る尊敬だろ・・・。影でこそっとフォローを言えるかどうかで、その人の器の大きさって決まると思うぜ。愛してたらカメラに向かって言いたい放題悪口も言えないし、よほどの事情が無ければ、主婦がこんなところで商売出来ねえだろ・・・。」
『そうだよなあ。』
「でも、お前、自分のカミさんがやったらどうすんだよ・・・」
 と、田中は冗談半分で聞いたつもりだった。
『冗談じゃないね。もし僕だったら離婚するね。』
 と、少々返事に困ってしまう話の流れになってしまったが・・・。

 せわしい日々が過ぎていく中で、それでも田中は自分の持ち前の積極性と行動力で、潤いの足りない毎日に活力を作るべく、合コンなどにも仲間同士で参加したこともあった。だからと言って、声をかけて意気投合した女の子とすぐに一線を越えるというタイプではなかった。
 何か問題を起こすと、社会人として、会社の方にもヤバイか・・・と、考えていたからである。
 常識人だ・・・というものでもない。田中の会社は大手企業の分類で、そこに入社出来た自分に少々の自尊心を持っているのであった。
 だが、スピードはやはり早かった。
 付き合い始めて一年足らず・・・。工藤は田中の結婚式に、友人代表として招かれた。
 社会人になって三年そこそこの若造に、そんなに盛大な式を挙げる事は出来ず、シンプルなものではあったが、工藤は羨む視線で見つめていた。
 花嫁は、歯切れの良い、頭の良さそうな、それでいて落ち着きのある女性である。
 それもそのはず、お相手は、あまり大きくはないものの、とある新聞社の記者らしい。
 忙しい合間を見つけて、たまたま参加したパーティーで出会ったのだった。
 結婚後も、奥さんは仕事は続けるという。共稼ぎだそうだ。新婦は、新聞社に入社してまだ間もない二十四歳。新人と言われる最初の一年目を過ぎたばかりで、田中も辞めてもらいたいという気は無かったと言う。
 そういう生活が始まり、田中夫婦は、家でゆっくりとした時間を共にするのが週に半分くらいだという日々に突入して行った。
「結婚したからって、急に所帯じみるのも嫌だし、しばらくは恋人同士みたいな気分を味わう為にも、まぁこれでいいんだよ。」
 と言っていた。今どき、不思議でも不自然でも全然なかったが。
 だからか? 家庭に縛られるという雰囲気の無い田中と、まだ自由の身である工藤は、しばしば近郊のフィットネスジムで顔を会わせた。
「おぉ、ここ来てたんだ?」
『あぁ、少し前から。すっかり運動不足の生活だから。体なまっちゃってしょうがないよ。』
「まぁな。」
 製薬会社で研究開発・・・・。そんなイメージを象徴するかの様な、太陽の光を浴びて光合成を全くしていない様な、青っ白い腕や顔をして、ランニングマシンを使っていた。

 そんな折、出張から帰って来た田中は、しばらく家に居る事が出来た妻から、封書を差し出された。
 工藤からの結婚式のお知らせだった。そして、勿論相手は以前から付き合っていた洋子だった。
 しかし、式当日は、田中は再び出張の予定があり、出席出来ない。残念がっている田中に対して、田中の妻は、至って冷静であった。
 まぁ、田中の結婚式以来、普段、工藤と直接会った事も無く、クールな性格だから仕方もないのか・・・。

 職場は静かで、学生時代の理科の実験室を思い出す様な、近寄り難い違和感すらもあるのだが、偏差値の高かった頭で進めていく仕事から得られる報酬が、それなりに高いことを知っている洋子は、工藤に時々欲望をねだって来た。
 指輪だって、高価な口紅だって、そして、自分との結婚さえも・・・、まるで工藤にプレゼントしてあげるのよ・・・と言うかの様に。
 また、それをさりげなく、ハッキリとは主張せずにする術(すべ)が洋子の怖いところであった。
 純粋無垢と言うべきか、言い方を変えれば、単純バカである工藤でも、時には疑問を感じる事があり、『これでいいんだろうか・・・。要求されれば出来る限りに応えて行くのが、やはり愛情なのだろうか。性別の違う女にとっては、やはり愛情表現の形ってこういうことなのだろうか。男にはまだ理解出来ない世界なのかな・・・。』
 そう思いながらも、一心に洋子を思う工藤は余裕がありさえすれば、愛の証を形にして与えるのであった。
 だが、時には価値観や意見の食い違いから、口論になる事もあった。しかし、弁の立つ洋子に結局言い包められて、事は過ぎ去ってしまうのだが。

  営業廻りでクタクタになったシャツを着た田中と久しぶりにジムであった工藤は、スーツの内ポケットから取り出した財布の中から一枚の写真を田中に見せられた。
『お? 子供出来たの?』
「うん、一歳だよ。」
『へー、おめでとう。そおかぁ、知らなかったよ。』
「親戚一同には知らせたんだけどな。今度会ったら教えようと思ってた。うちのカミさんも忙しいんだけどさ、なんとか出来たよ。」
『奥さん、仕事は・・・、辞めたの? うちで育児してるの?』
「いゃ・・・、辞めてはいないよ・・・。産休を少し取ってたけど、すぐに会社に出て働いてるよ。新聞社というのは、いちいち個人の家庭の事情を配慮して、都合良く休ませてくれたり復帰させてくれたりっていう畑でもないんだろうな・・・・。」
『・・・・・』
 その、やや承知のいかない様な田中の表情を、少々心配気に窺っていた工藤だったが、トレーニングを終えた後、折角流した汗が無駄になってしまうんじゃないか、という事は取り敢えずおかまいなしに、二人は近くの飲み屋に行って世間話に花を咲かせたのだった。

 昔から、交友も幅広く、結婚してからも色々と行動的に過ごしている洋子は、工藤の誠実だが歯ごたえの柔らかさに、物足りなさを覚えていた。
 そうしながらも、一年、二年と経過したある日、洋子のドレッサーから見覚えの無いピアスを見つけた。工藤が贈ったものではない。洋子はこういう趣味だっただろうか・・・。そういえば、最近香水の匂いが変わった様な気もするが・・・。
 女性がおしゃれに気を使うのは当然で、香水の匂いが変わったくらいで怪しむ方が疑り深いのかもしれないと、その場は気を納めた工藤であったが。

 子供の事で、少々ギクシャクしているという田中から、工藤の仕事場に電話が入った。
 手を離せなかった工藤は、夕方になって、研究室の窓からではあまり風情の無い、沈みゆく夕日を眺めながら、折り返し田中の携帯に電話をかけた。
 一家の主(あるじ)が外へ働きに出なければ仕方ないだろう・・・。家族を養うのだから。かと言って、妻にずっと家に居て欲しいというつもりではなく、妻が収入を持って来て、夫が主夫業をやれればそれでもいい・・・という事でも、妻にとってはどうやらないらしく、主人には自信を持って自分の仕事に取り組んで欲しい・・・ということだが。
 よくある普通の、今どき珍しくもない家庭の問題だ。
 近所に両親が居るからこそ、成り立つのかもしれない状況だ。定年退職して暇を持て余している両親が、週の半分面倒看てくれているから維持出来ているのかもしれないが、
「俺達夫婦の子供なのか、爺ちゃん婆ちゃんの子供なのか、自分でもどっちなんだろうな・・・と最近は思うよ。」
 と田中は言った。
『親が面倒看てくれてるから、手間がかからなくて済んでるよ・・・』と田中は言うかと内心、思っていた工藤だったが。
 話は三十分間続き、仕事が終わった後に更に三十分話の続きをした。
『わざわざまたかけなくても良かったのに・・・』と言った田中だったが、工藤には別に聞いて欲しいことがあったのだ。だが、結局聞けず仕舞いに終わった。

 シャネルの香水。エルメスのバッグ。そして、工藤には判別不能のまだ新品のブランドの靴。色々プレゼントしているからと言って、その辺の知識に長(た)けてる訳ではない。覚えてしまったというだけだった。
 クローゼットの一番下の隅に、隠す様に置いてあるのをたまたま見つけた。
 そもそも、洋子は専業主婦だ。なんとなくパート・アルバイトを探そうか・・・とは言っていたが、真剣に職にありつきたいと思っている様子は感じなかった。
 そんな裕福な買い物を出来るほどの生活費を渡している訳でもなく、服やブランド物を次々に買っても良いというつもりの小遣いなどもあげてはいない。
 その夜、初めて問いただした工藤だったが、洋子は、「もらった生活費の中からコツコツと少しずつ貯めて、気に入って我慢していたのを買ったのよ。色々やりくりした自分へのご褒美よ、いいでしょぅ・・・?」という洋子だったが。
 またかわされたという思いが吹っ切れず、それに、やりくりと言うほどの経済状態をしている訳でもなかった。子供も居ないのだし。
 単純、純粋という人柄の形容が相応しい工藤でも、年齢に伴ってそれなりの知恵はついてくるもので、洋子の言い分がうさん臭いことくらい、容易に分かっていた。
 でも、それで取り乱して喧嘩になるほどの疑いが、まだあるわけではなかった。
 平日も半分は家に居て、つつましやかに旦那の帰宅を待つ主婦を果たしていた。休日の半分は外出する事もあったが、それ以上、特別不可思議な様子も見られなかった。
 料理教室、英会話、カラオケレッスン、パソコン教室と、どれをやってもあまり長続きしない洋子だったが、今日も、明日も、外へ目当てを求める行動が意欲的であった。

 お互い結婚すると、さすがに田中が工藤のところへ泊まりに来るという事も無く、連絡を取り合う機会も減って来ていたのだが・・・。
「田中の子供も、そろそろ中学校だよなぁ・・・」と思っていた頃だった。
 真夏の沖縄から宅配便が工藤の自宅に届いていた。何かと騒々しい沖縄へ取材に行った、田中の奥さんからの土産だった。そんなことは初めての事だった。ずっと話には聞かされていた、夫がお世話になっている古い友人にと、自分の家へのお土産のついでに気を利かせてくれた様だ。
 お礼を言おうと、田中の携帯に電話をしても、いつも留守電になっており、お礼のメッセージを入れておいたものの、きちんとお礼を言えてなかった工藤は、数日後、仕事の終わった研究所からたまたま田中の携帯を鳴らしてみた。
 プルルルル、プルルルル、・・・・・、
 電話に出た田中の声は、初めて聞く、低く力の抜けた声だった。
『あぁ、奥さんから土産を頂いたよ。沖縄から宅配がうちに届いてたから・・・。』
「ん、あぁ・・・。そうか・・・。」
『ん? どうかしたか? 雰囲気違うな・・・。』
「いゃ・・・、あのさ、うちのやつ・・・、死んだんだ。」
『えっ?・・・・、本当か?・・・・、亡くなったのか? え、いつ・・・』
「その沖縄取材のすぐ後だよ・・・。ちょっと前から体調の悪さを訴えてはいたんだけれど、ストレスと過労もあったんだろう。心臓をやられた・・・。」
『そぉかぁ・・・。』
「猛暑の所為かな。本当に、なんかまるで生き急いでる様な生活だったけどな・・・。何であんなに頑張るのかと思ったけど、パワーを全快にしていなきゃ、生きられない様な女だったよ・・・。」
『今度、線香あげに行ってもいいか?』
「あぁ、来てくれよ、カミさんもきっと喜ぶ。」

 多感な思春期を迎えて、一番お母さんが必要な時だろうに、亡くなってしまったのだから。
 工藤は一歳の写真の時から記憶が止まっている、小学生をもうじき終える田中の娘と初めて会った。
『お邪魔します。どうも初めまして。』という言葉を受けた娘の顔は、人見知りする子供の恥ずかしさと、何か不機嫌そうな、怒った様な表情をしていた。
 親子の仲が、あまり上手くいってないらしい。と言うのも、母親が死んだのは、お父さんの所為だと思っている様だ。
 新聞社の仕事にやり甲斐をもって働いていた妻を、ちゃんと支えてやれなかった父親の所為だと思っている様だ。
 勿論、共稼ぎで、お互い理解してやって来たのだが、それを小学生の子供にどう説明しても、なかなか満足には伝わらず、子供にとっては父親より母親の方が、存在感は絶対なのだろうか・・・・。

 そうするうちに、季節も寒くなり、年を越えようとしていた。
 以前なら、何回か通った料理教室で教わったものか、TVか雑誌のレシピで見たものかは分からないが、それらしいメニューが並んでいた食卓だったが・・・。
 世間の不景気と並行して、工藤の家庭もだんだんと、芯の温かさを失くして行き、二人で休日に外出する事などすっかり減ってしまった。
 しかし、そんな工藤の心配はどこ吹く風と、良い妻を演じて来た洋子も、今では週末の度に、自分の時間を楽しんでいた。
 自分に興味が無いんだろうか・・・。大学時代から一緒に居たから、もう飽きてしまったのだろうか・・・。
 子供が欲しい工藤に対して、洋子は、近頃はすっかり子供を持つ事に関心が無いのか、夫婦の会話にも出さなくなってきた。
 年を越え、決算を終了して、頭が混乱する中で何となく、追い立てられる様に悲しみを乗り越えて来た田中は、とある土曜日、外出先でそのまま仕事を終えた。
 夕方、まだ薄明るい街の中、駅ビルのコンビニで立ち読みをしていた。
 男性娯楽誌を手にして、パラパラと捲っていた。煩悩を挑発する様な、変に攻撃的と言うか、むしろ下品と言うべきか、どの女性を見てもあまり区別の分からない、みんな同じにも見えるヌード写真の若い女性が写っている。
 更に何となくページを追っていくと、人妻、バツイチ・・・などと言う、週刊誌でお馴染みの様な言葉が載っているページに着いた。
 20代、30代、40代。妙に感心する思いさえ抱いて見ている自分に気がついてる田中だったが、驚いたのは次の瞬間である。
「ん?・・・・これ、え・・・?」と、そこに写っているのは洋子ではないか・・・・?
 一瞬自分の目を疑い、人違いか、見間違いだろうと目を凝らした田中だったが。
 すぐには信じ切れなかった田中は、一つ前や後ろのページを捲りながら、それが洋子なのか、確かめようと裏や表を見ていたが、だからと言って、別に本人なのかを確かめられる訳でもなかったのだが。
 思わず、その雑誌を買って帰ろうかとした田中だったが、雑誌は買わずに、その後、帰宅した田中は、いつも留守がちで、親子仲の上手くいっていない娘の心配が飛んでしまう様な動揺をしていた。
 一ヶ月、二ヶ月と過ぎ、うやむやになりつつある洋子への疑惑が消え得ぬまま、それとは別に、妻を亡くした田中にも、正常な成人男子故の欲求不満は膨らんでいた。
 清濁併せ呑める懐の持ち主である田中は、休日、複雑な思いを持って欲求を発散しに行った。そもそも、欲求を満たしたいという気は半分で、もう半分は、洋子が本当にその風俗で働いているのかを、確かめたいと思った。
 ボーナスもまだだし、給料日前だった田中は、少々安価で遊べる店が良かったのだが、主婦コンパニオンも揃うというその店に、持ちたくはない僅かな信憑性を持っていた。
 子供に対する後ろめたさは当然あったが、道理に叶った合法的な発散の仕方だと思っていた。申し訳無さより、自分の願望と工藤への無言の友情に動かされたのか・・・。
 勘だけでなく、記憶力の良さで、たまたま見かけた雑誌に載っていた店の名前と所在を、覚えていたのだ。
 一時間弱。何せ店は、田中の営業廻りのルートの一つと言ってよく、その近所だったので、忘れる訳が無かった。
 店に入って望みの女の子を選ぼうと、写真の一覧を見た時である。息が止まった。数秒間、チラつく目を泳がせて、店員に聞いた。
「この女性は・・・」、そう聞くと、淡々と答える店員の言葉を素直に聞いていた田中だったが、ほぼ確信に包まれた。
 しかし、だからと言って、そこで洋子を指名する事は出来なかった。親友のカミさんと不倫してしまう様な気になって、そこは、別の女性を指名するのであった。
 入店する時、遊び終えて帰る時、洋子とすれ違ったりしないかと、今度はかえって田中の方が隠れたい気持ちでいた。
 まだ、どうにも信じられず、何も知らずに工藤は毎日を過ごしているのだろうか・・・と、余計な事をああだこうだと考えている田中だった。
 ところが、そんな一方で、実は工藤も、洋子に対する疑いは固まりかかっていた。
 幾つかのブランド品に加えて、最近手に入れた様な服。高額なものが数着。それに、数日前からクレジット会社からの督促状らしきものが自宅に届く様になった。
 そろそろいい加減、唖然としてきた工藤だったが、週末が終わり、新しい週を迎える夜になっても、洋子は帰らず、帰宅は深夜になってからだった。
 なかなか真剣に会話をする機会が持てずに、ちょっと話をしてもはぐらかされたり誤魔化されたりと、すれ違っていた二人だったが、疲れているであろうところを敢えて工藤は踏み込んだ。
 穏便に進めようという考慮も窺(うかが)えず、半ば開き直った様な洋子は、強めの口調で工藤をあしらった。
 まともな話し合いをする事も出来ず、行く末の結末が、一瞬見えた感もある工藤であった。
 洋子の両親にも、一度相談に訪ねるべきか・・・。しかし、もう四十にもなろうという大の大人が、いちいち相手の親のところに行ってどうするのかと、踏みとどまっていた。

 ボーナス支給後、田中は会社の営業の後輩を連れて、一杯奢りに、安上がりな居酒屋で疲れを労(いたわ)っていた。居酒屋と言っても、今の時代はすっかりお洒落で、和風のレストラン・・・と言ってもおかしくない雰囲気に、田中達は酔っ払っていた。
 だが、トイレに立った田中は、離れた席に見知らぬ男性と一緒に居る洋子を見つけた。
 錯覚だろうか・・・。酔っているからだろうか。向こうからは気付かれない角度だったから、田中の存在は知られていない。
 だが、次の瞬間、酔いを覚まされた。相手の男性は、かなり年の離れている20代後半くらいだろうか。
 グラスの氷を口移しでキスをしていたのである。あまり混んでいない店内だったので、恥ずかしさは無いのだろう。
 遊び上手で、外見を作るのが得意だった洋子が、20代後半の男と外を歩いていたとしても、決して不釣合いではなかった。
 宴を終了して帰りの電車に乗った田中は、迷い始めた。事態が違う。少し前とは状況がガラリと変わってしまった。
 しかしながら、工藤の家庭を壊すつもりは無く、それに、工藤だって馬鹿じゃない。いずれは分かる事だろう。
 そんな風に田中が考えていたその頃、工藤は、半開きになった洋子のバッグから、少し乱暴に書かれた男からのメモ書きと、避妊薬を見つけていた。
 風邪薬や胃腸薬なんかではない。薬学の優れた知識を持つ工藤は、それをすぐに見破った。
 また、およそバレても構わない・・・と言わんばかりの、ちょっと探せば見つかってしまう様なところに置いている事が、更に許せなかった。夫として、完全にバカにされていると思った。
 直ちに、外出中の洋子の携帯電話を鳴らして、呼び戻して責めようか・・・。
 しかし、夫が自分の妻に電話をかけて、そんなみっともない事、出来るものか。

 洋子が留守にしていた、ある日曜日。
 徐々に積み重なる洋子への不信感を振りほどきたいのか、空回りする頭と時間をどうしていいか分からずに、仕方なく、何週間かぶりに、いつものジムへ行くのだった。
「おぉ・・・、久しぶりだな・・・。」
『あぁ、仕事がひと段落ついたから・・・。』
 すっきり汗を流そうと来たという雰囲気とは裏腹に、何か問題を抱えている様な、気難しそうな顔をしている工藤だった。
「こないだな、子供の運動会を観に行こうかと思ったんだが、来ないでって断られちまった。嫌われちまってるみたいだ。最近、たまに学校から、うちの子が休んでいると電話がかかってくるよ・・・。」
『大丈夫なのか?』
「・・・・、まぁな・・・。」
 そこで、田中は思い切って探りを入れた。
「そう言えば、洋子ちゃん、元気にしてるのか?・・・。」
『・・・あぁ。』
「・・・うまく、いってるのか?」
『・・・? なんで』
「・・・ゃ・・・」
 それ以上、工藤もハッキリと返事をせず、いや、返事が出来ず、その場をうやむやにした。
 もっと何か切り出そうかと思った田中だったが、良く分かっていない様子だった工藤に、それ以上話せない心境の田中だった。
 週が明けて、不可解な心理を写すかの様な、どんよりと曇った水曜の午後。
 洋子の事など滅多に口にしない田中から聞かれたことが、頭の隅に引っ掛っていた工藤は、先日、ジムでおかしな様子を見せていた田中に、研究室から電話をかけた。
 用件を切り出した工藤に、田中は半ば尋ねてくる事を分かっていたみたいな、やけに冷静に承知しているという口ぶりの受け答えだった。
 本当のことを正直に伝えて良いのか迷っていた田中だったが、話を聞いて欲しいと言う工藤に呼び出された田中は、自分の営業先の途中にある、レストランバーに場所を選定して、工藤と待ち合わせた。
 電話越しでは相手が居ない分、じっくりと話せないと思い、また、落ち着いた場所で、工藤に冷静さを促せるだろうと配慮したのである。
 工藤も田中も、お互いにアルコールは摂らなかった。
『知ってるのか・・・?』
「え?・・・何を。」
『さっき話したじゃないか? 洋子の事だよ。』
「洋子ちゃん?」
『別に、無理に隠さなくてもいいよ。薄々・・・見当はついてる。もし知ってる事があるんだったら教えてくれ。うろたえたってしょうがないよ、この年で。おかしかったんだ、前から。生活費に大した金額を渡してる訳でもないのに、ブランド物をやたらと買う様になったし。高価なものが幾つか家にあるよ、それほど頻繁に使う訳でもないのに。ローン会社から、何通か督促状まで来てる。水商売を黙って始めたとは思えないし、そんなに金回りが良いわけは無い。浮気でもしてるのかな・・・。』
「・・・・・」
『なんだ・・・、分かってるなら言ってくれて構わないよ・・・。』
 少し、おどおどと、強気を気取っていた工藤だったが・・・。

 普通なら、自分の妻の浮気や疑惑など、古くからの友人になんか恥ずかしくて言えない筈の事だろうが。
 事情は知っていたものの、田中は工藤の家庭を無闇に壊したいなどとは思ってもおらず、その半面で、親友が真実を知らないままずっと生活を続けて行く事が、それが本当に幸せなのだろうかと、お節介かもしれない友情を持っていた。
 だが、幸いにと言うべきか、工藤自身がおよそ勘付いていて、向こうから引き出して来た様なものだった。

 平静を装おったつもりでいたものの、話を聞いて取り乱していた工藤だったが、後日、腹を決めて洋子を問いただした。
 慌てるでもなく、簡単に空気を読んだ洋子は、少々開き直った様な態度で工藤に向き合うのだった。
 ふてぶてしく、つんけんしたその態度が、工藤の頭を切り替えさせた。
「何よ、あなたと結婚してあげたんだから、いいじゃない。私と結婚出来てこの上ない幸せだったでしょ? あなたを選んであげたんだから。このくらいの自由や報酬があったっておかしくはないわ。」
『・・・・・、何を言ってるんだ? 何を自分で言ってるのか、理解出来てるのか?』
「分かってるに決まってるじゃない。私の女としての魅力をあなたに契約させてあげたのよ。でも、だんだん損している気になったわ。馬鹿の一つ覚えみたいに同じブランドの口紅ばっかり・・・。だけど、その魅力を他にも要求してくれるところがあるのょ、それを活かさない手はないじゃない・・・。」
『その自惚れはどこから来るんだろうな・・・。お前、自分の中で、自分が大学生の人気者だった頃のまま止まってるんじゃないのか?』
「・・・・・?」
『交換条件が無けりゃ、お前、本気で人を愛せないのか? 自分を売って、みっともない姿曝して、自尊心無いのか?』
「何ですって。私のプライドをそこまで傷つけて。」
『洋子、なんか勘違いしてるよ? プライドって言うのは、自分で判断するもんじゃないんだよ。他人から判断されるもんなんだよ。自分で勝手に高いと思い込んで、翳して満足するもんじゃないんだよ。』
「おかしなことばかり、よくも言えるわね。」
『お前のは、プライドじゃなくて、思い上がりだよ。』
 熱り立っている洋子に向かって、更に工藤は続けた。
『我慢もして来たけど、そうやって良妻になりすましてたのか・・・? 損している気にだってなるだろ、そりゃ。本気で愛してなんかいない男と一緒に結婚生活して来たんだから。』
 ものの三十分足らずだろうか。真剣な話し合いでさえ、その程度で終わってしまう。
 浮気していた事も、あっさりと認めた態度に、更に腹を立てた工藤だった。
 逆上した洋子は、その場は家を飛び出してしまった。
 とは言え、どこへ行くというのだろうか・・・。浮気相手のところにしばし居させてもらおうとでも言うのだろうか・・・。
 その後、何度か洋子とは話し合いを持ったが・・・。

 夏の暑い日。
 鍵がかかった留守の夕方の田中の自宅へ、今度は研修生指導の出張先の、工藤からの中元ついでの宅配便が届いた。
 世話になった事へのお礼か、あるいは、みっともないところを見せてしまった事への、遅ればせながらの挨拶だろうか・・・。
 しかし、翌日、翌々日になっても音信は無い。別に、礼の言葉をねだっていた訳ではなかったが。
 その数日後、田中からまるで力の抜けた様な声で、連絡が来た。
 田中からのお礼の後に、洋子とどうなったか、上手くやってるのかを尋ねられた工藤だった。
『離婚したよ・・・。』
「え?・・・・。そうかぁ・・・。」
『やっぱり駄目だった。俺には無理だよ。受け入れて、許して、黙って水に流すなんて事は出来なかった。十年間も、何だか騙されてたみたいなもんだったんだぞ?』
「そう言ったのか、洋子ちゃんに・・・」
『あぁ、最後には喧嘩になったよ』
「え? 殴ったのか?」
『いや、殴ってなんかいないよ。大人なんだ、話して解からない奴は、殴っても解からないさ。』
「ん〜・・・・。」
『自分のカミさんの体を、知らない男達に金で自由に遊ばれるんだぞ。それで、カミさんに開き直って肯定されて、見過ごせる筈が無い。昔、ヘアヌード写真の話をしたろ?』
「え?・・・あぁ、そう言えば、雑誌の話か。よく覚えてたな。」
『不特定の他人に、金と引き換えに体を差し出すんだ。写真で見られるよりもっと悪いよ。』
「まぁ、そうだな。」
 でも、工藤が何よりも許せなかったのは、洋子に贈った口紅で唇を飾って、他の男とキスしていたかもしれないという事だった。それが何より許せなかった。
「昔からの男同士で話してるからいい様なものの、会社の同僚の女子社員とか、他の誰か女の人に、いちいち喋ってないだろうな? そんな事したら、人格疑われるぞ?」
『話してないよ。さすがに離婚したことは、何人かは承知の事だけど。』
「ならいいさ。どんな事があったって、別れたカミさんの悪口なんて、よそへぶちまける事じゃないからな・・・。」
『でもなぁ、大学時代はあんな女じゃなかっただろう? 結婚して、しばらくは、よく気が付く愛想のいい女だったんだ・・・。』
「なんだ、まだ愛してるんじゃないのか・・・?」
『いゃぁ・・・・』
「でもな、人は変わるんだ。いい方にも悪い方にも・・・。」
『洋子の両親から連絡を貰ったょ。丁寧に謝られた。ご両親は昔の人だから、古い人で、洋子の不誠実なところにはお父さんも困っていたらしい・・・。』
「ふ〜ん・・・。」
『・・・・、その後、子供とは仲直りしたのか?・・・・、?』
「・・・・、や、・・・・、」
 その後で、田中宅が数日間留守番電話になっていた理由が分かった。
「うちの子が警察に補導されてな・・・。」
『えっ?』
「買春防止法の条例違反でな。警察がマークしていた組織の連中に巻き込まれたんだ。携帯電話の友達募集だか何だかのメールに、不用意に手を突っ込んだらしい。」
『大丈夫なのか・・・。』
「あぁ、何とかな・・・。寂しかったんだろう。カミさんが死んで、俺に仕事を辞めて家に居てと娘は言ったが、辞める訳に行かんだろ。学校だってまだあるんだ。中、高、大学だって、出来るなら行かせてやりたい。カミさんが死んでしまった事と、俺が仕事辞める事は違う話さ。それに、今は大事なポストを任されてる。俺を嫌って、一時は何を言ったって全く言う事など聞かなかった。そのまま、毅然としてるしかなかったんだ。ごたごたしてたからな。」
『叱るなよ?』
「分かってるよ。俺にも少しは原因があるんだ。人のことより自分の心配だろ・・・?」

 子供の問題も、また親なら辛い事だが。夫婦なら、元々他人なのだから、どうしても嫌になったら別れれば良いが、親子はそうは行かない。
 どんな事があろうとも、親子はずっと親子なのだから。
 仕事に熱心に取り組んで来た田中は、妻が亡くなった後も、踏ん張ってやって来た事が認められ、今は課長に就いている。
 自分の事で精一杯で、頭が混乱していた工藤は、警察にまで赴(おもむ)いて心身が疲労していたであろう田中の心情を良く配慮してやれなかった事を反省していた。

 数ヵ月後・・・。
 僅かながらも洋子に慰謝料を振り込んだ、その数日後、工藤のところに一枚の葉書が届いた。
 わざわざ慰謝料の受領の連絡であった。
 だが、驚いたのはその次である。
 洋子が子宮癌を患った事が告げられていた。手術をし、子宮を摘出したそうである。
 自分の肉体を粗末にした罰が当たったのか。それにしても、倫行のだらしない洋子を、どうにかして欲しいという救いを求めているともいう様な脈絡の言葉が並んでいる、ご両親からの葉書であった。
 離婚した工藤には、正直頭に来る、迷惑な葉書でもあった。
 田中の家庭は妻を亡くし、工藤の家庭は壊れ、妻であった洋子は子供を授かれる希望を失った。
 そもそも、子供を欲しているとは思えなかった洋子にとっては、大して辛くもない事なのかもしれないが。
 洋子は一生、子供を妊娠して出産し、母親になるという強さも喜びも、プライドも手に入れることは出来ずに生涯を送るのだ。
 しかし、洋子は元々、そんなプライドなど持っていなかったのかもしれない・・・・。

Copyright(c):Yutaka Araki 著作:新木 結太佳

◆「Pride」の感想

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